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乱暴に玄関を開けると女中が驚いて迎えに出てきた。


「…てっきり、2日くらい帰ってこないかと思っていました…。」


「すぐ戻るって言ったろ?」

軽く冗談で返すと女中はぷいっとそっぽを向いた。

こちらから見える耳たぶが心なしか赤いように感じるのは気のせいなんだろうか。



「聞いたよ。君の事。」


女中の肩が震える。かまわず背中に語りかける。


「ユラの事もね。今夜中にドレス作っちゃうから、明日の朝出るといい。」


「…でも…。」


デザインは大体決まっている。出来るだけ地味で、どこにでも溶け込むような服。

それでも二人に似合う色を布の束から選ぶ。

「ユラの方は時間が無いらしい。一刻も早くって急かされたよ。君の方も状況は芳しくない。感づかれたかもしれないからね。」


「…でも…。」


「お姉さんと蝶々さんに頼んで定期馬車の切符を取ってもらったから明日駅で貰うといいよ。」

俯いた女中を目の端で見ながら作業を進める。


「…でも、」


「今日はえらく『でも』が多いね?まだ逃亡には反対なの?」


「…そうじゃ…ないです…。」

小さな声で呟きながら女中の体が傾いでいった。

彼女がじゅうたんの上に音も立てず崩れ落ち、家具にぶつかるすんでの所で仕立屋の腕に収まった。




女中は応接室のソファの上で目を覚ました。

見上げた作業台の前で仕立屋が縫い物をしている。すでに一着はほとんど出来上がっていた。

あいかわらず作業の早さには感心してしまう。


仕事に集中していた仕立屋が女中に気付いた。

「人にはあれほど口うるさいのに…。」

少し怒った顔で女中の座るソファの傍に座る。


「自分が倒れるってのはどういうこと?」


どう答えたら良いのか分からないまま黙っていると頬をつつかれた。

「あんまり寝てないでしょ?ついでに、俺がいない時ちゃんと食べてる?」


「…いえ、もったいないので残り物が出た時以外はあまり…。」


仕立屋は盛大にため息をついた。そしておそらく自分で淹れた紅茶とキッチンで発掘したパンやクッキーを女中の前に差し出した。

「君が作った物なんだから、遠慮なく食べたらいい。紅茶は…美味さの保障はしないけどね。」

淹れてくれた紅茶を飲みながらクッキーを口に入れる。

作業台に戻った仕立屋がトルソーに着いた布をかがり合わせて行く。


何故だか分からないけど涙が出そうになった。

こういうときを「幸せ」というのだろうと感じた。



「明日は早い。…もう寝た方がいいよ。」

作業の手を止めずに仕立屋が女中に語りかけた。


「はい…では、お先に失礼します。」

扉を出て行く前に女中は仕立屋の背中に声を掛ける。



「ありがとうございました。」


「…うん、…気を付けて…。」



静かな音を立てて扉が閉まる。扉が閉まると仕立屋はトルソーにもたれかかるように額を押し当てた。


明日、彼女が着るドレス。街の娘が誰でも持っているような、それでも彼女しか持っていないような彼女の為のドレス。

コルセットをしない柔らかな腰にサッシェを巻いて、上着は袖のあまり膨らまない襟付きのボレロ。細い体に沿うように胸の下からダーツを入れて絞る。



行くな、とは言えない。

この国にいる理由が彼女には無い。ここではない何処かでユラと、他の誰かと幸せになればいい。

トルソーに出来た質素で華やかな衣装。仕立屋は二つの衣装にありったけの願いを込めた。




その日の深夜


寝室にミルクティの香りが幽かに漂った。


朝の紅茶ではない、「彼女」から漂う香り。

髪の色と同じミルクティの甘く清々しい香り。


薄く目を開けるとベッドの傍に彼女がいた。

薄い下着と白い肌と髪の色がまるで幻のように仕立屋の傍に浮かび上がる。


別れ際に紅茶を飲んだからか、彼女を抱きとめてソファに運んでしまったからか、己の願望が現れた夢と現実の区別がついていない。ふわふわと覚醒しないまま彼女の幻を見つめる。


彼女が近づいて頬に両手を添える。一度そっと唇が触れ、次に押し付けるように唇が重なった。

胸元に細い指が入り込んでシャツを脱がされる。彼女の手首を掴んで自分の上にのしかかるように引き寄せる。

目の前に深緑の瞳があった。


夢なら、覚めるな。


声に出していたのか分からないがレーチェはふと微笑みまた唇を重ねた。


正に夢のようだった。温かい彼女の肌は仕立屋の手や唇をしっとりと包み込んだ。

ためらいがちに背中に回る腕に気持ちが抑えられず体中に唇と舌を這わせた。

喉の奥で漏れる吐息

男は彼女を導いた。壊れないように優しく触れ、熱い恋情を分け合った。

男の腕の中で果てる寸前に女は初めて彼の名前を呼んだ。



「…レイニー…」



彼を受け入れるレーチェの胸に雫が振り落ちた。

髪の毛を伝って落ちる汗、それと茶色の瞳からこぼれる涙

娼館に咲くたくさんの花たちを潤わせていく、やさしい雨だと思った。


「優しい人…。」

呟いた言葉に男はそんなことはないと首を振る。

どうか、そうやって俺を思い出に変えてしまわないでくれ。優しい人だったと、過去形にしないでくれ。

縋る男に女はそっと微笑んだ。


彼の涙を拭って頬に優しく口付けると、彼はかすれた声でレーチェに呟く。


「……行くな…」


強く抱きしめられる。掴んだ肩に爪を立てられ肌に赤い傷痕が出来る。


「…行くなら、俺を… …。」


抱きしめる腕に力が込められる。体が軋むほど、彼の心も軋んでいく。


「君がいないなら、生きている意味が無い…」


おねがい、ころして。レーチェの耳元で彼が呻く。

顔を知らない母と父も彼と同じ気持ちになったのだろうか、そして自分も恐れていた、両親と同じように許されないと知っていながらたった一晩を共に過ごしている。



もう、泣かないで、レイニー。そう言っていつまでも彼女は彼を優しく抱きしめていた。



泣き疲れて眠る仕立屋にそっと口付け女中はベッドから離れる。


会いに来なければよかったのだろうか。眠る彼を見下ろしながら思う。

最後にただ一度だけなどと馬鹿な考えを起こさずに朝になったらそっと此処を出て行けばよかったのかもしれない。彼の心を煩わせるつもりはなかった、ましてや死を覚悟させるなんて。



私のことはどうか、忘れてくださいね。


眠る彼に声なき声で呟く。


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