エピローグ
窓の外には、少し寂しげな姿になった並木が見える。その奥を車椅子に乗った人や杖をつく人が行き交っている。その様子を、透亜はぼんやりと眺めていた。
今透亜がいるのは、病院の入院患者用の個室である。白い病院着を着て、ベッドに半身を起こして座っている。コンコン、とノックの音がしてドアが開いた。入ってきたのは深山と真知だ。
「診察の結果が出たわ。治療方針を説明してもいいかしら」
相変わらず表情の読めない顔で真知は問う。透亜は、黙ってうなずいた。
あれから―都城たちが最終作戦を実行してから、半年の月日が経っていた。ここは、真知が以前勤めていた病院である。あの後、怪我を負った者たちを真知はここに連れてきて治療を行なった。病院のスタッフ達は急なことで戸惑っていた。しかし真知が勤めていた頃からいる看護師たちが中心になって彼女を手伝った。その一件を機に、真知はこの病院で正規の医師に復帰している。今この部屋へ来たのは、執刀医として透亜の翼を除去するための手術の説明をするためだ。その手術には深山も立ち会うことになっている。
「一番に言っておかないといけないのは、翼の位置の問題で場合によっては麻痺が出るかもしれないこと。重要な神経が集中している辺りに食い込んでるから」
真知はカルテとレントゲン写真を見比べながら説明する。
「リスクは高いと思うわ。大きく切開することになるから、傷も残る可能性が高い。……それでもやる?」
感情の見えない真知の目に見つめられて、透亜は迷うように目を泳がせた。しかし、意を決したように真知を見つめ返してうなずく。
医師に面と向かって「リスクが高い」などと言われて、怖くないわけがない。しかしこの手術には、それを上回る意味があった。
手術は、十時間に及んだ。背中の筋肉組織と密接に絡み合うように付けられた翼を取り去るのは容易なことではなかった。しかし真知の的確な執刀により、手術は成功に終わった。術後経過も良好で、心配された麻痺も出なかった。ただ、背中には二つの大きな傷が残った。手術から一ヵ月後、透亜は退院した。
青空のはるかな高みを、飛行機雲が横切るように描かれてゆく。視線を下げていくと、青く凪いだ海が続いている。時折吹き渡っていく海風に髪をなびかせて、透亜はその光景を見つめていた。
透亜は、いつかのふ頭にいた。季節はすっかり冬になり、冷たい風が体から温度を奪ってゆく。冬独特の張りつめた空気とその匂いが辺りを満たしている。
しばらく風に当たっていると、背後から誰かが近寄ってくる気配を感じた。振り返ってその姿を見ると、透亜は笑顔を向けた。
「ここにいたのか」
都城はいつもの調子で言うと、透亜の隣に並んで海を見つめる。
都城たちは不法侵入などの罪に問われ、起訴されていた。今は弁護士と共に裁判で戦っている。戸塚たちが撮っていた研究施設内部の映像が、有力な証拠として功を奏している。透亜も遠野殺害の罪に問われたのだが、戸籍すらなく、人権も認められてこなかった者に罰だけ下すのはあまりに理不尽として、不起訴処分になっている。
彼らがとった行動によって初めて明るみに出た研究施設の実態を確かめるため、司法機関が初めて調査を行なった。都城たちの裁判における実況見分をかねるため、軍側も拒みきれなかった。調査の人々は、その光景に衝撃を受けた。人間を培養する装置や、遺体の一部と思われるものが山のように積み上げられた箇所など、実際に目にしてもそれは信じがたいものだった。調査結果がまとまった後も、その内容を国民に公表するかどうかでいまだに議論が分かれている。装置内にいる胎児については対応が決まっていないが、遺体と思われるものたちについては火葬が行なわれ、無縁仏として近くの寺で供養されることになった。
施設からはそれらの他に、三人の遺体が回収されていた。遠野と、風人のクローンだった少年、そしてあと一人は、羽久野だった。羽久野は彼女自身の研究室から惨殺体で見つかった。部屋のドアは開いており、何者かに殺されたものと見られる。研究室は血の海だったという。彼女が殺されたのは、都城たちと通じていたことを軍の上層部に知られたからだと考えられた。口封じというより、見せしめにされたのだろう。都城たちはそれを聞き、風人の墓の横で羽久野の魂も弔うことにした。
都城と行動を共にした仲間たちは、元の生活にそれぞれ戻っていた。戸塚は家族の元へ帰り、子煩悩ぶりを発揮している。深山は医師に復帰した真知に師事する形で今も病院に残っている。加澄は再びジャーナリストとして世界中を飛び回っている。ちなみに戸塚たちが撮影した映像は、加澄の手で各国のメディアに送られた。反応は様々だったが、国営テレビなどで放送された国では、日本の政府や軍に批判的な意見が多いようだ。乾物屋の斉藤は、相変わらず愛想よく客商売にいそしんでいる。
「悪かったな」
長い間沈黙していた都城がぼそりとつぶやいた言葉を、透亜は危うく聞き逃すところだった。都城の横顔を見上げると、そこには疲れが滲んでいる。
「結局、お前にはずっと辛い思いばかりさせてしまった。……保護者失格だな」
透亜はぱちくりと瞬きをする。長い睫毛が、音を立てそうな勢いで上下する。
都城たちが施設から脱走させた者は十三人にのぼった。そのすべてがまだ年端も行かない少年だった。その時に脱走させることができなかった者も、後に調査に入った司法機関によって保護された。ほとんどは既に軍の兵士として働かされており、保護には時間がかかった。彼らの体内からはA.Aが見つかっており、現在は街の病院で除去する治療を受けている。今後は政府の息がかからない保護施設が作られ、そこでカウンセリングなどを受けながら生活することになっている。透亜もまたその施設に入ることになっていたのだが、本人がそれを拒んだ。実際透亜は、都城たちと生活した六年間で受けるべきカウンセリングを受け、普通に社会で生活できるくらいにはなっていた。しかしまだ未成年であるため、保護者としての役割を果たす身元引受人がいなければならなかった。それで今は都城が仮の身元引受人になっている。
「だったら、風人だって失格だよ」
「え?」
思いがけない透亜の言葉に、都城はきょとんとしてしまった。その様子がおかしかったのか、透亜は声をあげて笑う。都城も、つられて笑った。
「お二人さん、こんなところで何してんの~?」
いきなり肩に腕を置いて二人の間に入ってきた深山に、透亜も都城も一瞬びくっとする。その様子を見て、まるでみんなの言葉を代弁するかのように戸塚が言った。
「深山、うざいよ」
「うっせぇ!お前にゃ言われたくねぇ」
「せっかく久々に会ったのに、変わんないね深山は」
「お前は一体何様だよ。何だその言い草は」
急に騒々しくなった。その様子に透亜は再び笑い出す。他の三人も笑い合った。
透亜はふとその輪を抜けて、ポケットから白いものを取り出す。それは一枚の紙飛行機だった。
「それ、透亜ちゃんが折ったの?」
その手元を覗きこんだ戸塚が聞くと、透亜はうなずく。
「飛ばしてみる?」
「うん」
「じゃあまず、風を読んで……」
その紙飛行機の内側には、透亜の想いが書かれていた。過去や未来は関係なく、今は思える。
生まれてきて、よかった。
「……今だ!」
戸塚の掛け声に合わせて、透亜は海のほうへスッ……と紙飛行機を飛ばした。その時、少し強い風が透亜の体を掠めるように吹いた。
「……わぁ」
透亜は思わず声をあげた。男たち三人もその様子をじっと見守っている。紙飛行機は風に乗ってふわりと舞った。それはまるで一羽の白い鳥が青空を飛んでゆくように見える。
透亜の放った紙飛行機は、その想いを乗せてどこまでも高く舞い上がる。
読んでいただきありがとうございました。




