3.遺言
都城たちが移ったアジトは、海から内陸に5キロほど入ったところにあった。都城たちには今いるメンバーのほかにも、彼らと目的を同じくして協力し合っている仲間がいる。その仲間が用意してくれた新しいアジトは、山間に打ち捨てられた寒村跡だった。その昔、ここはダムの建設予定地とされ、当時の住民はみな他の町に移住を余儀なくされた。この近くには大きな街があり、用水の確保と電源開発のためにダムを作る計画だったのだが、後の調査で地形などの条件により予定していたほどの用水確保が難しいことが分かり、計画自体が白紙になってしまった。しかしそれは、住民が移住を完了したずっと後のことだった。
村の跡には当時使われていた家屋がそのままに打ち捨てられていた。風化して崩れそうなものもあるが、まだ十分人が住めるものも残っている。実はここには数年前、ホームレスで街を追われた人々が仮住まいをしていた時期がある。もちろんそれも不法なことに違いないのだが、街の中で野宿されるほど迷惑がかからないこともあって黙認されていた節がある。今ではそれらの人々も街へ戻り、NPO団体などに支援されながら生活している。都城たちが根城としたのも、当時ホームレスたちが使っていた家屋のうちの一軒だ。人の手が入っていた方が、家はきれいな形をとどめているからだ。電気の供給はないが、使い古しの発電機とソーラーパネルを仲間が用意していた。配線は都城が行った。
透亜〈トウア〉―風人にそういう名で呼ばれていた少女は、その家の片隅の部屋で算数の問題を解いている。透亜と同じ年頃の小学生が解くような問題だ。傍らには家庭教師役の戸塚がいる。
すべての問題を解き終えると、透亜は戸塚に無言でノートを差し出す。
「できた?どれ……」
戸塚は解答の書かれたノートを検分する。今解いているのは三桁と二桁の割り算だ。
「うん、合ってる。理解してるみたいだね」
頭をなでてやると、透亜はまぶしい時にするように目をしばたかせる。長い睫毛が音を立てるかのようにぱちぱちと上下する。
「戸塚、入るぞ」
コンコンとノックの音がして、深山が部屋に入ってきた。何やら分厚いファイルを小脇に抱えている。深山はため息をつきながら首を傾げている。
「どうしたの?難しい顔して」
「それがなぁ、風人の奴がやってた発声トレーニングの資料を見てたんだが、どうもよく分からん」
深山はファイルをぺらぺらとめくる。そのファイルには風人が透亜を脱走させる前に送ってきた資料が入っている。
「そんな難しいの?」
「一見、後天性失語症のリハビリにも見えるんだが、プログラムと経過の検分の関連性がよく分からねぇんだ」
戸塚も一応ファイルを覗いてみるが、医学の知識がないためさっぱりわからない。しかもファイルの中身はドイツ語だ。
「とにかく交代だ。お前は早いとこパソコンを何とかしてくれ」
「はいはい」
苦笑を浮かべて戸塚は席を立つ。勉強は終わりだって、と透亜に小声で言う。
「何とかして脳の状態がわかればまだやりやすいんだがなぁ。せめてCTが取れれば」
譲られた椅子に腰掛けながら深山はぼやく。
「こんな姿じゃ病院に紛れて行くわけにいかないもんねぇ」
戸塚も苦笑のまま同意する。こんなとは、もちろん透亜の背中にある大きな翼を指す。
現在、ある団体を除いて国内の医療機関はすべて軍部の配下にある。CTなどの大きな機器を置けるような病院には、今はすべて軍部の息がかかっている。そんな所に、軍の研究施設を脱走させた透亜を連れて行くわけにはいかない。
「ちょっと、その背中見せてくれない?」
深山はふいに透亜に言う。透亜は驚いたのか、怯えているのか、体を少し震わせる。硬い表情で深山をじっと見つめている。
「大丈夫。変なことしないから」
深山の代わりに戸塚がそう言ったので、深山は思いきりにらみ返す。そんな様子を見て不安を感じながらも、透亜は背中を向けて椅子に座りなおした。
透亜は今、赤いワンピースを着ている。そのワンピースには、以前透亜が着ていた白い服と同じように、背中に二本の大きなスリットが入っている。そこから白いものがちらりとのぞいている。
「この翼って、今広げられんの?」
背中に触れられて、透亜はびくりと肩を震わせる。戸塚は苦笑しながら大丈夫を繰り返す。透亜は困ったような顔で振り返り、二人に告げる。
―ちょっと……はなれて。
「え?」
男二人は同時に声をあげた。すると透亜はそんな二人を自らの手でぐいぐいとドアのほうへ追いやる。二人が顔を見合わせていると、透亜は部屋の中央に歩いていく。そしてぐるりと周りを見回すと、不意にその場にしゃがみこんだ。
次の瞬間、狭い小部屋の中に風が巻き起こった。それは深山たちが思わずよろめくほどのものだった。目をつぶってしまった二人がゆっくりと目を開けると、そこには異様な光景が広がっていた。
透亜の背中から伸びた白い翼状のものは、両側の壁や天井に付きそうなほどに広がっている。扇状の折り目が目一杯に伸びた翼の形は鳥のそれというよりも、コウモリなどのものに近い。翼は自らが起こした風の余波を受けてゆらゆらと揺れている。
「びっくりしたね」
「こりゃすげぇな」
それは10歳程度の女の子の小さな体からは想像できないほどの大きさだ。普段はずいぶんとコンパクトに収納されているようだ。深山が近づいて羽根の部分を触る。紙とプラスチックの中間の手触りである羽根はごく薄く、しかししなやかで強度がある。大きな一枚の翼には支柱が三本入っている。これもしなやかなプラスチックのような材質だ。
「これ、風人が設計したのかな」
深山の後ろから覗くようにその様子を見つめていた戸塚がふとつぶやく。深山はだろうなぁと、翼を見たまま返答する。
―もう、いい?
かすかな声が二人の耳に届く。二人が覗くと、その顔は苦しそうにゆがんでいる。
―もう閉じてもいい?
「あ、ああ。ごめんごめん」
深山が我に帰る。あまりにも興味が湧きすぎて、透亜本人のことがすっかり頭から抜けていた。深山はそろそろと透亜から離れる。
すると今まで目の前に広がっていた翼はするするとたたみこまれ、元のように透亜が着ているワンピースのスリットの内側へと収納された。それと同時に透亜はその場へ座り込む。
「……大丈夫?」
その様子を見て戸塚が心配そうに言う。透亜は苦しそうに息をしている。
―すごく、つかれるの。
「ごめんよ透亜ちゃん」
深山が謝りながら透亜の頭をなでる。これだけ大きな物を自分の力だけで操るのは、相当の体力を使うのだろう。実際透亜は施設を脱出する時も、着陸予定地までたどり着けずに海へ落ちている。
透亜の脱走計画は、そのほとんどを風人が立てていた。それは施設の非常口の一つが海に面していることを利用して、そこから透亜をその翼で飛行させ、脱走させるというものだった。海は湾になっており、対岸の近くに都城たちのアジトがあった。透亜はとにかく対岸の陸地に向かってただひたすらまっすぐ飛べばよかった。そうして対岸に着いた透亜を、都城たちが回収し、保護するという計画だった。しかし透亜はその場所にたどり着くことができなかった。都城は途中で力尽きた透亜が沖合いに浮いているのを発見し、泳いで海の中から救出したのである。
床にうずくまっている透亜を深山が支えて起こし、椅子に座らせる。
「ちょっと落ち着いたかい?」
深山が問うと、透亜はこくりとうなずく。その様子を見て二人は安心したように息をつく。
「それじゃ、僕はパソコンの組み立てに行くね」
「おう、頼んだぞ」
戸塚は透亜に小さく手を振って部屋を後にした。
都城たちが根城にしたこの家屋は、ずいぶん古い形のものだった。木造平屋作りで部屋どうしはふすまやガラスの引き戸で仕切られている。透亜の部屋はフローリングだが、その隣から家の奥に続く三つの部屋は畳敷きになっている。玄関の隣には土間続きでかまどが設置されている。築数百年は経っている年季の入った家だ。
廊下へ出ると、玄関から都城が入ってきた。作業にためにぼろのつなぎを着ている。
「そっちは順調?」
戸塚が声をかけると、都城はああ、と小さく返して上がり口に腰を掛ける。
「裏手の井戸は何とか使えそうだ。ソーラーのほうも十分な発電量になりそうだし、発電機は止めても大丈夫だろう」
「それは良かった。燃料も馬鹿にならないからね」
「そうだな。お前も早いところ、パソコンを何とかしてくれ」
「分かってるよ。今深山にも言われたところ」
首にかけたタオルで汗を拭う都城に、戸塚はお茶を渡してやる。
「あいつの様子はどうだ?」
ふと都城は声を落として戸塚に尋ねる。
「ああ、……透亜ちゃんなら、変わりないよ。なんとなくまだ慣れない感じだけど、まぁ、元気そうだよ」
「……そうか」
「心配?」
苦笑しながら戸塚が聞く。都城はうーんと唸って頭を掻く。
「なにしろ、女の子だからな。俺がガキの頃は周りに女の子はいなかったし、どうも分からんことが多い」
「まぁでも、今は見守ってあげることだと思うよ。誰だっていきなり環境が変われば戸惑うものなんだし。まずは慣れてもらうことじゃないかな」
戸塚の言葉を聞いて、都城は大きくため息をつく。
「こういう事に関しては、お前はすごく落ち着いて見えるよ」
言外に「いつもは頼りないのに」という意味が含まれていることは戸塚も承知している。
「俺も少し……見習わないとな」
それは都城が珍しく吐く弱音だった。戸塚は今度はやわらかく笑う。
「大丈夫だよ。都城なら」
少し困った顔をする都城に小さくファイト、と呟いて戸塚は奥の部屋に消えた。
パソコンは、畳の部屋に置かれていた。……と言っても、その本体はばらされ、基盤と配線が雑然と並んでいる。
「さて……やるか」
戸塚は腕まくりをしてそれらパソコンの部品と対峙する。
今、戸塚が行なおうとしているのは、一度ばらしたパソコンの基盤を交換して組み直すという作業だ。前のアジトで使っていたパソコンをそのまま運び出すのではなく、コアとなる基盤だけを抜き出し、こちらで他のパソコンと組み替える。前のアジトのパソコンも同様に、基盤を全く別のものと交換して組み直してある。そうすることで、そこに足がつき、パソコンを調べられたとしても、彼らの持つ情報を取り出すことはできなくなる。しかも前のパソコンの情報はこちらで確認することができる。もっとも、パソコンが無事に組み替え終えられればの話だが。
普通の人間なら頭を痛めるような作業だが、戸塚は嬉々としている。パソコンオタクの彼は自らの手で一からパソコンを組み立てることもできる。実際、前のアジトで使っていたパソコンはそうして戸塚が作り上げたものだった。タブレットや携帯端末が主流の今日では珍しくなってしまったデスクトップ型だが、今のものよりも解体や組み換えが容易にできる。街のジャンク屋では今でもさまざまな部品が扱われている。その背景には、今の日本の状況がある。
日本が完全に軍国化したのは今から約二十年ほど前のことだ。当時の政権は旧自衛隊を段階的に国有軍へと作り替えていった。国はそれと同時に国内のあらゆる機関に軍部を介入させるようになった。医療機関も今では軍部の管轄下にある。それだけでも国民の暮らしはずいぶんと重苦しいものになったが、それ以上にこたえたのが情報流通の規制だった。情報の「自由な」流通はテロなどの犯罪を誘発するとして、ネットを含むすべての情報が軍により検閲されるようになった。タブレットなどの端末は購入時にすべてIDを登録され、軍が危険と判断する情報を流したものは拘束される。たとえそれが実際の犯罪と関係がなくても、軍の判断のみで拘束が可能だった。もちろんそれでも、注意していれば普段の生活に支障はない。しかし、その規制自体を窮屈だと思う者も少なくない。ごく個人的なメールなどのやり取りを赤の他人に覗かれているというのは気持ちの悪いものだ。それでそういった規制の抜け道としてパソコン端末を自作する者も少なからずいる。パソコンの自作自体現行法では違法だが、規制を善しとしない者たちはわりと軽い気持ちでやっている。そういったニーズに応えるため、ジャンク屋も結構幅を利かせている。とはいえその商売も違法であるため、大体はスクラップ業者などが裏で秘密裏に扱っているのが現状だ。
戸塚が今組み替えているパソコンも、複数のジャンク屋から材料を集めてきたものだ。自作のパソコンを作ろうとするのは大方が小さな反抗心を満たすためであるが、中にひと握り、戸塚のような者がいる。つまり、体制そのものに盾つくためにそういったものを有効利用しようとする者、あるいはその一端を担う者だ。軍部も目を光らせてはいるが、ITの専門家が足りていないためかなかなか細部まで目が届いていないようである。まして都城たちのように念に念を入れた防衛線はなかなか崩せるものではない。
戸塚が部屋にこもって三時間あまり、日はもう傾きかけている。ようやくパソコンがそれらしい形で姿を現した。
「できた……!」
バタンと音を立てて戸塚は背中から倒れこむように横になる。疲労で顔色はさえないが、その表情からは満足が窺える。その時、ガラッと音がして引き戸が開く。都城だった。
「できたのか」
都城は目の前に姿を現したパソコンを感慨深げに見つめる。戸塚はへへと笑って都城の顔を見上げる。
「まだ立ち上げてないから、ちゃんと動作するかわかんないけど」
言って戸塚は起き上がり、手近なコンセントから電源を取ってパソコンを起動させる。
「まあ大丈夫だろ、お前なら」
パソコン前に陣取った戸塚の横に腰を下ろしながら都城が言う。
「まあね」
得意気な笑顔で戸塚も応える。しばらくすると、パソコンは無事に立ち上がった。パスワードの入力画面が映し出される。
「パスワードも変えたほうがいいかな」
「そうだな」
「じゃあ後で決めたの教えてね、都城」
戸塚が現行のパスワードを入力すると、デスクトップ画面が現れた。それを見て戸塚は慣れた動作で中に入っているデータを確認する。
「うん。問題なさそうだよ」
恐るべきスピードで各項目をチェックしながら呟く。その言い様からはそれが当然であるが如くの自信がにじみ出ている。そこへ深山もやってきた。
「あらやだっ!こんなところで二人で密会!?やだわぁ」
口に手を当ててオカマ口調で喋る深山を見て、残りの二人はちょっとげんなりした顔をする。
「深山、そういう冗談は俺たちには通じないぞ」
深山はこれでもギャグのつもりなのだ。そんな二人の様子に深山は愚痴る。
「ホントだよ。お前らはリアクション薄いんだよ。風人は爆笑なのによ」
「それは僕たちが悪いんじゃなくて、風人のツボがおかしいんだよ」
そんな事を言い合いながら、深山は二人の間に割って入る。
「早速なんだが都城、どっかから簡易CTとか調達できねぇかなぁ」
「それって、透亜ちゃんのための?」
後ろから戸塚が口を挟む。深山は軽くうなずくと続ける。
「言語障害ってのは、脳の損傷箇所によって回復の過程が変わるからな。症状からある程度推察はできるが、より正確な情報があったほうがリハビリの効率も上がる」
それを聞いて都城が戸塚に顔を向ける。
「医療機器メーカーOBのリスト出せるか?」
「うん、多分ね。……でもその前に」
戸塚は深山の肩に手を置いて微笑む。
「透亜ちゃんをここに連れてきてくれない?」
「あいつを、ここに?」
今度は都城が口を挟む。
「そう。せっかくパソコンも動いたことだし、例のアレを見せてあげようと思ってさ」
「アレって、まさかあの悪趣味な動画か?」
深山が前のアジトで見た動画を思い返して渋い顔をする。すると戸塚はすねたように口を尖らせる。
「悪趣味って言わなくてもいいじゃん。それにそっちじゃなくて」
「分かってるよ」
言うと深山は腰を上げ、部屋を出た。
よく分からないまま部屋に連れてこられた透亜は長い睫毛をしばたかせ、落ち着かない様子で三人を見回す。最後に深山を見て、促されるままに都城と戸塚の間の、深山が先程座っていたスペースに腰を下ろす。
「君に見せたいものがあるんだよ」
優しい笑みを浮かべて戸塚が言う。透亜はまだ状況がよく掴めないような顔をしている。それをよそに戸塚はさっそくファイルの中のフォルダを次々に開いていく。その様子を透亜は黙って見つめている。戸塚が手を止めた時、画面に映し出されたのは、一人の幼い女の子だった。
「君の写真だよ」
戸塚が言うと、透亜は驚いたように振り向く。
―……私の?
「そうだよ」
―これ、私なの?
透亜は改めてその画面をまじまじと見る。そこに映っているのは今の透亜よりもずっと小さい、幼稚園児くらいの女の子だ。それが自分だと言われて戸惑っている。
「これはね。君がまだ施設にいた時に風人が送ってくれた写真なんだよ」
―風人が送ってくれたの?
丸い目を一段と丸めて透亜は画面を再び食い入るように見つめる。言われてみれば、その背景に映っているのは透亜がいた部屋の灰色の壁だと分かる。
「風人はとってもたくさん君の写真を僕たちに送ってくれたよ。ほら」
そう言うと戸塚はスライドショーを使って次々と写真を見せた。本当に小さなときからつい最近のものまで、様々なものがある。中には、他のすべての写真に映っている透亜が白い病院着のような服を着ているのに、赤やオレンジの布を縫い合わせたようなカラフルな服を着ているものがあった。
「これは多分、七五三をやろうと思ったんだろうね」
その写真を見て戸塚が苦笑する。
「女の子の晴れ着ってこんななのか?」
それまで黙って一緒に画面を見ていた都城がふと呟く。写真の中で透亜が着せられていたのは、袖の下が床に付くように長く、腰の辺りをひらひらした布で巻いたものだった。
「確か妹もこんな感じのを着てたよ」
「まぁ風人らしいっちゃ、らしいよな」
深山が後ろから口を挟む。画面を見たまま黙ってしまった透亜に戸塚が説明する。
「風人はね、君にできるだけ普通の女の子と同じことをしてあげたいって思ったんだよ」
その晴れ着状のものは、おそらく風人が何とかして用意したものなのだろう。稚拙ではあるが、そこには風人の思いが感じられる。
透亜は戸塚の言葉が耳に入っているのかどうかも定かではないが、写真の映し出された画面をじっと見つめ続ける姿はほほえましく見える。
「これで、風人の願いが一つ叶ったね」
戸塚が言うと、他の二人も感慨深げな表情をする。
写真は風人が研究施設で撮影し、都城たちに送っていた。それはリスクの高いことだったが、それでも写真を送り続けたのには理由がある。それは風人が透亜に「普通の女の子と同じように生きる」ことを望んだからだ。そのために風人は研究の傍ら、透亜に普通の子とできるだけ同じように教育を施してきた。言語障害が壁となってうまく進まないところもあったが、それでも透亜は同じ年頃の小学生程度の学力を身につけている。そしてそれと対をなすように風人が考えていた「普通」の一つが、写真を残すことだった。普通の子とまったく同じように人生の節目を飾れなくても、親子の思い出を綴れなくても、せめてその成長の記録として写真を残してやりたい。いつか透亜が成長したときに、その写真を見返すことができるように。そんな風人の思いを受け、こうして写真はパソコンの中に保存されてきたのである。
「……実はな」
しばしの沈黙を、都城の一言が破る。画面を見ていた深山と戸塚が透亜越しに都城へと視線を移す。そこには、何かに迷っているような顔の都城がいた。
「あの日……こいつを海から回収した日、その近くの海底で見つけたものがあるんだ」
そう言うと都城は、その迷いを振り切るように腰を上げ、隣の部屋―都城が寝間として使っている仏間へと入っていった。
しばらくして出てきた都城は、何か白い物を持って出てきた。それは折りじわや縮れでよれよれの紙の束だった。
「海に落ちていたこいつを抱えて岸へ戻ろうとしたとき、その海底に不自然に白いものが広がっているのが見えた」
都城は持っていた紙の束に目を落として語る。
「それがこれだ。……俺はあの後、気になってあの海に戻った。そこでこれを見つけて拾い集めたんだ。……これが何だかわかるか?」
持って来た紙の表を深山と戸塚に見せる。よく見ると、その紙はずいぶんとごわついている。海底から拾って来たにしてはしっかりしているようだ。触ってみると少しつるつるとした感触で、ちょうど透亜の背中についている翼と同じような素材に思えた。その紙状の物の表面には何やら文字が書かれている。しわだらけで読み取りにくいが、漢字が羅列されているように見える。文章のような意味を成しているわけではなさそうだ。
「これって……もしかして」
戸塚が確信を持てないような声で言う。しかし都城はその思い付きを肯定するようにうなずく。
「これは、俺たちが使っていた暗号で書かれている。この文字は……この筆跡は風人のものだ」
風人の名を耳にして、透亜もまた都城を見る。
「暗号」とは、都城たちが風人と連絡を取る際に使っていたものだ。その解読方法は都城と風人だけが知っている。彼らは複雑な暗号化と解読法を自分の頭で記憶することで、それが他に漏れることを防いでいた。そんな強固な暗号を使いながらも、軍部の人間である風人と直接連絡を取ることは少なかったが。
「でも、何でそんなものが海の中に……?」
戸塚が不思議そうに尋ねる。
「それは、これを折ってみれば分かる」
そう言うと都城は、一番上のものを紙の折じわにそって折り始めた。するとすぐに、一つの形が浮かび上がる。それはオーソドックスな形の、紙飛行機だった。
「まさか……紙飛行機にして飛ばしてたの?」
「多分な」
「それで、そこには何て書いてあるんだよ」
静かな声で深山が聞く。都城は紙の束を一枚ずつ繰りながら応える。
「大半は、こいつに関することだ」
都城はあごで透亜を指す。
「その内容は後でまとめて深山に渡す。……だが、それだけじゃなかった」
言いにくいのか、都城は言葉を切る。わずかの間のあと、都城は大きく息を吸って話し出す。
「この中には……俺たちに直接宛てて書いたものがあった。それを今から読む」
一枚ずつ束を繰っていた手が止まった。そこには他のものよりもびっしりと文字が書かれているように見える。そして都城はそれに目を落として読み始めた。
都城君、深山君、戸塚君へ
皆、俺のわがままに付き合ってくれてありがとう。都城君が計画に反対したとき、本当は嬉しかった。こんな俺のことを心配してくれてることがわかったから。でも、俺はどうしても今透亜を都城君たちに託さなきゃならなかったんだ。俺にはもう時間がないから。
俺は軍の研究者として、あまりにも長い間軍に関わってきてしまった。しかも俺の職分は、軍の表にも裏にもいやおうなく関わっていくことになる。俺はもしすべての計画が成功しても、もう皆のところへは戻れない。都城君たちも、今後はもう俺に関わらないほうが良い。それくらい、俺はもう軍の研究に加担してしまった。それだけじゃなく、俺は軍の研究に利用されているんだ。
透亜はこんな中で俺が残すことができた、唯一の希望だ。実際に見てくれればわかるだろう?ここでサンプルと呼ばれている透亜は、普通の人間と何も変わらない。この小さな命を、俺はどうしても守りたかった。都城君たちがいてくれて、本当によかった。透亜のこと、どうかよろしく。
元気で。
読み終えた後には、場が凍りついたような空気が支配していた。戸塚と深山はある一点を見つめたまま動かない。透亜はなにか考えているようにぼんやりと座っている。
「何だよ、それ」
小さく深山が呟く。その目は動揺を隠せないように泳いでいる。
「これじゃ、まるで……」
戸塚も言葉を継ごうとして、しかしその後は言えなかった。これじゃ、まるで遺言のようだ、とは。
「じゃああいつは、はじめから死ぬ気だったってことかよ。一人で死んでいくつもりだったってのかよ!」
絞り出すような苦しげな声で深山が叫ぶ。しかしそれに答える声はない。
「俺のせいだ」
ポツリと都城が呟く。
「あの時、俺がちゃんと止めていれば、こんなことには……」
「やめろよ」
深山が都城の声をさえぎる。静かだが有無を言わせぬ気迫がある。
「自分を責めんな。お前のせいってんなら、俺たちだって同じだ」
都城は昔のことを思い出していた。
―風人!
もう十一年も前になる。都城は当時十三歳だった。風人は小学校を卒業したら入軍するという話を聞いて、風人を探しに来ていた。
「……都城君」
風人はいつもと同じように公園のベンチに座り、本を読んでいた。駆けてきた都城の形相に驚いて本を閉じる。
「風人、軍になんか行くな」
息を切らしながら、都城は言う。すると風人は立ち上がって都城に向かい合う。
「心配してくれるんだね。ありがとう。でも大丈夫だよ」
「大丈夫なもんか!分かってんのか?軍に入ったらどうなるのか」
都城は風人を怒鳴りつける。その表情に風人を心配する気持ちがにじみ出ている。風人は視線を足元へ落とした。
「でも仕方ないよ。うちの親が決めたことだから」
「親が何だよ!?お前の親は金目当てにお前を軍に売るんだぞ?そんなのもう親でもなんでもないだろ!」
都城は鼻息も荒く言い募る。しかし風人は視線を落としたまま、かすかに笑って応える。
「うちの親はそれを望んでるんだから、もうあの家では生きていけないんだよ」
そこには、今年小学校を卒業する子供とは思えない、悟りきった姿があった。都城はその胸倉を掴む。
「俺は認めねぇ。お前の親に力づくでもこんなことやめさせてやる」
そう言うと都城は風人を残して駆け去っていく。
その後都城は風人の家に乗り込んだが、軽くあしらわれてしまった。これは、家族の中の問題だと。結局風人はそのまま入軍してしまった。
都城はその時の、最後の風人の姿を思い出していた。すべてのことを運命として受け入れ、笑顔さえ見せて去っていった、年下の「同志」。その同志を今、結果として失ってしまった。そのことに都城は強い責任を感じていた。
その時、紙の束の中からぱさりと何かが落ちた。それは他の紙のようには広がらず、元の紙飛行機の形を留めたものだった。折り合わされた部分に封がしてある。
「透亜へって書いてあるね」
その紙を拾い上げた戸塚が透亜に渡す。
「君にだって」
透亜は一瞬迷うように戸塚を見つめたが、やがて紙を受け取り、封を開ける。
守ってあげられなくてごめん。
そばにいてやれなくてごめん。
透亜の願いが叶うよう祈ってる。
「読める?」
戸塚が、紙を見つめて動かない透亜の手元に目をやる。それは他のもののような暗号ではなく、普通の日本語で書かれていた。その文を目で追っていた戸塚がふと顔を緩める。
「これを風人が書いたんだったら……少なくとも風人は死ぬためにやったんじゃないと思うよ」
その言葉を聞いて、他の二人も紙の内側を覗き込む。
「風人はこの子の行く末を見守りたかったはずだよ。風人にとってこの子は妹か……あるいは娘みたいな存在だったんじゃないかな」
子供のいない三人にとってそれは想像の域を超えない。しかし風人がこの透亜に対してしてきたことを鑑みれば、親子のような愛情を感じることができる。
「それに……ほら、この写真」
その間ずっと再生されたままになっていたスライドショーには、小さな少女の他にもう一人の人物が写っている。透亜が視線をあげてその画面を見ると、驚いたように声をあげた。
―風人?
そこに写っていた黒縁メガネに白衣姿の少年。それは若かりし頃の風人の姿だ。風人はあぐらをかくようにして座り、その腕の中にまだ幼い透亜を抱いている。何百枚とある写真の中で、それは風人が一緒に写っている唯一の写真だった。透亜は今までよりも目を輝かせて画面に見入る。自分撮りで撮られたその一枚には、アングルに苦戦した跡がある。
「こうやって見ると、本当親子みてぇだな」
しみじみとした声で深山が呟く。
透亜はその日一日、日が暮れるまでずっと写真を眺めて過ごした。