仕立屋
読み易いように改行をしました。(内容に変更はありません)
夜も更けた街の一画。肌もあらわな女たちが道を歩く男に声を掛ける。酒に酔った男は何人かいる女達から一人を選び、その女に連れられて小さくきらびやかな小部屋へ入っていく。
この街にはそんな店「娼館」がたくさんある。
その娼館を彩る女たちの衣装を作るのが仕立屋の仕事だった。
その部屋は天井から赤いビロードの布が下がり、家具は洒落た黒の猫足家具があしらわれていた。
部屋には小さなテーブルとスツール、そして小ぶりなタンス以外はなく、そのスペースのほとんどを赤いベッドが占領していた。ベッドの上には若い男女。
男は上着を脱いだ状態で女に馬乗りになっている。女は薄い絹で出来たドレスをはだけさせ白い肩と胸を男に見せびらかすように体をくねらせた。
「ミス、…ミス・ディドー…?」
女の名前を呼ぶ声は低く、甘く、まるでブランデーのように女を一瞬で酔わせた。男の首に腕を回す。
男は馬乗りになった状態で手になにか紐のようなものを持っていた。
「そんなに動いていたら、採寸が出来ませんよ…。」
男は手にした巻尺を女に見せ、困った顔をして見せた。
「あら、だって、仕立屋さんがあたしの体を触るのが気持ちいいんだもの。」
腕だけでなく絹の靴下を履いた足が男の体に絡まる。男は苦笑したまま女の行動に身を任せる。
こういう事はいつもの事だし、嫌いな状況じゃない。困った振りをしてネクタイを解く。
「新しいドレスが欲しいんじゃなかったの?」
耳元でくすぐるように囁くと女は熱いため息を吐いた。
「今は、貴方が欲しいわ。」
「…いけない娘だ…」
巻尺もネクタイも、ドレスも投げ飛ばして男女は快楽に身を任せた。
それから数時間後、仕立屋は娼婦の小部屋を出る。
巻尺で計るより正確にそして魅力的に見せることの出来るドレスを仕立てる。なにより色男なので仕立屋はどの娼館からも引っ張りだこの人気者だった。
今日もなんだかんだで3人の娼婦のドレスを作る依頼を受けてきた。
大まかな寸法をメモに取り、暗い路地裏を家路に急ぐ。
その時仕立屋を激しい目眩が襲った。
倒れることをかろうじて石壁にもたれかかることで避けたが、娼館の裏路地など誰も通らない。
遠くで女たちの笑い声と照明がぼんやりと仕立屋の足元に落ちる。
季節は冬にさしかかろうとしている、早速風は仕立屋から体温を奪おうと冷たく吹き付ける。
ここで気を失ったら翌日は凍った姿で娼婦たちに見つかることだろう。
ふと日々の馬鹿らしい生活を振り返りここで死ぬのもまた神の思し召しかとも思い自嘲の笑みを浮かべる。
意識は闇に深く沈んでいった。
次の瞬間仕立屋が気付いたのはソファの上だった。
見慣れた部屋ではなかった。娼館の色鮮やかな部屋とは違い、壁も家具も漆喰の白と木の茶色をしていた。寝かされているソファはあまり柔らかくはなかったが清潔で温かい。とても手入れが行き届いた部屋だと思った。
「気付かれましたか。」
背後から声を掛けられ振り向くと、女中らしき女が立っていた。
髪は糊の利いた頭巾に隠れていた。服装にも一切の乱れがない。まるで修道女のようだと思った。
女中は仕立屋の前に食事を出した。野菜や肉を長く煮込んだスープと柔らかくて白いパン。
出されたものを素直に食べていると、恐れ入りますが、と女中が口を開く。
「貴方はきちんと食事をしたほうが良いと思います。」
「何をいきなり。君はだれだい?俺を知ってるの?」
この娼婦の街で仕立屋の知らない女はいない。どんな新人でもメードでも老若問わずちゃんと把握してるし名前も覚えてる。だがこんな女はみたことがない。
「貴方の倒れた原因は栄養失調です。仕立屋様。」
君は俺のこと知っているようだね。と答えておいて栄養失調の理由は自分でもなんとなく察しがついた。
「だろうねぇ。1日酒しか飲まない時もあるし、仕立てないといけない服は日に日に増えていくし毎日少なくとも3発は…おっと、レディの前で失言だったね。」
軽口を叩いてみても女中は真面目な顔をしている。どうやら冗談は通じなさそうだ。
目の前の温かい食事は空っぽな胃に優しくそして美味い。こんな美味い食事を作るのだから愛想が良ければもっといいだろうに。
「仕事柄、食べられないのは仕方がないと思ってるよ。そんな時間も惜しいくらいだからね。それで、さっきの質問の続きだけど、君は誰だい?ついでにここは何処?」
「あたしの店だよ。仕立屋の坊や。」
勝手口から声を掛けたのは熟年の女だった。赤茶けた巻き髪と肩に羽織った紫のショールが彼女の華やかさを一層際立たせる。
「蝶々さん。」
数多くある娼館のなかでも群を抜いて高級な「蝶々亭」。王族さえもお忍びで来るという噂があるほどだ。その蝶々亭を取り仕切っているのが彼女である。
蝶々さんにとっては色男の仕立屋でさえも「坊や」呼ばわりだ。
「この子はうちの賄いだよ。夜中ごみを捨てに出たら路地であんたが倒れてたっていうから、かくまってやったんだ。感謝しなよ。」
そのままだと死んでいたか、ついでに身包みはがされて金目のものは奪われたり、良くてほかの娼婦に助けられても夜の相手をさせられて過労死してただろう。
「そうだな…。ありがとう。」
素直に礼を言うと、女中は軽い会釈をして部屋を下がる。
「あ、あんた。表に朝食を。ベティとマチュア、あとタニアとポーラ、オリバに。」
「はい。」
数人の娼婦の名前を言われ、女中は奥のキッチンに下がる。すぐに料理を作る手際のいい音が聞こえた。
「見た事のない子だ。ここに勤めて長いの?」
食事を取りながら蝶々さんに聞くと
「そんなに好奇心旺盛だとここらじゃ長生きできないよ。」と言われた。
「好奇心が無いとこんな仕事は出来ませんよ。」
軽口でいやみを言われ、こちらも軽口で応酬する。
「あの子が気になるのかい?」
あの子は娼婦じゃないよ。と釘をさされた。別にそういうつもりで気になるわけではないのだが、あの深い森の奥のようなモスグリーンの瞳と修道女のような鉄壁の防御に違和感を感じた。
これは仕立屋の勘かそれとも男の勘かは分からないが。蝶々さんにとびきりの笑顔を向ける。
普通の女なら腰を抜かすほど甘くとろける笑顔。
「あの子を引き取る条件はなに?」
気になったら手にしてみないと気がすまない。仕立屋の幼少からの癖だ。蝶々さんは彼を一度強く見据えて言った。
「あの子を手に入れるには相当な覚悟が要るよ。それこそ死ぬ覚悟だ。それでもいいのかい?」
裏世界で生き抜いてきた蝶々さんがいうのだから生半可な気持ちではすまないという事だろうが、まさか只の脅しか?
「いいさ。どっちにしても彼女に助けてもらえなかったら死んでいたんだしね。」
その後女中は蝶々さんから仕立屋の屋敷に奉公に出るように命じられた。