傷跡
方最端の国グラナダとの国境付近は8月を過ぎればもう冬支度をしなければならない。
小さな村に住む農民たちは長い冬に備えて畑のものを収穫したりそれを加工したりと忙しくしていた。
大人たちがそうやって仕事をしていても小さな子供は道を走り回る。
幼い兄妹は畑や庭を走り、あまり大きくない村の端まで追いかけっこをする。途中妹が転び、泣きそうになるが、兄が心配して近寄るとまた大きな声で笑いながら走り始める。
村の一番端、小高い丘の上に一軒の木こり小屋があった。
炭焼き小屋が細い煙を出し、石だらけの庭で若い女が冬支度の為の蝋燭を作っていた。
幼い兄妹は女の周りで追いかけっこを再開し、時折彼女の仕事を興味深そうに眺めていた。
女はそんな兄妹に優しく語りかけ、走り回っていた二人はおとなしく彼女の話に耳を傾けていた。
やがて日も傾き始め、夕餉の時間になると丘の麓で兄妹の母親が二人を呼ぶ。
兄は大きな声で返事をしたが、妹は女のエプロンの裾をしっかりと掴んで離れようとしない。
兄は母と妹を交互に見て困った顔をしたが女が妹の前にしゃがんで小さな砂糖菓子を口に入れさせた。
妹は喜んで母の元へ走っていく。
女はその後兄の方にもう少しだけ大きな砂糖菓子を持たせ、ふんわりと笑って兄弟を見送った。
丘の上に夕暮れの冷たい風が吹く。
季節はもう冬になってしまう。秋が短いことは3度目のこの季節を迎えてようやく分かってきた。
山から吹き降ろす風が背中を吹き付ける。
「君の子供かと思ったよ。」
風が強くて振り向けなかった。枯葉の舞う音で聞こえた幻聴だとも思った。
その場を動けない女の背中を抱きしめるほど傍に男が立つ。
「…少し、痩せたね。」
男の細い指が風で乱れた髪をそっと掬う。以前のような頭巾は被っておらずミルクティ色の髪は質素な三編みで両肩へ流れていた。
振り返れなかった。胸の前で握り締められた両手が白くなる。
「こっちを、向いてくれないか?」
語りかける声色は優しい。あの時と変わらない。
「…どう、して…」
何故追いかけてきたの、何故ここに居ることが分かったの、体を折るように俯く。
彼の手が後ろからレーチェの頬に触れ、こちらへ向けようとした時
「どなたか、お客か。」
小屋から老人が現れた。
招かれた木こりの老人の家はとても狭かったが、室内の雰囲気は温かく、レーチェとこの木こりの夫婦が素朴で穏やかに過ごしていたことが聞くまでもなく判った。
「そうですか、蝶の国から…。」
テーブルに対峙した木こりの老人はレイニーにお茶をすすめ、今までのいきさつをかいつまんで話す彼の言葉をうなづきながら聞いていた。
老人の後ろには彼の妻であろう背の低い老女が心配そうな顔で夫とレイニーを交互に見ていた。
老夫婦と話している間にレーチェは姿を見せなくなっていた。
「蝶の国に戻るつもりはありません…。私にも彼女にとってもあの国は五月蝿すぎる…。」
王家は事実上壊滅したも同然で、今となってはいくつかの派閥に別れ、それぞれがまた新しい国家を造る事になるかもしれない。戻れば自分も彼女もいい餌食だ。
老人は静かにお茶をすすった。
後ろで暖炉の薪が爆ぜる。
「レーチェを、」
窓の外を見ながら老人は呟く
「あんたは、レーチェを連れて行ってしまうのか…」
悲しいでもなく、寂しいでもなく感慨深く、長く息を吐きながら老人は呟いた。
それからゆっくりとレイニーに背を向け炭焼き小屋へ篭ってしまった。
「…すみません。」
しばらく老人が出て行ったドアを見つめていた老婦人に謝る。
「気にしなくて良いのよ。」レイニーのカップに紅茶を注ぎ足しながら老婦人はそっと笑った。
「ただ、私たちには娘が出来たみたいだったから。」
炭を焼く為の木を集めに山を歩いていたらぼろぼろになった娘が足を引きずりながら歩いていた。
きっと山賊に襲われたのだろうと老人が駆けつけると娘は「黒髪の少女はこの辺りに来ませんでしたか」と聞いてきた。
自分はその子を蝶の国から出す為に来たのだと。
それからこの木こりの老夫婦に世話になりながら日々を過ごした。ただ朝起きて土を耕し、鶏に餌をやり薪を割り、暖炉の傍で話をしながら繕い物をする。レーチェにはそれがすべて特別に感じられた。
穏やかに笑い、老夫婦を慕っているレーチェだが時々山の向こうを見ながら悲しい顔をする。
忘れることは出来なかった。無事を願う連れの少女の行方。
そして愛しいひとの姿を。
レーチェの部屋はベッドと小さな机だけでいっぱいの狭い部屋だった。そこには歳をとってから思いがけず授かった娘への深い愛情がこもった部屋だった。
ベッドのキルトはレーチェの髪の色と瞳の色でまとめられていて、窓辺には可愛らしい鉢植えが飾られていた。
窓辺の蝋燭がこちらに背を向けた彼女の輪郭を淡く縁取る。後ろ手でドアを閉める。
「ミス・ユラはグラナダに亡命したよ。」
声を掛けた背中が震えた。
「あの襲撃で逃げたとき、運が良い事に巡回中のグラナダの私兵に助けてもらったらしい。今はそこで医療の勉強をしているみたいだよ。」
「…。」
背中の震えが泣いていることを悟らせる。
「彼女から手紙をもらってね。この辺りではぐれたから、と。」
それでも彼女はこちらを振り向かない。
「…レーチェ。」
肩に手をやると逃げるように俯いた。背中を向けたままかぶりを振る。
無理強いはしたくない。でも、俺は、やっと会えたと思っているのに。
君は違うのか?
「こっち向いてくれ…。」
「………め、です…。」
肩に流れた三つ編みがほどけて広がり、甘いミルクティの香りがレイニーの鼻腔をくすぐった。
「だめなんです…。帰って…。」
「どうして?」
背中から彼女を抱きしめ、逃げられないようにする。抗うことも出来ないくらいきつく。
「お願い…。」
「どうして?レーチェ。」
「私はここでおじいさんたちと暮らすから…」
「理由になってないよ」
「…。」
抱きしめる力と同時に語気も強くなる。
「俺が、嫌いになったの…?」
「違…」
「じゃあ…!」
抱きしめられたままの強張った体から力が抜けた。
防衛するようにきつく握り締められた手のひらがゆるく開かれる。
「あの日…、馬車が襲われて追っ手に追われた時、私は恐ろしかった。」
未だこちらを振り向いてくれない薄い背中が震えている
「捕らえられたら、どうなるか…。ユラは拷問されいずれ殺される。私は、貴族たちの慰み者になったでしょう。」
「…でも君はこうして無事だった。ユラも。」
レーチェは頑なに首を横に振る
「父も、母も、同じように貴族たちの慰み者でした。体も心も蝕まれていった。私も二人と同じ轍を踏むのかと恐ろしくなりました。」
「二人のようにはなりたくないと、ずっと外にも出ずに独りで過ごしてきました。それでも私は二人に良く似ていると…言われました。とても美しい、とも。」
父譲りの深緑の瞳、母譲りの髪、
「美しい、と言われるのは嫌でした。所詮は慰み者の運命なのだと決められたようで。」
採寸をした時、娼婦ではないと言ったあの怯えた表情が浮かぶ。
「運命に抗ってみようと思いました。全てに怯えて息を潜めて隠れているだけでなく、誰かのために、自分の力を振るうことが出来たら、私は{女中}でも{イクソスとネージュの不義の子}でもなく、…本当の私になれると…。」
「レーチェ…」
肩をそっとさすると、俯いたままこちらにゆっくりと向き直る。
「捕まりたくなかった、美しいと言われて、貴族の下へなんか。」
苦しそうに眉根が歪む。感情を表に出して泣きそうになるのを初めて見る。触れた両頬が熱く震える。
「それでも…!」
振り仰いで何年かぶりに見せる彼女の白い頬には鮮やかな紅い傷跡が3本走っていた。
「貴方の中ではいつまでも美しいままの私で在りたかった…。」




