第三話 百万分の一の奇跡
「葵、お前これ乗って一人で上までいけるか?」
エレベーターを待っていると、ベアトが突然そんなことを言い出した。
「ささやかだが、お祝いしようぜ。銀座まで行って、ケーキ買ってきてやるよ。せっかくだから一緒に行って店で食いたいが、今連れ出すと室長に怒られそうだからな」
「ケーキ……それって、豪華なお菓子ですか?」
名前だけは聞いたことがある。確かおめでたいときに食べるもの。
「一人で待ってられるか?」
エレベーターの使い方は、見ていて覚えた。一人で待っているのなんて、至極簡単なこと。葵は心外に思い、頬を膨らませて抗議する。
「そんなの心配されるほど、子供じゃありません!」
「じゃあ、あたしは近道して別のエレベーターで外に出るから」
扉が開くと、背中を押されエレベーターの中へ入れられた。葵は手を振ってベアトと別れる。
(そうだ、丁度いいですね、これ……)
室長に少し訊きたいことがあった。先程の吸血鬼について、気になることがある。あの男のネクロファージは、室長のものと同じに感じた。それが何を示すのか知りたい。
上につくと、葵は室長を探して廊下を歩いていった。今朝行った室長の部屋の場所は覚えているのだが、途中の扉が閉まっていて、開け方がわからない。周辺をペタペタと触ってみていたら、真綾の声がした。
「不審な行動とってると、つまみ出されるわよ」
「あの、室長さんにちょっと訊きたいことがあるんですけど?」
「ちょっと待って、連絡を取るわ。……会議室で待っているようにって。案内表示するわ」
また床に緑の矢印が出たので、葵は礼を言ってからそれに従い移動した。今朝エレベーターで上がってきた付近の部屋へと誘導され、自動的に開いた扉の中に入る。部屋には大きなテーブルが一つ。周囲に沢山の椅子が並んでいる。葵は一番手近な椅子を引き、そこに座った。
五分ほど待っただろうか。スピーカーから室長の声が聞こえてきた。
「用件は何だね? 私に直接訊きたいということは、何か特殊なことだと思うが?」
「えっと、その……もしかして私の能力を試すために、室長さんが吸血鬼を作ったのかなって思って」
「ベアト君が捕まえてきた売り子だと、先程伝えたはずだが?」
確かにそう言っていた。ベアトも特にそれを否定してはいなかった。しかし、自分とベアトと室長、三人ともネクロファージが違うのに、あの吸血鬼は室長と同じ。それが暗示することが、どうにも不穏な感じがしてならない。
「でも、さっきの吸血鬼のネクロファージって……その……」
どう伝えれば要らぬ軋轢を生まないのか迷いつつ、葵は言い淀む。すると扉が開いて、室長が中に入ってきた。
「その話、もう少し詳しく教えてもらえないだろうか。はっきり言ってくれて構わない。この部屋での会話は、誰にも聞かれない」
「……室長さんのと、同じものに感じました」
俯いて上目遣いで様子を探りながら、葵は小さな声で答えた。室長の眉がひそめられる。
「君は、系統の判別が出来るのかね?」
「系統……?」
葵の頭が傾いでいく。また知らない概念。室長は葵の座っている席とは反対側に移動し、椅子に腰かけてから話を続けた。
「ネクロファージが一種の生物だということは、もう学んだだろう。生物が子孫を残す方法には色々とあるが、ネクロファージの場合は単純分裂で増える。マザーが二つに分かれることによって、子孫を残す。与えた側と与えられた側、つまり親子で全く同じものになる。同じマザーネクロファージが分裂したものを、同じ系統という呼び方をしている」
説明を聞いて、余計に不安になってきた。やはり室長があの吸血鬼にマザーネクロファージを与えたということに聞こえてしまう。
「僕が確認出来ている範囲では、ネクロファージには三系統しかない。僕と、君と、ベアト君。その三系統だけだ。他の夢幻の心臓たちにいるのも、全てそのどれかと同じものだ」
「え……一人一人違うんじゃなくて?」
「人間側の適合性の話であれば、一人一人違う。しかし、ネクロファージ自体は三種類ということだ。もしかしたら未確認のものがあるかもしれないが、そうたくさんは存在しないだろう」
ネクロファージは三種類だけ。ならば、吸血鬼のものと室長のものが一致する確率は、三分の一もある。特に不思議でもないということになる。
「夢幻の心臓自体、とても数が少ないが、ベアト君は自分と同じ系統の人間を二人知っているという。僕も同じ系統の人間を何人か知っている」
「室長さんは、系統っての区別出来るんですよね? 私のと同じ人に会ったことありますか?」
会ったことがあるのなら、その人が自分の生命の恩人なのかもしれない。そう思って葵は訊ねたが、室長はゆっくりと首を横に振った。
「残念だがない。元々僕が確認出来ていたのは、自分とベアト君の二系統だけだ。彼女は少なくとも三系統の人間を知っていると言っていた。君と出逢ってそれは証明された。しかし、彼女は系統の判別がまだ出来ない。彼女の知る三番目というのは、実は君とは違う可能性がある」
「私、もしかしたら四番目かもしれないってことですか?」
「可能性としてはある。それで、採用の有無にかかわらず、ネクロファージのサンプル提供者としては、協力を願おうと僕も考えていた。少々、虫が良すぎる話かもしれないがね」
真綾が葵に期待していたというのは、それも含めてなのかもしれない。ますます協力する理由が増えてしまった。そして多くても四系統しかないのなら、室長を疑うのはやはり早計。
「しかし、聞いていたのよりも、君はもっと年上という可能性があるのだね。系統の判別が出来るということは、マザーネクロファージとの信頼関係が築けているということだ。そうなるには時間がかかる。ベアト君もまだなのだから」
「あれ……私、十五歳から十七歳くらいって言われたんですけど?」
「その説も否定出来ない。映像を見る限り、確かにあの時夢幻の心臓になったように思えた。信頼関係を築くのに必要なのは、年月だけではないのかもしれないね。過酷な生活の中で、通常より早くその力に目覚めた可能性がある。とても興味深い事象だ。ちなみに、もうマザーネクロファージは産み出せるかね?」
真綾には出来ないと言ってしまった。訂正した方がいいのかどうか迷い、視線を泳がせる。
「答えたくないのならそれでいい。悪用を恐れるのはわかる。もし産み出せるのなら、適合するかどうかの判別も出来るはずだ。やたらに人に与えてはならないよ。完全適合でない限り、安定しているように見えても、いずれ吸血鬼化する」
深く詮索されずに済み、葵はほっと胸を撫で下ろした。同じことが出来る室長には、気持ちがわかるのだろう。室長自身も、あまり他人には知られたくないのかもしれない。
「どれくらい危険なのか、はっきり知っておいてもらおう。適合者は、百万人に一人しかいないとされている。それ以外は夢幻の心臓にはなれない。すぐに吸血鬼になるか、いずれ吸血鬼になる運命の真祖と呼ばれる存在になる。君は奇跡のような確率で救われたということだ」
「百万分の一……ですか?」
まさに奇跡としかいえない確率と思える。葵にネクロファージをくれたという人物は、当然適合すると判断してからやったのだろう。しかし、死の間際に出逢ったこと自体が奇跡。
「正確な数字はわからないが、それくらいに低い。しかし、単純計算だと、世界には各系統の適合者が、数千人ずつはいることになる」
室長の言う通りだと思った。世界全体で考えれば、意外と多い。少なくとも三系統ある。一万人を超える夢幻の心臓がいても、決しておかしくはないということだ。
「君はこの先長い人生を送ることになるだろう。恐らく適合者にも出逢う。しかし、もし見つけても、やたらに増やすべきではない。どう利用されるかわからない。一見善人に見えても悪人かもしれないし、いずれ変わるかもしれない。力を持つと、人は変わるものだ」
葵は、司祭の元に出入りしていた優し気だった人たちも、暴動に加わっていたことを思い出した。毎日恩を受け感謝していたのに、教会を襲った者もいた。人は生きていくためなら、どんなことでもしてしまうもの。室長の言っていることは、とてもわかる気がする。
「室長さんは、その……もしかして……」
「幸い僕はまだそういう後悔の経験はない。夢幻の心臓になってすぐに、その辺りのことを詳しく教えてもらえたからね。だから、適合者に出逢っても、仲間にしようとはしなかった。それで正解だったと今は思う。不老不死の薬事件を考えるとね」
「あの、不老不死の薬事件のネクロファージって、もしかしてみんな同じですか?」
室長は珍しく哀しげな表情を見せた。瞼を伏せ、何かを堪えるようにしてゆっくりと話す。
「とても哀しいことだ。その数千人の中の、ネクロファージの繋がりでは、僕の親戚にあたる誰かが、事件に関わっているということになる。だからこそ僕は、この事件を自分の手で、早期に解決したい。そして出来れば、ネクロファージをもっと人の役に立てたい。不老不死の薬は現時点では死の麻薬だが、可能性は秘めている。私はそれに生涯を捧げたい」
最後は強い意志を籠めた視線を葵に向けた。室長はやはり本気であるように見える。いつも白衣を着ていて、ただの研究者にしか見えないのに、不老不死の薬捜査の長を任されているのは、この熱意を認められたからなのだろう。
「疑ってごめんなさい」
深く頭を下げて、葵は謝った。下げ過ぎてテーブルにぶつけてゴツンと音が鳴った。顔を上げると、室長はいつも通りの温和な表情で、そんな葵を見ていた。
「念のため、ベアト君に確認してみるといい。あれを捕まえてきたことは覚えているはずだ。系統の話についても」
「一応、訊いておきます。もしかしたら、私が四番目なのかどうか、わかるかもしれませんし」
「それから、マザーネクロファージを産み出せるとしても、他人には言わない方がいい。永遠の命を欲しがる者は多い。不老不死の薬に手を出すのも、そういう人間だ。不老不死の薬だけなら、手に入れるのは難しくない。マザーを植え付けるよう、誰かに強要されても困るだろう?」
「確かに……」
不老不死の薬の売買情報自体は、簡単に手に入ると説明された。気を付けなくてはならない。もし組織に知られたら、攫われて利用されてしまう可能性すらある。
「それでは、僕は仕事に戻るよ」
「あ、ついでなので、もう一ついいですか?」
悪いと思いながらも、葵は室長を引き留めた。せっかくだから、今訊いたほうがいい。
「あの、わんちゃん探しにいきたいんです、スラム街に。野良犬って、誰のものでもないってことですよね? 私が連れてきちゃってもいいのかなって」
室長は立ち上がったまま、少しだけ考える素振りを見せてから答えた。
「ベアト君の家で飼うことになるのだろうから、その許可自体はベアト君に求めてくれ。探しにいく許可は、今はまだ出せない。自由な外出は、もう少し色々と学んでからだ。当分はここと、ベアト君のマンションの往復だけ許可する。一人での移動もまだ認められない」
「そうですか……」
予想はしていたが、それでも悲しいものがある。
(大丈夫、そんなに急がなくても、きっと元気に暮らしてるはず)
そう思い直した。葵が腹を空かせているのを知っているのか、時々食べ物を持ってきてくれたりまでしたのだ。葵よりも余程したたかに生きているに違いない。
「もういいかね?」
「あ、はい、引き留めて済みませんでした」
葵は立ち上がってもう一度頭を下げ直した。室長が出ていくと、入れ替わるようにしてベアトが踏み込んでくる。扉が閉まるのを待ってから、葵の耳元で囁いた。
「室長はまだなんか文句言ってんのか?」
「いえいえ、違いますよ」
ぶんぶんと首を振って葵は否定した。
「ネクロファージのこと、もっと教わってただけです。一番詳しいみたいだから。マザーネクロファージがどう増えるのかとか、系統とかいうのとか」
「ああ、その辺は実際のところ、室長しかわからねえな。あたしらは他人から聞いた知識しかない。室長はマザーネクロファージを産み出せるようだからな。……あたしはいつになったら、そういうの出来るようになるのかな?」
「仲間……作りたいんですか?」
「いや、別にそういうわけじゃないが、系統の判別出来ると便利そうだろ? 仲間は……そうだなあ。助けたい奴に限って適合しないもんだろうから、逆に出来るようになると辛いかもな」
そう言ったベアトは、確かに辛そうな表情を浮かべていた。きっと助けられなかった人がいるのだろうと葵は思う。確率は百万分の一。まず適合はしない。
葵はこの先のことが少し心配になった。どうしても助けたい人がいた時に、不老不死の薬の使用を考えてしまうかもしれない。止めたら吸血鬼になってしまう。しかし止めなければ、ずっと生きていけるのだ。助けたい気持ちが、後ろめたさに勝らないとは限らない。
「やっぱりお前なんか言われたのか?」
そのままふさぎ込んでしまったからだろうか、ベアトが屈んで葵の顔を覗き込みながら問う。
「え? いえいえ、何もないです。……あ、強いて言うなら、まだ一人でお外出ちゃ駄目って言われました。わんちゃん探しにいっていいかって聞いたら、駄目だって」
「それはまだ仕方ないな。あたしもお前を一人で外に出したくないよ。何しでかすかわからねーもん」
全く信用がない。葵は頬を膨らませて抗議の意思を示すも、的確な反論は出来ない。
「そ、そのうち大丈夫になります。……もしお出かけしてもよくなったら、ベア子さんのお家で飼ってもいいですか? それはベア子さんに許可取れって」
「唯一の友達って言ってたやつか……きちんと面倒を見るのなら、飼うこと自体は構わない。だが犬の方が喜ぶかどうかだな……。他にも可愛がっている奴がスラムにいるかもしれないし」
本人の意思次第。確かに、ローラがそれを喜ぶかどうかはわからない。他の人たちがどう思うかも。葵の自己満足だけで連れてきていいものではない。
「今度会ったら、本人に訊いてみます。それから決めます」
「よし、じゃあお祝いだ。一番高いケーキ買ってきてやったぞ」
ベアトが持ってきた大きな箱の、横にある蓋を開ける。葵の目に入ったのは、真っ白い大きな何か。赤いものが上にたくさん載っていて、黒っぽい粒やオレンジ、緑など様々な色のものを使って、カラフルに飾り立ててある。
「こ、これが、ケーキ……」
「おい、真綾も来いよ。これ見えるだろ? 一緒に食おうぜ」
箱から引きずり出すと、甘酸っぱくて爽やかな果物の香りが漂ってきた。当然葵の口は半開きになり、だらだらと涎が垂れてくる。
「要らない。私、忙しいの」
スピーカーから真綾の声が流れた。監視システム経由で、部屋の様子はわかるのだろう。
「照れるなって。祝ってやれよ」
「それ以前に、あなたの分すら残りそうもない顔を、主賓がしてるけど?」
ベアトの視線が葵に向く。もう鼻が触れそうなくらいに顔を近付け、じっと凝視していた。
(い、いったい、どんな味がするんでしょう……)
ベアトは小さく溜め息を吐くと、フォークを取り出し、葵の顔くらい大きなケーキに添える。
「ほれ、一人で全部食え。お前の祝いだ。ただし、フォークはちゃんと使えよ?」
「いけません、いけません! こんなの食べたら、一年は食べちゃ駄目になっちゃいますー!」
と拒否してはみたものの、ベアトに一口突っ込まれると、抗えずに叫んだ。
「ふおおおお! なにこれなにこれ!? チョコバーより甘くて美味しいの食べたの初めて!」
フォークを奪い取り、夢中になって口に運ぶ葵。ふと、その手を止めてベアトに訊ねた。
「これは、チョコバーいくつ分ですか?」
「お前の計算だと一年半分」
つまりは十八本分。葵は十八人のスラムの住人に心の中で詫びた。
(私は今日、十八人分の贅沢をします……。許してくださいー!)
このケーキを形作っている生命に感謝して涙しながら、記憶にある限り生まれて初めて食べるケーキの美味さに絶叫を上げ続けた。皆と一緒にこれを食べられる日が来ることを祈りつつ。