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Another Sky  作者: 須藤鵜鷺
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7.接触

 四人の先頭に立った都城は、ドアホンのボタンを押した。ピンポンという音が中からくぐもった響きを持って聞こえてくる。程なく、金属の扉がガチャリと音を立てて開いた。そこにいたのは、ストレートの髪を胸の辺りまで伸ばした長身の女性だ。女性は静かだが明るい声で言う。

「いらっしゃい。久しぶりね大輔」

「……もうちょっと用心して開けたらどうだ」

 都城のことを名前で呼んだ笑顔の女性とは対照的に、都城は眉をひそめる。女性はおどけるように肩をすくめる。

「ちゃんとモニターで確認したから大丈夫よ。さ、あんたたちこそ早く入って」

 女性は四人をせき立てて中に入らせる。都城を先頭に、四人は言葉少なに女性と挨拶を交わして狭い玄関を上がっていく。

 部屋の中は、昔の団地のようなつくりだった。玄関を上がってすぐのところに小さな流し台が据え付けられている。奥は引き戸で仕切られた一部屋で、床には畳が敷かれている。その中心に布団を外したこたつが置かれていて、都城たちはその周りを囲むように座る。

「まだ私しか着いてないの。なんかみんな遅れてるみたいで」

「何で遅れてるか把握してるのか?」

 食器棚から取り出した湯飲みを五つ持ったまま、女性はその肘で都城の頭を小突く。

「生意気な性格は変わんないわね」

 その脇から湯飲みを並べると、流し台の隅からポットと急須を持ってくる。それぞれの湯飲みにお茶をついで、女性はようやく腰を落ち着けた。

「連絡は最低限しか取ってないから、確証はないけど……大丈夫よ」

 そして正面に座っている透亜に目を向ける。

「あなたが、風人が逃がしたっていう女の子?」

 急に問われて、湯飲みを見つめていた透亜はハッと顔を上げた。

「透亜です。……風人は私をそう呼んでました」

「透亜ちゃんね。私は加澄 蓮〈カスミ レン〉。大輔の従姉よ」

 都城の従姉、と言われて透亜は改めて加澄の顔を見る。言われてみれば、目鼻立ちがどことなく似ている。加澄は右手を差し出して握手を求める。透亜は少しためらった後、それに応じた。

「よろしくね」

「よろしくお願いします」

 ふと、加澄は手を握ったまま透亜をじっと見つめた。見つめられたほうは気まずそうに目を伏せる。

「本当に、変わらないんだね。私たちと」

 ぼそりと加澄が呟く。透亜は瞬きをして、伏せていた目を上げる。加澄は軽く笑んで言葉を継ぐ。

「大丈夫。透亜ちゃんが生きたい未来に、私たちが連れてってあげる」

 透亜はしばらく目をしばたかせていたが、やがてここへ来て初めての笑顔を見せた。

 加澄は次に都城に目を向ける。

「何かあったの?」

「何か?」

「だってみんな暗いじゃん。あんたも元気ないし」

 都城だけでなく、深山と戸塚も加澄とは顔なじみだ。ここへ来てから今までの様子を見ても、いつもと違うことが加澄にも分かった。

「さっき、ちょっとな」

 都城はここへ来る直前にあった出来事をかいつまんで説明する。加澄は相槌を打ちながら聞く。

「風人が?」

 話が風人の姿をした人物のことへ及ぶと、加澄は眉をひそめた。

「姿が似ているだけだ。あれは風人じゃない」

 加澄はぶるっと身を震わせる。気持ちのいい話ではない。

「じゃあ誰なんだろうね。そいつ」

「おそらくは」

 今まで沈黙を貫いていた深山が口を挟む。

「俺はそいつを見てねぇが、話から推測するに、そいつぁ風人のクローンだろう」

「クローン!?」

 その言葉に加澄の声がひっくり返る。あまりに大きな声を出すので、都城がシッといさめる。

「透亜ちゃんを見ても分かるだろ。軍の奴らは人を人とも思ってねぇ。おそらく軍の中で何かに利用するために、クローンを作ったってとこだろうよ」

 加澄は深山が話すことだけで震え上がって絶句しているが、他の三人は別のことを考えていた。風人が紙飛行機にして残した、遺言のようなあの言葉。自分は軍に利用されている。もう自分と関わらないほうがいい。自分には、もう時間がない……。

「もし本当にそれが風人のクローンなら、何もなくても風人は軍に消されてたのかもしれねぇ」

 最後は消え入りそうな声で言う。恐ろしげな表情で深山を見る加澄の目が、どうしてと聞きたそうに感じられて深山は言葉を継ぐ。

「クローン技術を人間に応用することは、国際的に禁止されてんだ。……まぁ日本の法律でも禁止してるはずだがな。もしそのクローンを表向きに利用しようとしてんなら、クローンの元になった人間なんてもんが生きてちゃまずいだろって事だ」

 そこまで聞いて、加澄はようやく彼らが一様に暗い面持ちでいるわけを理解した。彼らは、風人が強いられてきた痛みを今まさに実感しているのだ。まだ小学生だった風人を実の兄弟のように思ってきた仲だ。加澄はそれを遠くから見守っていたに過ぎないが、彼らの気持ちの一端は知ることができた。

「風人は、それを察してたんだろうね」

 ぽつりと戸塚が呟く。それに返す言葉を発する者はいない。一時の沈黙が下りる。

 ふと、都城が立ち上がった。手に通信端末を握っている。

「どうした?大輔」

「……俺はこいつとケリをつける」

 都城はその画面を凝視する。そこには、風人のアカウントで送られてきたメッセージが表示されている。あれ以来、そのメッセージは何度か受信している。主に軍の動向をこちらに伝えるようなものだ。

「こいつの目的が何であれ、俺たちの居場所が知れたのは事実だ。……だったらいっそ、こちらから動いたほうがいい」

 先の出来事を鑑み、都城はメッセージの送信者をその男―風人のクローンであると思われる人物であると見定めていた。

「ちょっと待ちなよ。どうするつもり?」

 玄関に向かおうとする都城の背に加澄が慌てて声をかける。

「一体何が目的なのか、洗いざらい吐かせる。危険と判断すれば……消す」

 静かに言ったが、その目にも声にも怒りの色が滲んでいる。いつ均衡が崩れて感情が爆発してもおかしくないような危うさがそこにはあった。それほどまでに、都城は激昂していた。風人の命をもてあそび、愚弄するような行為が許せなかった。

 その時、それまで沈黙していた透亜が意外なことを言った。

「私も行く」

 一瞬、時が止まったように皆が動きを止めた。都城をはじめ、他の三人も透亜に視線を向ける。透亜は都城をまっすぐに見つめている。

「何だと?」

「私も、連れてって」

 きっぱりと言う。そこに迷いは感じられない。

「本気で言ってるのか?」

 都城の問いに、透亜は静かにうなずく。しばらく二人は見つめ合っていたが、やがて都城が目を伏せて首を横に振る。

「ダメだ。お前は連れて行けない」

「どうして?」

「……そいつが軍の手先なら、狙いは十中八九お前だからだ」

 さっきも、透亜はその人物に引っ張られそうになった。風人の容姿を利用しようとしたことは否定できない。結果的に今透亜はここにいるが、あのままそいつに連れられてしまっていたかもしれないのだ。

「これは敵の懐に飛び込んでいくようなことなんだ。その中ではお前を守りきれない。……わかってくれ。俺たちはお前を失うわけにはいかないんだ」

 じっと都城を見つめていた透亜も、ついに視線をそらす。都城は再び足を踏み出した。

「……同じなんだよ」

「え?」

 ぽつりと言った透亜の言葉に、都城は再び足を止めて振り返る。

「ケリをつけなきゃいけないのは、私も同じ」

 目を伏せたまま透亜は言った。

 危険なことも、無理を言っていることも、わかってはいた。だがそれでも食い下がるのは、透亜も都城と同じくらい、あるいはそれ以上にその存在に傷つけられたからだ。ここにいれば、これ以上傷つくことはないのかもしれない。だがそうやって逃げていても、胸の疼きを取り払えるとは思えなかった。

 都城は大きなため息を一つつく。

「じゃあ、一緒に来るか?」

 透亜は伏せていた目を上げ、うなずく。嬉しいといった感じではないが、どこかほっとしたような表情が浮かんでいる。

 その様子を黙って見ていた深山が、不意に立ち上がった。都城に近づくと、その頭を己の拳で小突く。

「……なんだ?」

「バカヤロウ」

 言葉とは裏腹に深山は皮肉っぽい笑みを浮かべている。

「お前一人にゃ荷が重すぎだ。俺も行く」

 深山の言葉に都城は目を見開く。

「留守頼んでもいいかな?」

 次は戸塚が加澄に聞く。

「まさか……あんたまで行くって言うの?」

「もともと僕らは三人で風人一人分みたいなものだったから。三人だったら、透亜ちゃんも何とか守れるんじゃないかってね」

 戸塚は都城と深山に、やはりにやりとした笑みを見せる。深山が片眉を上げて戸塚を揶揄する。

「足引っ張んじゃねーぞ」

「引っ張らないよ」

 言葉を返しながら戸塚は透亜の手をとって一緒に立ち上がる。自分のせいで事が大事になってしまったと思って、透亜は少し肩をすくめている。そんな思いを知ってか知らずか、戸塚が微笑みかける。

「大丈夫。僕たちがついてるから」

 その言葉に透亜は曖昧にうなずいた。

 四人は都城を先頭に出て行く。見送りに玄関先まで出てきた加澄は最後尾の戸塚に告げる。

「ここのことは心配しないで。……あまり無理しないのよ」

 眉尻を下げた加澄の顔を見て、戸塚は表情を引き締めてうなずく。加澄は目を伏せる。

「大輔は、時々無茶するから……あの子のこと、お願いね」

 小声で言った言葉にも戸塚はわかったと応え、部屋を出て行った。その後ろ姿を見送って、加澄は両手を腕の前で組み、目を閉じて祈った。


「この先の海岸ふ頭で待つと伝えてある」

 都城たちの一行は先程乗ってきたワンボックスカーに再び乗り込み、海岸沿いを走っていた。昼日中だというのに人通りがほとんどないのは、クーデターの影響だ。ニュースで大きく報道されているため、皆外出を控えているのだ。漁師たちも朝にまとまって漁に出る以外は、家にこもっているようだった。どこか寂しい印象の静かな町並みがただ続いている。空を埋めていた雲はまだらになっていて、その間から澄んだ青空がちらりとのぞいている。

 車がふ頭に着くと、四人は車の中から人影を探した。沿岸を行き来する船はなく、ふ頭にも人気はない。

 しばらくそうして様子をうかがっていると、黒い軽自動車がふ頭に入ってきた。四人に緊張が走る。周囲にも目を光らせるが、他に誰かがいる様子はない。固唾を呑んで見守っていると、軽の運転席から人が降りてきた。その人物はまっすぐ都城たちの乗っている車へと向かってくる。しかしそれは、先程見た風人の容姿を持つ少年ではなかった。

「……女?」

 思わず都城は呟いた。長い髪を後ろで束ね、白シャツにチノパン、上からカーディガンを羽織ったその姿は女性のものに見えた。細縁のメガネの奥に見える顔からは、そう若くないことが推察できる。都城は運転席から飛び出るようにして降り、その人物と対峙する。相手も足を止め、口を開いた。

「あなたが、都城 大輔さんね」

 都城は応えない。警戒したまま、黙ってその人物を見つめている。相手はそれを肯定と取ったのか、自ら名乗った。

「私は羽久野 真里といいます。あなたにフォローを発信していた者よ」

「……合言葉は」

 小さな声で呟くように問う。先にここへ来るよう指示した際、相手を確認するための合言葉を一緒に伝えていた。

「〝風人の意志〟ね」

 それは都城が伝えた合言葉と合致した。それでも不信感は拭えない。

「……乗れ」

 都城は後部座席側のドアを開ける。羽久野と名乗った女は一瞬戸惑うような素振りを見せたが、すぐに中へ乗り込んだ。

「ねぇ、この人……」

 その姿を見て、透亜が不安そうな視線を送る。この女は一体誰か。風人のクローンの男は来なかったのか……。

「風人のアカウントを使ってたのは、こいつだったらしい。俺の判断ミスだ」

 深山と戸塚も顔を見合わせる。都城がドアを閉めて奥の席に座ると、女はドア付近に座って軽く頭を下げた。

「私は、特別研究所から来た羽久野 真里という者です。六年前まで、亜伽原君の教育責任者でした」

「風人の?」

 思わず問い返したのは戸塚だった。今度は透亜と戸塚が顔を見合わせる。

「透亜ちゃん、会ったことある?」

 問われて、透亜は記憶を探るように目を泳がせる。しかし目の前の女性と会ったことは無いように思われた。その様子を見ていた羽久野が透亜に微笑みかける。

「あなたが透亜さんね。亜伽原君から話は聞いてるわ」

 見つめられた透亜は戸惑ったように目を伏せる。そこで都城が口を挟む。

「そろそろ本題に入ろうか。……あんたの目的は何だ?何故風人のアカウントと俺たちの暗号を知ってる」

 油断のない目で羽久野を見据える。羽久野は都城に視線を移すが、その厳しい目に睨まれたせいか、すぐに目をそらした。そして何かを思い出すように遠くを見つめる。

「順を追って、話してもいいかしら」

 そして羽久野は静かに語り始めた。

「亜伽原君は、何というか、不思議な子だったわ」

 風人は十五歳の時に、羽久野がいる研究所に配属になった。当時の研究員はみな三十を過ぎた者ばかりで、風人は言うまでもなくその中の最年少だった。軍の人間とはとても思えないような、細身でまだ幼さの残る少年。それが羽久野の風人に対する第一印象だった。しかし、研究者の卵として羽久野の下についた風人は、すぐに頭角をあらわした。羽久野が手始めに与えた過去の研究論文を、風人はものの三日で理解し、その問題点まで指摘したのである。その時に、羽久野は理解した。風人ははじめから、この研究所に配属されるのを前提に入軍したのだと。風人は見習いとして一人のサンプルを養育するよう命じられた。

「それがあなたよ」

 羽久野は透亜に目をやる。透亜はしかし目を合わせることなく、ただ黙って話を聞いている。

 透亜のように培養された人間は通常、誕生順に振られたナンバーで管理されている。透亜の場合はNo.526となる。風人の前に透亜の養育を行なっていた研究者も、その機械的に振られたナンバーで透亜を呼んでいた。

 風人が透亜の養育者となったのは、透亜が生後2年を迎えた頃、つまり2歳ぐらいの時だった。前の養育者から引き継いだ後、風人はすぐに透亜に名前をつけた。名前をつける、というのは普通の研究者はしないことだ。なぜなら……

「そんなことしたら、私たちを殺せなくなるからでしょう?」

 羽久野の話をさえぎるように、透亜が低い声で呟く。羽久野は少し驚いたように眉を上げる。三人の男たちはみな目を伏せている。

 研究者にとって、透亜たちの存在は「実験体」であり、モルモットなどの実験動物とさして変わりのないものだった。研究に利用され、いつ処分されるかもわからないようなものに、名前を付ける者はいない。情が移るからだ。

「風人はね、それもわかってて私に名前を付けてくれたんだよ。私を守るために」

 幼心にも、風人が透亜を守るためにしてきたことは理解していた。そのために払ってきた犠牲も、それで風人が傷ついていたことも。

「そう。亜伽原君は、あなたを守ろうと必死だった。……生後10年を過ぎたあなたは、処分されることが決まってたのよ。あなたは、見習いだった亜伽原君の養育者としての適正を見るために、実験的に与えられた存在だったから」

 羽久野の声がかすれて小さくなる。

「だから亜伽原君は、あなたを自分の実験に継続して利用したいと申し出て、あなたを軍から買ったの」

 透亜を見つめたまま語る羽久野のまなざしは柔らかかった。だが透亜は表情を緩めず、その言葉を黙って聞いている。

「あの子は、あなたのことを心から愛していたわ。8年間そばにいた私にも計り知れないほどに」

 そして羽久野は都城に視線を移す。それを感じて都城も顔を上げる。

「そしてそれが、私があなたたちに交信を呼びかけ、今ここにいる理由でもあるわ。亜伽原君は、透亜さんを守るために、あなたたちに力を貸して欲しいと、私に頼んだのよ」

 そのために風人は羽久野に自分が使っているフェイクフォローのアカウントと暗号を教えた。透亜を脱走させた後、自分が動けない状況で都城たちに不利な事態が発生したら、助けることができるように。言われてみれば、羽久野がはじめて風人のアカウントからメッセージを送ってきたのは、透亜を介して何らかの情報が軍に伝わってしまったと思われた、あの時だった。

 黙って話を聞いていた都城は厳しい表情を崩さない。羽久野の様子からは、嘘を言っているようには感じられない。だが念のため話を頭の中で反芻する。どこかに、矛盾することはなかったか。

 すると、透亜がぽつりと言った。

「どうして」

 そして改めて羽久野を見る。羽久野も視線を戻す。

「風人が処刑される前に、どうして助けてくれなかったの?あなたは風人の味方だったんでしょう?」

 透亜の声には、羽久野を責めるような響きがあった。そんな近くに味方がいたなら、風人は死なずに済んだのではないか。しかし、羽久野は意外にも厳しい顔つきでその問いに答える。

「あの時、亜伽原君を救うために私ができたことがあるとすれば、それはただ一つ。あなたを脱走させるという無謀な計画を、彼に諦めさせることよ」

 その言葉に透亜はひるんだ。羽久野はそれまでの口調とは明らかに違う、憤りさえ感じられる声で言葉を継ぐ。

「あなたの存在は、政府の一部と特別研究員しか知らない、国家重要機密なのよ。軍が今の姿になって以来、その機密を漏洩することは重罪として死刑と決まっているわ」

 息を呑んだまま、透亜は凍ったように動かない。

「あの子は自分の命をかけてあなたを守ったのよ!なのにあなたはそれを止めたほうがよかったって言うの?」

 声を荒げた羽久野の肩を都城が掴んだ。

「落ち着いてくれ。こいつはそんな事が言いたいんじゃない」

 羽久野は冷静さを欠いているように見えた。透亜としばらく睨み合っていたが、やがて羽久野は力が抜けたようにうつむく。

「……わかっていたわ。それが軍規に反することも、その後に待ってる苛酷な運命も。そして、私が職分を全うするのであれば、亜伽原君を止めるべきだったことも。……でも、できなかった」

 声も体も震わせて小さく縮こまった羽久野の横顔は、惨めなほどやつれていた。

「あなたたちがあの子のやった事を受け入れないなら、どうして私がいる意味があるの」

 最後には顔を両手で覆い、そのまま動かなくなった。透亜は何を思っているのか、一点を見つめてじっとしている。重い沈黙がその空気を包み込んだ。

 その時、透亜が突然車のドアを開けて外へと飛び出した。

「透亜ちゃん!?」

 戸塚が叫んだ時には、外へ駆け出していた。深山と戸塚が、都城に目配せして透亜を追う。一瞬の出来事だった。

 透亜はひたすらに走って、ふ頭の縁に出た。その先には堤防と灯台があるのみで、あとは穏やかな海が広がっている。

 深山たちが追いついた時、透亜は海を見たまま声を上げて泣いていた。いろんなことが心を揺らして今にも壊れそうに辛かった。二人が近づくと、透亜は崩れるようにその場に座り込み、彼らに慰められながら涙が枯れるのを待つように泣き続けた。

 車に二人取り残された都城と羽久野はしばらく気まずそうに口を閉ざしていた。その沈黙を解いたのは都城のほうだった。

「あんたが言ったことは、あんた自身にとってもそうかもしれないが、あいつにとっても深い傷なんだ」

「……そうでしょうね。悪いことをしたわ」

 羽久野は車の窓から、透亜の走り去っていったほうを見つめる。

「六年前、亜伽原君の実家に事情を説明しに行った時、同じ事を言われたわ。彼の母親に」

「……え?」

 都城は思わず聞き返した。羽久野は外を眺めたまま続ける。

「あなたが付いていながら、なぜこんな事になったのか、なぜ見殺しにしたのか、と。あなたが上司だったなら、あなたが殺したようなものだと、最後には責められた」

「……なんで今更そんな事を。あいつの親は金で風人を軍に売ったんだろう」

「それは違うわ」

 羽久野はちらと都城のほうを見て寂しそうに笑う。

「亜伽原君自身もそう思い込んでた節があったけれど、彼のご両親は、彼の才能を活かせるのは入軍させることだけだと、かたくなに信じていたのよ」

―あの子のためなの。あの子が活きるのはそこしかないの。

 当時、母親が言っていた言葉を都城は思い出していた。

「その判断が正しかったかどうかは、今となっては分からないわ。でもね、子供のことを思わない親なんていないと思うわ」

 沈黙したまま、都城はその言葉の意味を反芻していた。しかしそれに賛同する気にはなれなかった。

「不幸なことね。お互い分かり合えないまま、永遠に別れなければならないなんて」

 まるで独り言のように羽久野は呟く。疲れを色濃く見せる中年女性の横顔がそこにあった。

 都城は羽久野を車から降りさせ、自分もその後に続いた。

「わざわざ来させて悪かった。……あんたも大変だったんだな」

 思わぬいたわりの言葉に、羽久野の中で張りつめていた何かが切れた。

「……亜伽原君だったのよ」

「え?」

 顔を背けて羽久野が言った言葉を、都城はうまく聞き取れなかった。羽久野は悲しみをこらえるように眉間にしわを寄せ、都城のほうを向く。

「自分が死刑になったら見殺しにしろと言ったのは、亜伽原君だったのよ。もしつながりを勘付かれれば、あなたたちを助けることができなくなってしまうから」

 言いながら羽久野はなぜか笑いがこみ上げてくるのを感じた。

「聞かないほうがよかったかしら」

「いや、あいつらしいやり方だ。大方そんなことだろうと思っていた」

「……そう」

 羽久野は複雑にゆがんだ表情を見せる。

「酷な道を歩いてきてしまったわね……お互いに」

 その時、海のほうから透亜たちが帰ってきた。その様子を見届けると、羽久野はそれじゃ、と言い残して去っていった。


 都城たちが加澄の元に戻った時には、遅れていたメンバーも全員集まっていた。都城たちと加澄のほかに男五人、女一人を合わせて総勢十一名が入るには狭いように思われたが、押入れに見えていた引き戸の奥がもう一部屋になっていて、何とか皆中におさまっている。しかし玄関から部屋に入っていこうとした時、都城は思わず顔をしかめた。部屋の中に湯気が充満している。

「……?」

 眉をひそめていると、見知った顔が出てきた。都城たちがいつも食材を分けてもらっている乾物屋の主人―斉藤 隆雄〈サイトウ タカオ〉だ。

「おう、戻ったか。ちょうどよかった。今から皆で鍋をつつくとこだ」

「鍋?」

 都城の眉間のしわが深くなる。一方の斉藤はにたっと笑っている。

「おうよ。戸塚君が持ってきてくれた野菜とかで簡単にな。だしは俺が取ったから味はお墨付きだ」

「呑気なもんだな」

「まあそう言うな」

 四人が部屋へ入ると、そこには大きな鍋が置かれ、既に煮立っていた。春が深まった今となっては季節はずれの光景である。こたつの横にもう一つ机を並べて、その周りを囲うように集まった者たちが座っている。その顔が一斉に透亜を見る。加澄以外は今初めて透亜の存在を目の当たりにしたのだ。無理もない。

「さぁお前ら、鍋が煮詰まっちまうぞ」

 斉藤が言ってそれぞれによそってやる。たちまち鍋パーティーの様相となった。透亜は都城と斉藤に挟まれるような形で輪の中に入った。深山と戸塚も別のところでその輪の間に入って何やら談笑している。鍋奉行をしながら斉藤は都城に目配せを送る。これは透亜に皆の興味が集中するのを少しでもそらそうという彼なりの配慮だった。

「やっぱりこういう時は鍋に限る」

 上機嫌で笑っている斉藤の様子に都城も少し笑みを漏らした。

 鍋を食べ終え、片付けも終わると、都城を中心とした作戦会議が始まった。

 ここに集まっているメンバーは、都城たち四人と加澄、斉藤と、深山と同じ〝地下〟に所属する中年の女医師に、都城が働く土木工事の現場での後輩が三人、あと一人は戸塚の知り合いでエンジニアの男だ。

 都城は皆の前に一枚の図を広げて説明する。それは都城たちが今いる場所と研究施設の周辺地図だ。

「決行は明後日早朝5時。これが俺たちの最終作戦だ」

 皆一様に沈黙しているが、士気は高い。この時のために、これまでがあった。

 作戦の内容をすべて話し終えると、都城は顔を上げて皆を見回した。

「最後に、一つだけ言っておく。……これは戦争じゃない」

 意外な言葉に、皆が顔を上げる。都城は静かな口調で続ける。

「武装はするが、その目的は護身のためだ。命をかけて勝利を勝ち取る戦いではないんだ。無理はしなくていい。利がないと思えば退いてかまわない。……とにかく皆、無事でいてくれ」

 そこには都城の切実な思いがこもっていた。風人を失ったことへの後悔は深い傷となって今も胸を疼かせる。これ以上犠牲者を出すなど考えられなかった。

 会議が終わった頃には、外は夜闇に包まれていた。今日明日はここでメンバーと寝食を共にする。寝場所には二つの部屋を仕切って使った。奥の部屋に透亜をはじめとする女性三人が寝て、男たちは手前の部屋にほぼ雑魚寝といった様相だ。

 皆が寝静まった真夜中に、奥の部屋の引き戸を静かに開け、暗闇の中で足音を忍ばせて手前の部屋に出てきた者がいた。それは透亜だった。よく見えない足元に注意しながらそろそろと進む。そして部屋の隅で寝ている都城の姿を見つけると、透亜はその隣に寄り添うように横になった。

「眠れないのか」

 小さい声で、それに気づいた都城が尋ねる。透亜はさらに身を寄せてやはり小声で言った。

「私の名前……初めて呼んでくれた」

「ん?……あぁ」

 都城は寝ぼけた頭で先の出来事―風人のクローンと思われる人物に出会った時のことを思い返した。

「呼んで欲しかったのか」

「……」

「その名前は、風人がお前のために付けたものだろう。そういう意味では、少し遠慮してたな」

「遠慮?」

 透亜は小声でおうむ返しに聞き返す。都城はそんな透亜の頭を優しくなでる。

「お前まで苦しみ続けることはないんだ」

 急に話が変わったように思えて、透亜は少し頭を上げた。しかしそこからでは都城の顔を覗くことはできない。そのまま透亜は都城の声を聞く。

「今、風人の存在はお前を苦しめている。だったらもう、忘れてもいいんだ、お前は」

 透亜は黙ってその言葉を聞いている。都城は、透亜を傷付けるだけなのであれば、もう風人の記憶に縛られていることはないと思っていた。

「この最終作戦が終われば、お前は本当の自由になれる。俺たちといるのが辛ければ、無理にいる必要もなくなる」

「……私は」

 透亜は都城の服を掴んで身を縮める。

「一緒にいたいよ。ここにいたい」

「……」

「希望だって言ったの」

「え?」

 透亜の声がかすれている。うまく聞き取れなかった都城が聞き返すと、透亜はゆっくりと言った。

「風人が言ったの。私は風人の希望だって。……だから、忘れない」

 透亜は風人と過ごした日々に思いを馳せていた。辛いことなら、いくらでもあった。だがそれを上回るくらい、風人が自分を大切にしてくれた。今は、風人が言ったその一言が透亜自身の生きる希望になっていた。

「だから、ここにいさせて……」

 静かに、消えるように透亜は呟く。その後には、穏やかな寝息が聞こえるだけだった。都城はそれでもしばらくは、その頭をなでてやっていた。


 忘れないよ。

 風人が見せてくれたあの日の空。

 これが希望なんだって思えた。

 その青い色も、

 吹いてた風も、

 忘れないよ。


 翌朝、透亜は目を覚ますと元の奥の部屋にいた。明け方近くに偶然目を覚ました戸塚が都城の隣で寝ている透亜を見つけ、ぎょっとして奥の部屋へ運んだからだった。

 他の者は皆起きてしまっていた。透亜のほかに部屋に残っているのは加澄だけで、あとの者は外へ出ているようだ。

「起きた?」

 その様子に気づいて加澄が声をかける。透亜はまだ眠気の残る顔でこくりとうなずく。すると加澄はにこりと微笑んで手際よく朝食の準備をする。小鍋を火にかけ、湯気が上がった頃合いで器によそう。食卓に出されたのは白く温かなミルク粥だった。

「昨日あんまり食べてなかったから、具合悪いのかと思って。食べれる?」

「あ、そういうんじゃなくて……」

「ん?」

「……初めてだったから」

「鍋が?」

 ちょっと驚いた様子の加澄に透亜はうなずいて見せる。透亜にとっては、あんな大勢で一つの鍋を囲むというのは初めての経験だった。昨晩あまり食べられなかったのは、雰囲気に飲まれたからだ。加澄はハハハと声をあげて笑う。

「そっかぁ。まあ深山君はそういう大雑把な料理しなさそうだもんねぇ」

 透亜も思わず少し笑った。料理はいつも深山が作っていた。確かに、限られた食材でもいつも工夫されていて、飽きることがなかった。

「まぁよかったよ。透亜ちゃんには後でして欲しいことがあるから」

「……?」

 不思議そうな顔をする透亜に加澄は小さくウィンクを送った。

 朝食を終えると、加澄は奥の部屋に三脚を組み上げ、その上にビデオカメラを設置した。対面する位置に椅子を置き、慣れた様子で調整する。すべての作業が終わると、加澄は透亜に手招きをする。

「とりあえず、そこに立っててくれる?」

 加澄は椅子の隣を手で示す。透亜が移動すると、加澄はOKサインを出してカメラのRECボタンを押し、自分はその椅子に座る。

 次の瞬間、透亜は思わずびくっとして加澄のほうを見た。加澄があまりにも流暢な英語で喋り始めたからだ。

 加澄は、ジャーナリストを生業としている。学生時代に留学した経験をもとにこの仕事に就いた。普段は世界中を飛び回っていて日本にはほとんどいない。こうしている今も、都城たちのバックアップをする一方で、ジャーナリストとしてこの現実を世界に知らせるという職務を負っている。

 しばらく一人で話すと加澄は立ち上がり、今度は透亜をその椅子に座らせる。加澄は英語で何やら説明を続けながら、カメラのほうへ移動する。映している映像を確認しながら、透亜に分かるように時折日本語で指示をする。透亜は指示されるままに立ったり手を動かしたりする。

「背中向けてくれる?」

 しかしそう言われた時だけは、透亜は戸惑ったように動きを止めた。カメラに目を落としていた加澄は顔を上げる。

「大丈夫だから」

 小声でうながすと、透亜はあまり気が進まない様子だったが、それでも背中をカメラに向ける。

 その時、ピンポンと呼び鈴の音が響いた。加澄はカメラを切って入り口のモニターを見る。そこに映っていたのは都城だ。その姿を確認した加澄が玄関へ出てドアを開ける。中に入るなり、都城は透亜の状況を見て顔をしかめた。振り返ると加澄に向かって言う。

「あまりこいつを見せ物にするなよ」

「何言ってんの。透亜ちゃんの存在を広く知らしめる必要があるって言ったのは大輔じゃん」

「……そこまで撮る必要があるのか?」

 都城はカメラに背を向けている透亜を見て眉間にしわを寄せている。

 透亜が着ているワンピースの背中には、二本の大きなスリットがある。それは背中に付いた羽根のためなのだが、そこから覗いているのは無機質な白い翼だけではない。少しではあるが肌も露出している。

 従弟からの指摘を受けて、加澄は大仰にため息をついた。

「あのねぇ。私達の仕事はありのままを伝えることなの。何かを意図的に隠したら、それは真実ではなくなっちゃうんだから」

「そういう事を言ってるんじゃない。そこを映すことが問題だろうと言ってるんだ」

「だから、映さないって事が隠すことになるの。別に見せ物にするわけじゃないわ。知ってもらいたいだけ。ジャーナリストは皆その一心で情報を発信するのよ」

「だが、受け手がどう取るかは別の話だろう」

「だから誤解を与えないように細心の注意を払ってるわよ」

 言い争いがだんだん激しくなってきた。そこで一人取り残された透亜が都城の腕をそっと掴んでやんわりと間に入る。都城はそんな透亜を見て表情を緩めると、ふと心配そうな声音で尋ねる。

「変なことされなかったか?」

 答えの代わりに、加澄の肘が都城の頭頂にヒットした。


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