第四話 先生はウサギのマーヤ
葵には、携帯端末と共に新しいIDカードが渡された。向日葵、十六歳。誕生日は司祭に拾われた日である七月七日に設定された。所属は公安調査庁・調査第一部・新式麻薬特別調査室。略称は新麻調。表向きは、効果が切れると狂暴化する禁断症状の出る、単なる麻薬として扱われているそうだ。その新しいIDカードを手に、ニヤニヤしながら真綾の部屋へと向かった。
これから昼は新麻調の拠点で、夜はベアトの家での生活が始まる。ベアトは外回り中心で、基本拠点にはいないとのこと。売買は夜が多いので、これまでは夜の活動中心だったそうだが、しばらくは昼の捜査に切り替えてみるという。自分に配慮してくれたのだと葵は思っている。
電脳デバイスは、昼過ぎに届いた。今、それを受け取りに行く途中。スラムでは使っている者はほとんどいなかった。取り付けている人はたまにいたものの、動作に必要な霊子ナノマシンというのを入れ替えるお金がなく、使えなくなって放置したまま。
電脳デバイスがあると、念じるだけで誰かと会話したり、目の前に映像が現れたり、コンピューターの世界に入り込んだり出来ると聞いていたので、葵は楽しみで仕方がない。
「ウサ子さん、おはようございます!」
「おはよう。はい、これ。あなた用の電脳デバイス」
挨拶と共に真綾が渡してきたのは、首輪だろうか。丁度葵の首につけるのに良さそうな長さの黒い革ベルトに、ルナタイト製のハート型の何かがついている。
スラムの噂で聞いていたのと全く違う。騙されているのかと思い、半眼になって真綾に問う。
「えっと、これ、首輪ですよね……? 手術で首に埋め込むって聞いてたんですけど……?」
「チョーカーって言ってくれないかしら。確かに首に縄付けて管理したいけども。これはね、夢幻の心臓専用の電脳デバイス。普通の人間用のは、こうやって後頸部に埋め込むんだけど」
真綾は髪を避けて、自分の首の後ろを葵に見せた。確かに機械が一部見えている。
「電脳デバイスってのはね、霊子ナノマシンを介して、脳との間で精神波をやり取りするの。血液と共に循環しているから、こうして脳に近い動脈や静脈の部分に機械が必要になる」
「ほうほう。脳みその中に直接機械を入れると、死んじゃうからですかね?」
「まあ、間違ってはいないけど。……で、霊子ナノマシンってのは、ネクロファージの劣化コピーのようなものなのよ。精神波のやり取りをする機能だけを真似して作ったもの。つまり、あなたは霊子ナノマシンを入れる必要はないし、もっと高度なことも出来る」
初耳だった。とはいえ仕方ないことかもしれない。ネクロファージについて知っている人に会ったのなど、今回が初めてなのだから。
(ということは、お金がかからない。霊子ナノマシンを補充しなくてもいいわけです)
とてもお得な気がして、思わず頬が緩む。しかし、やはりこのチョーカーは騙されている気がした。仕組み自体は一緒に聞こえるから、首に埋め込む必要があると思える。
「このルナタイト製のハートのところに触れてるだけで動くから、触ってみて」
「へ?」
疑いの眼差しを向けつつも、葵はハートに触れてみた。そうすると、真綾の声が聞こえる気がする。耳で聞いているのではない。頭の中に直接響いてくる感じ。
〔たぶん不明瞭に聞こえると思うのだけど、何かしら言っているのはわかるかしら?〕
「おお、聞こえます! なんで? なんでですか?」
不思議で仕方なく、葵は目を丸くして真綾を見上げる。相変わらず感情のない瞳で葵を一瞥してから、真綾は壁のディスプレイの方を向く。そこには葵の頭から全身へ、何かが伝わっていく模式図が表示されていた。
「ネクロファージはもっと高度だって言ったでしょ。全身に精神波を伝えられるの。増幅してルナタイトなどの霊子伝導率の高い物に流すことが出来るし、受け取ることも出来る。だから、触れてるだけで使える。夢幻の心臓の場合、そもそも埋め込むのは不可能だし」
「もしかして、手術が出来ないってことですか? 切っても治っちゃうから」
「そう。取り付けてもすぐにその部位が再生して外れてしまうから、こういう専用のものが必要なの。内部構造は全く違うらしくて、私もよくわからない。調整も大変らしいから、あなたのそれは、一番シンプルな言語通信専用の低機能のものだけど、今はそれで充分なはず」
低機能。使用者が低能だからそれで充分という意味なのだろうか。葵はそう考え肩を落とす。
「色々と楽しみにしていたようだけど、当分はお預け。VR機能ついてるのは、メーカーに何日も通って調整が必要らしいから、今はそれで我慢して。機会があったらそのうち作りましょう。今日はまずそれの調整を自分でして。そこの機械に話しかければ、勝手にやってくれる」
指し示されたのは、小さな画面に文字が表示された据え置き端末。近寄ってみると、『表示された通りに電脳デバイスで話しかけてください』と書いてあった。
「私の名前は向日葵です」
その通りにしても何も反応がない。真綾の方を見上げると、半眼でこちらを見ていた。葵は、声に出すのではなく、この電脳デバイスのハートに念じるのだと理解した。
実際やってみると、電脳デバイス経由なのか、頭の中に機械からの返事があった。今送った念を機械が読み上げたもののようで、何を言っているのかよくわからない。何パターンか読み上げられたので、一番明瞭に聞こえたものを選ぶと、表示されている言葉が変わった。
それを念じるとまた頭の中で再生され、繰り返していくうちに次第にはっきりと聞き取れるようになっていった。三十分ほど格闘すると、自分の声そのものが頭の中に響くようになった。
いつの間にかいなくなっていた真綾に、葵は早速電脳デバイスを使って呼び掛けてみた。
〔ウサ子さーん! ウサ子さーん! 調整終わりましたよー!〕
〔うるさい。そんなに大きな声出さなくても聞こえるわ。これオープンチャンネルだから、職員みんなが聞いてるんだからね? 少しは気を遣いなさい〕
皆に聞かれていたというのは流石に気恥ずかしく、葵は誰もいない部屋で頬を染めて俯く。
〔チャンネルの切り替えとか、デバイスのオンオフとか、少しわかりにくいから、今日はまず電脳デバイス経由での音声通信に慣れて。隠密作戦の遂行には不可欠。声を出したら一発で見つかってしまうから〕
〔わっかりましたー! つまり、お話しまくっちゃえばいいんですね?〕
〔とりあえず、不老不死の薬の実物を見せたいから、私のいるところに来て。音声通信だけで案内するから、それでなんとかしてみて〕
案内に従い、途中迷ったりもしながら、たっぷり十分はかけてやっと真綾の元に辿り着く。見たこともないものを説明して居場所を伝えるのが難儀で、やはりまず勉強して、色々と覚えるのが大事だと葵は再認識した。
〔ようこそ。今日は目の前にいても電脳デバイス経由で話してね。これも練習〕
部屋で待っていた真綾がそう話しかけてくるが、口が動いていないと何ともいえぬ違和感がある。少々寂しい気がしてならないが、葵は何事も訓練の一環と考えて従った。
〔これが不老不死の薬の実物。私にはただの生理食塩水のようにしか見えないのだけれど、あなたなら、ここに籠められた魔力を感じないかしら?〕
真綾の手にある小さなガラス瓶の中身は、確かに透明な液体だけ。しかし、葵の心の眼には別のものも見える。
〔ぼんやりと光ってるように見えます。眼を閉じても感じます〕
普通の人には見えない光のようだった。心の眼は、真綾にはないのだろうか。
〔どういう風に見えるのかわからないけど、この感覚、しっかりと覚えておいて。作戦は基本的に蜃気楼を着てやることになるから、目を閉じていても、なるべく遠くからわかるように〕
葵が目を瞑ると、真綾が不老不死の薬の瓶を持って歩きまわりはじめる。どちらの方向の、どのくらいの距離に感じるのか答えさせられて、葵はその能力を試された。
〔感度充分なようね。マフィア街を歩き回って、不老不死の薬が貯蔵されている場所を探すことも出来そうな気がする〕
〔なるほど。私見えないから、どこでも入り込んで見つけられちゃいますね!〕
〔厳重なロックが掛けられた扉の向こうにあるはずだから、普通に考えて無理だけどね。ルナタイトの金庫使うとかして、そもそも感知出来ないようにしてある可能性高いし〕
中々に難儀なものだと葵は思った。この新麻調が発足して一年近くになるという。それで見つけられないのだから、葵一人ですぐにどうこう出来る方がおかしいのだが。
〔次は地下に一人で行ってくれるかしら? ベアトが捕まえてきた売り子に会って欲しいの。まだ吸血鬼にはなってないから大丈夫。不老不死の薬を使ってる人を判別出来るか知りたい〕
〔案内はしてもらえるんですよね?〕
〔当たり前でしょ。自力で行けるなんて期待してないわ。カメラで常に監視してるからね?〕
先程色々と触っていたのも、見られていたらしい。余り迂闊なことをして信用を失わないように注意しながらも、見るものすべてが珍しくて、ついつい立ち止まり色々と観察してしまう。
〔早く行きなさい。看守の人、立ち会ってくれてるんだから〕
怒られてしまい、肩を落としてトボトボと歩きながら、余所見はせずに現場に直行する。
予想通りルナタイト製の部屋で、中に誰かいるのかどうかはわからない。扉が自然に開いたので中に入ると、奥の壁が一面ガラス張りとなっていた。
〔向こうからはこちらは見えないわ。ちょっと変装してもらったんだけど、どっちが不老不死の薬使用者かわかる?〕
昨日の吸血鬼のと同じ、清潔そうだが粗末な服を着た男が二人、向こう側にいる。葵は心の眼で見比べてみて、何かのひっかけのように感じた。
〔あの、使ってる人は右の人だと思うんですけど、ネクロファージがいません。左の人は、ネクロファージはいますけど、不老不死の薬は使ってないような……〕
〔その感覚は正しいわ。右の人は、研究者の一人。ただの人間に対する影響を調べてる。今回、自分の身体に不老不死の薬だけ投与して協力してくれた〕
〔それって、大丈夫なんですか?〕
〔データ上異常はない。初めてではないから、心配しなくても大丈夫だよ〕
その当人のものだろうか。聞き慣れない声がして、右側の男が手を振っている。
〔それでは私は研究に戻る。期待しているよ、小さな新人君〕
電脳経由でこちらを見ているのだろうか。葵に笑顔を向けると、右の男は奥の扉を通って消えていった。それから真綾の声が再び聞こえてくる。
〔左の人と、昨日の人が吸血鬼になる前と後。この三つの区別付くかしら?〕
中々に難しい。吸血鬼は明らかに人とは違った。真っ黒く濁って見えた。しかしそうなる前の状態との区別を、心の眼だけでやるのは難しい気がする。話しかければわかるとは思う。昨日の人物は、明らかに様子がおかしかった。
〔その人は、効果はまだ残ってるけど、投与から時間が経って、不老不死の薬自体はもう身体に残っていない状態。ベアトの話では、効果が残っているうちは、心臓の辺りに不老不死の薬と似た感じがあるそうなんだけど〕
言われてみれば、小さく同じような光を感じる気がする。ガラスに張り付くようにして近付いてみると、葵の心臓のネクロファージが反応している気がした。
〔何か、苦しんでる気がします。この人の中のマザーネクロファージっての〕
〔近付けばわかるようね。それが呪い。幻術をかけられていることで、マザーネクロファージが何か反応を示しているようなの。機械では測定出来ない。夢幻の心臓だけが感じるみたいね〕
呪い。確かにそういうものに感じる。無理やり従わされているのだ、このマザーネクロファージは。真綾の例えを借りるなら、棲みたくない家に無理やり閉じ込められている状態。
葵は、人の方だけでなく、ネクロファージも可哀想だと感じた。不老不死の薬は、やはり存在してはいけないものに思える。ネクロファージだって生きているのだ。きっと意思もある。葵の中のマザーネクロファージは、葵を助けてくれるのだから。
〔その感覚、よく覚えてから上に戻ってきて。昨日の会議室、しばらくあなたの勉強部屋に使っていいそうだから、当分はそこで色々と勉強して。まずは端末の使い方からね〕
〔はーい〕
来た道を思い出しながら、葵は上へと戻っていく。ただ歩いていても暇なので、さっそく勉強の一環として、真綾に質問をする。
〔ウサ子さん、不老不死の薬って、何で出来てるんですか? 魔法?〕
〔正体はただの霊子ナノマシン。市販されているものを加工してるみたいね。協力者の幻術師によると、一つ一つに幻術がかかってるらしいわ。それを注射すると、マザーネクロファージにその幻術が移るという仕組みのようね〕
〔ほうほう。つまりは、魔法をかけるお薬なわけですね〕
誰が考えたのかは知らないが、とても賢い方法に思える。その魔法を別の有益なものに置き換えれば、色々と役に立つのではないか。例えば怪我を治す魔法をかけて作れば、直接魔法をかけられない場所にもその薬が届いて、怪我が治るかもしれない。
〔ウサ子さーん! それって、どうやって作るんですか? 他の魔法は出来ないんですか?〕
〔どうやったらそんな小さなものに、個別に幻術が掛けられるのかはわからないって。――っていうか、それわかってたら、私たち苦労してないんだけど? 少しは頭使いなさい〕
それはそうだった。作り方がわからないからこそ、治してあげられない。しかし魔法である以上、別の魔法でどうにか出来そうな気もする。
〔ウサ子さーん! 魔法を消す魔法ってないんですか? それがあれば治りません?〕
〔あのね、私、忙しいんだけど? そういう一般的な話なら、自分で端末使って学んで。それくらいのデータベースになら、アクセス出来るようにしてあるから〕
叱られてしまった。葵は大きく肩を落としながら、エレベーターを降りる。大人しく会議室へと籠もり、端末を触り始めた。使い方がよくわからない。司祭に貰ったものとは大分違う。
〔あ、あの、ウサ子さん……?〕
〔今度は何?〕
声音に怒りを感じて、葵はその場で身を縮こまらせた。かなり迷惑なようだった。端末の使い方を聞こうと思っていたのだが、質問を変えて真綾にしか答えられないことを訊ねた。
〔えっと、その、ウサ子さんは、医療への応用の研究ってのに忙しいんですか?〕
〔それだけじゃないけど、今はそう〕
ベアトの話では、不老不死の薬使用者を元に戻す方法が、医療に応用出来るということだった。つまり、ネクロファージを除去するということに聞こえる。そうすると、ネクロファージはどうなるのだろうと葵は心配した。先程の呪いの感覚を思い出す。苦しんでいた。
〔その……ネクロファージだけを殺す方法を研究してるってことですか? 人は殺さずに〕
〔ありていに言えばそう。マザーネクロファージを殺した場合、全身の子供のネクロファージが異常活動を始める。細胞分裂が超加速されて、人間だけでなく体内の細菌にまで影響を与える。その結果、あっという間に老化し、腐敗して死んでしまうの。それを止めることが出来れば、マザーだけ殺して、不老不死の薬の投与をやめても大丈夫ってことになる〕
やはりネクロファージを殺すという話。人を生かすために、ネクロファージだけ犠牲にする。
葵が哀しげな表情のまま押し黙ってしまうと、監視カメラで様子を見たのだろうか、真綾が心配そうな声で語り掛けてきた。
〔もしかして、ネクロファージを殺すのは可哀想だと思ってる?〕
〔はい……。だって、生きてるし〕
〔そうかもしれないけど、少なくとも不老不死の薬使用者にとっては、最悪の病原菌でしかない。病気を治すために、その原因となっている菌を殺すのは当然のこと〕
しかし、医療への応用となると違う気がしてならない。葵は先に真綾の動機を訊ねた。
〔ウサ子さんは、不老不死の薬を使用している人に、助けたい誰かがいるんですか?〕
〔流石にそんな知り合いはいないわ。いたらここで採用してもらえるわけないでしょ?〕
〔じゃあ、誰のために?〕
〔ネクロファージはね、万能薬として使えるかもしれないのよ。不老不死の薬を使えば、誰の身体でも治療してくれる。その後ネクロファージを取り除くことが出来れば、どんな病気でも治せることになる。ネクロファージは、破損したDNAも完全修復するわ。癌や白血病、その他遺伝子が損傷してなる病気すべてを、全身の細胞に渡って治してくれる〕
葵が危惧した通りのことを、真綾は考えている。人を治させた後、ネクロファージを殺す。一方的に利用し、搾取する。とても小さな存在でも、生き物には違いないのに。
〔人工臓器の研究は飛躍的に進んで、大抵のものは機械で置き換えられるわ。本人の正常な細胞が少しでもあれば、そこから培養して作ることも出来る。でも、脳だけは取り替えられない。……あなたならわかるでしょ? 脳を損傷して記憶を失ったのなら。脳を作り直して取り替えても、記憶は空っぽ。自分ではない誰かになってしまうだけ〕
真綾が助けたいという人物は、脳の病気か怪我なのだろうか。医学では治せない。でもネクロファージなら治せる。だから真綾はその研究をしている。二つの仕事を掛け持ちして、睡眠時間も削りながら、懸命に働いている。
〔どうしてそこまで一生懸命になれるんですか? その人は、そんなに大切な人なの?〕
〔遺伝子の異常で苦しんでいる人なんて、世界中にたくさんいるわ。再生医療だって万能じゃないし、高価で時間もかかる。人工臓器を用意している間に死んでしまう人もいる。自分の能力が役に立つのなら、助けたいと思って当然。あなただってそうでしょ?〕
助けたい。確かに助けたい。人も動物も植物も、ネクロファージも。
〔あなたは誰かを助けたいから、ここにいる。私とは助けたい人も、助けるための方法も違うのだろうけど、その気持ちだけは変わらない。だから、私はあなたに期待してる。あなたはきっと、私では助けられない人を助けてくれるから〕
真綾は一生懸命なのだ。その誰かを助けるためになら、何でもする。自分の生命すら捧げるつもりなのかもしれない。身を粉にして、そのために尽くす。
葵は価値観が違うと言われた。自分の生命の価値を、正しく認識出来ていないと。それは真綾も一緒なのではないかと葵は思う。何が大切で、何が大切ではないのかは、人によって違う。
誰が正しいのか、今の葵にはわからない。一つだけわかるのは、真綾の邪魔をしてはならないということだけ。
〔ありがとうございます。私は私で頑張ります〕
その後は、悪戦苦闘して端末を操作してみたが、何かが違う。使い方の話ではない。そもそも葵の求めているものとは、根本的に異なる気がする。
きっと聞いてくれていると思って、葵は電脳デバイス経由で室長に話しかけた。
〔室長さん、あの、お願いがあるんですけど、いいですか?〕
〔まさか、教育係が欲しいというのかね? 端末では不足かい?〕
やはり聞いていて、葵の様子も見ていたようだ。見守っていたというよりは、監視していたのだろうが。しかし、今はそれで丁度良かった。
〔人に教えて欲しいです。機械は、なんか嫌です〕
〔ならば、作業用アンドロイドに、教育用疑似人格AIを入れて用意しよう〕
〔お掃除とかしてるあれですよね? あれはもっと嫌。見た目は人なのに、人とは違ってあったかくないから〕
時々部屋の外を通る。見た目はほとんど人と違いがないが、中身は機械なのが葵にははっきりとわかる。心の色が見えないのだ。ただの物質。動く人形に過ぎない。
〔魔力や氣に対して敏感だからなのかもしれないね〕
〔そうなのかも。昔は、司祭様がくれた端末とお喋りして、文字とか言葉を教えてもらいました。今はなんか、それはもう嫌。ちゃんと人間とお喋りしたいです。夜、お家に帰って、ベア子さんと一緒にいると、ここがあったかくなるんです。ウサ子さんと話しててもそう〕
葵は胸のところを押さえながらそう言った。ネクロファージが反応しているわけではないと思う。真綾と話していても、電脳デバイス経由でも、そう感じるのだから。今までは知らなかった感覚。スラムでずっと一人で暮らしていた時には、抱いたことのない気持ち。
〔今までの孤独の裏返しと言ったところかな? しかし、残念だが君の希望は叶えてあげられない。ここで扱っている案件はとてもナイーブだ。情報が外に漏れたらまずい。最低限の人数で構成しなくてはならない。捜査や研究で特別な能力を発揮する人間以外は置けないのはわかるね? 君一人を教育するためだけの人間を、雇えるような環境ではないんだ〕
室長の説明は、とても理に適っていると思えた。納得せざるを得ない。葵のためだけの教育係など、ここには置けないのだ。費用の問題ではなく、機密保持上の問題で。
〔わかりました。端末に教えてもらいます〕
結局、違和感を抱えたまま、端末に色々と教えてもらった。まずはここで働くのに必要と思える、各種設備の使い方から。電脳デバイスでの通信の仕方や、扉の開け方、エレベーターの使い方。それから、自分が出入りして良い範囲や、そこにある施設の内容など。
〔おーい、葵ー! 電脳デバイス使えるようになったんだってな? 返事してみてくれよ〕
〔ベア子さん! もうお仕事終わりですか?〕
「とっくに定時だよ。なんだか集中して勉強していたようだな。偉い偉い」
扉が開いて、ベアトの声が直接聞こえると、葵の顔が自然と綻んだ。やはり直接話す方が、葵にとってはずっと安心出来る。心が温かくなる。
「それじゃ帰って御飯にしましょう。今日は私が先に歩きます。色々と使い方覚えましたから」
学んだことを生かして、自らエレベーターを操作して、地下通路へと下りていく。初めは疑わし気な視線を向けていたベアトだったが、途中から驚きの色を浮かべ始めた。
「お前、もしかして脳みそ取り換えてもらった?」
無事家に帰り着くと、葵の髪の毛を掻き分けて覗き込みつつ、ベアトが不思議そうに問う。
「失礼な! お勉強しただけですー!」
「学習能力高いな。まあ、それくらいでないと、たった一人で生きてはこれなかったと思うが」
真っ先に帰り方を勉強し、復習もしたことは内緒にしておいた。それでも、褒められると嬉しくて、ついつい笑顔になる。
「さてさて、今日も元気にコタツムリ!」
葵はコタツに潜り込みながら、自分のぬいぐるみを探す。今朝置いておいたはずの場所にない。もぞもぞと抜け出すと、部屋の中を探して歩いた。どこにもない。
「あの、ベア子さん、私のぬいぐるみ、捨てちゃったりしてませんよね……?」
不安になってベアトに問う。冷蔵庫を覗き込んでいたベアトが、不思議そうに葵を見返した。
「あれ、お前が真綾に頼んだんじゃないの? 直してくれって」
頼んだ? 直す? 何を言っているのかわからず、葵の首が傾いでいく。
「またあいつ嘘吐きやがったな。あれボロボロになって汚れてただろ? 綺麗に直してくれって頼まれたって、真綾に聞いたんだよ。だから一旦取りに戻ってきて、渡しておいたぞ?」
「そうなんですか……」
真綾らしい気遣いだと思った。ずっと持ち歩いていたものなので少々寂しいが、綺麗になればあのぬいぐるみも喜ぶかもしれない。怪我をしていたようなものなのだ。真綾は医者。
葵が風呂から出るころには、ぬいぐるみはもう送り返されてきた。早速蓋を開けてみると、新品のように綺麗になっている。しかし、確かに自分のぬいぐるみだった。
箱から取り出して頬ずりをすると、ぬいぐるみが突然喋り出す。
「アタイ、マーヤ! 今日から葵ちゃん専属の先生になるよ!」
「しゃ、しゃべりましたー!」
「あいつ、粋なことするな」
ベアトが葵の手からぬいぐるみを取り、それを眺めながら教えてくれる。
「このぬいぐるみ、偶然だとは思うが、あいつの名前の由来になったものなんだよ」
「名前の由来?」
「あいつもな、お前と同じで、社会に出た時には常識を知らず、いろいろ苦労したらしい」
真綾もスラム出身だったのだろうか。首を傾げて見上げる葵に、ベアトが語る。
「昔はブラックボックスっていう機密部品のプログラム開発をさせられてたそうでな、開発施設の中で生まれ育ったんだよ。外に出ることは許されず、部屋に閉じ込められたまま、人と接することもなくロボットに育てられたらしい」
「ロボットに……?」
「ブラックボックスってのは、どのデバイスにも入っている重要部品でな、暗号処理を担当している。外から解析出来ない特殊な構造になっていて、作った本人だけが中身を知っている」
葵の頭がまた傾いでいく。つまりどういうことだろうと。
「あいつが情報収集担当なのは、自分で作ったブラックボックスが搭載されたデバイスなら、大抵のものはハッキングして自由に動かせるから。それが出来てしまうから、開発者は施設に閉じ込められ、一生外に出してもらえない。そういう非人道的なやり方がされていたらしい」
「悪いこと出来ないように、閉じ込められちゃってたんですか?」
「そういうことだ。余計なこと覚えないように、開発に必要な知識以外は、ほとんど与えてもらえなかったらしい。それで、外の世界に出られた後、何もわからずに苦労したみたいだ」
真綾も何も知らなかった。ロボットに育てられ、ずっと一人だった。感情を表に現さないのは、それが理由なのだろうか。ロボット相手には要らないから。ケーキを一緒に食べなかったのは、人付き合いが苦手だからなのだろうか。葵が想像すらしなかった過酷な事実だった。
「だからあいつが一番、お前の気持ちがわかるんだろう。孤独の辛さも、人と触れ合う喜びも、ものを知らないことでどれだけ困るかも」
ベアトは優し気な微笑を浮かべながら、葵にぬいぐるみを返した。真っ白いウサギは、少し笑っているような表情に見える。
「これはウサギのマーヤってキャラクターでな、あいつが外の世界に出て最初に入院した病院に、同じものが置いてあったらしい。あいつは名前がなくて、番号で呼ばれてたから、このマーヤから名前を取ったそうだ。この中の人格AIは、あいつ自身なのかもな」
だから兎澤真綾。ウサギのマーヤ。これは、真綾の分身なのかもしれない。本人は直接葵の面倒を見る暇がないから、代わりにこのぬいぐるみが相手をしてくれる。
「マーヤさん。これからよろしく!」
葵が強く抱きしめて頬ずりしながら宣うと、マーヤは赤い目を点滅させつつ文句を言う。
「アタイ、精密機械なんだから、乱暴に扱っちゃ駄目だよ! 壊れたら、自分で直してよね!」
確かに真綾に似てるような気がした。これからは、こっちのマーヤに勉強を教えてもらおうと葵は思う。恐らく、必要な知識はすべて内蔵しているのだろう。葵専属の教育係なのだから。