その声に抱かれて
【固定】
始めまして、三軒長屋 与太郎です。
ゆっくりと物語の中の世界を、楽しんで頂けると幸いです。
「やっぱり俺は、冬が好きだな」
声が、鼓膜を震わせる。
「君の肌が、一段と輝く」
声が、輪郭をなぞるように広がる。
「寒さに凍える君を、抱きしめる理由がある」
声が、背中に熱を落とす。
「赤く火照るグラデーションが、君の価値をどこまでも引き上げる」
声が、皮膚の内側まで染み込んでくる。
「俺の声は、君の動脈を湿らすためにある」
私の身体が、どうしようもない熱さに果てる。
声の主がこの部屋を去ってから、もう半年以上が過ぎるのに、いつまで経っても声が消えない。
いけないことだと分かっているのに、私の身体は、声に抱かれるのを断れない。
想い出は全部捨てたはずなのに、声は、煙草の黄ばみと一緒に、この部屋の壁紙に染みついている。
「今夜は酷く冷えますね?」
それが、出逢って最初の声。
「君と出会えて良かった。危うく今年の冬の寒さを乗り切れないかも知れないところだったんだ」
それが、付き合って最初の声。
「ひとつひとつ丁寧に、君のことを知っていきたい。大事に、大事に、君を食べたい」
それが、最初の夜の声。
「ずっと君の寝顔を見つめていたんだ」
それが、最初の朝の声。
「やっぱり俺は、夏が嫌いだ」
それが、あなたの最後の声。
私は明日、この部屋を去る。
沢山の想い出を捨てたこの場所に残っているのは、小さな段ボールが三つと布団だけ。
一緒に育てた小さなサボテンも捨てた。
お揃いで買った柔らかなバスローブも捨てた。
それなのに……無機質な空間の中で、あなたの声が泳ぎ続ける。
「この中には、俺の好きな匂いが充満している」
声が布団の縁を揺らし、内側へと忍び込んでくる。
「どんなに君が抵抗したって、こんなにか弱いんじゃ意味ないさ」
声が、両手首の自由を呆気なく奪う。
「君の体温が、冷え性な俺の指先に移る……この感覚が好きなのさ」
声が腰を伝って滑り落ち、逃げ場のない静脈を探り当てる。
「少し痛いくらいが好きなんだろう? こうやって」
声が、首筋に淡い歯型を残す。
「君の全てを愛したい。ひとつになるほど抱きしめたい。俺の全てを受け入れさせたい」
声が、私の中へと侵食する。
私があなたの声に抱かれるのも、今夜が最後です。
あなたが沢山くれた「好き」って言葉も、あなたが沢山ついた「愛してる」って嘘も、今夜は全部許してあげる。
私はこの部屋を出て、新しい家で、新しい声に抱かれる。
この世界のどこかで、あなたの声が、ほかの誰かに囁いていると思うと、今でも心臓が痒くなる。
そんな情けない私のことも、今夜は全部許してあげる。
「俺はトマトが嫌いなんだよ。あのグジュッとした感触がさ」
なんでもない日常が脳裏に浮かぶ。
「次の休みはスノーボードに行こう。久し振りだから、滑れる自信はないんだけれど」
なんでもない日常に心が躍る。
「今日は早めに帰るよ。観たい映画を見つけたから、一緒に観よう」
なんでもない日常を、強く強く抱きしめる。
「いつも俺ばっかり酔わせて、この後どうなっても知らないからな」
なんでもない日常に、強く強く抱きしめられる。
「君が居てくれて感謝しているんだ。こんなにも人に受け入れてもらったのは初めてだし、こんなにも人を愛したのも初めてだから」
なんでもない日常が、意識の遠くへと色褪せていく。
家を出る。
「いってらっしゃい。気をつけて」
背中に掛けられた声に、私は返答しない。
後ろ髪をさする声に、振り返りもしない。
あなたがそうしたように、私も黙ってこの部屋から消える。
ガチャン……と、鍵を閉める音だけを残して。
【固定】
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