病弱な妹に婚約者を奪われたので、“お灸”を据えて差し上げましたわ
「エルロ、君との婚約を破棄する!」
それは、侯爵家嫡男であり、エルロの婚約者であったマーカス・ボルグからの、あまりにも突然な宣言だった。
その傍らには、咳き込みながら俯くエルロの妹──リリス。
「お姉さま、ごめんなさい。わたくし、マーカス様を好きになってしまったの……」
いつものように、儚げな瞳に涙を浮かべていた。
「僕はリリスと婚約する。か弱い姿を見るたび、どうしても放っておけなくなる……守ってやりたくなるんだ」
リリス・イーゼルは、生まれついての虚弱体質。
少し寒ければすぐに熱を出し、埃が舞えば咳き込み、食も細く──「苦しいの……」と震える声で訴えるその姿は、まさに“儚げな美少女”と呼ぶにふさわしかった。
両親はそんなリリスを溺愛し、「病弱な子には、何一つ我慢をさせてはならない」と、いつもエルロに言い聞かせていた。
伯爵令嬢エルロ・イーゼルは、そのたびに、何もかもを妹に譲ってきた。病弱な妹が、少しでも穏やかに笑えるようにと。
ドレス、髪飾り、宝石、家庭教師──そして、ついには婚約者までも。
「……かしこまりました。どうか、リリスを幸せにしてあげてください」
エルロは、自らの想いを胸の奥に押し込めながら、微笑んだ。
◇
エルロは、王宮に仕える薬師だった。
薬草や調合に優れ、若くして頭角を現していたエルロは、妹の病を癒すために、この道を選んでいた。
けれども、どれだけ薬を調合し与えても、妹リリスの体質は変わらなかった。
咳止め薬、滋養強壮薬、気付け薬……効果は一時的。
「対症療法だけでは、意味がないのだよ」
そう語ったのは、異国で医学を修め、つい先日戻ってきた医師──カイセナ・フリード。
彼は、薬に頼らず、鍼灸と体質改善を重んじていた。
「身体の巡りが悪い者に、いくら薬を飲ませても根本的な改善は望めない。重要なのは、体を整えることだ」
彼の意見に、エルロは反発した。
「けれど、あなたの治療には、薬のような即効性がございませんわ。患者の痛みを少しでも和らげてあげるのが我々の務め」
「即効性よりも、持続性を重んじる。それが真の医術だと、私は信じている」
その時のエルロには、まだ彼の言葉が素直に受け入れられなかった。
◇
その日、カイセナ・フリードの施術室には、大柄な男が通されていた。
王国軍を退役した老兵、グラム・ヴォルド。かつて「鉄槍のグラム」と恐れられた武人も、今では膝の痛みに悩まされ、重たげな杖を頼りに歩いていた。
「もう十年になりますよ、痛みと付き合うのは。毎日、薬が手放せなくて」
グラムは苦笑した。
エルロは隅の椅子から、そのやり取りを黙って見守っていた。最近、彼女はカイセナの助手を務めていた。
「根本から身体を整えましょう」
そう言ってカイセナは、老兵の膝裏と太腿に数本の鍼を打ち、艾をのせて火を灯す。煙が静かに立ち上り、部屋の空気がぬるく温まる。
「痛む箇所だけを見ていても、原因は見えません。身体の巡りが滞っているんです。巡りを正せば、痛みも自然に治まります」
「巡り、ね……本当に、そんなことで良くなるのかね」
半信半疑ながら、グラムの目にはわずかに期待が宿っていた。
数日後、エルロが薬を整理していると、明るい声が響いた。
「お嬢さん、見てくだせぇ!」
現れたのは、杖を持たないグラムだった。
その大柄な体は以前よりもしっかりと立ち、軽く片足立ちまでしてみせた。
「膝が軽いんですよ。朝もすっと起き上がれるし、階段も平気。何より、気持ちが違う。前を向ける気になれたんです」
エルロは、目を見開いた。
王宮薬師として、これまで多くの患者に薬を処方してきた。だがそれは、あくまで症状を和らげるだけで、病の根を断つものではなかった。
「お灸のあと、体がぽかぽかして、よく眠れるんですよ。戦場で冷えたこの身体を、ようやく温めてもらった気がします」
グラムはそう言い、満足げに笑った。
その笑顔を見つめながら、エルロは胸に小さな違和感を覚えた。
──薬だけでは、足りないのかもしれない。
いくら上質な薬を使っても、リリスの体質は変わらなかった。咳も熱も、何度も繰り返していた。
だが、目の前の老兵は、巡りを整えることで、身体そのものを変えたのだ。
症状を抑えるのではなく、体そのものを整える。
その違いが、これほどまでに大きいのか。
「痛みがないだけで、気持ちまで前向きになれる……」
その言葉が、エルロの胸に静かに残った。
この日を境に、彼女は鍼灸術に真摯に向き合うようになった。同時に、カイセナへの見方も、少しずつ変わっていった。
◇
それからのエルロは、カイセナのもとで鍼灸術を学び始めた。
薬師として人体の構造に通じていたこともあり、習得は驚くほど早かった。脈を診て、経絡を読み、要穴に適切な刺激を加える──すべては妹・リリスの体質を変えるため。
そして、ついにその時が来る。
「お姉様……お薬をいただきに参りましたの……最近また、喉の調子が……」
リリスはいつものように弱々しくまぶたを伏せ、吐息も細い。風一つでも倒れそうな姿に、エルロは穏やかに微笑んだ。
「ええ、もちろん。でも今日は、お薬ではなく──お灸を試してみましょう」
「おきゅう……ですの?」
「身体の巡りを整えて、根本から体質を変えていく療法ですわ」
リリスは不安げに瞬きをしたが、やがてこくりと頷いた。
エルロは丁寧に艾を捻り、妹の背と脚に据えていく。そして、火を灯した。
「ひゃっ……あつっ……あ、でも……じんわり気持ちいいような……」
「ふふ、大丈夫。あなたの身体は、ちゃんと変わっていきますわ」
妹の手をやさしく握りながら、エルロはそっと囁いた。
──それから一ヶ月後。
「……リリス様が、ケーキを五皿も?」
「この前は宴のメイン料理を二皿……」
「最近、なんだか迫力が増して……いえ、健康そうで何よりですが……」
屋敷の侍女たちが、こっそりと噂を交わすようになる。
リリスの体調は明らかに良くなり、食欲も増進。ふっくらとした頬、張りのある二の腕。肌には艶が戻り、“儚さ”はすっかり影をひそめていた。
本人は気にしているようだったが、健康は何よりの美徳──エルロはそう信じていた。
「お姉様……最近皆の目が……わたくし、もう少し食事を控えたほうが……」
ある日、そう漏らすリリスに、エルロはきっぱりと言った。
「だめですわ、リリス。せっかく元気になってきたのですもの。しっかり召し上がって」
「で、でも……ドレスが……入らなくて……」
それは、お灸の効果が現れている証だった。
リリスはもう、“可哀想な病弱美少女”ではない。
今や“頼もしい健康令嬢”──誰の助けも借りず、地に足をつけて歩ける娘になったのだ。
エルロは静かに微笑む。この変化こそ、彼女の願った未来だった。
だが、かつてのリリスの“魅力”──それは、儚げな病弱さ。
健康的でふくよかになった今、マーカスからは婚約を破棄され、舞踏会では誰一人、彼女に近づこうとはしなかった。
◇
ある日。
王宮の廊下を歩くエルロの前に、リリスが現れた。
「お姉さま……」
リリスは、おずおずと声をかけた。
「お願いですの……お姉さま、わたくし……また、前のように病弱な身体に戻りたいのです……」
その声には甘えと懇願、そして泣き落としの色が混じっていた。
「健康になってから、誰もわたくしのことを見てくれません……。マーカス様にも婚約を破棄されました。舞踏会でも誰にも誘われません。お洋服も、宝石も、新しい香水も……全部、全部意味がなかったのです。元気なわたくしなんて、誰にも求められていませんのよ……!」
エルロは沈黙したまま、妹の訴えを見つめていた。
「だからお願い……お姉さまだけが頼りなのです。ほんの少しでいいの。体が弱く見える薬でも──せめて、誰かの目に“か弱い令嬢”に映るような見た目だけでも……。今のままでは……わたくし、生きている心地がいたしませんの……!」
その言葉とともに、リリスは膝をつき、エルロの前でぼろぼろと涙をこぼした。
それは懇願というより、悲鳴に近かった。
自らの存在価値が失われたことへの恐怖と、必死にすがりつくような絶望の吐露。
だが──エルロの表情は、微動だにしなかった。
「……リリス」
その声には、穏やかな響きがあった。けれども、その奥にあるのは、鋼のように固い意志だった。
「あなたは、わたくしの人生そのものでした。あなたの幸せのためなら、わたくしは望まれるまま、すべてを差し出しました。愛さえも」
リリスのすすり泣きが止まる。エルロは、なおも淡々と告げた。
「ですが、もう違います。薬師であるわたくしの務めは“病を癒すこと”。あなたを再び苦しめる手助けなど、決していたしません」
「……どうして……お姉さま……わたくしを見捨てるの……?」
「見捨ててなどいません」
エルロは、涙に濡れるリリスを見下ろした。その視線にかつてのような情はなく、静かな決別の光だけが宿っていた。
「わたくしは、ようやく“あなた”という呪縛から解き放たれたのです。あなたはもう、自分の足で人生を歩いていけるのです」
リリスはその場に崩れ落ちた。しゃくりあげながら、エルロの足元に縋る。
だが、エルロはその手を取らなかった。
すっと踵を返し、ためらいなくその場を去っていく。彼女の背はまっすぐで、もはや一度たりとも振り返ることはなかった。
◇
その日、カイセナの施術室は、穏やかな光に満ちていた。
エルロとカイセナが並んで記録を整理していた、そのとき──
バンッ!
突然、扉が乱暴に開かれた。
「エルロォォ……!」
現れたのは、マーカス・ボルグだった。
かつての理知的な面影は跡形もなく、哀れなほどに取り乱していた。
「リリスとは、婚約を……破棄した! リリスは、あんなに儚くて、守ってあげたくなるような子だったのに! 今はもう……僕の望んだリリスじゃないんだ……!」
マーカスはそのまま力尽きたように膝をつき、呻くように言葉を続けた。
「だから……だから、今度はエルロ……君を守りたいんだ。妹に全部奪われてきた、かわいそうな君を……」
その声は次第にしゃくり上げに変わり、マーカスはついに床に手をつき、顔をくしゃくしゃにして泣き崩れた。
涙と鼻水を垂らしながら、エルロの裾に縋りつく。
「お願いだよ、エルロ……もう一度、僕と婚約してくれよ……! 僕の……僕の願いを叶えてくれ……っ!」
見かねたように、冷たい声が響く。
「──ずいぶんと身勝手な言い分だ」
カイセナだった。
静かに歩み寄りながら、マーカスの腕を無理やり引き剥がす。
「……見苦しい。エルロがどれほどの犠牲を払ってきたか、少しでも想像できるか?」
「な、何が犠牲だよ……! 俺だって……リリスを……!」
「黙れ!」
カイセナの怒声が、室内に鋭く響いた。
「妹にすべてを譲り、自分の感情も欲望も押し殺して……それでもなお、人のために……妹のために尽くしてきた。それがエルロだ。お前はそれに気づきもせず、何をしてきた?」
「うるさいっ! 俺だって……リリスを……守って……!」
「リリスを守っていたのは、お前ではない……エルロだ! それすらも理解できぬ者に、エルロと並ぶ資格などない!」
マーカスが何か反論しようと口を開いたが、それを制するようにカイセナは続けた。
「それに、彼女は……私の婚約者だ。今さら君に入り込む余地は、どこにもない」
マーカスの目が大きく見開かれた。
「……な、なんだと……?」
カイセナは無言でエルロの隣に立ち、そっと彼女の手に自分の手を重ねる。
「……う、嘘だ……」
マーカスは崩れ落ちるように床に伏し、嗚咽を漏らし始めた。もう言葉になっていない。
「帰れ。今すぐ、この場から立ち去れ」
カイセナの静かな一言に、マーカスは這うようにして施術室を後にした。
その背中は、哀れという言葉ですら表現できないほどだった。
沈黙。
やがて、エルロがそっと呟いた。
「……ありがとう、カイセナ」
カイセナは優しく微笑むと、彼女の手を包み込むように取り、跪いた。
「さっきの言葉は嘘じゃない。これからも、君の隣を歩いていきたい」
真摯な眼差しで、彼は彼女を見上げる。
「……結婚を前提に、私と人生を共にしてくれないか?」
エルロは目を見開いたが、すぐに頬に柔らかな紅を浮かべ、微笑んだ。
「……ええ。喜んで」
重ねられた二人の手は、深い信頼で結ばれ、もう二度と離れることはなかった。
現実世界と異なる点が多々あると思いますが、異世界の医術のお話です。ご理解ください。
また、薬による対症療法を否定しているわけではありません。そちらもご理解いただけると幸いです。
最後までお読みいただきありがとうございます。
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