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恋を知るとき

作者: 柏原夏鉈
掲載日:2026/07/23


エフェクターのネジを締め直す。


電源を入れ、ノイズが乗らないかを確認してから、俺は小さく息を吐いた。


「よし、これで全部か」


大学の片隅、プレハブの部室棟に、わが軽音サークルの部室がある。


二室を壁をぶち抜いて一部屋として使っているのは、かつて学内最大規模のサークルだったからこそ許された特権。


しかし、今となっては、その半分は駄弁る場所として使い、もう半分は使わなくなった機材の置き場所でしかない。


純粋に音楽をやる者は次々に辞めていき、音楽イベントをダシにした出会い目的のサークルへと成り下がっていた。


留年を繰り返し、さらには卒業後も研究生として大学に居残った俺は、衰退の様子を間近で見てきた証人であり、墓守のようなもの。


かつての全盛期。やり手だった当時の部長が手練手管で勝ち取った、有り余る部費を使って買い集めた高価な機材たちという、墓標の。


俺は、彼らから託されたことを、律儀にも全うするため、今も無理やりサークルに籍を残していたのだが、それもついに限界がきた。


「ウチ、上下関係にはうるさい伝統あるじゃないですか」


数日前、現部長の高始は、言葉の端々に薄っぺらい敬意を貼り付けて、切り出してきた。


「オレも、入部してすぐから、先輩たちに叩き込まれてきましたからね。マジのコブシ込みで。だから、リスペクトは忘れてないっす」


明るく染められた髪に、流行りの服。チャラチャラしたナンパ男である彼は、この場所を単なる遊び場へと作り変えた張本人だ。


「何の話だ?」


一白(ひとしら)先輩。ずっとサークルを支えてきてくれたことには、マジで感謝してます。機材のこと、先輩に頼りっきりですから」


「……」


さっさと用件を言えば良いものを。これは、彼なりの"リスペクト"ってことなのか?


「でも、さすがに。……ね? 女の子たちも気ィ遣っちゃいますし。サークルのためにも、ご自身の進退、っていうんですか。考えてほしいっす」


その表情から、はっきりと"さっさと消えろ、クソじじぃ!"という感情が透けて見えていた。


面倒な。最初からそう言えばいいのに、彼には言えない。


――言えない理由もわかってる。彼の言う通り、骨の髄まで叩き込まれているからだ。


それは"上下関係は絶対"というルール。俺がここで「断る」と一言でも言えば、彼は従うしかない。


そうやって、今まで俺は居残ってきたのだから。


居残っていたのにも理由はある、ひどく消極的な理由だけれど、縋ってきた理由がある。


でも、俺も、潮時を感じていた。この高始の発言は、救いの福音なのかもしれない、そう感じた。


だから、その"追放宣告”に無様に抗うことはしなかった。


「……わかった。ただ、一つだけ条件がある」


「条件? いやいや、立場、分かってます? まさか退職金代わりに何かよこせとか——」


「機材のメンテナンスが終わるまで猶予をくれ。それが終わったら、二度と来ない」


俺がそう告げると、高始はあからさまにホッとしたような、それでいて鼻で笑うような表情を浮かべた。


「あー、はいはい。そういうことなら全然オッケーッス。さすが大先輩っすね! じゃ、そういうことで!」


――そして、今。


その最後の作業が終わったところだ。


俺がいなくなった後、持て余された機材たちは、おそらくフリマサイトで、売りにでも出されるのだろう。


ここで埃をかぶって埋もれてしまうよりも、売値が二束三文であっても、どこかの誰かに有効に使ってもらえた方が機材にとっても幸せだ。


「だからさぁ、レンちゃん。今度のライブの打ち上げは来てよ。そんで、あとで二人で抜け出さない?」


俺が黙々とケーブルを巻いている機材置き場の反対側。駄弁るためのスペースでは、音楽ではなく、耳障りな声が響いていた。


声の主は、俺を追放した、部長の高始だ。


俺が機材を盗むかもしれないと、監視を名目にわざわざ居残っていたのだが、今となってはその用件すら口実だったように思える。


奴は今、俺への監視もそこそこに、サークルの『姫』を口説き落とそうと必死になっていた。


「打ち上げですか? 行きますけど、二人で抜け出す意味ってありますか?」


恐ろしいほどに透き通った声が問い返す。


一ノ星(いちのせ)レン。長い黒髪に、人形のように整った顔立ちの女子。


彼女は誰に対しても壁を作らない。常に柔らかい表情で、分け隔てなく接する。


だから高始のような勘違い男たちが"俺に気があるんじゃないか"と次々に言い寄り、そして――無残にも散っていくのだ。


――かく言う俺も、彼女が入部してきたすぐに頃には、勘違いさせられた一人だった。


サークル内で煙たがられていた俺に対しても、彼女は優しく接してくれたから。


だが、それも一ヶ月ほどで終わった。彼女も、このサークル内での、俺の立場を理解したら、ある日から無視されるようになった。


「いや、ほら、音楽のこととか、もっと深い話をしたくてさ!」


「深い話なら、今ここでできますよ。高始先輩のギター、ピッキングのタイミングが少し走る癖がありますよね。あれは――」


「あ、いや、そういう話じゃなくて……っ!」


一ノ星(いちのせ)は、他人の感情に極端に鈍い。いや、まったく感知していないと言ってもいい。


彼女は他人に壁を作らないのではない。壁を作る必要がない。誰も、彼女と同じ高さに立てないから、彼女を傷つけることができない。


絶対的孤高の花。目に見えていても、決して触れることはできない。それが一ノ星(いちのせ)レンという女子。――俺の彼女への印象だった。


「……あー、悪い。急用思い出したわ。またな、レンちゃん」


「はい、お疲れ様です」


一向に響かない、AI相手に話してるような感覚に根負けして、高始の心も折れたらしい。


無様なフラれ方を俺に見られていたのが気に入らなかったのだろう。


高始は気まずそうに俺を一度だけ睨みつけると、そそくさと部室を出て行った。


残されたのは、機材の片付けを終えた俺と、一ノ星(いちのせ)の二人だけだが、俺のことは視界に入っていない。


一ノ星(いちのせ)はケースからアコースティックギターを取り出した。


コードを鳴らし、ハミングでメロディをなぞりながら、彼女はノートに何かを書き込んでいる。


どうやら、オリジナルの歌を作ろうとしているらしい。断片的な歌詞を口ずさみながら、メロディを探っていく。


「……違う。これじゃあ、ただの言葉の羅列だわ」


彼女がやろうとしているのは『詞先しせん』だ。


伴奏やメロディを先に作る『曲先きょくせん』が主流だが、彼女はメッセージ性を重んじるやり方を選んでいるらしい。


けれど、紡がれる言葉に感情が乗っていない。


展開が思いつかないのか、同じフレーズの中でぐるぐると思考が堂々巡りしている。


感情というものを理解しない彼女が、感情を歌にしようとして、足掻いている、そんな風に感じる。


そのひどく不器用で、じれったい姿を見ていたら――。


「……片思いの歌か。まずは定番のコード進行から試してみたらどうだ?」


気づけば俺は、ポツリとそんな言葉をこぼしていた。捨てたはずの未練が、口をついて出てしまったのかもしれない。


しまった、と思った時にはもう遅かった。


一ノ星(いちのせ)が弾かれたように振り向き、その大きな瞳で俺を射抜いた。


「……え?」


彼女の顔に、驚愕の色が浮かんでいた。今まで見たことのない、彼女本来の表情を見た。


「どうして……『片思いの歌』だって、わかったの? あえて、それっぽいフレーズは避けてたのに」


いつもの壁のない後輩としての態度でも、親しい友人に対する態度でもない。


警戒と、そして微かな『期待』が入り交じったような、鋭い視線。


俺は小さく息を吐く。今日で最後だというのに――。


いや、そうか。


最後だから、話せることもあるのか。俺は、そう思い直す。


手に持っていたケーブルを片付け、ゆっくりと一ノ星(いちのせ)に近づきながら、告げた。


「言葉にしなくても、感情ってのは音に乗る。共感するから、歌は人の心を動かすんだよ」


「な、何をわかったような口を……っ」


一ノ星(いちのせ)は、微かに肩を震わせて俺を睨みつけた。そう言われても、無理はない。


今までこのサークルで、俺は音楽について語ったことなどなかった。避けてきた。


俺は、彼女の正面にあったパイプ椅子――さっき高始が使っていたものだろう――に座り、切り出す。


「どんな歌を作ろうとしてるのか、俺に言ってみろ。力になれるかもしれない」


「AIに話しかけた方がマシじゃない?」


「AIにも、おまえにも、感情がない。愛がわからない。だから、感情があり、愛を知る、俺がマシ」


感情がないと言われ、愛がわからないと言われ、馬鹿にするな!と怒り出すかと思いきや、彼女は目を見開いて、俺を見た。


しばし、彼女は俺を見つめ続けた。その表情から、複雑な思いが、彼女の中で葛藤を繰り返しているのがわかる。


逡巡。そして、意を決した。


「いいわ。聞いて」


「ああ」


「私は、ずっと片思いしている」


「――ああ」


「でも。この思いは届かない。決して。とても切ない、悲しい、苦しい。――たぶん、そんな感情を、私は抱かなきゃいけない」


「片思いなら、それが届かないなら、誰もが感じるだろう、感情か」


「ええ」


「まず浮かぶのは"寂しさ"。気持ちを知ってもらえない。そして"切なさ"。好きという気持ちは行き場を失っている。"悔しさ"も。もっと違う出会いがあったかもしれない。"恥ずかしさ"と"大切にしたい"という思いが混ざり合って、浮いたり沈んだりする」


「そういう感情を、私は……。一度は知ったはずなの。でも、もう何も感じない」


彼女は、ようやくギターを置き、両手を自分の胸にあてて、探るように言った。


「あれは二年前の夏。駅前で友達を待っていた――」


彼女がゆっくりと語り始めた。


繁華街の駅前。彼女の容姿であれば当然の結果だが、ナンパしてくる連中が寄ってくる。


うざったくて、適当なストリートミュージシャンの前に座り込んだ。


『私は今、歌を聴いているから邪魔するな』ってオーラを出すため。


歌っていたのは、長い髪の美しい女性だったという。女性だから、ナンパ避けに、そのアーティストを選んだのもある。


その声は。とても澄んでいて、若い男の子みたいな声。女性にしては、スッキリと低いアルトボイス。


その声が。届く範囲は、まるで"不可視の膜"で覆われているよう。静かで、穏やかで、居心地が良かった。


その声に。身を任せて漂っていると、未知の感覚に自分が酔ってることに気づいた。


「歌っている"彼女"の感情が、はっきりと理解できたの。ああ、うれしいんだって。かなしいんだって。歌詞じゃなくて、"その声"で他人の感情を理解するのって、私にとっては初めての感覚だった」


彼女は自覚していた。自分が、他人の感情を感じない。


他人に関心がないわけじゃなくて、言葉以上の情報を受け取らない。


彼女にしてみれば、この世界には"感情"と言えるものを持っているのは、自分一人なんじゃないかと思っていたそうだ。


まるで、無数のロボットの中で生活している、たった一人の人間のような。


――けれど、たまたま聞いた歌。"その声"の主の感情は、はっきりと感じることができた。


百年の孤独の末に、ようやく出会えた暖かさのようで。


「気づいたら、その場で泣いちゃってた」


「歌う者にとっては、冥利に尽きるな」


「今だったら。……彼女と同じ道に進みたいって思う今の私なら。同感できる。誰かの心を動かすくらいのパワーがほしい」


「そうか。ミュージシャンになりたいんだな」


「ええ。それで――」


もっと聞いていたかったんだけど、待ち合わせしてた友達が来ちゃったから、その場を離れた。


友達に、泣いているのを見られた照れ隠しもあって、逃げるみたいに立ち去っちゃったんだけど、あとで後悔した。


だって、"その声"の彼女のこと、何も知らないまま。


「それっきり、会えずに。彼女に片思いしてるってこと、か?」


「ううん。彼女に会えたのは、その出会いを含めて三回よ。たった三回、とも言えるけど」


一ノ星(いちのせ)は、"その声"をもう一度聞きたくて、時間を見つけては駅前に通うようになった。他に手がかりがないから。


ストリートミュージシャンにとっては、その駅前は聖地のような場所らしくて、いつもどこかから、歌声が聞こえてくる。


いろんなストリートミュージシャンの歌を聴いた。


「上手なのから、下手なのまで」


「下手とか、言うなよ」


「わかってる。みんな、それぞれの気持ちで歌ってる。それぞれの思いがこもってる」


「下心も上心もない歌はない」


「今の私は、なんとなく理解してるつもり。でも、当時の私が探していたのはたった一つの歌声だったから。たった一つの感情だったから」


「それで、出会えた。そうだな?」


「うん。遠くからでも、彼女の"その声"だけは特別で、すぐにわかった。だって、私にとっては、唯一だったから」


ようやく二度目の再会を果たした。


彼女は最前列に割り込み座り込んで、じっと"その声"を聞き、その感情に揺蕩いながら、観察した。


邪魔しないように、些細なことでも彼女のことを知りたくて。


揺れ動く髪。長くまっすぐの黒に、繁華街のネオンが反射して輝いて見える。


整った顔。しっかりした顎が、"その声"の土台になっているのだろうか。


長い手足。座っているけど、背は高いように思う。


ギターを持つ手。指が長くて、フィンガーボードを覆っても、なお余りある。うらやましい。


深い瞳。光を吸い込んで、決してこちらを映さない、のかなと思っていたら、ふいに、こちらを視た。


まるで世界に二人しかいないかのように、私にだけ語りかけるように歌い始めた。


「そのとき、私は初めて『恋』を知ったの」


一ノ星(いちのせ)の透明な感情に、熱を帯びた切実さが混ざり、赤く染まったように見える。


「それが、初恋、ということになるのか?」


「ええ。そう。それまで、漫画やドラマ、友達の話に登場する、ラブソングで美しい感情だと歌われる、恋よ」


一ノ星(いちのせ)は自嘲するように小さく笑った。


「私にとっては"記号の一種"だったけどね。足し算を覚えるのと同じ。人と人の間にそれがあると、関係が変化するの」


「おもしろい感覚だな。しかし、言い得て妙とも思うよ。かけ算ではないんだな」


「それはそれで、意味がかわるって聞いたよ?」


余計なことを言って、話が逸れてしまった。軌道修正する。


「すまない。それで、恋を知って、どう思った? どう変わった?」


「それまで、知識としてだけ知っていた言葉。『胸が苦しい』とか、『目が離せない』とか」


一ノ星(いちのせ)は自らの胸の奥に刻まれた、見えない傷跡を探り当てるように長いまつ毛を伏せた。


「ただの詩的な比喩表現だとばかり思っていた。でも違った。比喩でもなんでもなく、痛みをもって思い知った。……息が、上手く吸えなくなった。胸を内側から叩く鼓動は、閉じ込められた誰かが、ここから出してくれ、と乱暴に叩いているみたい。なのに、逃げることも逸れることできなくなった」


ありありと反芻している。


呼吸は浅く、表情に熱を帯びていく。


「恋をするって……、自分を失うことだと知った」


絞り出すような声音は、震えている。


「私の世界は、私だけの世界だった。明るくもなく暗くもない、視るとはなく視て、触れると思わずにも手を伸ばせた。でも、その世界に光か、あるいは闇が現れ、はじめて影が射した気がした。自分の影だった。ぐるぐると回る自分の影を見つめ、漠然と掻き乱されていく自分が壊されていくのを自覚した」


他者の感情を受け入れない彼女の世界は、完璧だった。自分だけの世界だった。


誰にも触れさせなかった彼女の絶対的な孤高。


誰も彼女と同じ高さに立てないからこそ保たれていた平穏が、たった一つの歌声によって、書き換えられた。


それは圧倒的な敗北か。そして、かつてない焦燥か。


「でも……」


ふっと顔を上げ、虚空を見つめたまま、ひどく美しい表情に変わる。


「どうしようもなく嬉しい。果てしなく落ちていく自分が、すごく怖かったけど。嬉しいの。ひたひたに満たされていく喜びに、抗えなかった。輪郭が溶け消えていく恐怖は、安らぎへと変わっていくのがわかった」


まるで夢と現を彷徨うように。


「愛しくて、苦しくて、手を伸ばして、直に触れたくてたまらなかった。私には手が足りてなかった。私を満たしてくれる手が。繋いでいても何も感じない手ばかり。自覚した。――ああ、これが、恋に落ちる、ってことか、と」


その圧倒的な熱量を伴った独白に、俺はただ言葉を失い、否定する。


――やめてくれ。


俺は、膝の上で強く拳を握りしめた。


一ノ星(いちのせ)が、どれほどの熱量で、愛し、恋というものを定義したのか。


聞けば聞くほど、胸の奥を刃物で抉られるような痛みが走る。


なぜなら。


決して、一ノ星(いちのせ)が触れたかったと手を伸ばした"恋"は、実らない――。それを知るのは、俺だけ。


「それが、あんたの知った"恋"なんだな」


ようやく絞り出した俺の声は、ひどく掠れていた。


一ノ星(いちのせ)は頷き、そして、表情を曇らせた。熱を帯びていた瞳に、暗い影が落ちる。


「ええ。……でも、その"初恋"は、散ってしまったわ」


「どうして?」


「私は彼女が帰り支度を終えたのを見計らって、声をかけたの。いつ、どこで歌っているのか、それが無理なら、せめて名前だけでも知りたかった。名前さえわかれば、調べようもある。連絡先をもらおうなんて、欲張りはしなかったわ。……下心はあったけど」


「軽い男がナンパ目的で話しかけるのとは違うんだ、その容姿に同性なら、警戒もされずに教えてもらえたんじゃないのか?」


「ううん。小さく首を振るだけだった。私も必死だったわ。怖がられないように、優しい声でお願いしたの。また歌を聴きたいだけ、SNSで告知してるなら教えてほしいって。でも、一言も返事をもらえず、逃げられたの。見事に振られたわ。後にも先にも、あれほど他人に拒絶されたことはない」


「たいした自信だな」


「事実だもの。すごくショックだったわ。だから、彼女を探しに行くのも辞めた。すっごい葛藤だった。"恋"を再び感じたいって渇望があるの。同時に、彼女にまた拒絶されたらって絶望もあるの。――まるで、死ぬのが死ぬほど怖いのに、生きているのは嫌で嫌で死にたくなったみたい」


「――だが、三回目がある、そう言ったな?」


「ええ。でも。……三度目に出会ったのは、本当に偶然だったのよ」


それからしばらく経った、雨の降る日のことだという。


以前歌っていた場所に、傘も差さずにうずくまっている人物がいた。


「すっかり様子が変わってしまった彼女を、あの歌姫だと気づけたのは、私だけだと思う。服はずぶ濡れで、長く美しい髪は無残に切られ、あちこち怪我をして、泣いていたわ」


あわてて駆け寄り、いったい何があったのか、助けが必要なのかと話しかけたけれど、しばらく彼女は何も話してくれなかったという。


「でも、しつこく聞いていたら、彼女は多くを語らなかったけれど、ただ『家族に反対されて、もう歌えない』と教えてくれた。そして、もう一つ」


一ノ星(いちのせ)はそこで一度言葉を切り、ひどく冷めた声で言った。


「彼女は、彼女じゃなかった。……男の人だったの」


「…………」


「その瞬間、私の中から"何か"が消え失せた。あれほどに強く感じていた渇望や絶望は消え失せ、色褪せた写真にようになった。思い出せるけど、もうそれは過去のことだと自分の中で整理された。――たぶん、世間の言う"百年の恋も冷める"とは、こういうことを言うのね、と実感した。今風に言えば"蛙化"ね」


「彼女が、そう言ったのか? 自分は男だと? 女のふりをして歌っていたと?」


「ううん、その人は、何も言わない。でも、しゃべる声は低く、近くでよく見れば喉仏があり、そして何より臭いでわかった。――ただ苦しみ、悲しみ、そして悔いていただけの、汚れた残りモノ。ずっと望んでいたモノをもらえるのかと、喜んで両手で受け止めようとしたら、手に乗せられたのが汚物だった。そのくらいの憤慨を感じた」


ひどい言い様だ。


「なんで男が女のふりをして歌っていたのか。なんで家族に反対されたくらいで、歌を辞めなきゃいけないのか。何一つ理解できなかった。……立ち上がってふらふらと去っていくその人を、私は追うこともしなかった」


部室に、重い沈黙が落ちた。


「あれから一度も、"恋"を感じたことがない。無数のラブソングを聴いてみたけど、何も感じない。きっと“彼女”の歌を聴いた瞬間だけ、呼び起こされるもの。“彼女”……。私は“彼女”自身に恋をしているわけでもないの。わかってる。たぶん、“恋”に“恋”するっていうのが近い。相手を思うのではなく、あの瞬間の、どきどきしていた自分に戻りたいだけ。……だから私は、片思いのまま終わるのよ」


彼女の語り終えた物語を聞いて、俺はすべてを理解した。


一ノ星(いちのせ)が作ろうとしている『片思いの歌』は、決して叶わない、切なくも残酷な恋の歌。


他人の感情を感じない彼女は、今、自分自身の感情にすらピントが合わせられていない。


ただ、かつて一度だけ味わった身を焦がすような"恋"を、もう一度だけ感じたいと渇望している。


そして――。


"彼女"は、もう二度と歌を歌わない。だから、これが最後だ。


「……少し、貸してくれないか」


俺は、呆然とする一ノ星(いちのせ)が、横に置いていたギターを、静かに手にした。彼女も小さくうなずいた。


「いいけど。一白(ひとしら)先輩、チューニングしてるところは見たことがあるけど、弾けるの?」


ギターのネックを握る感触。


ひどく懐かしく、そして同時に、あの日の鈍い痛みが指先を走るような錯覚を覚えた。


だが、恐れはなかった。


呆然と俺を見つめる一ノ星(いちのせ)をよそに、俺はパイプ椅子に座り直し、ピックを使わずに指の腹でそっと弦を弾いた。


チューニングの甘いアコースティックギターの音が、部室に響く。ペグを回して、軽く合わせる。


俺は、先ほど彼女が悩み、堂々巡りを繰り返していた未完成のメロディをなぞり始めた。


単調だったそのメロディに、彼女がたった今語ってくれた『痛み』を、ありきたりなコード進行として乗せていく。


俺は静かにハミングを始めた。


彼女が探していた、あの日の歌声を。


決して届かない相手を想う、ヒリヒリとするような渇望を、音のうねりに変えて紡いでいく。


自分の感情に、一ノ星(いちのせ)の感情を、強制的に同調させていく。かつて、そうしたように。


俺の特殊な力(チートスキル)で。


「あっ……」


一ノ星(いちのせ)の目が、限界まで大きく見開かれた。


彼女の表情が微かに歪み、震える唇から、無意識のうちに俺の音をなぞるようなハミングがこぼれ落ちる。


俺の低く掠れた声と、彼女の透き通るような声が重なり合う。


他人の感情がわからない彼女のために、俺が彼女自身の『切なさ』を翻訳し、音という形にして響かせる。


お前が感じていた恋は、こんなにも苦しくて、美しいものだったはずだと。


一ノ星(いちのせ)の瞳から、ボロボロと大粒の涙が溢れ出したが、彼女はそのまま、ハミングを続けていく。


初めて直に感じる自分の感情を、無防備に受け入れながら、徐々に、ピントを合わせていく。


彼女のハミングが、次第に明確な言葉を帯びていく。


あんなにも行き詰まっていた歌詞が、まるで堰を切ったように彼女の口から溢れ出してきたのだ。


自分では処理しきれなかった感情の奔流が、俺のギターという媒介を通すことで、明確な『歌』として形作られていく。


彼女は泣きながら、狂おしいほどの情熱を込めて、永遠に届かない片思いの切なさを歌い上げた。



――


何をするにも   手が足りない

靴紐さえ   結べやしない


揺れるだけの袖   なにもできない私を

誰のものとも   わからない声が


どこかにいざなう   初めての喜びに

光が咲いた   繋いだ手で 歩く世界


独りじゃ見えない   光を知った

独りじゃ行けない   あしたを知った


何をするにも  手が足りない

空も風も  掴めはしない


剥がれていく爪  かわりのない手を

誰なのか問うのも  許さない声が


私をうしなう  終わらないめまいに

影さえ落ちて  ついえた手を探す不快


独りじゃないと  知らなきゃよかった

独りじゃないと  どうして伝えたの?


けれど叫んだ声は  響いて消える

千切れるように  歌声は 裂けた


――



やがて、俺が手を止め、部室に静けさが溶けていく。


一ノ星(いちのせ)は溢れる涙を拭うのも忘れ、弾かれたように手元のノートに向かった。


今、自分の中に蘇ったこの熱を、二度と逃さないように。


必死にペンを走らせ、涙で紙を濡らしながら、夢中で言葉を書き留めていく。


そのひたむきな横顔を見つめながら、俺は静かにギターを壁に立てかけた。


不思議なほど、胸の中に音楽に対する未練や感傷はなかった。


あるのは、清々しい達成感だけ。


彼女を縛り付けていた過去の残滓は、先ほどの歌と共に完全に昇華されたはずだ。


俺の"やり残した仕事"は、これで終わった。


立ち上がり、自分のカバンを肩にかける。


もう、この部室に用はない。俺が歩むべき新しい道は、もう開けた。


「……ありがとう!」


帰り支度を始めた背中に、一ノ星(いちのせ)が弾んだ声を投げかけてきた。


涙でぐしゃぐしゃの顔を輝かせ、彼女は興奮冷めやらぬ様子で立ち上がる。


「あの時に感じた感情を……。ううん!もしかしたら、それ以上かもしれない! まるで、“彼女”の歌を聴いたみたい……!」


純粋な喜びと、新しい歌を生み出した興奮。


一ノ星(いちのせ)は、こちらを見ることなく、自分が書いた詩をじっと見つめ、そして確かめるように口ずさむ。


もう俺のことなど、眼中にもない。


俺は部室のドアノブに手をかけ、振り返ることなく、扉の向こうの薄暗い廊下を見つめたまま口を開いた。


「一つだけ、弁解しておくよ」


「……ん?」


言う必要も無いことだが、さすがに言われっぱなしなのも癪だ。


こちらを見ることさえしない一ノ星(いちのせ)に、淡々と、ただ訂正だけを口にする。


「女のふりをして歌っていたつもりはない。俺は喋る声と違って、歌うときはハイトーンの方が声が抜けやすいんだ。格好にしても、家業の都合で髪を切らせてもらえなかっただけだしな。……まあ、終わったことさ。あいつらに利用されるくらいなら、もう二度と歌わない、そう決めたんだ」


ガチャン、と冷たい音を立ててドアノブを回す。


「へぇ、そうなんだ……。え……。ちょっと待って、それって、どういう……」


背後で、一ノ星(いちのせ)の息が不自然に止まる気配がした。


バサリとノートが床に落ちる音、そしてガタッ! と丸椅子が倒れる派手な音が響く。


彼女の明晰な頭脳の中で、すべてのピースが繋がり、残酷な真実を導き出したのだろう。


「まさか、一白(ひとしら)先輩――」


彼女の叫びが届く前に。


俺は「じゃあな」と短く言い残し、部室の扉を閉めた。


二人の世界を完全に遮断する。


取り残された彼女の爆発するような驚愕と、俺の心に広がる静寂と、けっして混じらない。


もう振り返ることはない。


俺はただ前だけを見て、歩き出した。




扉の向こうから聞こえてくるのは、泣き崩れる声でも、謝罪の言葉でもなかった。


「……あはっ。もう二度と、歌わない? 逃がさない。あたえない、かまわない。臓腑ごと掻き出し、何か残るか見てみない? いいじゃない!」




「おっ、先輩。ちょうど終わったみたいっすね」


薄暗い廊下を抜け、昇降口に向かおうとした俺の前に、ニヤニヤと薄ら笑いを浮かべた高始が立ち塞がった。


おそらく、俺が機材を持ち逃げしていないか、確認に来たのだろう。


すれ違いざま、高始は俺の耳元で、これまで貼り付けていた薄っぺらい敬意を完全に剥がして囁いた。


「あんたをもう先輩として敬う必要はなくなったな、おっさん。……とっとと大学も辞めろや」


俺は立ち止まりもせず、視線すら向けなかった。


何を言われようと関係のない。言い返す言葉すらない。


そうして高始をやり過ごし、駅へ向かおうとした、その時だった。


「待って……っ! 一白(ひとしら)先輩っ!!」


背後から、廊下に響き渡るような大きな声が鼓膜を打った。


振り返るよりも早く、誰かが俺のカーディガンの袖を力強く、千切れんばかりに掴み取った。


「ぜぇっ、はぁっ……! おねがい、待って……!」


そこにいたのは、長い黒髪を振り乱し、息を切らし、大粒の涙をボロボロとこぼしている一ノ星(いちのせ)だった。


誰に対しても壁を作らず、常に涼しい顔をしていた『絶対的孤高の花』の面影はどこにもない。


ただの、必死で不器用な、年相応の女の子がそこにいた。


「お、おいレンちゃん!? どうしたの急に、泣いて……」


あまりの豹変ぶりに、高始も呆然と立ち尽くしていたが、すぐに持ち前の軽薄な笑みを浮かべて、俺と一ノ星(いちのせ)の間に割って入ろうとした。


「何か、このおっさんにされた!? ほら、もうこんな奴放っておいて、俺といこうぜ! レンちゃん、慰めてやる――」


「触らないで」


一ノ星(いちのせ)の声は、絶対零度だった。


涙で濡れた顔のまま、彼女は俺の袖を掴んだ手を離さず、高始を制止するように睨みつけた。


「え……?」


「それと、馴れ馴れしく下の名前で呼ばないでください。高始先輩」


いつもの、誰にでも優しいAIのような対応ではない。明確な『嫌悪』と『怒り』の感情が、その声にはこもっていた。


「あなたは独りよがりなノイズなんです。音楽のことも、他人の心も理解しようとしない。あなたの近くに、私はもう一秒たりともいたくありません」


「な、なんだよそれ……っ! 俺はサークルのために――」


「今日限りで、退部します」


一切の反論を許さない、冷徹で完璧な拒絶。


サークルの姫としてちやほやしてきた女から、音楽性も人間性も全否定された。


それも、周囲の部員たちも顔を出し始めた廊下のど真ん中で。


高始の顔は朱に交わり、やがて屈辱に歪むと、「……勝手にしろ!」と吐き捨て、逃げるようにその場から走り去っていった。


ざわめく周囲の視線も気にすることなく、一ノ星(いちのせ)は再び俺に向き直った。


一白(ひとしら)先輩……!」


「……驚いたな。お前が感情を剥き出しにするなんて」


「私だって、怒ります……! 当たり前です、私は人間なんだから!」


一ノ星(いちのせ)はしゃくりあげながら、俺の袖を両手でギュッと握りしめた。


「ごめんなさい……。私、馬鹿だった。感情がわからないなんて嘘だ。……ただ、怖かっただけなの」


「怖かった?」


「完璧で、美しくて、手の届かない『理想の初恋』じゃなくなるのが。泥臭くて、傷ついていて、現実の人間になっちゃう自分に向き合うのが……」


彼女の言葉には、痛いほどの熱があった。


かつて他人の感情をシャットアウトしていた分厚い壁は、今、打ち砕かれている。


「私がずっと求めていたのは、あの日の綺麗な思い出じゃない。不器用でも、傷ついてでも、誰かの心に届けようとする……。あなたの『声』だったんです」


ボロボロと泣きながら、なりふり構わず俺にすがりつく彼女の姿を見て、俺は小さく息を吐いた。


もう振り返ることはない、そう決めたはずだ。


家業のしがらみも、音楽への未練も、サークルでの惨めな日々も、すべて置いてきたつもりだ。


だが――。


音楽を愛した者として。


かつて誰かに歌を届けたいと願った者として。


これほどまでに自分の音楽を渇望し、プライドも何もかも捨てて泣きじゃくる『たった一人の観客』を前にして。


無関心に背を向けられるほど、俺は冷酷になれそうになかった。


それに、完璧だと思っていた彼女が、これほどまでに人間臭く、不器用な姿を晒している。


愛嬌があると思ってしまったのは事実だ。


「……カラオケに行きましょう。今すぐ」


一ノ星(いちのせ)が、真っ赤な目で俺を見上げて懇願する。


「歌ってください。もう二度と歌わないなんて、言わないで」


俺はわざとらしく、頭を掻いた。


過去との決別、清々しい達成感。


そんなものは、彼女の涙の前ではあっさりと形を失ってしまったらしい。


「……断る。俺はもう歌わないと決めたんだ」


「えっ……」


絶望に染まりかける彼女の顔を見て、俺は口角を少しだけ上げ、言葉を継いだ。


「でも、君が歌うのは手伝うよ。バックコーラスなら、してもいい」


その瞬間、一ノ星(いちのせ)の大きな瞳から、今日一番の大粒の涙がこぼれ落ちた。


しかし今度は、ひどく美しく、あどけない笑顔を伴って。


「ふふっ……! はいっ!」


一ノ星(いちのせ)は嬉しそうに俺の腕にすり寄り、ギュッとその手を絡めてきた。


新しく歩むはずだった孤独で自由な道は、どうやらこの不器用で面倒な後輩によって、早々に塞がれてしまったらしい。


だが、繋がれた手から伝わってくる確かな『熱』を心地よいと感じている俺は、もう二度と、孤独な世界には戻れそうになかった。




この狂気を、手放しに、世間に解き放つわけにはいかなかった。



作中に記載した歌詞を、AI生成した歌として公開しています。

https://youtu.be/Hbf_HPwgWZA

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