5.告白
亜伽原 風人という一人の男が命を賭して渦中の「培養」された少女、透亜を脱走させたことには、ある大きな目的があった。それは、他にも多く研究施設の中で培養され、今も生まれ続けている培養人間たちをその施設から解放し、この研究をやめさせることだった。透亜は、そのために軍の外部にいて実際に解放を実行する都城たちの手に託された「生きる証拠」でもある。当然、都城たちが行なおうとしていることは法に背く行為である。しかし、人間の培養という研究が人道的に許されていい筈がない。それを誰よりも強く感じていたのが他ならぬ風人である。都城たちの最終目標はその風人の意志を継ぎ、培養人間の解放を成功させることである。彼らはそのために水面下で着々と準備を進めていた。それは共に動ける仲間を増やすことから武器の調達まで多岐にわたる。相応の資金調達も必要だった。深山は〝地下〟の医師団員として、戸塚と都城もそれぞれの仕事をし、一方で透亜を見守りながら暮らしていた。日々は忙しく、急ぎ足で過ぎてゆく。幼顔だった透亜も成長し、通常会話ができる程度の言語能力を身につけていた。
そんな頃、日本政府を揺るがす事件が起きる。はじまりは、ある地域で起きた小競り合いだった。しかしそれはやがて勢力を拡大し、大規模なクーデターへと発展する。現在政治の実権を握っている軍部は鎮圧に乗り出し、日本は地方対国の、事実上の内戦状態に入った。これを軍部が手薄となる好機ととらえた都城たちは、大きく動き出す。―風人処刑から、6年の月日が経っていた。
「ようやくこの時が来たな、風人」
初夏の風がすがすがしく吹き渡る。都城は己が据えた風人の墓へと来ていた。
「長くかかってしまった。俺たちも随分変わったよ」
都城は穏やかな声で風人に語りかける。その隣には、もう一人祈りを捧げる姿があった。
「それに……こいつもな。随分表情豊かになったよ」
透亜は都城の隣で、目を閉じたまま祈っている。背は都城の肩ほどまでになり、体つきも女性らしさを帯びている。髪は相変わらず肩上で切りそろえ、着ているワンピースの背には二つの大きなスリットがある。
「こいつの笑い方……どこか、お前に似てる気がするよ」
都城は一瞬目を伏せ、立ち上がる。その気配を感じて透亜も目を開ける。
「もう行くの?」
「ああ。帰って昼にしよう」
その言葉を聞いて、透亜は自分の前に置いていた一枚の写真をしまった。それは、6年前にここへ来たときに見せてもらった風人と自分が写っている写真だ。透亜はプリントアウトしてもらったその写真を肌身離さず持っている。そして都城と共にこの墓へ来るようになってからは、その写真を前にして共に祈っている。
二人が裏山を降りると、待ちわびたような顔の深山が二人を出迎える。
「ご飯出来てるよ。おなか空いたかい?透亜ちゃん」
「うん」
玄関を上がり、右手側の部屋がダイニングルームになっている。玄関脇のかまどは使っていない。代わりにリフォームで増設されたとみられるシステムキッチンで、深山が作った昼食が待っていた。今日のメニューは中華風の、春雨とツナを使った炒め物に高野豆腐のスープだ。彼らの食事は、普段は乾物や缶詰、乾燥野菜などを使ったものになる。月に二三度、都城が買出しをしに行く。乾物は都城たちの協力者の乾物屋が分けてくれている。それらの食材を使って料理を作るのは専ら深山だ。
その時、玄関の戸がガラガラと開けられる音がした。都城が反射的に玄関へ出た。そこにいたのは、背中に大きなリュックを背負った戸塚だった。
「久しぶり、都城」
「ああ」
戸塚は2年前に結婚し、今はアパートで家族と暮らしている。去年の暮れには娘も生まれ、すっかり子煩悩な父親となっている。
「なんだ、もう着いたのか。飯食うか?」
声につられて深山も顔を出す。
「食べてきたからいいよ。これお土産ね」
そう言って戸塚はどさりとリュックを下ろす。中には、たけのこや菜の花など、旬の山菜や野菜がどっさりと入っている。戸塚はこうして時々新鮮な野菜や果物を届けに来ていた。しかし今回は野菜を届けるのが目的ではない。
「家族にはちゃんと説明してきたのか」
心配そうな声音で都城は尋ねる。しかし当の本人は実にさっぱりしている。
「まぁ悪いなと思ってるけど、あいつは事情を全部知ってるから。家のことはとりあえず任せてきたよ」
「あの奥さんは確かに肝据わってそうだけどな。でも女はわかんねーぜ」
そんな深山の言葉に戸塚は声を漏らして笑う。深山も都城も戸塚の結婚式には出席していたので、その時に戸塚の妻にも会っている。気の強そうな、戸塚を引っ張っていきそうな年上の女性だ。
「あいつは母親になって、また一段と強くなったように見えるよ。もう何か、悟りの境地みたいだ」
「子供が生まれたことは、確かに奥さんにとっては良かったかもしれないな」
複雑な表情のまま都城が呟く。戸塚が強がっているわけではないことはその様子から分かるが、そのさっぱりした様子が逆に都城を不安にさせる。
今日戸塚が合流したのは、彼らの最終的な計画が始動するためだ。風人が目指していた、研究施設から透亜のような人間たちを解放するという計画を実行する時が来た。しかしそれは、風人が命を落としたことからも分かるように、国家に反旗を翻す危険なものでもある。しかも彼らが立ち向かうのは国家の重要機密である。失敗すれば、彼らに残るのは犯罪者の汚名だけだ。下手をすれば秘密裏に消される可能性もある。それは独り身の都城や深山はまだしも、家族を持つ戸塚には酷に思えた。
「俺は半分、もうお前は来ないんじゃないかと思ってたよ」
都城の言葉に、戸塚はふっとゆがんだ笑みを浮かべる。
「見くびってくれたら困るよ。僕だって風人の意志を継ぐ同志だ」
「……そうか。悪かった」
玄関で話している三人の様子を、透亜は廊下に半身をのり出して窺っていた。それに気づいた戸塚が透亜に笑いかける。
「透亜ちゃんも、久しぶり」
「うん……久しぶり」
透亜も少し笑った。
「あ、あとこれ、透亜ちゃんに」
思い出したように、戸塚は紙袋から取り出したものを透亜の前に広げた。それは濃い青色が美しい小花柄のワンピースだった。背中の部分には、しっかり二本のスリットが入っている。
実は今、透亜が着ているワンピースのほとんどは、戸塚の妻が既成のものを直して作ってくれたものだ。裾の少し余った部分から取った布や、脇をつめて余らせた布などで縫い代や切り返しをつけ、丁寧に縫われている。着る服に困っていた透亜を不憫に思い、こうして時々プレゼントしてくれるのだ。
「きれい……」
透亜は思わずそのワンピースに見とれる。
「気に入った?」
「うん。ありがとう」
「それは良かった。かみさんも喜ぶよ」
嬉しそうな透亜の様子に、戸塚はやわらかく笑った。
三人の男と透亜は奥の畳部屋でパソコンの画面に見入っていた。そこには地図が映し出されている。
「今俺たちがいるのはここだ。……そして武器を集積しているのがここだ」
都城は画面を指しながら説明する。都城が今指しているのは港近くのビルだった。
「現時点で動けるものを一旦この集積場に集める」
「え、ここじゃなくて?」
戸塚は予想に反した都城の言葉に、思わず口を挟む。
「ここに人を集めれば目立つだろう。だったら町に近いほうが動きやすい。それに」
都城は画面を少しスクロールさせる。
「研究施設からも近い」
港から海岸線を北へ辿った先に、軍の研究施設はあった。そこが都城たちの最終目的地だ。
「俺たちもここから移動する」
「移動かぁ。なんか久しぶりだな」
なんとなく面倒そうに深山がぼやく。その時、ずっと黙ってその様子を見ていた透亜が口を開く。
「……ねぇ」
三人が一斉に透亜のほうを向く。透亜の顔は不安に曇っている。
「みんな、戦うの?」
「え?」
「さっき、武器を集めてるって……」
その透亜の言葉に、三人は顔を見合わせる。言われてみれば、彼らの計画を透亜に詳しく話したことはなかった。
「そうだな。別に戦うことが目的ではないが、俺たちは軍の研究施設内部に入っていかなきゃならない。そのために武装するんだ」
黙って話を聞いている透亜に都城は続ける。
「だが、お前は集積場に着いたら、そこで待っていればいい。俺たちと来る必要はない」
「そうじゃなくて」
都城の言葉をさえぎるように透亜が口を挟む。その顔を見て都城は怪訝な表情をする。透亜は迷っているようにしばし口ごもっていたが、やがて告げた。
「みんなは、私みたいな子達と戦うために行くの?」
「……いや。解放するためだ」
透亜が言いたいことの要領を得ず、都城はしかめっ面をする。そんな様子を気にするでもなく、透亜は続ける。
「施設にいる子達は、軍事訓練を受けてる。兵士として戦うために」
「ああ……その事か」
都城はようやく透亜が言いたいことの意を解した。
「確かに、多少そういった者たちとも戦うことになるかもしれない。だがそれは一部なんだろう?」
そんな話を、以前風人から聞いたことはあった。しかしそれをあまり重要なこととは思っていなかった。
「……どうだろう」
透亜は顔を下に向ける。
「私があそこにいたときは、訓練を受けてない子はほとんどいなかったと思う」
何か言いよどむように目を泳がせている透亜を、都城はさりげなく促して先の言葉を待つ。
「……そういう子は、殺されちゃうから」
「殺される?」
あまりの言葉に、一瞬時が止まったように皆動きを止める。言葉が出てこない。透亜は嫌な記憶から目をそらすようにうつむいたまま説明する。
「兵士になれない女の子とか、問題がある子とかは、皆殺されるんだよ。内臓とか、心臓とか全部取られて、捨てられるの。……私も、その一人」
透亜の声は弱々しく細くなり、まるで搾り出すかのようだった。男三人は息を呑んで固まっている。
その話が本当であれば、おそらく取り出された内臓やらは裏で売買されたのだろう。移植が目的であれば、まだ息があるうちに体を切り刻まれたのかもしれない。
三人の男たちは一様に青い顔をして黙り込んでいる。その中で都城は、以前透亜が口にした言葉を思い返していた。
―風人が死ぬくらいなら、私が死ねばよかった。他の子と同じに、私が死ねばよかったのに。
「じゃあ、お前は……」
「私はね、だから風人が守ってくれたんだよ。だから殺されなかった」
風人の名前を口にしたことで、少しだけ透亜の声が明るくなった。
「風人はね、私を実験体にしたいから殺さないでって、頼んでくれたの」
「実験体?」
聞き返したのは深山だった。透亜は深山のほうを見てこくりとうなずく。
「そのときに風人がつけたのが、この翼」
そう言って透亜は背中の翼を指す。無機質な白い羽根は今も透亜の背中から生え、動くたびにゆらゆらと揺れる。
「風人は実際に私を使って実験をして、そのデータを軍に提出してた。実績があれば私は有能な実験体として扱われて、軍も私を殺せないから」
ひどい話だった。透亜は施設の中で人間としての扱いを受けなかっただけでなく、生きることさえ何かを引き換えにして得なければならなかったのだ。
「実験に使われるのは……辛かったけど、でもそれで生きられたから。……風人は、私よりもっと辛そうだったよ」
「それって、どんな実験だったの?」
恐る恐るといった感じで戸塚が聞く。透亜は少し口ごもったが、それでも話した。
「人間の単独飛翔……とかいう。確か。敵のいるほうに人を直接突っ込ませる、人間兵器の一種だとか、言ってたと思う」
「人間兵器……」
どこかで聞いたような話だと思った。しかしどこで聞いたのかまでは思い出せなかった。ただ、そのようなものに関わってしまった風人の思いを察することはできる。目の前にいる透亜が受けてきた苦痛を思うことはできる。その場に耳が痛むほどの沈黙が下りた。
都城は両腕で頭を抱え込んで、小さなうめき声を上げた。脳裏に、海から拾ってきた紙の束に書かれていた風人の言葉が浮かんでくる。あの、遺言のような言葉。ここにいる誰も敵わないほどの知識と才能を持った風人を追い込んだものを、垣間見た気がした。
「ちくしょうがっ!」
吐き捨てるような言葉で沈黙を破ったのは深山だった。
「どこまで腐りきってやがんだ!この国はよ」
深山は目頭を指で押さえている。悔しさとぶつけようのない怒りがこみ上げてくる。
かつて、この国は平和を愛する国だったという。不戦の誓いを立て、世界が平和であることを、誰もが願っていたのだという。今、この国にそんな面影はかけらも見当たらない。
翌日、四人は暗い気持ちで移動のための準備をしていた。都城をはじめとする男たち三人は、いまだ透亜の告白したことの衝撃から立ち直れずにいた。それはこれから動き出そうとしている彼らの最終計画を根底から揺るがしかねない事実だった。だが、もう後戻りなどできない。そこにいるのが何者であれ、このような研究を続けさせてはいけないことだけは確かだ。
「戸塚、準備できたか」
都城が隣の部屋で作業している戸塚に声をかける。
「もうちょっとだよ。基盤は外したから、あとは適当にごまかしとくね」
戸塚は例によってパソコンをいじりながら応える。久々の作業ではあったが、慣れたものでまったく問題はない。そして戸塚は、おそらくこれが最後の作業になるであろうことを感じていた。
6年間―透亜を回収したときに移動してから今まで、結局彼らはアジトを変えることはしなかった。幸い軍からの追手は来ていない。
荷物をまとめると、四人は裏山へと歩いた。空は薄く雲に覆われていて、暗くはないが、灰色に染まった景色はなんとなく沈んで見える。
裏山には、今はもう使われていないトンネルがあり、その中に一台の車が停めてある。白のワンボックスカーだ。四人はそれぞれ荷物を積み込むと、自身も車に乗った。
都城たちの仲間がここをアジトとして用意した大きな理由の一つが、このトンネルだった。これはかつて、ここをダムにするための工事用路として使われる筈だったものだ。しかしその計画自体がなくなった今、このトンネルは閉鎖され、使われていない。しかし、閉鎖されているのは出入口部分だけで、トンネル自体は通ることができる。これを抜けた先は山道の出口になっていて、たまに車通りもあるので紛れやすい。
今日もいつものようにその真っ暗なトンネルの中を進む。透亜はその暗さと揺れにおびえているが、男たち三人にとっては通い道で、慣れたものだ。トンネルの端までやってくると、都城は車を降りて出口に作り付けられた柵をおもむろに掴む。そして思い切り持ち上げると、ガシャンと大きな音を立てて外れる。それをギィッという音と共に左側に押しやると都城は車に戻ってきた。この柵は元々ここに作り付けられていたものだったが、都城たちがトンネルを利用するために動かすことができるよう作り替えていた。
トンネルを抜けるとしばらく山道を下っていく。両脇から木々が消え、平坦な道に出ると、奥に摩天楼が見えてくる。都城は車をその奥へと向かわせる。
街中を初めて見る透亜にとっては、目に飛び込んでくるものすべてが新鮮だった。天を突くように立ち並ぶ高層ビル、行き交う多くの車たち。それは風人がいつか教えてくれた「街」の姿だった。それを今実際にこの目で見ているということは、透亜に強い衝撃と感動を与えた。
街の姿に目を奪われている透亜とは裏腹に、都城は厳しい表情で目前の光景を見ていた。これでも、車通りは減っているのである。それは今起きているクーデターの影響だ。この辺りは軍事衝突があるわけではないが、元々軍の関係者が多い地域だった。そうした人間がクーデターによって地方に移動しているため、人通りは以前に比べて半減している。
車は大きな通りを避けながら、摩天楼の中を走り抜けていく。やがて大きなビルは姿を消し、背の低い倉庫のような建物が多く立ち並ぶ場所へ出た。しばらくそのまま走り続けて、車はふと止まった。右手の奥には海が見える。
「ここか?」
窓の外を見ていた深山が運転席の都城に聞く。
「ああ……もう少し先だが」
都城は後ろを振り返る。
「集積場はこの奥だ。俺は車を車庫に停めていかなきゃならない」
言いながら都城はシートベルトを外し、ドアを開ける。戸塚と深山も車から降りる。都城は手にした地図と実際の建物を交互に指しながら、二人に場所を指示する。その後ろに透亜の姿が……なかった。
車から降りなかったのか、と都城は思った。それならば後部座席に乗っているはずである。都城はそのドアを開ける。しかしそこにも姿がない。不審に思った都城は車の後ろに回りこんだ。
その時、都城は肌があわ立つような寒気を感じた。ふと目をやった先の光景に都城は動きを止めた。車の後方に、透亜の後ろ姿が見える。透亜はまるで呪縛にかかったようにその場から動かない。その後ろ姿の奥に、一人の男の姿がある。その人物の面影をはっきりととらえた時、背中を嫌な汗が幾筋も流れていくのを感じた。頭の奥がずきずきと痛む。違う、あれは……。思ったが言葉が出ない。その内に、その名を透亜が口にする。
「風人……?」
男の風貌は、見事に風人そのものだった。ただ、それはまだ幼さが残る、若い頃の風人の姿だった。
ふと、雲の切れ間から日が差した。小さな隙間から降り注ぐ光は、海からの照り返しもあいまって思いのほか強く辺りを照らし出す。まぶしいほどの日差しは一瞬景色をくらませた。
男は透亜と対面するように立っていた。その表情は横から差す光に半分ほど埋もれているが、うっすらと微笑んでいるように見えた。そして男はおもむろに、手をこまねいた。
―おいで。
その口元が形作った意味を透亜が理解するのに一寸もかからなかった。透亜はゆっくりとそちら側へ歩き出す。その段になって、都城は我に帰った。
「ダメだ、行くな!」
都城は言いながら透亜に駆け寄ると、その体を後ろから捕まえる。
「いや……離して」
透亜は前を向いたまま、その腕を振りほどこうとする。その様子をじっと見つめていた男は、急に興味をなくしたように笑みを消し、踵を返す。
「待って……!」
「落ち着け。あいつは、違う」
男は振り向きも立ち止まりもせずに歩き去っていく。焦るように透亜は体を強くよじる。
「行かないで!風人!」
都城は、声の限りを尽くして叫ぶ透亜の口を自分の肩口に押さえつけるようにしてその頭を抱え込んだ。
「落ち着くんだ!透亜!」
―透亜……!
びくっと透亜の体が震え、動かなくなった。体の力が抜け、全身を都城に預ける。都城は崩れ落ちていく体を支えるようにして、透亜を強く抱きしめた。
都城が透亜の名を呼んだのは、この時が初めてだった。六年間ずっと呼ぶことのなかったその名を、今このとき初めて呼んだ。透亜は小刻みに震えながら、はるかな過去をぼんやりと思い出していた。
「あいつは、風人なんかじゃない。風人は……死んだんだ」
その声は苦しそうに震えている。苦しみが伝わってくるのに、透亜は心が落ち着いてくるのを感じていた。その時、透亜は肩にひやりとしたものを感じた。それは都城がこぼした涙だった。都城は透亜を抱えたまま泣いていた。今までこらえてきたものが堰を切って流れてきたような涙だった。透亜もまた、気づかずに泣いていた。心の中に去来する今までの出来事が、さざ波のように透亜の心を揺すってゆく。
考えれば、わかる事だった。風人があんなに若い姿でいるはずがないのだ。だとすれば、あれは軍による罠か何かなのだろう。
「ごめんね……泣かないで」
それだけしか言葉にならなかった。透亜は都城の背中に腕を回して、慰めるように優しく抱いた。
異変に気づいて引き返してきた戸塚と深山は、二人が落ち着くまでその様子を見守っていた。
同じ頃、軍総監である遠野 誠は己の執務室の椅子に座り、苛立っていた。ノックの音がして、秘書の男が入ってきた。
「失礼します」
「COPYの行方は掴めたのか」
遠野は秘書の礼も終わらぬ間に問う。
「……推測の域を出ませんが」
「そんな報告を私にするな!」
怒気を自分にぶつけてくる遠野に対して、秘書はいつものように慇懃無礼な態度で応える。
「お言葉ではございますが、もう少し冷静になって頂かなくては。軍のトップともあろうお方が」
その言葉にイライラを募らせながら、遠野は深くため息をついて机に肘をつく。
遠野はそろそろこの職を辞することを考えていた。現職について、もう七年半が過ぎた。自分が目指していた組織の改造は大方やり遂げた。引き際としては悪くない頃だと思っていた。そんな矢先に起きたのが今のクーデターである。徐々に拡大していくその波は警察だけでは留めることができず、ついに軍を動かす事態へと発展してしまった。こうなってしまっては、安々と引退というわけにも行かない。遠野が大事に育ててきた、彼の右腕であり後任候補である副総監は、最前線でクーデター鎮圧の指揮をとっている。
「よりによってこんな時に、何をやっているんだ」
「こんな時だからこそですよ」
不意に扉が開いて男が姿を現した。黒縁のメガネをかけた白衣姿のその男は、今は亡き亜伽原 風人研究員そのものの顔をしている。
「きさま……」
怒りのこもった低い声を聞いても、男はうっすらと笑みを浮かべている。その不敵な笑みに隠された瞳の奥を見通すことはできなかった。