6.追想
カツ、カツと冷たい靴音が響く。暗い廊下には非常口を示す緑色の明かりがぼんやりと光り、闇を薄くしている。時計は午後9時過ぎを示している。通常、そんな時間にこの棟に誰かがいるということはないのだが、廊下の先に光が漏れている部屋が見える。部屋の扉に付いた表札には「2018 亜伽原」と書かれている。それは特別研究員、亜伽原 風人の研究室である。
コンコン、というノックの音で風人は頭を上げる。時計を見て小さくため息をつく。
「亜伽原君、入るわよ」
「どうぞ」
ガチャリとドアが開いて、中年の女性が入ってくる。白衣姿で銀縁のメガネをかけ、長い髪を後ろで一つにまとめている。
「ごめんなさい、羽久野〈ハクノ〉さん。時間が経ってるのに気づかなくて」
風人は頭をかきながらへへと笑う。羽久野と呼ばれた女性―羽久野 真里〈ハクノ マリ〉はそんな風人を見て眉をひそめる。
「私のことはいいけれど、根を詰めすぎると倒れるわよ」
「心配してくれるんですか?」
微妙な笑顔を崩さないまま風人は言う。その声音に羽久野は片眉をふるわせる。
「ありがとうございます」
風人は笑みを深めて自分のデスクから資料を一掴み取る。
「今実験結果の考察をしてて。これで最後なので、報告書までまとめてしまいたいんです」
その資料を羽久野に突き出す。羽久野はそれを受け取ってぱらぱらと眺める。
「今日はここに泊まります。鍵はかけてもらってかまいません」
「……それは業務規定違反だと分かってて言ってるの?」
羽久野はさらに眉間にしわを寄せる。風人は舌を出しておどけている。
この研究室の窓には暗幕がかかっている。それは風人がこんなふうに時間外に研究室にこもっているのを隠すため、光を窓から漏らさないためだ。その暗幕が使われている現場を、羽久野が実際に目撃したのはこれが初めてである。羽久野は困り顔で小さくため息をつく。
この研究所は軍の内部機関である。研究員としてここに配属されている風人は、羽久野の部下という位置づけだ。だがそれは、風人がまだ若いため、仮にそのような立場を設けているというのが実状だった。つまり、羽久野は風人のお目付け役なのである。だがどちらにせよ、羽久野が風人を指導する立場であることには変わりない。
今風人たちがいる研究施設は、常時は午後8時に出入り口が施錠される。研究員たちはそれまでに、各々にあてがわれた宿舎へ帰宅する。原則として、それ以降に施設に残ることは許されていない。しかし風人は何かにつけて口実を作っては研究室に居残り、そのまま他者の目をかいくぐって泊り込んでいる。羽久野はそのことを噂でなんとなく聞き知ってはいたものの、特に風人を問い詰めるようなことはしてこなかった。
「私が甘かったのかしらね……」
呟くように言った羽久野の言葉を聞いて、風人は余裕のあった表情を崩してパンッと胸の前で手を合わせる。
「お願いです!今日はどうか見逃してください。もうしませんから」
羽久野は、今度は大きくため息をついた。
子供を持つことができなかった羽久野にとって、風人は今や息子のような存在だった。15歳でこの研究所に来て右も左も分からないところを、手を引いてここまでやって来たのだ。あの時から、もう8年が経つ。8年の間、熱心に研究に打ち込むその姿を誰よりも近くで見てきた。―熱心なのは、いい事ではないか。そんな考えが頭をもたげる。
結局、羽久野のほうが折れた。
「仕方ないわね。今回だけよ。ただし!」
喜色が浮かびかけた風人の目の前に羽久野は鍵を突きつける。
「明日の開錠時刻まで隠れて留まる事は許しません。報告書をあげたら、施錠してこの鍵を私の宿舎まで持ってきなさい。何時になってもいいから」
「……わかりました」
風人は渋々という感じで鍵を受け取った。その姿を見届けた羽久野は心配を顔に貼り付けたまま、研究室を後にした。
羽久野が去っていくのを足音で確かめながら、風人は自分のデスクに向き直ってふぅーっと長いため息をつく。目の前にはたくさんのウィンドウを開いたパソコンが鎮座している。その画面を見つめる風人の目には、見透かすことなどできようもない複雑な色が浮かんでいる。その表情のまま、風人はパソコンのキーボードを叩き始めた。
数刻後、風人は自分の研究室を出て鍵をかけた。そのまま玄関ホールへは向かわず、反対の廊下の奥にある階段を静かに下りてゆく。一番下まで下りると、つき当たりに大きくて重い扉が姿を現す。風人はその錠を外し、できるだけ音を立てないように体で支えるようにしてゆっくりと押し開く。その奥に広がっているのは、暗くじめっとした廊下だ。向かって右側はコンクリートの滑らかな壁が奥へと続き、左側から天井にかけては地盤を削っただけのごつごつとした岩壁が覆っている。コンクリート側には等間隔に重厚な扉が整然と並んでいる。風人が歩み入ると、床はぺた、ぺたと湿った嫌な音を立てる。その廊下をしばらく歩いて、風人は立ち止まった。白衣のポケットから、羽久野から渡されたのとは別の小さな鍵を取り出すと、その鍵で目の前の扉を開ける。ガチャンと大きな音が、静かな廊下に響いた。
扉の中は、天井の高いコンクリートの部屋になっている。明かり取りの高窓からちょうど月の光が差し込んで、部屋の暗がりを薄青く染めている。部屋の左隅には台のようなものがあり、その上に白っぽいものが横たわっている。風人はそれに近づくと、ひざを付いてその顔を覗き込んだ。
「透亜……」
吐息と変わらないほどのかすかな声で、風人はその名を呼ぶ。透亜と呼ばれたその少女はうつぶせで、長い睫毛の生えそろったまぶたを閉じ、寝息を立てている。風人はその頬にかかる髪をそっと耳にかけてやる。そのまま指で梳くと、幼子の柔らかな髪はさらりとなじんでいく。
その時、少女はうっすらと目を開けた。
―風人?
その声で風人は透亜が目を覚ましたことに気づいた。
「ごめん。起こしちゃったか」
静かな声で言いながら、風人は微笑みかける。透亜は右手で目をこすっている。
―ううん。どうしたの?
「どうもしないよ。寝てていい」
風人はその頭を優しくなでる。大きな瞳で、透亜はそんな風人を見つめる。
―……まだジッケンあるの?
透亜の言葉に、風人の微笑が消える。透亜は寝ていた台から半身を起こし、風人のほうを向いて腰掛ける。そんな透亜から目をそらすように風人はうつむいてしまった。
―風人。
大きな瞳が目の前の男をじっと見つめる。
―私、平気だよ。
一瞬、風人は息を呑んだ。そっと顔を上げて透亜と見つめ合う。表情の乏しい透亜の顔からはその感情を読み取ることはできない。だがその言葉には、風人の心に寄り添おうとする透亜の気持ちが表れていた。
「透亜……!」
喉の奥から絞り出すような声で、風人はその名を呼んだ。それと同時に腕を伸ばし、その中に透亜を抱いた。背中に伸ばした腕には、冷たく無機質な羽根の感触が伝わってくる。決して熱を持つことのないその羽根は、風人の手で透亜の体につけたものだ。
―泣かないで、風人。
歯を食いしばるようにして嗚咽をこらえている風人の背中を、透亜は優しくさする。風人の体は苦しそうに震えている。
「ごめん、透亜……」
涙声に混じった風人の言葉を透亜は黙って聞いた。
「俺は、こうすることでしか……こんなことでしか透亜を守れない!」
―……いいよ。
ポツリと透亜が呟く。声とは言えないような小さな小さな声だった。
―私、知ってるよ。風人が守ってくれてるの知ってるから。
風人は何も言わずに透亜を抱く腕に力をこめる。しばらく風人のすすり泣く声だけが部屋に響いた。
―ねぇ、風人。
「うん?」
透亜の呼びかけに呼応して風人は身じろぎする。
―私、自由になりたい。
「……え?今何て」
―自由になりたい。そしたら、きっと風人も悲しくないよ。
しばらく、風人は言葉を失ったように沈黙していた。しかしやがて、透亜を抱く腕を緩めてその顔を見つめる。赤くはれた風人の目にはまだ涙が溜まっていたが、無理矢理に笑顔を作った。
「そっか。じゃあ透亜に自由をあげる」
―本当?
「本当だよ。時間はかかるかもしれないけど」
風人は首を上げて部屋の奥、天井近くにある高窓を見つめる。月はもうその端に隠れようとしている。
「こんな狭くない空を、透亜に見せてあげる」
透亜も、風人が見つめる先に目をやる。月の残光がその黒い瞳をきらきらと輝かせた。
「……あなた今何て?」
そこは羽久野の研究室だった。窓から入る日差しが逆光になって、風人の表情はよく見えない。
「そんな事をしたらどうなるか、分かってるの?」
目の前の青年が持ち込んできたのは、今風人が養育しているサンプルを脱走させる計画だった。
「サンプルたちの存在は、軍の中でも限られた者しか知らない国家重要機密なのよ?それを脱走なんてさせたら……」
「協力していただけないんですか?」
その声は至極落ち着いている。羽久野は、そんな自分の部下をまるで初めて見る人間のように感じていた。しばらく対峙した後、羽久野は首を横に振る。
「協力なんてできないわ。なぜ急にそんなことを?」
問われて、風人は顔を背ける。
「……急にではありません」
静かな、きっぱりとした声に、羽久野はひやりとしたものを感じた。
「亜伽原君……あなたまさか、そのことを想定して……」
羽久野は自分の声が震えているのを己の耳で聞いた。風人は沈黙している。まるで羽久野が言いかけたことを肯定するように。
結局、自分もこの青年を見くびっていたということなのだろう。どこかで、まだ子供だと思っていた。部下であり、羽久野が教育していく立場であるということに甘んじていた。しかし今目の前にいる青年は、多分はじめから自分の手に負えるような人間ではなかったのだ。
「俺は……」
かすれた声で風人が呟く。そして意を決したように羽久野の目を見る。
「このまま自分が軍にただ利用されることに、耐えられません」
風人の目に怒りの色が浮かんでいるのを見てとり、羽久野は気圧されたように閉口した。
「自分が被験者にされていることくらい、俺にもわかります。上の者から嫌われていることも」
羽久野は驚いたように目を見開く。何も言わずにいる羽久野に対し、風人は声だけは淡々とした調子で続ける。
「上の者たちが俺の体細胞を使って何をしようとしているのか……想像したくもありません」
風人は拳を握りしめ、声を殺して叫ぶように問う。
「あなたも、知っていたんでしょう!?」
怒気をはらんだ目から一筋の涙がこぼれた。羽久野は、それを悲しげに見つめる。しかしその問いにも、何も答えなかった。まっすぐな強い風人の目を見ているのが辛くなり、今度は羽久野が目をそらす。
「俺には、他に頼れる人がいません」
そこには切実な響きがあった。
「お願いです。もう時間がないんです」
窓から差し込む日の光が寒々とした部屋と二人の間を照らしていた。
眼下に海を臨める崖のふちに座ったまま、風人はしばらく物思いにふけっていた。
目の前に広がるのは、濃い青を湛えた海だ。はるか向こうには対岸がうっすらとぼやけて見える。そちら側には、風人が唯一全幅の信頼をおく人物が暮らしている。入軍してからの11年間、軍に察知されない方法で細々とではあるが連絡を取り合ってきた。しかし最後に実際に会ったのは入軍前のことだ。風人は小さくため息をつき、手元に目をやる。風人が持っているのは、白い紙の束のようなものだ。その一枚を崖の上で折りたたみ始める。まもなく、それは紙飛行機の形を成した。
「……」
しばらく折りあがった紙飛行機を黙って見つめていたが、やがてそれを右手でしっかり持つと、腕をゆっくりと動かし、スッと前へ投げた。
紙飛行機はふわりと舞い、そのまま先のほうへ飛んでゆく。頼りなげに揺らめきながらも、落ちることなく滑空していく。風人はその姿を見届けることなく、また次の紙飛行機を折りあげ、空へと放った。それもまた同じ方向へ飛んでゆく。その後も風人は次々と、無心に紙飛行機を飛ばし続けた。まるで何かを振り切るかのように、幾度となく同じ作業を淡々と続けていく。とうとう手元の紙束がなくなった時、風人は動きを止めた。彼が放り続けた紙飛行機は、海の青と薄ぼけた対岸の遠景の狭間で見えなくなった。
「元気で」
ポツリと、独り言のように呟く。その声は誰に届くこともなく、風のない凪いだ海に溶けた。
『緊急連絡。BF北第一非常口に異常あり。警備員は至急現場へ直行してください。緊急連絡……』
サイレンと共に鳴り響く自動音声の放送を聞きながら、羽久野は体の奥が冷たくなっていくような妙な感覚にとらわれていた。今頃風人はサンプルの手をとって、非常口から続く隧道を通っているはずだ。計画は、動き出してしまった。もう止めることはできない。
羽久野は胸を押さえた。心臓をぎゅっと掴まれたような痛みと苦しみがこみ上げてくる。体の震えが止まらない。
これから自分がしようとしていることも、風人がたどる未来も、恐ろしくてたまらなかった。しかしそれは自分が選んだことであり、風人に選ぶことを諦めさせることができなかった未来だ。鳴り続けるサイレンの音がその不吉さを象徴している。
「どうして」
誰にともなく問う声に応える者はいない。羽久野はぶつけようのない憤りを持て余していた。どうして、このような事になってしまったのか。ここは人を救い、人を守るための最先端の機関ではなかったか。なぜ才知にあふれ、前途ある青年がここまで追い詰められなければならないのか。羽久野は押し寄せる感情に流されまいと必死で歯を食いしばる。
「……寒い」
それは無意識に吐いた言葉だった。もう初夏だというのに、その気温も羽久野の体を温めはしなかった。