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蜜月の殻

作者:

 視界は濁る。もう一度、唇に運び、強く吐くと、これまで以上に周辺は濃く澱む。祈りに準える様に目を伏せ、存在を途方に暮れさせぬ様に気を付ける。焦げかけるフィルターは灰皿へ、眠る雄猫に外出を告げ、電気を消す。鍵を回した。


 唯一の防寒具は重いコート。脱いで縦に折り畳み、席に掛ける。

 「ご注文は?」

 メニュー表を閉じる。ウェイトレスはカウンターの中に入り、私は煙草に火を点ける。ゆったりとした太い煙が漂う。左に視線を動かし、丸い時計の秒針を追い、そして全体に戻す。九時二十三分、二十三分の遅刻。だからもう来ていると思っていた。


 でも居ない。


 階下へ音は進み、やがて聴覚は我に返る。スピーカーのピアノ曲に重なる幾つかの雑談。ティーカップを近づけると蒸気で瞬間、頬が火照る。

 「ヒツジ」

 顔をあげ、リホを見た。水分のない肌にパウダー、だから粗い。器を傾け、瞼をきつく伏せる。リホは抑揚のない声で「何を見ていたの?」と詰まらない質問を投げた。

 「別に何も」

 再び顔をあげ、黒いコートの女性が居た席を眺める。漆黒の珈琲カップと灰皿はウェイトレスのトレイに移され、痕跡を拭う様に、テーブルは拭かれていく。

 「どうしたの?」

 「どうもしてない」

 残り僅かなストロベリーティーからは微香もせず、正面で発される度の越した合成の香りに呑まれている。「お父さんが」スピーカーのピアノ曲に重なる幾つかの雑談。ティーカップを近づけると蒸気で瞬間、頬が火照る。

 再び顔をあげ、黒いコートの女性が居た席を眺める。漆黒の珈琲カップと灰皿はウェイトレスのトレイに移され、痕跡を拭う様に、テーブルは拭かれていく。

 「どうしたの?」

 「どうもしてない」

 残り僅かなストロベリーティーからは微香もせず、正面で発される度の越した合成の香りに呑まれている。「お父さんが」リホは甲高く吐き、話題を変え、同意しか受け付けない意見を言い、質問を繰り返す。狂ってしまわない様に私とリホという纏まり以外で動いている現実に気を逸らす。でももう興味をそそる物が見当たらない。階下へ消えた女性について思いを馳せる。


 彼女は、幾ら暖冬とは言え、暖房完備とは言え、あれ程までに冬を馬鹿にした服装はないと思う位、コートを脱ぐと服を着ていない。例えばノースリーブのワンピース一枚。腰までの黒髪が役に立っているとは考えられない。

 一方的な姉妹会議で草臥れた精神は時折の、彼女の観察で持ちこたえる。約三度に一度、大体二十一時台は共有出来る。

 彼女はいつも彼を待たせ、謝りもせず、暫く経つと自分勝手に置き去りにして帰っていく。

 総合病院前の喫茶店、身振り手振り行われる家庭の罵倒、早くも砂漠化する醜い容姿。補うつもりの悪臭。

 五感を関係のない場所で解放しようとしては彼女を捜す。季節錯誤と恋人への思いやりのなさ以外は普通に時間を使っているけれど、私はみとれてしまう。

 浮遊する感受性は彼女へと注がれる。私は彼女に憧れて、彼女の様に強くはなれない。彼女の様に存在は世界とは関係がないと言う態度では過ごせない。


 昼が過ぎるまでは寝ていることが多い。世界とは決別出来ない。そして最早、長期的な離心の術は忘れてしまった。持て余す感情をあやす手段は睡眠しか残されない。脆弱な仮の世界としても私はきちんと救われる。時間を費やせば費やす程、世界に居なければならない時間は減る。だから行き詰まるまで眠る。

 今朝は異物が侵入して目が覚めた。固定電話が鳴っている。目が覚めきらない事と寒い事と言い訳に止むのを待っていたが、一向に静まらなかった。冷え切った床を五、六歩、歩いて、受話器を上げる。座り込み丸まれば少しは暖かいかもしれない。冷気は硬く動かない。

 「はい」

 「初めまして、コウキの弟です」

 「弟?」

 「昨日、兄が事故を起こしました」

 右手を電話台にしているワゴンへ動かす。ワゴンも驚く程、適温を外れている。

 悲しい位、かえって落ち着いてしまう。でも思えば正気の糸が切れてしまったに違いない。僅かに前のめりになっていた上体を真っ直ぐに戻す。

 「病院は」

 「言わなくて良い。私、行くつもりなんてないもの」

 後方の布と硝子越しに救急車のサイレンとクラクションが聞こえる。サイレンが遠のくまでお互いに沈黙していた。

 「判りました。また連絡します」

 ワゴンのままの右手を持ち上げて送話口を押さえる。痺れる様な奥深い心音が聞こえる。


 プルタブを押す音が広く白いロビーに響いた。その直後、微かに足音が聞こえ、こちらへと向かってくる。服を着込むだけ着込んでいる中年の女性、顔を見ると伯母だった。

 「圭哉」

 長椅子に腰を掛けたまま、目の前で立ち止まった伯母を見上げる。息を切らして、続きを話しかけるまでに時間を要した。

 「圭哉、戻ってきていたの?」

 頷き、受付のドアを開ける看護婦を眺める。ナースキャップに季節外れに向日葵のピンが留めてある。僕は伯母と目を合わせた。

 「聞いたと思うけど、今は母さんが付き添っていて、父さんは準備や連絡で家に居て」

 「わかったわ。圭哉、もう帰るのでしょう? お父さんのお手伝いしてあげなさい」

 「でもさっき、戻ってきたばかりで」

 「紘ちゃんは本当に困った子ね。結局、一番、頼りにされているの判らないのかしら」

 伯母は勝手に会話を終え、独り言を言い、ナイロンのバッグから取り出したハンカチで額を拭う。「それで何処にいるの?」

 缶コーラを持ったまま立ち上がり、病室までの道程を指差しながら説明をする。伯母はハンカチをバッグに戻し、歩き始める。しかし突然、振り返り、声を出した。

 「紘ちゃんの彼女には連絡したの?」

 ダウンジャケットのポケットに手を入れ、銀のジッポを触っていた。慌てて、ジッポを落とさない様に手を出し、無造作に髪を掻き上げる。

 「七時過ぎにしたよ。でも泣いて駆けつける人じゃなかった」

 「どういう意味なの?その人のせいで事故にあったも同然じゃない?」

 その時、駆けてくる足音がして、僕と伯母は廊下の奥を同時に見ていた。窓の外がやけに暗い。いつの間にか雨が降っている。近付いてきた細い体の背ばかりが高い女性は「丹沢さんの?」と言い、「父方の伯母、この子は弟」と返事を貰うと一揖した。茶色のパンツ姿でカーキの長いジャットを羽織り、短い髪と地味な顔立ちをしている。

 「初めまして。紘輝さんとお付き合いさせて頂いています、石澤です」

 唖然とする僕を無視する様に彼女と伯母は話し始めた。途中、伯母は不思議そうに僕を見て、溜め息を吐き、掌の膨らみを頬に当てる。

 「圭哉、挨拶しなさい」

 「何で?」

 「何で、って何言ってるの、貴方」

 「この人、一体」

 「初めまして」

 「あんた、誰だよ?」

 「圭哉、何言っているの」

 伯母は大声を出し、僕の腕を強く引き、後方へと連れていく。擦れるダウンジャケットからは軽い音が聞こえ、握り締める缶が潰れコーラが弾む。石澤、と言う女が立ち竦んで、こちらを眺めている。伯母は声を潜め「いい加減になさい」と耳元で言う。僕は「違う」と告げた。

 「あの人じゃない」

 右手で左の目許を強く押さえ付けながら僕をじっと見ている仕種に、更に怒りが沸き、けれど、こういう事態にこういう場所で不注意でも殴りつけたりはしない様に制御する。僕は伯母の腕を払い、体の向きを変え、自分よりも背の高いその人に出来る限り、嫌な顔を向ける。


 憂鬱、気を抜くと倒れてしまいそう。テレビ内の激しい陽気さが気分を害している。マキさんは空になったカップを覗き「お代わりは?」と笑顔で言った。一瞥して考え「物凄く熱くて、甘ったるい牛乳を頂戴」と頼む。

 「マキさん、私を学校に行かせないとリホに叱られるよ」

 暫くして台所に行くとマキさんは空きパックを水で濯いでいた。コンロには牛乳の入った鍋が掛けられている。一度、壁に当てかけて、火元を凝視する。

 「どちらにしろ私は叱られるでしょう」

 乳白色のツーピースに微かに皺を寄せ、マキさんは棚から砂糖の瓶を取り出す。緩い木漏れ日は、穏やかで退屈で、でも持て余す類ではない堕落の象徴の様。彼女は鍋をコンロから下ろして、膜ごとカップに注ぐ。

 初めてマキさんが振り向く。「昨日はお父さん、どうでした?」きつくひとつに束ねた髪がなだらかな肩を滑る。私は壁に全身を押しつけ、スリッパに視線を落とす。目線が浮つく。

 「調子良いみたい。先生も年明けに退院の話をしようって」

 「本当? 今回は四カ月も入院していたものね」

 「でもリホが、家では介護出来ないから転院先を捜してほしいって」

 「…どうして?」

 「マキさんとお父さん、結婚した意味がないと思う」

 「どうして?」

 胸部で発生した痛みが土踏まずと喉元に拡がる。私は息を飲み込み、反らし、意味もなく袖を弄る。壁向こうでは乾いた番組が続く。声が芯へと滑り落ち、幾度と無く反響し、私の物と錯覚しそうになる。木漏れ日が徐々に撤退し、外の音が変わる。次第に音は激しくなり、辺りは既に暗い。コードを引いて、灯を灯した。

 「吐き気がする程のショッングピンクにしようかな、髪の毛」

 マキさんはまだ湯気のたつ牛乳の入ったマグカップを電子レンジで温め直す。合成着色されていそうな光の中を回る。「冗談だよ、全部」


 質が悪い。思い出せない。

 カーテンを開け、外側の光を部屋に染み込ませる。雄猫が脚に擦り寄り、私は彼を抱き上げる。

 「良い子」

 台所まで抱え、赤いプラスチックの食器を床から持ち上げる時に彼を降ろす。丁寧に洗い、右に水道水、左に猫用のドライフードを入れ、傍らに置いた。勢いよく食事を始め、私はその場に座り込み、様子を伺う。そして腕を伸ばす。煌めくのは爪ばかり。

 腕を膝へと戻し、浮かんでくるピアノ小曲を口ずさむ。放心している様な気色に、猫のドライフードを噛む音だけが聞こえた。

 膝に額を載せる。コーキの淡い横顔が繰り返し挟み込まれる如く瞼の奥に現れて、瞬間、息の仕方が常軌を逸してしまいそうになる。指の腹を唇に当て、瞬きをする。何度も何度も何度も。食事を終えた猫がシンクに飛び、水をせがむ。

 「どうしても水道から飲みたいのね」

 蛇口を捻り、らしくない、と思いながらもシンクに項垂れていく。凛として、どういう場合も憂えてはならないと思い込む。


 眺めていた娯楽番組が終わった後、電話に出たのは母だった。父は就寝前に晩酌をするのが日課で、母は二十一時を目安に簡単な肴を作るのが日課だった。子供の頃、僕と兄は夜更かしをしては小さな宴に参加した。両親は特に怒る事をしなかった。

 僕は毎週、どうしようもない番組をみてしまう自分に嫌気を感じながら、相変わらず父の隣で発泡酒の缶を開けていた。

 音が鳴る。

 この時間の電話はさほど珍しくなく、多分、家族全員が父の姉と思っていた。伯母は深夜が近付くと広い部屋の無音に耐えかねる。母は廊下に出た。


 父が怒鳴り呼び止めたが無視をした。帰宅と同時に階段を上り、手前の自分の部屋に入り、後ろ手にドアを閉める。外の闇との同化に伴い温度は低い。スイッチを押し、明るませ、机の上のアドレス手帳を持ち上げ、ポケットから携帯電話を取り出す。兄のアドレス手帳を盗み見る如く、酷く緊張しながら一枚ずつ捲り、IとNの欄を丁寧に調べた。それから、H、の欄に書かれたハセの番号を殆ど勢いで打ち、発信し、息を潜める。八回目が鳴る。

 「はい」

 「コウキの弟ですけど」

 「はい」

 「ひとつ聞いてもいいですか?」

 「何を?」

 「貴方は一体何ですか?」

 昼間から考えていたにも関わらず、不躾な質問をしてしまった。一呼吸をした後「何って?」と言う。僕は敷いたままの布団に蹲り、毛布を膝に掛けた。暫く整理していたけれど順序も無難な言い回しも浮かばず、また勢いに任せる。

 「今朝、僕と話したのは貴方ですよね?」

 「ええ」

 「貴方は兄のことを好きはずです。そうでしょう?」

 「どうして?」

 「答えて下さい」

 質問は途方も無い長い間、互いを黙らせ、でも本当は取るに足らない短い時間だったのかもしれない。「もう今はわからない」そう返され、予想外の答えに行き詰まり煮たっていた神経が行き場を失う。

 「どうかしたの?」

 我に返り慌て、気持ちを整え、手探りで携帯電話の音量を上げていく。階下のざわめきが一気に失せた。

 「昼前に泣き腫らした目をした女性が兄に会いに来ました。イシザワニチカという人です」

 斜向かいの家の窓の灯が灯り、そしてカーテンが引かれる。ふと、様々なリアルが押し寄せて、景色が徐々に滲んでいく。理解して、でも実感せずに既に一晩が経とうとして、今更、全てタイミングを損ねてしまった。

 「今朝、貴方と話した後」

 正直、迷ってもいた。でも気分は行き場を欲していた。僕は吐き出す様に、彼女に告げる。

 「兄は死にました」

 先に沈黙を破ったのは彼女だった。

 「ね?」

 「え?」

 「形見分けはしてもらえないの?」

 遠方で犬の遠吠えが聞こえ、答えを捜さないといけないと考える程、空回り、何も浮かばず。

 「何が欲しいのですか?」

 せめて、そう訊ねる術で落ち着こうとする。慰めとしてポケットのジッポを表に出し、何度も撫ぜた。

 「コーキ」

 「え?」

 「コーキそのもの」

 「どういう冗談ですか? 例えば、これとか、兄の机にあった銀の」

 「ジッポ? それは私の物だけれど、もういい」

 僕は手を滑らせたと自身に言い訳をして、ジッポを固い床に落とす。音は彼女にも聞こえたかもしれない。投げ遣りに似て、更に問う。

 「じゃあ、他の物で欲しい物はありますか?」

 「じゃあ、貴方」

 そしてまた沈黙。僕は考え込んでしまう。けれど本心は判らない。毛布が温く緩い衝撃を受ける。彼女は弾みに過ぎない。それは間違えないと思う。ただ、もう堰をきった様に止まらない。


 雄猫が脚に擦り寄り、私は彼を抱き上げる。

 猫の耳の後ろを掻く。老け顔は固く目を閉じると余計に老ける。

 「良い子」

 触るのを止め、煙草に手を伸ばす。

 コーキの事故から十日が過ぎ、少なかった外出は今は数に入らない程度にしかない。

 世界に対しては平伏せるほど愚かであるという事実。しかし狂う基準は超えられず、けれど立ち去る意欲もない。せめて時間も空間をも狭ばめゆく事でのみ辛うじて、どちらを選ばず耐える。私は狭さを欲した。

 「シェス」

 私が今も此処にこうして居る事を許してほしい。千切れてしまわない様に見ていてほしい。

 世界がコーキならば、せめて留め具としてシェスを。

 二回目の電話を切った後は不覚にも泣いて、つられたと言い訳して必死に押し殺して、しかしあげくには息まで縺れさせた。

 もう彼へと向かう物はとうになく、彼の何かであろうともせず、彼には何一つ望まずに居たつもりが、嫌うに足るだろう理由が存在してもなお、嫌うことすら出来ず、恐怖はただただ失うことだけであったとして実際失ったところで、具合が上手く行くわけもなく。

 知れば、全ては自ら生みだし自ら終えると知る。

 ならば居ぬ人の気配に溺れない様。

 猫のシェスは黒い枕の上で丸くなり、彼も黒い体をしているから一繋ぎのよう。引き出したり、引っ込めたりしていた一本の煙草をすっかり引き出し、火を点ける。白い気体は天井へ上がり、電灯の灯りに照らされる。指先が勝手に震える。


 たかが人を無くしただけ。


苺が好き、なんて、デマコギーを流したのは誰だろう。

 「マキさん、これ、食べちゃうの?」

 真四角の箱を開け、トレイを横に引く。ドーム型のスポンジにはたっぷりと生クリームが塗られ、太った子供の天使が乗っている。二十一日と言うのにクリスマスケーキが届けられる。リホが知ったら激怒するだろうと思う。

 「昼食とおやつを兼ねて二人で食べてしまいましょう」

 「でも、マキさん」

 「どちらにしろ、あってはいけないものだから。今、同じ物を注文してきたの、二十五日に届く様に」

 マキさんはザルいっぱいの洗いたての苺をテーブルに置く。私はタートルネックのセーターに顔を埋め、真っ白いスポンジと瑞々しく赤い果実を交互に眺める。果実は細い指に摘まれ、ケーキの方に動かされていく。「やめて」と思わず叫んでしまう。

 「芽恵さん?」

 「ごめんなさい。私、嫌いなの。香りは寧ろ好きなのに、食感とかがどうも駄目で、無理しないと食べられないの」

 苺をザルに戻し、彼女は目を瞬かせる。そして何かを言おうとした時に重くインターホンが鳴る。同時に大きく動揺し、お互いを確認し、それからマキさんは点滅する外線ボタンに怖々と手を伸ばす。青ざめる私に彼女は人差し指を唇に運び、合図を送るとボタンを押した。

 「はい。あら? あ、はい。待って」

 インターホンの受話器が差し出される。手を伸ばす事を躊躇い、でも受け取る。

 「丹沢さん」

 マキさんは箱の側面に貼り付けられた袋を剥がし、中からロウソクを取り出す。

 「丹沢さん?え? どうして? 少し待って。開けるから」

 壁に戻し、跳ねた髪を手ですく。「通知表を届けに来てくれたみたい」私はスリッパを深く履き、勢いよくダイニングの扉を開いた。「あがって頂いたら?」

 庭の無味乾燥な風景の中、黒いキャップを被り、白いダウンジャケットを着た彼が茶封筒を片手に立っている。思わず呆気に取られる。

 「学校帰りじゃないの?」

 「一応」

 彼は茶封筒を渡しながら、乾いた声で笑う。冬の空気が周辺だけ解ける。

 「話があって教室に行ったの。そしたらヒツジの担任が現れて、これ渡されて、任せた、とかほざいて」

 「そうなの?ごめんなさい。ありがとう。あ、ね、ケーキ食べない?」

 彼をダイニングに案内する。座って貰うと、マキさんが台所から顔を出す。縛った髪が生き物の様に動いた。

 「久し振りね。前に進学するって言っていたけれど、もう決まった?」

 「はい。教師志望だから、そういう大学に」

 手袋を外し、キャップを脱ぎ、指定バッグを置き、ジャケットのファスナーを下げる。色素が薄い、印象なのかもしれないけれど、光に晒された彼は透けて淡い。睫に絡む。

 「八日間休んで、終業式には出たけれど、ヒツジは学校には行っていたの?」

 封筒をチェストに置いた後、湯で温めた包丁でケーキを切る。天使はトレイの隅に放棄した。ふと縞模様のロウソクに気が付く。

 「保健と美術と古典のある日だけ」

 「もう留年するなよな。来年、一緒に卒業したかったのに」

 「ね、丹沢さんの欠席は進路関係?」

 「いや。忌引き。兄貴が事故死」

 私は包丁を握ったまま、口を半端に開いて、彼を眺める。反らさずに肘をついた姿勢。

 「いつ?」

 「丁度十日前の夜」

 「ごめんなさい。知らなかった」

 「もう落ち着いた」

 湯気がたつ珈琲と牛乳を運んできたマキさんも話を聞いてしまい、表情が曇り、私と彼を上手に自分から外した。でも直ぐに「お兄さん、幾つだったの?」と戻ってくる。

 「二十七歳です。良かったらマキさんも座って。府に落ちない事があるの」

 遠慮がちに私に許可を取った後、座り、ケーキを手元に引き寄せて盛る。丹沢さんは生クリームだけをフォークで掬い、私も真似る。そして彼は、兄の葬儀に来た彼女と事故の連絡をした彼女が同一人物ではなかった、事態が呑み込めないでいる、と簡単に纏めれば、そういう話をする。

 マキさんは毒々しい苺を持ち上げたまま思案顔で訊ねる。

 「つまり、彼女が二人居るの?」

 「判らなくて。ただ葬儀に来た人は兄から名前すら聞いた事ないし、第一、兄が好むと思えない様な人だから」

 「どういう人なの?」

 「綺麗じゃない人」

 昼の光が彼に宿る瞬間に目が止まる。緩い拳を頬に当て考える。余り深入りはしないけれども。


 マキさんがケーキの隠蔽に励む間に、私は丹沢さんを駅まで送った。明日から冬休みと思うと気を使わず外出が出来る。彼はキャップを更に深く被り、ポケットに手を突っ込む。少しも学校帰りには見えない。

 「ご馳走様」

 「こちらこそ、ありがとう」

 彼を見上げた流れとして後方の時刻表を映す。「後十七分」

 「三学期になったら三年生って自由登校になって、それで卒業して。春になったら丹沢さん、居ないんだね」

 「でも大学、高校の直ぐ傍だから」

 意地悪に笑い、ポケットから手を出して私の肩を親しげに叩く。手袋越しの指先にさえ安らかになる。

 「丹沢さん、一年の時、クラスの子達に好きな人を訊かれて、ハセって言ったのを覚えてる?」

 「覚えてない。そういう事言った? ハセの事は本当に、この前、声を聞いただけで、あとは何も知らない」

 彼は浮いた手を顎にあてる。私は今更、嫉妬を覚える。

 灰青色のタブルコートのベルトを意味なく弄る。蛇がきつく絡まる様、その頭を揺らす様。彼は指定バックから定期券を取り出し「ね」と言う。

 「丹沢さんって、やっぱり違和感を感じる。確かに学年的に先輩後輩だけれど、もう学校関係なくなるし、ケヤで良いのに」

 スカートとハイソックスの間の露にされた皮膚が冷気に触れる。思わず、くしゃみをする。「そんな事を言われたら、もう話しかけられても返事が出来なくなる」

 「ヒツジの父親って、今もこの先の病院に入院しているの?」

 「そこは退院したけど、また悪くなって今は総合病院にいるの」

 「もしかして最近、病院前の喫茶店に行った?」

 唐突に丹沢さんに訊ねられ、頷くと、彼は僅かに反応を示す。

 「兄貴もよく行っていたらしくて、兄貴、病院の給食室で働いているから」

 警報機から音がする。

 「ハセ、に会うかもしれない」

 そして電車がホームを出ていき、踏切り前に移動した私は彼を見つける。不自由に手を振る。短く彼も振り、残像が溶ける。





  ヨーグルトとブルーベリーを掬う。音は続く。容器内にスプーンをたてかけると猫が戯れる。倒れ、ヨーグルトが零れた。


 「はい」


 受話器のコードを引っ張り、ティシューペーパーを二枚引き出し、床を拭う。立ち上がり、スプーンと残り僅かになったヨーグルトを流し台に放る。動揺に鮮やかな落下音。


 「弟さん?」


 「はい。少し話がしたいのです」


 彼の背景には電車、外に居る。私はしゃがんで冷蔵庫の戸を開けてから、受話器を肩と頬の間に挟む。開けたまま、橙色の灯の隅、つややかに光る曲線を凝視する。「今、外に居るの?」


 「はい」


 「うちに来ない? 教育大学の場所は判る?」


 猫の腹を軽く手背で突いた後、ビールのプルタブを押した。立ち上がり、足で戸を閉める。耳障りにクラクションが鳴り、彼の背後には電車が居ない。「それで良かったら、買い物をして来てくれない?」


 もう軽いビールの缶を振りながら聞こえない様に溜め息を吐いた。コーキの横顔が浮かび、未確認の神様に縋りたくなる。


高校前を過ぎ、広い公園内を進む。このまま進めば兄が三年半だけ通った大学に辿り着く。ふと、そういう風に思ってしまった事を不快に思う。途中折れ、彼女の住むマンションの前に立つ。


 エントランスを抜け、建物の六階に降り、重厚なドアを通路へと押す手を見つける。


 「貴方、弟さん?」


 腰までの髪が揺れたのに気付いて、急に恥ずかしくなる。姿を凝視せずに流し、代わりに背景の色に目を向ける。コンクリートの通路に立ち竦んだまま、彼女の足下に現れた黒い猫に視線を変える。


 「どうぞ」


 彼女は更にドアを外側へと押し開いて、僕はドアを渡される。


 「買い物してきたけれど、柚子のジャムがみつからなくて」


 「ごめんね。それ、何処にでもないの」


 整えられたサンダルの側にスニーカーを脱ぎ捨て、床を踏む。彼女は片手で猫を抱え、廊下を進む。室内から漏れる暖かさは熱い程で、不安が増し、止めてしまいたくなり、まだ間に合うと思い、けれど留まる。


 通された奥の部屋は作り付けの家具とラウンドテーブルしかなく、彼女は猫を放る様に降ろす。そしてレジ袋を受け取り、一つをテーブルの上に、一つを下に置いて、一万円札を差し出す。「小銭あまり持ってないか


ら」言うけれど、押しつけられ、仕方なく紙幣をダウンジャケットのポケットに突っ込み、勧められたスチールの椅子に腰掛けた。彼女は立ったまま、横髪を耳に掛け、手に取った煙草に火を点け、煙を吐いた。


 「外は寒かった?」


 「そこまでは」


 僕は落ち着かずにいると悟られない様に振る舞う。彼女を見ると、剥き出しの肩から指先までは緩やかな長い曲線に縁取られ、手入れされた爪がなだらかに鈍く光り、綺麗。綺麗、そう思えてからは、少しずつ気が楽


になり、この人は綺麗な人と認識して、やっとみとれる。レジ袋から取りだし、手渡された缶ビールを開け、一口含む。


 「ね、どうして私に電話をしたの?」


 煙草の先端から流れる煙が、彼女の吐く幅広い煙に呑まれる。そして僕は訊ね返す。


 「いつ?」


 「全部。でも特に今し方の、話がある、と言う」


 「話があるなんて言ってない」


 「言ったじゃない」


 「話がしたいとしか言ってない」


 彼女は一瞥する。遠くに煙を吐く様子を眺め、ひとまず感情の起伏を戻し、缶を傾け、煙草を貰った。メンソール以外を吸うのは初めてだったけれど、それは重さが確かに存在するだけのもの。彼女はテーブルの上の


筒状の灰皿の蓋を開け、灰を落とす。気が付くと人見知りをしない猫は部屋の隅で丸くなり眠っている。


 「私の名前は知っている?」


 「ハセ、さん」


 僕が言うと彼女は無表情のまま「だったら呼び捨てにして」と言う。


 「ハセ?」


 名前を呼ぶと急激にここに居る違和感が失せてしまいそうになる。


 常春と仄明るい光、密閉されてしまった空間でハセのしなやかな指が頬を滑る。波打つ布の外側が空虚に思え、蔑ろにしても構わないと思わせる。


 「もうないの?」


 黒猫の食器にドライフードを流し入れ、振り向くと床に置いた空缶をハセが振っている。奥にある黒いシーツカバーを掛けたベッドと真っ赤なソファが目に入る。逆に使われている寝室とLDK。彼女は缶を折り、赤


いゴミ箱に上手に放った後、小さく畳んで結んだ二つのレジ袋もまた上手に捨てた。それからベッドの前に座り、僕を呼ぶ。


 「来て」


 窓際のそこは例外の如く僅かに冷たい。フローリングに座り込むハセの細く黒い髪の束が散らばり、動作に伴い、這い動く。


 「どうしたの?」


 床に腰を下ろし、少し火照った顔を覗くと、ハセが突然、僕に抱きついてくる。後ろにあるソファに倒れ込みそうになり、持ちこたえる。展開に飛びそうになり、麻痺してしまいそうだったが、しかし意外と気丈なの


か酔いなのか、ハセの頭に手を回し、窪に触れ、左手を腰に回した。ふと身を離され、右の平で頬を撫で、唇を寄せる。指は静かに首筋から肩をなぞり、ワンピースの背から入り込む。「冷たい」囁く声が聞こえる。耳に触れていた唇を滑らせる。ハセの体重が右腕にかかり、左手をついて、二人分の体重を支えた。その手にハセの片手が触れ、もう片方の手が急に僕を押す。

 「待って」

 「え」

 整わない息のまま訊ねると、彼女は全力で遠のこうとする。


 「やめよう」


 ハセは乱れを直し、立ち上がるとベッドに突っ伏す。「ソファ、広げれば、ベッドになるし、寝具は隣の部屋のクローゼットにあるから」


 僕は呆然として、座り込んだまま、彼女肢体を眺める。髪に埋もれた首をほんの少し持ち上げ「帰っても良い」と付け加える。


 違和感が最大。ソファに慣れない気配。暖房はついたままだから暖かく、床はずれ落ちた毛布に色を奪われている。私は朦朧として、眠っていた事と目を覚ました理由を考えた。


 「シェス?」


 雄猫が居ない、鳴き声が何処かでしている。キッチン脇の扉を開けると雄猫が飛び込んで、私の脚にぶつかった。


 「良い子。追い出されたの?」


 猫を抱え、布団に入れる。それから彼に被さる体勢で、彼の枕元にあるティシュー箱を取りかけて止め、そのまま静止する。髪が舞う。コーキには悲しい程、横顔の線が似る。


 「寝たふりでしょう?」


 返事はない。でも私は確かに彼に起こされた。彼のずれ落ちかけても羽織る毛布に腕を捩じこませると固い襟に触れる。幾つか外されていた釦の更に下を手探りで外していくと急に手を掴まれる。

 「何?」


 こちらへと顔の向きを変える彼にかかる物を毛布から出した手で丁寧に払う。やめてしまえば現実に充たされて、息苦しい。これが呼吸に代わると言うのなら生じる思考は捨てる。


 「名前、教えて」


 「圭哉、ケヤ」


 「ケヤ」


 噴き出し口から機械音が響く。明け方までも適温。現実と嘘の世界が気安く交差してしまう恐怖と幸福に泣いてしまいそうになる。


 そしてケヤに崩れる。





 姿勢を低くして、テレビの移り行きに関心を示す素振りをする。戻ってきたリホが直ぐ横に腰掛け、蓋を開けたまま、置きっぱなしにしていたペットボトルを雑に傾ける。


 「最悪」


 私は黙り込んで俯く。


 「真面目に家事している振りして、見えない所は手抜きして」


 「どうかしたの?」


 搾り出すような薄い声にリホはこちらを見ずに飲料水を飲み干した。肌荒れと隈に容赦のない白いファンデーションが今日もまた浮いている。


 「マキさんに懐くのは止めなさい」


 リホは振り向いて殺意を含ませた様に睨む。私は慌てて再び下を見つめ、口を閉ざす。


 「もう行かないのなら辞めたら? これ以上は留年出来ないのじゃないの?」


 「でも高校は出てほしいみたいだから」


 「大体、体育が嫌いなんて甘えて休むから、だんだん行きにくくなるでしょう?」 


 頷こうとした直後に、昔の出来事を、取り立てて特別ではなくても悲しい出来事を思い出し、眩暈を覚え、死にかける。ならば構わないのに眩暈では死ねない。


 「黙っていないで何か言ったら?」


 「頑張る」


 ぽつりと言い、また一人静かにしている。電話が鳴り、ディスプレイに高校と表示され、びっくりして立ち上がる。「私が出る」「どうぞ」


 「はい。半谷です。はい、そうです」


 長く話して切った後、ダイニングを出る。そして洗面所に入り、ぼんやりと立っているマキさんに「大丈夫?」と尋ねると直ぐに笑みを見せ「ええ」と言う。私は黄緑色の洗濯機に身を寄せ、息を整えた。


 「こういう時にごめんなさい。丹沢さんが一昨日から帰っていないらしくて」


 「本当? 丹沢さん、携帯電話は?」


 「繋がらないみたい」


 「芽恵さんは心当たりないの?」


 握っていたタオルを洗面台に掛け、マキさんは私を眺める。私はその場の重力に引き摺られる様にしゃがみ、彼女を心配させる。深く深く目を伏せる。


 人知れず彼を思う。いつも変化を祈る。けれど妥協しないと居場所を失う、しかし適応は上手くいかない。私は多分彼の向かい着いた場所を知っている。


 

 状態は常に春の温度、締め切った空間は朝も夜も無くしたまま常に微睡む。


 けれど、このまま気がふれることも出来ないと理解している。


 貫ける程の強さはない。


 私は積もる衣服を洗濯機に入れ、散らばったゴミを纏める。三日もの時間を、するすると流してしまった後悔と情けなさが涙腺に触れる。ケヤは未だに眠りにおり、殺してしまいたいくらい安らかで、願わくば。


 この部屋と彼と猫と私以外の全てを失えたのなら、多分幸福。


 



 カーテンが小さく束ねられている。変わり果てた部屋を突っ伏して見渡す。


 「何処?」


 ハセが何処にも居ず、体を起こし、シャツを羽織る。引き戸を開け、中を覗くが居ない。寝覚めの悪さと経験のない状態が不安にさせる。うろついていたシェスを抱きあげ、直ぐに放し、暫く立ち竦み、やがて壁向こうの規則的な音を拾う。脱衣所に入ると硝子越しの浴室が湯気で充たされ、ぼんやりとした人影が動く。


 「ハセ」


 人影は一瞬静止し、水音を小さく絞る。戸が僅かに開き、熱い湯気が零れ、目が霞む。裸体のハセは微かに降り注ぐ湯を浴びながら、隠さずに内側のノブを握っている。その右手から水滴が滴る。


 「居なくなったと思った」


 「朝から掃除していたのだけれど、あれだけ煩くしても起きなくて、呆れたわ」


 言うと閉じようとする。「ちょっと待って」


 「何? 湯が飛ぶでしょう?」


 僕はノブから彼女の手を剥がし、戸を更に開き、表情を見下ろす。ハセは重く伸びる髪を掴まれた手と反対の手で後方に寄せ、溜め息を吐く。


 「部屋に戻って。シャツが濡れるでしょう?」 彼女は急に強引にドアノブに再度、手を掛け、僕を押し出す。意固地になり、それを阻止する。


 「止めて。意味ないでしょう」


 「不安だから」


 「私のせいにしないで」


 「何?」


 「貴方が不安になるのは私のせいじゃない」


 ふとハセは力を抜き、つられて力を抜くと、突かれ、戸は閉ざされた。カッターシャツに幾つもの染みが出来、髪や肌を弾いた水がまた新しい染みを作る。


 「ケヤ」ハセがゆっくりとタイルに座り、硝子戸に凭れ、不鮮明な背の色が見える。くぐもった声と濡れた背の位置に腰をおとし、耳元に口を寄せる。


 「何? 聞こえな」


 「もう帰って」


 言い終わる前に耳に触れる。僕は隔壁に手を当て、胸部を裂く様な痛みに気付く。


 「どうして」


 「貴方には悪いことをした」


 「意味が判らないって。兎に角、開けて」


 「ごめんなさい。私、どうかしてたの」


 抱き寄せようとする欲求を割れ物の盾が防ぐ。術がなくなる。


 



 「はい。大丈夫です」


 マキさんが財布を持ったまま、背後から徐々に近付く声に少し身を固くしている。


 「帰りは遅くなりそう?」


 「多分」


 リホは話しながら玄関に飛び込み、ブーツを乱暴に履く。バター色の巻き髪が肩で揺れ、濃いピンクのコートの裾がタイルに当たる。


 「里保さんも帰りは遅いの?」


 問いを歯牙にもかけず、見えない相手と話しながら家を出ていく。私はマキさんから財布を受け取り、ショルダーバッグに入れる。そしてリホが蹴散らした靴を元通りに並べた。 「芽恵さんと里保さんは二卵性ですよね? 全然似ていなくて」


 「二卵性と思われたのは昔。私とリホが双子なんて、今はもう誰も知らないよ」


 私も家を出る。庭の木々が今にも折れそうに風に吹かれ、でも空を仰ぐと濃い青がたくましく拡がる。錆びた門に手を掛け、坂を下る。隣家の犬が鎖を千切る勢いで体を浮かせ、激しく吠えた。


 丹沢さんから電話があったのは三十分前。非通知の無言電話に応対していたマキさんは、電話を代わる様、合図を送り、慎重に話しかけると「ヒツジ?」と訊ねられた。私は丹沢さんと会うことにした。


 「ヒツジ」


 彼は別れた時のまま、豪快な校則違反姿で両ポケットに手を入れ、待ち合わせ場所に居た。知り合いには会いたくないと言う彼の言葉で町外れにある今時期、殺風景な植物園を選んだのは私だった。次第に寒さが増した為、園内の喫茶店に入り、窓際の席で注文する。年末に向かう平日の店は空いていて、従業員の私語がはっきりと聞こえる。


 「朝食食べた?」


 「うん。丹沢さんは?」


 「バスの中でコロッケパン食べた。あ、細い三つ編み、そういうの似合うね」


 私は三つ編みに触った。「そうかな」「本当」


 「家には連絡していないの?」


 「うん。親からメール入っていたけれど、即効、未読で削除して」


 「そうなんだ」


 「捜索願い出されたとしても、実際、捜索なんてされないし」


 彼が頼んだ物が運ばれてくる。白い器の中で液体が波打つ。彼が俯くと長い横髪が糸の様に流れる。触れたら雪の様に綻んでしまいそう。


 「五年前に兄貴が家出した時はそうだったし」


 「そうなの?」


 「急に、その頃付き合っていた彼女と結婚するとか言い出して」


 「うん」


 「勝手に大学辞めて、家出して、行方不明になって」


 今度は泡が揺らぐカフェラテを受け取り、傾け、息を吐く。音楽が何処にもなく、外の噴水の寒々しい音が直に響いてくる。防寒着を脱ぎ掛けてはやめる。「どうなったの?」


 「それで二カ月後に何事もなかった様に帰って来て。別れたみたいだけれど、親も親戚も誰も怒ったり問い詰めたりしないまま、結局、有耶無耶」


 「あ、じゃあ、もしかして、それがハセさん?」


 「違う。ハセはそういう馬鹿な事はしない」


 彼は少し機嫌を損ねた様に面倒そうに言い、私は慌てて口を噤む。調子に乗り過ぎた事を反省し、彼の様子を伺いつつ「彼女ってどんな人?」と訊ねてみる。


 「可愛い人」


 私は泣いてしまいそうになる。


 カップをぎこちなくソーサーに置くと、丹沢さんが煙草に火を点ける瞬間が視界に入った。唖然として、人差し指と中指に挟まれた見慣れない物を見つめる。丹沢さんは私の様子に気付き「これ?」と言った。


 「ずっと吸っていたの。兄貴が机に入れている奴を内緒で」


 「じゃあ、これは、お兄さんのなの?」


 彼の左手の辺りにある煙草の柔らかい箱を指さす。殆ど空に近く、中央部は凹んでいる。彼は横を向いて、一気に吐く。


 「ハセの。兄貴はメンソール」


 「あ、これも彼女の?」


 今度は傷ついたジッポに指先を向けると、丹沢さんは横に首を振る。


 「兄貴の。でも元々はハセの物らしいけど」


 「そう」


 「見る度にオレのせいで兄貴が死んだのかもしれないとか思うの」


 入り口から三人の若い女性が外気と共に入ってくる。丹沢さんは再び、煙を吸い、吐き出す。私は意味もなくテーブルの縁をなぞる。今頃、間の抜けすぎた軽快な音楽が響き出す。


 「彼女と暮らしていくの?」


 少しひきつってしまうのが判った。気まずくなって、カフェラテを口に含む。彼は火を消す。「人が多くなったね」前言を拭う如く、口走る。


 「付いて来て」

 植物園を出た後、丹沢さんは近くに古着屋を見つけ、服を買った。


 「足りる?」


 「無理。でも制服を着ているよりは良いでしょう」


 「お金は?」


 「貯めていた奴、全部おろしてきたから」


 少し後ろを歩きながら真っ白い背中を追う。吸い込まれたと言い訳して、抱きついてしまいたくなり、視線を外す。昔、「半谷は妹の様な」と言われ、心の中で「一つ年上なのだけれど」と苦笑した。果たして今は余裕があるのだろうか。三つ編みが靡く。


 「ヒツジとこんなに仲良くなるなんて思わなかった」


 彼は再生紙で出来た紙袋を持ち替えながら、バス停に張られた時刻表を見ている。


 「一年生だった時は一言も話さなかったよね」


 「そうそう。それなのに、いきなり家に行かされて」


 「私が学校に行かなかったからでしょう? でも、あの時は驚いた。委員にされたのは知っていたけれど、まさか副委員長にされていたなんて」


 「欠席するからだよ。オレは自分で委員長になったけれど」


 軽く笑い、先にある歩道橋を眺める。まだ光のない電球が幾重にも巻き付けられ、今日がクリスマスイブと思い出させる。


 「半谷さん、オレの事、知ってる? オレ、丹沢って、前、同じクラスで」


 丹沢さんは手振りを付け、去年の春を再現する。一年半以上もの時間が過ぎている。


 「同級生が上級生なるの、不思議な感覚」


 「同級生が下級生になるのも」


 二人で短く笑い、並んでバスを待つ。冷えた風が膝を冷やす。冷たさは耳にも障る。


 「兄貴が、メエなら山羊だろうって言ってた」


 「何で私を知っているの?」


 「ヒツジの家まで送り迎えしてもらった時に見てるし、その後も何度か見たって。それより、携帯電話は持つつもりないの? 連絡取りたい時に取れないの困るから」


 「そうだね。親に頼んでみる」


 「マキさんには頼めないの?」


 「マキさんは無職だし」


 彼は黒いキャップの鍔を弄り、白い息を吐く。「そうだ、これ」ダウンジャケットのポケットから取り出された銀のジッポが私の掌に落とされる。


 「どこかに捨ててくれない?」


 驚いて「え、どうして?」と訊ねたけれど無視され、無言でバッグの内ポケットに仕舞い込み、ついでに取り出した手袋をはめる。


 「実は今日、ハセが浴室に引き籠もって」


 トラックの往来で声が瞬間薄くなり、粗い風圧に押される。目をつむり、開けると彼が残った風に吹かれている。「どうしようもなくなって」


 「家を出てきたけれど、でも行く所もないし、オレの周り、口が軽い奴ばっかりだし、今更、ミナカなんか呼びたくないし」


 「ミナカ? 香山美菜花さん?」


 「そう。一年の時から付き合ったり別れたりして、今年の春にきちんと別れて、今はたまにメールするくらい」


 ふとぽつりと胸部に違和。それは深く染み入りながら広がっていき、止まらない。歩道橋の下の歩行者用信号機が青になり、こちらへ向かうバスが一時停車する。浮ついて、体を動かすに足る重さを失い、私は再びバスが動き出す頃は焦り、逆に身を引き、丹沢さんは影で気が付く。


 「私、寄る所が」


 突発的に口走ってしまった。短く慌てた挨拶の後、彼だけが紙袋を揺らし乗車し、バスは発進していく。直後、砂埃と排気されたガスに咳き込む。


 誰も居なくなって始めて、現実が微かにブレている様な痛みに触れた。傷付いた、と理解した。


 

 



 それから陽は落ちきってしまう。


 濃さと冷たさと日常と一部の非日常の喧噪の中、凍る耳を手で被い、身を縮め帰路を急ぐ。自転車を漕ぐ人のマフラーの色が擦れ違いざま、目に残る。何気のない一歩二歩から、数十分が経過し、バス路線から外れる。歩道には少し足りない狭い白線の外側を滞り始める自動車を追い抜いて、後二時間はかかるかもしれないという予想にふらつく。

 外界が接しない。


 散乱する全ての音が馴染まずに障る。気がつくと私は不自由で、悲しくなるばかりで、両の腕が縋りたい衝動に熱を帯びる。次第にそれを持て余し、腕をもぐイメージに捕われる。触れたいと余計な望みが失せるのなら、あっさり千切り、叶わぬ理由を自ら作り、自らを守る。私は服の下の肩の骨に手袋に包まれた手を当て、力を込める。その手を持ち上げ、閉じた目蓋を押し、足を揃え、闇になりきれぬ空を向く。


 泣く間にも泣き止むことにも誰の関わりも得られないと理解して、撫ぜて欲しいと憧れて望むことにも疲れてきている。ここから、この気持ちから、この不安定から、この閉塞感から解放されて、息を引き取る。


 せめて背だけでも宛てがってくれさえすれば救われると思えても、不可能で、暗に拒まれて、私からは働きかけられずに、だから私は開いていなければ価値を無くす。


 ゆっくりと視界を受入れながら、暗さに不鮮明になる様々な色と嫌な心情に発作を起こさない様に歩き出す。


 そしてマキさんに電話をしようと思う。マキさんにどうしたらいいのかを訊ねようと考えながら、数百メートル先のコンビニエンスストアの看板をみつめる。


 店の前の公衆電話の受話器を握る頃には雪にもならない物が辺りに舞う。十円玉を投入し番号を押し、マキさんを待ちつつ、温い明かりが閉じ込められた店内を眺める。立ち読みをする会社員風の男性、同い歳くらいの数人の男女のグループ、眼鏡をかけた痩せた男性店員と淡々と接客をする若い女性店員、買い物を済ませ、レジに籠を置くカップル、そして私は受話器をおろす。釣銭口から音が聞こえた。


 口は勝手に開いてしまう。数度の瞬きの後、電話器を囲むガラスの外側を支えにし、レジ前で親しく話すカップルの男性に目を奪われる。


 背の高い女性に隠され詳しく見られず、合間に籠から出される缶ビールやポテトチップスやサンドイッチをふと見たりしながら、彼を確認しようと懸命になる。ニットの帽子を深く被り、彼女より少し背の高い彼は財布から壱万円札と小銭を出し、会計を済ませ、レジ袋を受け取る。それから二人は話しながら彼女は入り口のドアを開け、彼が私の方に顔を向ける。お互い、一瞬、目を合わせ、私は心音を跳ねらせる。


 「紘輝?」


 「あ、いや、弟の友達」


 彼女は立ち止まって私をよく見た後、軽く頭を下げる。また彼も短く会釈し、私は反射的に返してしまう。そして彼が私に何かを言おうとした事に慌て、あからさまに無視をすると、そのまま何事もなかった様に二人は駐車場の方に歩き出す。 鍵は開いたまま、静かに靴を脱いで、息を潜め、暖かい廊下


を歩く。LDKから室温と光が漏れている。

 更に静かに引き戸を引くと、気付かれてハセは顔を上げる


。長く湿った髪が縺れ、ベッドに片腕を放り投げ、もう一方


は胸元に詰め、つい先までシーツに顔を伏せていたという格


好。後ろ手にゆっくりと戸を閉め、壁際の床に紙袋を置く。

 「ケヤ」

 「ごめんなさい。やっぱり帰って来ました」

 ハセは何も言わない。でも衝動的に抱き締めたくなる。

 ノースリーブのワンピースから伸びる薄い腕、剥がれる水


紅の爪の色と、乾燥した唇の。

 傍に駆け寄り、倒れ込む様に、我武者羅に触れてしまいた


い。

 やっと至近距離まで近付く。

 ハセは未だ何も言わないまま、けれど僕の膨れた胸元に額


を強く押しつける。無数の羽根による厚みは崩れゆく。彼女


の腕は無言のまま、伸び、ジャケットの至る所を這い潰す。


一度、離し、今度は僕が彼女を恐る恐る覆う。

 まだ水分が抜けず指を上手く通せない髪を強引に掬いてし


まいながら、開いた背を直に擦る。「風邪引くって」

 言うと、僕に埋もれた状態で首を振る。布は擦れ、軽微に


音が鳴り、雑に呼吸を繰り返す。

 そして僕の手はハセの細い肩紐を内から外に掬う。顔を上


げる彼女を押さえ込む様に口付けし、ベッドへと力付くで押


し上げる。


 感情に身が持たない。


 出してしまいたくとも一滴も零さずに、体内の至る所を激


しく傷つけても仕舞い続けていた物が、今ここでケヤへと向


かう。

 弱ってしまい、求めてしまう。その度、一瞬、凛とし、幾


度も奥へと押し込むけれども隙間から無惨に滴り、もう甘い


 「必要以上に親しくなる事も必要以上に関わる事もなくて


 薄暗がりに沈む部屋に上げた視線は、冷蔵庫傍らの眠る雄


猫に向けられる。意識は心の内の切ない位置に入ってしまい


、安静の為、瞼を落とす。

 ふと仰向けになる彼の肩に添えていた指が胸元まで流され


る。柔らかく打つ心音の袂で止まる。

 ケヤは脱ぎ捨てた衣服を手で探り、埋もれている煙草の箱


とライターを拾う。そして私はふいに潤む声で「シェスは特


別な猫なの」と言ってしまう。

 「彼女の」

 うつ伏せになる彼の動作に伴い、私もまた体を起こす。シ


ーツに真っ直ぐに髪は散り、倒す頬は傷む。抵抗を失う現在


、守備に走るものは意識だけ。嫌悪は警告を意味すると同時


の問い掛けという悲痛。

 「あのニチカっていう婚約者の?」

 微かに違う言葉の高低が動揺かは判らない。火の発する音


と、火が移る煙草の先の燃える音のみが傍らに生じる。更に


ケヤに畳み掛ける。

 「大学時代の」

 この部屋は乾燥して粗い。咽は潤いを捜す。煙を吸い、天


井に向け、濁る煙を吐いていたけれど彼は「待って」と突然


口にした。煙草を片手指に挟み、緩く曲げたまま、もう一方


の手の先と合わせ、両人差し指の爪を眉間に当てる。少し俯


き、目を閉じる。

 「あのジッポは? ハセを大切な人って言っていたのは?


 「ジッポは私が返して貰おうとしないだけ」

 「どうして」

 「理由と口実」

 強い口調で即答しても、顔をあげる彼の明言し難い、例え


ても深遠としか表わせない眼差しの光に耐えられず、私は出


来もしない発狂に至ると錯覚をする。ただ状況を破壊する錯


乱の手前に達しかける、その刹那。

 唇に触れたものは彼の指と、追って、煙草のフィルター。


私は言葉を無くす。

 「いつか」

 横に伏したままの私は僅かに首を傾げ、礼儀に従う様にフ


ィルターに口付ける。そして唇を離し、彼の手にかからない


場所を探し、煙を吐く。

 「強くなりたい」

 彼はそう言い、衣服の先に置かれた筒状の灰皿を持ち上げ


る。煙草を縁に当てると円錐形のままの灰はアルミの底に落


下していく。彼のはらはらと舞う横髪を耳に掛ける。火は灰


皿の側面に押され消えて、私が再び目を瞑るとフローリング


と金属の接する音が聞こえた。

 そして私の指のひとつひとつは丁寧にシーツから剥がされ


、彼の指と絡まっていく。肩に顔は埋められ、空いた手に散


らばる黒髪を乱され、その息は胸を湿らせる。

 揺れる。しかし指先は惑いもせず、愚暗と過りながらも決


して止まらず、彼の手背に下り、定まる如く、しっとりと吸


いていく。

 破綻していく。

 存在はケヤに位置付けられる。

 精巧に形を成したところで所詮は精神。

 触れる体温に勝るはずはなく淡雪の様に失せゆくものと、


こういうことすら知りもせず生まれ育ちゆきたい、今更。

 溺れる。


 病室の戸を開ける。しかし父は居ない。一番、手前のベッ


ドで片耳にイヤフォンを差し、雑誌を読んでいた四宮さんと


目が合う。

 「父はまた外ですか?」

 リホは部屋に入り、ベッドの足側の柵に触れるか触れない


かの位置で立ち止まる。四宮さんはイヤフォンを外し「ええ


、喫煙所です」と答えを返す。

 橙色のハーフコートから少しだけはみだす赤いスカートを


一瞥する。そしてカーテンに囲われた奥のベッドスペースに


視線を移す。

 「ヒツジ、入るか入らないか、はっきりしないと寒いでし


ょう」

 言われ、慌て、戸を閉める。リホの後方に立つともう既に


場は甘い香りに塗れている。 ふわふわと浮く彼女の髪は乾


いて崩れた肌に張りつく桃色を掠め、真紅の唇に当たる。リ


ホの顔はもう私の顔を離れ、似ていた時期までを否定してい


る。それ以上に彼女は彼女であることすら、リホであること


すら、もう既に放棄している。

 「新しい人が入院されたのですね」

 リホの問いに四宮さんは片足を投げ出しながら「昼に入院


されました。明日、手術の様です。でも若い方だから直ぐに


退院出来るでしょう」と早口で言い「私と半谷さんが一番の


古株です」と続け「私が三度目、半谷さんが四度目ですか」


とまだ話を終らせずに、こちらから切り上げようとするリホ


の「すみませんが」の言葉を慣れた風に躱す。

 そして四宮さんは言ってしまう。

 「牧さんとお嬢さんは元気にされていますか? いや牧さ


んは見舞いにも来られていない様ですし、半谷さんは恥ずか


しがって話してくれないでしょう」

 私が固有名詞に鋭く反応すると同時に、リホは向きを変え


、戸を乱暴に開き、私に何かしら声になりそうな感触が生ま


れた時はもう視線の先に突き当たるものは壁であり、空虚さ


に立ち眩む。

 呆然とする四宮さんはそれでも「余計を言いましたか?」


と尋ね、私は死ぬ思いで「気にしないで下さい」と言い、頭


を下げる。「喫煙室に」

 病室を出て、戸を閉める。廊下の遠く先にリホを見て、早


すぎる歩みに小走りでやっと追いついて、もう泣いてしまい


たくなる。白い壁に断続的に続く木の手摺に手を伸ばし、歩


みを止め、崩れ落ちてしまいたい。

 私は丁寧に参る。

 変化されて、狼狽える。盲目的に前に出る。一瞬、間違え


て失えば悲しい。だから数秒前を手繰り寄せ、現在と繋がな


ければ生きていけなくなる恐怖で、とても急く。

 角の看護婦詰所を無言で曲がり、階段を二段下り、エレベ


ーターホールに二人並び立ち止まる。下ボタンを苛々した態


度で押し続けるリホに恐怖が湧き、耐え難い不安に襲われる


。落ち着きになればと何度もマフラーを巻き直すうちに扉は


開き、乗り込んだ後は気が遠くなっていく。

 「ヒツジ、私、今日付で会社を辞めてきて、明日から」リ


ホの声が聞き取れなくなる。離れ難い理由は行く場所がない


等あげてしまえば、それは単なる言い訳。

 一階の閉ざされた外来入り口の向こう、いずれ深夜に変わ


りゆく車道と反対通りにある薬局と手芸用品店のシャッター


、行き交う自動車が途切れた時、強い衝動に駆られるけれど


も、どういう状況に置かれても、どういう心情に冒されてい


ても、癖の様に立ち止まり振り返るリホは居る。

 「ヒツジ?」

 遂、目に溜めていた物を落としてしまう。

 均等に分けられず、四分の一程しか与えられなかった私の


速度ではあまりにも遠く離れ進んで行ってしまう者に追いつ


けない。リホから逸れてしまう空想は私をいつも苦しめて、


けれどリホからは逸れてはならないという意志が私を徐々に


傷ませる。



 

 シンクに腰を当て、煙草に火を点けた。

 シェスの水を舐める音が聞こえ、止むと同時に、床に飛び


降りる姿が映る。髭には水滴がついたまま、可笑しくて、注


意をしても、そのまま澄ましたまま。僕は煙草の先端から流


れる曲線状の煙に口に含んだ煙を吐きかける。汚れた煙は細


く白い煙を突き抜ける。体を捩り、水道の蛇口を締めた後、


、体を戻すとスリップ姿のハセを遠めに見る。

 生乾きの髪を適当に銀の留め具で挟み、フローリングに横


座りをしている。左手の小さな瓶の中身を細いマドラースプ


ーンで掬っては舐め、手前に広げた冊子に目を通す。

 「何?」尋ねるとラベルをこちらに向け「液体プルーン」


と答える。曇る視界越しにハセの姿。

 「冊子の方」

 「社員のしおり。退職の頁」

 「ハセが仕事していたなんて意外」

 「夏に体調を崩して、秋に診断書と休職願を出していたの


 シンクに灰を落とし、調理台に置いていた空のペットボト


ルを持ち上げる。煙草を銜えてからボトルキャップを取り、


ゴミ箱に放ると、失敗して、手前に転がり、戸の前でうろつ


いていたシェスが飛びかかる。しかしシェスはキャップを弾


いてしまい、弾かれたキャップはベッドの下に入ってしまう


 「後ろ」

 冷蔵庫の下を必死に探っているシェスは僕の声に気付き、


指の指す方に向きを変えるものの理解出来ずに立ちつくす。

 「此処」とハセは瓶の内にスプーンを立て、手招きとジェ


スチャーでキャップのある場所を伝えるけれども伝わらない


。冊子の横の固い金属の蓋を眺め、怪訝そうに睨んでいる。

 「これはプルーンの蓋」

 僕は煙草の火をシンク内の水溜まりに浸して消して、吸殻


とペットボトルをステンレス製の三角コーナーに捨てた。

 そして黒く細い胴を両脇から掴み、持ち上げる。手足を温


和しく下げたまま、シェスは僕に運ばれ、ベッドの前に下ろ


され、やがて頭を突っ込み、体を平たくし、這って中へと進


み、尾の先まで入り込む。

 「朝起きて、またハセが居なくて、隣の部屋のテーブルに


縦に折られた紙があって」

 「辞表を書いたけれど、正規の書類があった気がして」

 言葉の途中、僕はハセの直ぐ後ろに座り、ハセの胸元に手


を回す。そして徐々に背に体重を載せていくと、のめりかけ


、彼女は咄嗟に片手を付く。傾いた瓶の縁に当たるスプーン


は、外へと飛び出し、宙にプルーンを散らし、床に落ちる。


湿った髪が頬に、冷えた肩が喉に当たる。

 「遺書と間違えて、かなり焦った」小声で囁くとハセは少


し笑いながら、プルーンの瓶を床に置く。「勝手に殺さない


で」

 結んだ両手の上に静かに手は添えられて、彼女の指は甲を


滑る。擦れ下がる留め具から次々と零れていく髪が、次第に


前に流れていき、表情を覆い隠す。手の甲に爪が当たる。 


 「本当にこのままなら死ぬ以外に無くなるから」

 僕はハセの肩に瞼を埋める。

 何も知らない。ただ唯一、心地の良い、まるで外壁に守ら


れた温室。両の手が胸に食い込み、心音を取り込み、一つに


繋がろうとして、一枚の下着さえも邪魔に思う。貪欲を身を


持って知る。

 最中、壁際で発生した電子音で我に返る。

 力が緩む。姿勢を戻し、くぐもった着信音の在処を探して


辺りを見回していたハセはやがて一点を見つめ、僕の方を向


く。驚いて、動じて痛む心臓からは、みともない音が漏れて


しまう様に感じる。寄り添えず、姿勢を正し、しかしまたハ


セに力を込める。音は止み「出なくても良かったの?」と訊


ねられ、余計に乱心して、正直、状況がもどかしい。

 そしてまたダウンジャケットの中でクリスマス曲は流れ始


める。


 新しいツリーは必要という思いが彼女の優しさである以上


、一緒に居ては空回る。

 「年内に退院出来ることになったの?」

 幸せは隠せない。マキさんはチェスト上の箱からガラス製


のクリスマスツリー用オーナメントを取り出しては、人工の


枝先に丁寧に結ぶ。繰り返す。葉は暫く余計に重さを与えら


れ、強引に撓垂れさせられ、開放と同時に跳ね、飾りを振る


。青く透き通ったブーツは余韻に揺れ、やがて穏和しく金の


紐の下で光を受ける。喜びは彼女だけ、話を始める隙の無さ


は仕様もなく、しかし私は幸福に荒く割り込む。

 「リホが会社を辞めた話は訊いた?」

 「いつ?」

 「明日」

 予想通りに作業は止まる。不安故に精悍な振舞は不可能。


増幅させて、巻き込む事で安堵して、悪意そのもの。いつか


ら私は彼女に似て、彼女は私に似て、同調が近いかもしれな


いけれど、共鳴りかもしれず、どちらと判断されても、残存


の為のコミュニティー。

 生温く冷めたミルクを少し飲み込む。傾けるマグカップを


更に水平に浮かせ、全て飲み干す。空のカップをテーブルに


着地させ、保ち忘れてしまえば、私はつい「愛している」と


口ずさむ。「もし」

 「私が居なくて、リホとマキさんとパパだけが残ったのな


ら」

 私はそういうことを考えている訳じゃない。クリスマスツ


リーの足元には細いダンボール箱から飛び出した綿や電飾、


それからカッターナイフが転がっている。マキさんは私の目


線の先の放置された刃物に気付き、慣れた動作でチェストの


引き出しに仕舞う。

 リホが郵便受から取り出すなり破り捨てた、父からマキさ


んへと送られた未開封の何通もの手紙を思い出す。マキさん


は見舞いには行けない。でも何処かには行けると思う。

 「芽恵さんは何処に行くの?」その憂患になる籠り声を覆


いたくなる。代わりに独り言は増していく。馬鹿みたいに「


愛している」と繰り返す。中空に放たれる言葉は余韻すらな


く消えていく。

 「保健室」

 項垂れる。手は落ちる。掠りもせず。


 タオルを放る。何の色もない爪を指の腹で撫ぜ、具合の悪


い気色に支配されない為、数度、深呼吸をする。洗濯機を回


す。磨り硝子越しに射す光と換気扇の音は漏れ、水の動く音


と混ざりゆく。

 ケヤが今、電話を鳴らした相手を確認している事は明らか


 悲しくなる思考を動作で止めようと柔軟剤の容器を棚から


下ろし、その軽さに残量を確かめていると、引き戸が開き、


ケヤと目が合う。私の影は廊下へと出、後方の壁に伸び、彼


の影と重なる。剥き出しの脚から熱感がなくなる。

 「留守番電話が入っていて」

 「どうかしたの?」

 「母親が倒れたらしくて」

 「らしくて?」

 「どうしたらいい?」

 「どうしたら良いって、行かなきゃ」

 言葉の後、一筋に痛みが走り、だから目を伏せて、衝撃を


和らげて、ともすれば滂沱してしまうことを必死に拒む。目


を開けると、一瞬前には、まごついていたケヤがもう深刻に


口を結び直す。

 「ハセ?」

 湿って縺れた髪を片手で掻きあげ、乾いた唇を動かしても


、声を出す力もない。垂れ下がった腕の先が辛うじて握る柔


軟剤の容器の取っ手から滑りそうになる。体を捻じり、洗濯


機の上に置く。折れる様に項垂れる様に、腕に額を寄せると


髪は睫を触れる。影はこちらに返らない。

 「絶対に戻ってくるから」

 洗濯機は再び給水を始め、ケヤが私の頬に触れ、私は彼の


手を掴む様に握り、返す様に離す。

 また此処に戻って来る迄きっと、私は真面に暮らしてはい


けない。

 間の日々を繋ぐ為だけに生きてしまう。

 感情は宙に浮く。触れられる手もない。姿を追う事もない


 凛々しい表情を作ろうとしても上手くは行かない。

 後悔に苛まれながら、ケヤに沿い過ぎる気持ちを剥いでゆ


く。

 「ハセ?」

 「コーキは」

 幸福と言うのは頭の中ばかり、実際は傷ついてゆくばかり


 「シェスを失いたくないだけ。でも会いには来ない。どう


しようもないから」

 時が進む速度で望み、望む速度で傷む。気付いても、理解


はしたくない。しかし理解しなければ適ぬ夢を見続ける。

 理解しても、それでもせめて傍らに居続けたいと願ってし


まう。

 「何で」

 乾いた床がケヤの動きに軋む。身が含む悲しみは滝の勢い


を内側に引き摺り、一寸の弛みを許されない完全としての生


を命じて、体認に従属でなければならないと愚を学ぶ。

 「どうして兄貴の話ばかり」

 「コーキが忘れらない」

 如雨露に納まる程度の真実さえも露にすれば亀裂と言う脆


簿なる私に何を宛行う。

 「私はケヤよりも」

 悲劇を招いても守るべき自己の意味を誰に問う。場に注げ


ぬ雨が降る地などは何処にも無い。浸かり、嘆いて、糧にす


る時期は遠に過ぎて、しかし取り乱して、ケヤを繋ぎ、見出


す未来等、建設的想像の外にしか有り得ない。


 「兄の価値が分からない」

 絞り出した声は震えてしまう。

 「何が違うの?」

 滑らかに光る下着は正しく体の線に沿い、部品の様に胴体


と腕は繋がっている。次第に異常とも思う空想に苛まれてい


き、勢いでハセに背を向ける。彼女の動きが変わる事はない


。雰囲気を呑む様に、唇を結う。しかし直ぐに解いて、僅か


に息を吐く。

 「ハセ」

 彼女の名前を発した。二音で作られた、その名前は静かに


口にすると舌に痺れを残す。

 廊下の壁に手を伸ばす。洗面室からも廊下からも遠く離れ


、部屋の隅に投げていたダウンジャケットを拾う。


 「何それ」

 彼女のコートの裾が通り過ぎ、クリスマスツリーの前で静


止する後ろ姿に、瞬時、怯える。空になったマグカップを両


手で割れるほど握り締め、俯いてこれ以上がないくらい強く


瞑る。

 しかし発した音は予想外に軽く乾き、けれども目を開けれ


ば、縦は横へと変わり、緩く結ばれていたのだろう数個のガ


ラス製のオーナメントは枝から外れ、転がっていく。倒れた


ツリーの残骸。

 リホの手が揺れて落ちていく様を見る。

 泣いてしまえば済むのか、責めてしまえば済むのか、私の


手は救いには向かない、この身勝手をいつまでも弱さと呼ぶ


感情だけが滲みていく。


 それから階段を上り、入る部屋は暗く冷えて、違和感を感


じる。

 閉めたままのカーテンの隙間から夜が覗く。僕は指定バッ


クの肩紐を握り、引き摺り落とす。手探りで入り口側のスイ


ッチを押す。畳み忘れていた敷布団の上に絡まった二枚の毛


布は既に埃っぽく、隅に転がるダンベルや潰れた空缶が気持


ちを重く悪くさせる。他人の部屋に通された様な心地、そし


て滞る空気の汚さに吐気がする。

 窓際の机には兄のアドレス手帳があり、近付くとハセの名


前が書かれたページが開かれたまま、あの電話越しのやりと


りは蘇り、薄ら寒い室内で震えに近い緊張のまま、勢いだけ


が押し当てさせた薄い機械の感触と、沈黙に犬の遠吠えと、


そして涕泣。

 込み上げる世界は深く愛しく、同時にハセと過ごした、あ


の暖かく密閉された日々は遠くなり、まるで。

 まるで長い夢。

 疲労感に襲われ、冷えた床に座り込む。手元に当たる薄茶


色に日焼けした世界地図帳を持ち上げ、何気もなく膝頭に載


せる。

 「圭哉」

 いつも思う。この家の板は薄過ぎる。

 世界地図帳を窓に投げる。カーテンは揺れ、間も無く落ち


た地図が開く。

 倒す背はジャケットの中でひしめく羽を潰し、空を仰げず


、低い天井が目に映る。

 ハセの方が。

 ハセの方が、ずっと綺麗。ハセの方がずっと深切。ハセの


方がずっと悲境。ハセの方がずっと優越。ハセはあまりにも


大切。

 階段を上り始めていた彼女の足音は止む。「圭哉君は?」

 交わす声が聞こえる。半年前に出会い、二カ月後には婚約


し、来月には入籍するという、兄の選んだ、にち花と言う女


性はハセとは違う。

 「紘輝、あと、お義母さんが呼んでるの。床下収納が開か


ないらしくて」

 「田鶴子さん、また壊したの?」

 階段を下りて行く兄と交差して、柔らかい音がドアの前で


立ち止まる。

 「圭哉君は何も心配要らないから。紘輝が上手く説明して


いるし、お義父さんの方も怒らないと思うから。確かに嘘は


良くなかったけれど、皆、心配していて」


 「芽恵さん」マキさんから受話器を渡される。「丹沢さん


 私は握り締めて、声を潜める。

 「どうかしたの?」

 「ジッポ」

 「え」

 「ヒツジにジッポ預けていて」

 「うん。持ってる。どうしたの? 必要なの? だったら


 今すぐに渡しに行く、と言い掛けて、やめる。渡してしま


ったのなら、もう会えなくなる様に思う私は、どうしてこれ


ほどまでにも卑しいのだろう。下睫が重い。

 「今すぐには渡しには」

 「持っていて」

 「え? 何?」

 「ヒツジが持っていて。ずっと持っていて」

 そして電話は切られてしまう。私は頷いて残留した感情を


飲み込んだ。ふと再び周辺の縁取りが薄くなり、睡魔に負け


る様に似て、触れる外部は徐々に明確から曖昧に戻りゆく。


こうして聞きたいことは日々積もり、僅かにも消化されない


。より重くなる下睫を強引に拭い、汗で湿ってしまった受話


器を元に戻す。

 「丹沢さん、どうかしたの?」

 「私には関係ない」

 しかしまだ鮮明に身を置く。明日が未来なら仕様がない。


私はまた中空に音もなく発してしまう。「愛してる」独語に


没していく。


 室内は濁色の蛍光灯に照らされている。

 身に付いてしまった生の術をどう返していけばいいのかは


判らない。

 誰を責める訳では無い。貴方には何ひとつ、非は無い。

 「シェス」

 寝息を立てる黒い猫を降ろす指で額から尾にかけ、幾度も


幾度も撫ぜていく。

 そして、ある日、私は育たない生き物になる。

 半音だけ音はずれて、修復出来ず、頭を巡るピアノ曲を口


にする。やがて両の手は、あるはずもないピアノの鍵盤を無


器用に弾き始め、止められず透明なる旋律は歌を伴う。私の


髪が這う気配で我に返る。

 疵付いている訳ではない。疵付く事を恐れている訳ではな


い。

 寧ろ壊れたままで居たい様に、私は完成してしまう、破損


している状態は常に飢餓であるという正常。

 

 椅子よりも学習机に重さを預ける。固い木とジャージが擦


れる。 

 兄の掌が視界の端に入る。持ち上げられた赤い手帳に目は


捕われ付いて行き、煙草の覗く白いシャツのポケットに消え


、見えなくなる直前、叫びそうになる制止の言葉を制止する


 「羨望しているとか、軽蔑している、とか」

 「別に羨望も軽蔑もしていない」

 吐き捨てる様に言う。

 「正直に言うと期待していたと思う」

 兄は背後の壁際に移動し、置いてある一人掛け用のビース


チェアに座る。そしてポケットからライターと一本の煙草を


抜いて、口に銜え、火を点ける。

 「ケヤの暴挙」

 机と椅子の隙間から体を出し、立ち上がり、換気の為、正


面の窓を開ける。クレッセントは春から働かなくなり、この


家の傷みは想像以上に酷い。開いたものの吹雪き始めた風は


冷たく、再び閉めてしまう。カーテンの内側では不透明に変


化した窓に生まれる水の粒が下を目指し、長く走る。

 「粗暴でも構わないから、ハセを無くして」

 その、兄が何度も口にしてきたのだろう彼女の名前に心は


躓く。冷えて深い声と余りにも至極自然に馴染み、熱の全て


を奪おうとする。振り向くと、兄の掌は額の位置に変わり、


片方の目を親指の付け根が押し付け、同時に塞がれていない


目を閉じる。

 「兄にとって、彼女は」

 細かに揺れて霞む声は広がる薄いメンソールの煙に撒かれ


てしまう。葉は灰に変わる。

 「どうしようもない、神様の様な」

 僕は正面に向き直し、学習机の椅子に重い気持のまま、座


り込む。

 整理された何冊もの辞典や資料集を支えている鉄のブック


スタンドを引き抜くと起こる結果と後始末が確実に予想出来


ているにも関わらず、思い立った時に手はスタンドに伸びて


、ゆっくりと引き摺り出す。ドミノと例える事も出来ない速


さで本は崩れ落ち、ぼたぼたと机の下に数冊が落ち、折り重


なる様に倒れた本が眼前に並ぶ。先程までは気が付かなかっ


た畳まれたプリント類が所々に姿を現す。

 耐え難い灰色の感覚に何時も行き場を捜し、しかし世界は


灰色のまま、やがて過ぎて、やがて終わる。

 「どんなに願っても、抗っても、選択しても、全ては神様


の云う通り」

 声にもう一度、振り返る。けれども以後、兄は言葉を失っ


てしまう。灰が形を成したまま、床に落ちる。

 今や、世界は途方もなく、指針もない持て余す歩みと絶望


に近い余白でしかない。

 しかし希望。   

 


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