ミルクティー
「…近くへ。」
仕立屋の言われるがままに女中は仕立屋の傍へ寄る。
高い位置にある腰に手を滑らせる。細くて、柔らかい腰。
「レーチェ、というの?」
呼ばれた名前に女中ははっとする。
「私に、名はありません。…呼ぶ名がないと困るからと…ユラが、付けてくれた名前です。わたしは、ただの女中です…」
「レーチェとは、正に…だね…。」
背中を通って肩の幅を測る。首までのなだらかなラインが良く分かる。
「本当は、名など貰えない、あそこから出ることも許されないのに…。」
「君は、どうしてあそこで賄いをしていたの?まるで閉じ込められるように。」
腕の長さを測る。華奢な、細い腕だ。
「君なら、ミス・ユラのように最高位になれるだろうに…。」
腕の先にある手のひらに自分の手を添える。細い指の隙間に指を絡めてひとつひとつの指に口付ける。
息を呑む音が聞こえた。夢中で口付けていた顔を上げると女中は目を見開いて固まっていた。
「…やめて…。」
それまでされるがままになっていた女中がぐい、と仕立屋を押しのけた。
「わたしは娼婦ではありません。ですから服を仕立てて頂く事はできません。」
片付けをするのでしばらく外に出てください。と小さな声で言われ、押しのけられたままの呆けた顔で応接室の外に出る。
ユラを助けたければ、服を脱げ。
なんて卑劣でばかなことを言ってしまったのか。
卑怯なことをしてしまったが、それでも彼女の髪を、柔肌を見ることができて舞い上がってしまった自分がいた。我を忘れて彼女を「味わって」みたいと思ってしまっていた。
―わたしは娼婦ではありません―
そう言った彼女の怯えたような表情が仕立屋の心に突き刺さる。
「…何やってんだよ…俺は…。」
閉じられた応接室のドアに背中を預けてずるずると膝を折る。そんなつもりはなかった、彼女を怯えさせるつもりは。ただ自分が触れるたびに敏感に反応するその仕草に、押し殺した吐息交じりの声に罪悪感を上回る気持ちが仕立屋を支配していて、うずくまると顔が熱いことに気がついた。
翌日も日々はいたって平穏にやってきた。
仕事を理由に夕食は採らなかった。朝食も気分が優れないと嘘を付き採らなかったが女中は昨日のことなど無かったように平然とした顔で紅茶を運んできた。
「夕食も採っておりませんので、なにか入れたほうがよろしいかと。」
昨日見た彼女はもしかしたら幻かもしれないと思わせるほどいつもと変わらない女中だった。朝日を浴びた横顔は特に朱も指していなく、頭には相変わらず頭巾が乗っていた。
アイロンの利いた新聞には(彼女はわざわざタブロイドにまでアイロンを掛けるのだ)貴族や国家のスキャンダルが風刺画とともに載っていた。男爵の浮気だとか、軍師の女遊びだとか、国王一族に連なる貴族の家系にある司祭の跡継ぎ問題だとか…。
横目で見ながら紅茶をすする。甘い、ミルクティー。
このアパートで生活しているうちに染み付いてしまった彼女の匂い。清潔で、甘い匂い。
今はその匂いを嗅いでいるのが後ろめたくて、久しぶりに仕事を受注しに家を出た。
新聞にアイロンをかけるというのを知って、どうしても書きたかったという無駄な描写(笑)




