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プロローグ

 太陽の頭が遠くの山に隠れる頃、俺は目的の宿にたどり着いた。

 『ならざる荘』

 今にも落っこちてしまいそうな看板がボロい宿に掲げられていた。スーツケースを持ち上げて、高めの石段を上がる。雨上がりの湿った石段が、消えかけた夕日の光を反射していた。

 俺は暖簾のかかった扉を開けた。

「いらっしゃいませ。お待ちしておりました。倉持様ですね」

 ガラガラと建付けの悪い重たい引き戸を開けると、淡いオレンジの照明に照らされた女将さんが俺を出迎えてくれた。

 不思議なくらいに色の白い人で、厚い眼鏡の奥から赤にも見える瞳がこちらを覗いていた。

 俺はあたりを見渡した。古ぼけてはいるが綺麗な内装で、むしろレトロな雰囲気がいい感じの宿だ。母親に宿泊費たった300円を持たされて来たから、一体どんな不良宿に泊まらされてしまうのかと思いきや、案外よさ気な宿で安心した。女将も美人だし。

 なぜ俺がこの宿に泊まることになったかというと、話はひと月前に遡る。


  ◇


 高校三年生の一番のイベントといえば、それは就職であったり、大学受験だろう。俺の高校はそこそこの進学校で、大学や専門学校に進むやつがほとんどだった。俺もその例に漏れず、大学に進学することにした。

 共通テストが終わって、国立大学の出願先を決めることになった。俺は担任と話し合って、以前決めた第一志望のまま出願してもいいだろうということになった。

 母にどこそこの大学に出願する、と伝えたら、せっかちな母がすぐさま予約を入れてしまったのが、あの宿だった。県外の大学で、一泊しなければならなかったから別になんの問題もなかったが、母親の『300円!?』という声が俺を不安にさせた。


  ◇


「お荷物、お持ちしますね」

「あっ、ありがとうございます」

 女将さんの声で、俺は回想をやめた。

 女将さんが部屋まで案内してくれた。見かけがいいのはエントランスだけで、泊まることになる部屋は犬小屋みたいなんじゃないかと肝を冷やしたが、通されたのは至って普通の部屋だった。

 それどころか、かなり豪華な部屋だ。300円という値段を考えたら、ありえないくらいの高級感溢れる部屋。

 当然ながらここでひとつの疑問が湧く。

 ――どうしてこの宿はこんなにも安いんだろうか。

 実は300円ではなく300ドル、と言われても信じてしまいそうなくらい立派な宿だ。俺は荷物を置いて、女将さんに尋ねてみることにした。

「あの、どうしてここはこんなに安いんでしょうか?」

 些か失礼な質問だろうか。しかし、聞かずにはいられなかった。

「よく聞かれます」

 女将は微笑んだ。

「受験生応援割引、ということでお安くさせて頂いております」

「なるほど」

 女将の説明はストンと腑に落ちた。俺のような受験生のために安くしてくれているとは、なんともありがたい。

「それと……」

「それと?」

 女将さんの表情が変わった。

「出るんですよ。この宿」

「――」

 温まり始めた俺の肝は、凄まじい勢いで凍りついた。


  ◇


 運ばれてきた夕食を眺める。ごはんに味噌汁、刺身に漬物、山菜の天ぷらに名前の分からない和食が数品。さらに朝食までついて300円。いくらなんでもやりすぎな価格設定だろう。

 よほど、出るというモノが悪さするんだろうか。俺、生きて帰れるよな……?

 そんな不安を胸に、俺は料理を口に運んだ。

「うまい!」

 俺は思わず叫んでしまった。

「ありがとうございます」

 入口のところで控えていた女将さんが微笑んだ。

「それでは、お料理をお楽しみください。お食事の後はぜひ、当館自慢の温泉へどうぞ」

「あ、はい」

 そう言って女将さんは音もなく襖を閉め、この部屋から去っていった。

 温泉もあるのか、この宿は。至れり尽くせりで、明日の試験がどうでもよくなってしまいそうだ。

 俺はひとり、上等な料理を楽しむことにした。


  ◇


 料理を食べ終え、明日の試験のために軽く復習をしていたら、すっかり夜が更けてしまった。

 夜の1時過ぎ、俺は浴場へ向かう薄暗い廊下を歩いていた。

 するとそこへ1匹の黒猫が現れた。その首には鈴のついた首輪がかかっている。この宿で飼われている猫なのだろうか。

 黒猫は尻尾をフリフリと揺らして、廊下の奥へと消えていった。暗い廊下の向こうで、猫が振り返ったのか、緑色の眼が光った。

 黒猫は魔女の遣いとも言うし、横切られると不吉だとも言う。女将さんが出るとか言うからますます嫌な予感がして、冷えきって凍りついてしまった肝を溶かすためにも、俺は浴場へと急いだ。

 浴場の入口には藍色の暖簾がかかっていた。俺は暖簾を潜り、浴場へ足を踏み入れた。

 この時間になってしまえば浴場も貸切状態だ。脱衣所には誰の服も置かれていない。俺はすぐさま服を脱いで浴室の扉を開けた。

 カラカラと子気味いい音がして、ふわりと湯気が俺の体を包んだ。

「おお……、これは」

 やはり浴場も300円とは到底思えないクオリティだった。

 大きな窓から望める立派な露天風呂も、風情があってグッドだ。早く湯に浸かりたい俺は、洗い場で手早く体を洗って、露天風呂へ飛び出した。

 全裸ではしゃぐ18歳は、他所から見たらさぞ滑稽に映るだろうが、幸い今は貸切状態だ。俺は誰に遠慮するでもなく、全力で湯に飛び込んだ。

「はぁ、生き返るぜ――」

 熱めのお湯が体の疲れを癒していく。冬の澄み切った空には満点の星空。最高のシチュエーションだ。

 体にかかる浮力を楽しみながら、星空を眺める。チラチラと夜空は星に埋め尽くされていた。

「あら……?」

 リラックスしていた俺の耳に女性の声が届いた。あまりに気を抜きすぎて、幻聴が聞こえてしまったらしい。

「倉持、様?」

 随分と綺麗な声の幻聴だ。その姿もさぞかし綺麗なんだろうな――

「女将さん!?」

 俺は思わず姿勢を正した。そして息子を隠した。

「すみません。この時間なら入っていないと思って……。良ければご一緒させて頂けませんか?」

「ど、どうぞっ」

 前を大きなタオルで隠した女将さんが湯に入ってきた。

 てか、ここ混浴だったのか? そういえば男湯と女湯って書いてなかったような。

 湯はにごり湯で半透明だが、よく目を凝らせば見えてしまう。俺は目のやり場に困った。

「明日、試験なんですよね。頑張ってくださいね」

 女将さんがそう言った。

「あ、ありがとうございます」

 正直、この状況のせいでさっき詰め込んだ内容全て忘れてしまいそうだ。星の明かりと弱い照明があるだけで、薄暗いのがせめてもの救いだった。

 着物で分かりづらかったが、この女将、なかなかご立派なものをお持ちだ。

「俺、もう上がります……!」

 興奮と湯の熱さのせいでのぼせてきてしまった。

 俺は逃げるように湯から飛び出した。そしてその勢いのまま、濡れた床で盛大に転び、強かに頭を打ち付けた。目の前が星で埋め尽くされた。


  ◇


 目が覚めた。夢を見たような気もするし、見ていないような気もする。朝だった。

 ――って。

「今何時だ!?」

 風呂場でぶっ倒れたはずの俺は、なぜか布団の上にいて、服も着ていた。枕のすぐ側にあったスマホで時間を確かめる。

 5時17分。なんだ、まだ大丈夫だ。

 今日は試験当日。試験時間に遅刻してしまったら、わざわざこの旅館に泊まった意味がない。俺は顔を洗うために洗面所へ向かった。

 体を起こすと妙に体が軽い。昨日、というか今日の未明にぶっ倒れて質のいい睡眠はできているはずがないのに、不思議と体調は絶好調だった。鏡はやたらと曇っていたが、鏡に映る自分の顔はいつも通りだった。

 部屋を出た。朝食は広間に用意してあると昨日の夕飯のときに教えられていたから、そこに向かった。

 広間に入ると女将さんがいて、すでに朝食の準備はできているらしかった。女将さんは部屋のすみっこでお茶を飲みながら朝のニュース番組をザッピングしていた。

「あ、持倉様、おはようございます」

「おはようございます」俺は上ずった声であいさつを返した。

 女将さんは俺に気づき、テレビの電源を消して振り向いた。

「体調、いかがですか?」

 女将さんは新しくお茶を煎れながら俺に尋ねた。

「はい、なんとも」

「それは良かった。あの後お部屋まで運ぶの大変だったんですよ」

 女将さんは口に手を当てて笑った。その様は品があって美しかった。

 もしかして、俺は女将さんに全裸で伸びている姿を見られてしまったんだろうか。まあ、絶対見てるよな。それにこの宿は女将さん一人で切り盛りしているようだし、女将さんが俺に服を着せて一人で運んだんだろう。裸を見られてしまったことへの恥じらいと、迷惑をかけて申し訳ない気持ちで板挟みになって、耳まで熱くなるのが分かった。

 二重苦じゃないか。

「その……、ありがとうございました……」

 俺は絞り出すようにお礼を言った。

「いえいえ、いいんです。どうぞ、お茶です」

「あ、ありがとうございます」

 俺は女将さんから湯呑みを受け取って、向かいの椅子に座った。お茶に少し口をつけて女将さんを見た。

「あ。朝ごはんですよね! 今準備致します」

 女将さんは手をポンと打ち合わせて立ち上がった。

 広間に一人になってしまった。スト――ブが焚かれているが、二月の朝はやはり寒い。一人だと余計に寒さを感じる。

「ニャア」

「お前は……、昨日の」

 一人でストーブにあたっていると、目の前に一匹の黒猫が現れた。昨日廊下で出会った黒猫だった。

「おいで」

 黒猫に手招きしてみる。

「ニャーン」

 黒猫が近づいてきて、俺の指先の匂いを嗅いだ。このまま撫でさせてくれるのだろうか。

 ――ガブリ。

「いってぇ!!」

 顎を撫でようとしたら、見事に指を噛みつかれてしまった。この野郎……。

「どうかされましたか?」

 奥からお盆を持った女将さんが現れた。

「もしかしてミーちゃんに噛まれちゃいましたか? この子、噛みグセがあってよく噛み付くんですよ。大丈夫でしたか?」

「はい、大丈夫です」

 俺は手のひらを見せた。咄嗟に抑えた左手には血が着いていたが、噛まれた方の右手には不思議と傷はなかった。

「この子普段は放し飼いにしてるんですけど、冬場は気づいたら中で暖を取っているんです。気まぐれな子だから……。あ、エサまだだった。もしかしたら、エサと間違われちゃったのかもしれませんね」

 ふふふ、と笑って女将さんは俺の前にお盆を置き、さっきまで座っていた椅子に腰掛けた。

いや、ふふふじゃないわ。そう言ってやりたかったが、女将の温和な笑顔に照れて何も言えなかった。美人ってずるい。

「どうぞ、召し上がってください」

 女将さんにそう言われ、机の上に乗った朝ごはんを見た。昨日の夕飯に負けず劣らず、かなり豪華な朝ごはんだった。朝からこんなに食べれるか不安なくらいな量だ。

「いただきます」

 案の定、朝食も美味しかった。


  ◇


「それでは行ってらっしゃいませ。試験、頑張ってくださいね」

「はい、色々とお世話になりました」

試験場についてから、俺は女将さんとのやり取りを思い出していた。

 今朝起きてからというもの、妙に体が軽く頭も冴えている。これはきっと温泉と女将さんの美味しいご飯のおかげだろう。

 試験官の始めの合図で俺は鉛筆を握った。


 お読みいただきありがとうございます。続きます。

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