第二話 最も重要な資質
その後葵は、来た時とは異なるエレベーターを使って、地下にあるという大きな部屋へと連れてこられた。ここも外の様子がわからない不思議な壁で囲われている。
ルナタイトという特別な金属製だと教わった。物質に霊子を混ぜた、魔法金属のようなものだと。それが霊子を遮るので、心の眼でも外の様子は見えないらしい。
「まずは、闇との同化とやらをこの目で見せてもらおうか」
「闇との同化?」
スピーカーからの室長の指示に、葵は首を傾げる。一体何のことだろうと、一人だけ中についてきたベアトの顔を見上げた。
「お前の透明になる能力。霊子モニターに映らなく出来るだろう?」
名前がある。ということは、自分だけの特別な力ではないのかもしれない。今は映ってしまっていることの方が意外だった。隠れる気がないからなのだろう。
葵はいつものように、誰にも見つからないよう息を潜めてみた。
「これで透明になりました?」
「ふむ、確かにどの角度からでも映っていない。能力を自由にオンオフすることは出来るかね?」
室長の指示に従って、葵は試してみた。目の前にいるベアトに見えるように念じる形。それからまた見えないように願う。それを繰り返してみた。
「自由自在に切り替えられるようだな。それは一体、どういう原理なのかね?」
と言われても、葵にもさっぱりわからない。こんなに自在に透明になったり戻ったり出来ることすら、今知ったのだから。葵の首が傾いでいくのがカメラで見えるのだろう。室長は質問の矛先をベアトに変えた。
「どうも無意識に使っているようだ。ベアト君の知り合いが同じ能力を使えるという話だったが、どう聞いているかね?」
「教えてもらえるわけねーだろ。あんただったら教えるのか? 最重要機密だろ?」
「それもそうだ。特に害となりそうな現象は観測されていない。仕組みは気にせず、有益に使う方法だけを考えよう」
室長はもちろん、魔法に精通していそうなベアトにもわからない。やはりとても特別な能力なのかもしれない。葵は少しばかり誇らしくなって、自然と笑みが浮かぶ。
「次に名無しというマスカレイドを見せてくれ」
家を出る時に預けたままだった葵の指輪を、ベアトが指に嵌めてくれる。それを見ると更に頬が緩んだ。葵にとってのお守りみたいなもの。ないと、落ち着かなくて仕方がない。
「それじゃ動かします」
指輪に想いを籠めると、蒼かった宝石が紅く色を変える。飛び出してきた十二本のダガーを持ち上げて、うねうねと動かしてみた。
「光学カメラでも霊子モニターでも、捉えるのは中々難しいな。流石にズームすれば見えるが、通常の監視カメラなどではAIも反応しないだろう。どういう目的の物なのかは明らかだが、葵君はこれをどこで手に入れたのかね?」
どういう目的の物なのかというのは、深く考えたことはない。自分の手のように自在に動かせるから、単なる便利品だと思っていた。どう受け止められたのかはわからないが、葵はとりあえず室長の質問にだけ答える。
「えっと、目が覚めた時にはもう指に嵌まってて。どこで手に入れたのかはわかりません」
「室長、報告はしたはずです。葵にネクロファージを与えた人物が、指に嵌めていくところが映っていたと」
真綾の声がして、葵は思わず仏頂面になる。
(い、意地悪……。知ってたのに訊いたんですね……)
ベアトの言うとおり、室長は見た目温厚でも、実は意地が悪いのかもしれないと思った。
「強力な武器だからね。一応確認させてもらった」
とはいえ、室長の気持ちもわかる気がする。その気になれば、人を殺すことも出来ると思うのだ、この名無しという指輪は。それも恐らく、誰にも気付かれずに。
ネクロファージを与えてくれた人物が、どういう意図でこれを葵に託したのかは、知る由もない。しかし、葵のためということだけはわかる。ネクロファージも、この名無しも、ずっと葵の役に立ち、守ってくれていたのだから。
「ふむ……霊子モニターにも映らない能力。そして同じくほぼ映らないその名無し。葵君の特性に合わせて選んだのだということはわかる。目的はよくわからないがね。それは、もう一度こちらで預かって、詳しく検査させてくれないかね?」
「で、でも、これ、大切なものだから……」
右手で隠すようにしながら、葵はそう主張する。室長はいつものように穏やかに告げた。
「それは承知している。傷をつけたりはしない」
「大丈夫よ、葵。何かの仕掛けがされていないか、専門家に見てもらうだけ。あなた自身は信頼出来ても、その名無しが勝手に悪さをしないという保証はないでしょ?」
真綾がそう補足してくれた。相変わらず、葵の気持ちをよく考えてくれている気がする。
これは魔法の産物。ならば、そういうこともあり得そうな気がする。今まで勝手に動いたことはないが、目的の相手に近付いた瞬間、葵の意思に関係なく殺してしまうのかもしれない。
「わかりました。後で預けます。なるべく早く返してください」
「では、どこまで使いこなせるのか見せてもらおうか」
「まずは長さを見てみたいわ。精一杯遠くまで伸ばしてみて?」
二人の指示に従って、葵は最大まで伸ばしてみた。すべてのダガーを別の方向に展開する。
「約十メートル。強度はどれくらいあるのかしら? 錘用意しておけばよかったわね」
「重い物持てるかどうかですか? えっと、私の身体くらいなら、軽々と持ち上がります」
葵はダガーを床に横たえ、糸を足にすることで自分の身体を持ち上げた。一見、宙に浮いているような形になる。
「おいおい、あたしの知ってる名無しじゃ、そんなこと出来ないぞ? 曲げたままでも強度を保てるのか?」
ベアトの言葉に、目をぱちくりとさせて答える葵。これが普通だと思っていた。
「これ、なんか違うんですか?」
「魔力を感じる宝石もついているし、新型なのかもしれないな。他にどんなことが出来る?」
「髪切れます」
ダガーを二つ組み合わせて、ハサミのようにして自分の髪を切る。同時に六組用意して、伸びすぎていた自分の髪を、腰のあたりでチョキチョキと切り揃えていく。
「お前器用だな……。とりあえず、掃除する奴のこと考えてからやろうな」
いつもの感覚で、深く考えずにやってしまった。葵は慌ててかき集めながら謝る。
「ご、ごめんなさいー! あとで捨ててきます……」
「ロボットがやってくれるから、それは放っておけ。何はともあれ、今のでかなり細かい動きが出来るのもわかった。あとは、肝心のことをやれるかどうかだな。強い魔力は流せるか?」
葵の首が傾いでいく。魔力とか氣とかよくわからない。心の眼で見えるものがそうらしいが、その二種類の区別がつかないし、自分で意識して使うことも出来ない。
苦笑を浮かべつつ、ベアトは代わりの提案をする。
「ちょっとこれ思いっきり突いてみろ」
葵の近くの空中に、ベアトが作ったのか、小さな魔法陣が浮かび上がった。緑色の光の壁が立ち上がっている。葵を捕らえた時の対物結界だろう。小さいからそれほど丈夫でもないのだろうか。その先には誰もおらず、壁までの距離も十分。言われた通り思い切りダガーで突いた。
衝突した部分で一瞬バチっと紅い火花が飛んで、緑色の壁が消失してしまう。葵は慌ててダガーを引っ込めた。ベアトの目が訝し気に細められる。
「今、曲がったままの状態だったよな? それでこれを突き破るか……。新型すげーな」
怒られるかと思ったのだが、どうも褒められているようで、葵は自慢気に微笑みながら言う。
「すごいんです。私のお守りなんで」
「まあ、魔力すら理解はしちゃいないようだが」
がっくりと項垂れる葵。出来るのとわかるのは違う。しかしわかるだけで出来ないよりは、この方がいい。そう気を取り直して顔を上げると、今度は空中に魔法陣だけ作られていた。光の壁は出ていない。
「今の、強い魔力が流れていた。動かさずに同じことが出来ないか?」
「動かさずに……ですか?」
「例えるなら、こう人を手で押すんじゃなくて、押すふりして力むみたいな感じ?」
ベアトはそのジェスチャーをする。目の前の何もない空中を必死に押している演技。この魔法陣は目印だと理解し、葵はそこまでダガーを伸ばしてから、同じ意識で念じてみた。
「お、出来てる出来てる。もっともっと力んでみてくれ」
「ぐむむむむ……」
動かさずにやるのはなかなか難しい。プルプルとダガーが震えているのがわかる。他のダガーも少し動いてしまっている。
「最初はそんなもんだろ。とりあえず、マザーネクロファージを焼くのには充分だ。うまく使いこなすようになれば、痺れさせて人を気絶させることも出来る。なかなか才能あるな、お前」
今度は明らかに褒められている。葵は自然と頬が緩み、あとで練習してみようと思った。
「ここまでは合格――というよりも、期待以上だったということでよろしいですか、室長?」
真綾の声が流れる。合格どころか期待以上。葵の心に歓喜の渦が巻き起こる。室長がどう答えるのか、勝手に笑いだしてきている口許を隠しながら待った。
「確かに期待以上だ。聞いていた通りなら、メインウェポンを別途用意する必要があると考えていたが、不要なようだ」
「これが充分メインウェポンになるぜ。後は訓練次第だ」
(こ、これはもしや、合格ですか……? 合格ですよね?)
ベアトの援護も入り、葵は期待に胸を躍らせる。しかし直後の室長の言葉で、がっくりと肩を落として項垂れた。
「では、試験本番といこう」
(合格どころか、始まってないじゃないですかー!)
思わず声に出してしまいそうな勢いで、心の中で叫んだ。
その後大きな部屋からは出て、通路に戻る。隣の部屋にいたらしき室長と真綾も合流した。室長の先導で大分歩いてから、皆が立ち止まる。
「いきなりすぎるとあたしは反対したんだが――」
葵の両肩に手を置き、ベアトが何か言おうとしたが、室長が強い口調で遮る。
「アドバイスは禁止と言ったはずだ。出来なければ、どちらにしろ後で除隊処分になる。育成もただではないんだ。先に見極める必要がある」
「しかし、昨日今日存在を知った人間に、いきなりやらせるってのはどうなんだ? しかもこいつは、チョコバー殺したと涙する人間だぞ?」
納得がいかない様子のベアトが、そう言って抗議をする。室長は穏やかな口調に戻り、いつも通り諭すように答えた。
「だからこそだ。時間をかけても、出来るようになる可能性は低い。使える保証がないのに、いつまでも育て続けるわけにはいかない。今やらないのなら、話はなかったことにする」
「くそっ……鬼だよな、あんた」
二人のやりとりを聞いていると、これから何か恐ろしいことをやらされる気がしてならない。葵がガタガタと震えだすと、真綾が無言で背を摩って落ち着かせてくれた。
「さて、覚悟が出来ているのなら、入りたまえ。出来ていないのなら、不合格だ」
室長にはっきりそう告げられると、何が待っているとしても、葵としては退くわけにはいかなくなった。何度か深呼吸をして気持ちを落ち着けると、意を決して扉の前に立つ。またルナタイトの壁の部屋。中の様子はわからない。
自動的に扉が開くと、その向こうは手を伸ばすと両方の壁に触れるくらい狭い部屋だった。奥にもう一つ扉がある。中に踏み込むと、後ろで扉が閉まった。その後、正面の扉が開く。
その先はそれなりの広さの部屋で、清潔そうには見えるが、随分と簡易な服を着た男がいた。虚ろな表情で横を向いており、葵が入ってきたことに気付いていない。
「あの……」
誰だかは知らないが、何か様子がおかしいと思って、声を掛けながら近づいた。
(この人……夢幻の心臓? ネクロファージがいます……)
確かに感じる。室長と同じものではないのだろうか。これからやる試験というのは、模擬戦闘か何かなのかもしれない。そう思って、葵は本人に訊ねる。
「えっと、あの、私、何をすればいいんですか? 戦うんですか?」
「タ……タカイ……。チノデル……タタカイ……」
呆けたままの表情で、男は何事か口にした。その瞳は葵の方を向いていない。何かがおかしい。まともな人間には見えない。戸惑う葵の耳に、室長の声が届いた。
「それは不老不死の薬使用者だ。先週ベアト君が捕まえてきた売り子。もう効果は切れている。既に知能もかなり退化しているようだから、まもなく堕ちる。吸血鬼に」
ぞわぞわっと葵の背筋を嫌悪感が駆け上った。目の前の男に見える心の色が変化していく。あの時と同じ感覚。知らずに司祭に血を与えて、吸血鬼にしてしまったときと。
男の色はどす黒く濁っていった。綺麗な黒ではない。汚れを集めて凝縮したような、目を背けたくなる穢れた黒。悍ましい何かが、葵の全身を取り巻くように部屋中を満たしていく。
「血を……血を寄越せ……俺に、血を……」
先程と異なり、はっきりとした発音で、男は――吸血鬼はそう呟いた。
「いやー!!」
余りの気持ちの悪さに、葵は顔面を蒼白にし、脂汗を流しながらしゃがみ込んだ。きつく目を閉じ、耳を押さえて叫びをあげる。
「完全に吸血鬼に堕ちたようだ。もう人間ではない。処分を命じる。それが試験だ」
確かに狂っている。血を欲しているのがわかる。彼の中のネクロファージが暴れている。しかし、これはただのモンスターではない。つい今しがたまでは、明らかに人間だった。今も人の形を保ったままではないか。
「出来ません!」
不合格になるのを覚悟で葵は叫んだ。出来るわけがない。自分に人が殺せるわけがない。
「マザーネクロファージは心臓にいる。さっき教えた通り、マザーさえ破壊すれば、吸血鬼は殺せる。その名無しを突き立てて、強い魔力を流すだけ。やりなさい、自分の身を守るために」
真綾の言葉に、葵は激しく首を振ってイヤイヤをした。出来ない。自分には無理だ。殺すくらいなら、殺された方がましだ。
覚束ない足取りで吸血鬼が近づいてくるのを感じながらも、葵は動けなかった。ガタガタと震えつつ、この悪夢が終わってくれることだけを願った。
一歩、また一歩と、悍ましい気配が近寄ってくる。流石に耐え切れず、葵は地面に手をついて、後ずさりして壁際まで逃げた。恐る恐る見上げると、血走った目が葵を見下ろしている。狂気に歪んだ唇からは、鋭い牙が飛び出ていた。その口が大きく開かれ、葵に襲い掛かる。
思わず目を閉じた。剥き出しの首筋に鋭い痛みが走る。吸血鬼は噛み千切るようにして葵に牙を突き立て、そこから溢れ出る血を啜った。
「反撃しろ、葵! 夢幻の心臓だって、血を吸われ続けたらいずれ死ぬぞ!?」
ベアトの叫びを聞いて、葵は思う。ならば、死を選ぶ。それでこの哀れな吸血鬼を殺さずに済むのなら。自分の生命を糧にして、生かすことが出来るのなら。人は皆、生命を喰らって生きているのだから。
「これが外だったら、どうなるか考えてみろ! 襲われてるのはお前じゃなくて、友達の誰かだ! お前は皆を助けたいんじゃないのか!?」
それでも、動けなかった。葵が助けたい皆というのには、この吸血鬼も含まれているのだ。気付けば涙が溢れていた。自分の血を啜る吸血鬼の頭を、抱きしめていた。
「くそっ、このままじゃ、本当に死んじまう!」
扉が開いて、ベアトが飛び込んできた。吸血鬼の頭を乱暴に掴み、無理やり葵から引きはがす。そのまま力任せに壁に叩きつけた。
葵は、ベアトに抱えられて外に連れ出された。肩を揺り動かされ、頬を叩かれる。
「大丈夫か、葵?」
血を吸われたからか、くらくらする。視界が歪み、ぼんやりとして思考がまとまらない。
「残念だが話はなかったことにする。自分の身すら守れない人間が、他人を守れるわけがない」
室長の言葉が不合格を意味しているということは、かろうじて理解出来た。やはり自分は役に立たない。何も出来ない。葵の心を絶望が支配していく。
「逆かもしれません。誰かを助けるためだったら、出来るのかも」
その真綾の言葉の意味を理解するまで、時間がかかった。気付いた時には、真綾は既に部屋の中にいた。吸血鬼のいる部屋の中に。
葵の視線がゆっくりと真綾の方に向く。扉は二つとも開け放たれたままで、吸血鬼が真綾に向かって飛びかかる場面が、まるでスローモーションのように見えた。
「うわああああ!」
左手の指輪が紅く輝く。葵はダガーを伸ばしながら、最大速度で部屋の中へと踏み込んだ。
真綾にはネクロファージはいない。血を吸われたら死ぬ。吸血鬼になってしまうのかもしれない。葵は泣き叫びながら二人の間に割って入り、吸血鬼を突き飛ばした。倒れた相手の心臓にダガーを刺し込む。そこに力を籠めると、ほのかに紅く輝く光が、糸を伝って吸い込まれていくのが見えた。
びくんと吸血鬼の身体が痙攣した。突然どさりと床に崩れ落ちる。葵は、荒い息を吐きながらそれを眺めていた。真っ黒に濁った光が、吸血鬼の身体から拡散していく。それから仄かに蒼い別の光。天からの迎えに応じたのだろうか。ゆっくりと空に広がって、消えていった。
「はあっ……はあっ……」
「やれば出来るじゃない」
そっと真綾が頭を撫でてくれた。その瞳はいつも通り冷たく輝いている。しかしその奥には、優しさが満ち溢れているのが葵にも見えた。
「ごめんなさい、ごめんなさい! 私の、私のせいで、ウサ子さんが危険な目に!」
縋りつくようにしてきつく抱き付きながら、葵は涙して謝った。少しでも気付くのが遅れていたら、この期に及んでも動けなかったら、真綾は無事では済まなかった。
「別に危険なんかじゃなかったわよ。そこにいるの、誰だと思ってるの? 世界一の結界術師、ベアトリーチェ・ブレンターノよ」
その言葉で正気に戻り、ベアトと室長の方を見ると、二人とも至極落ち着いたままだった。いつの間にか頭上に魔法陣が現れている。発動はしていないが、きっとその気になればいつでも真綾を守れたのだろう。試されていたのだと葵は知った。
「とりあえず外に出ましょう。もう腐敗が始まっているわ」
異臭が漂っていた。人や動物が死んだとき特有の臭い。恐る恐る視線を向けると、もう何日か経った後の遺体のように、吸血鬼は急速に腐敗していっていた。
「これで資質は示せましたか?」
泣きじゃくる葵を外へと連れ出すと、真綾が訊ねた。小さく溜め息を吐きつつ室長は答える。
「少々反則が過ぎると思うのだがね。事前に示し合わせていたのか?」
「いえ。思い付きで行動しました。ベアトのことは信頼していますし、この子はきっと私を助けてくれると思いましたから」
「君らしくないな、そんな不確実な根拠で、危険な行為をするなど」
室長の感想に、真綾は葵の頭を撫でながら答える。その瞳は、やや憐憫の色を帯びていた。
「不確実ではありません。この子は人とは少し価値観が違うだけと思えます。自分の生命の価値を、正しく認識出来ていないのではないでしょうか。自分の身を守るためだと、例え吸血鬼であっても殺せない。でも他人を守るためなら、信念を曲げて殺せる。そう考えました。滅私奉公。我々にとって最も重要なものを、この子は極端なまでに持っていると思います」
しばしの間、真綾と室長が互いの瞳を見つめて睨み合う形になる。共に冷静な表情だが、そこでは激しい火花が飛び散っているように葵には見えた。
室長の方が負けたのか、大きく肩を竦めてから口を開いた。
「仕方あるまい、採用を認めよう。確かに資質はある。しかし、少し矯正はしないとならない。他人のために自らの身を顧みないのは結構だが、我々を巻き込んでもらっては困る。最低限、吸血鬼よりは自分を上に置くよう、しっかりと指導したまえ」
それだけ言うと、室長は白衣を翻してその場を去った。葵はその背を見送りながら、地面にへたり込む。
「ありがとうございます、ウサ子さん。私が合格出来るよう協力してくれて」
やっとのことで葵が言うと、真綾はくるりと背を向けながら返す。
「べ、別にあなたのためじゃないわ。事件の解決のために必要なだけ。あなたのネクロファージを研究材料にしたいだけ」
ベアトがニヤニヤしながらその背を眺めつつ言う。
「まったく、素直じゃねえよな、お前は」
照れているのだと葵は思った。本音は違う。自分に優しくしてくれる。
「でも、まあ、とりあえず吸血鬼よりは大切に思ってくれていて良かった。私は正規採用の手続きをしてくる。端末も用意するわ。あと電脳デバイスも発注しないと」
真綾は葵の方を見ないまま、そう言い残して足早に歩いていく。やはり照れている。葵は確信して、ベアトと同じようにニンマリと笑った。
「あいつ、心配だったみたいだな。お前に嫌われていないか」
先程疑いの眼差しを向けたからだと思って、葵は申し訳なくなって縮こまった。それにしても、真綾はどうしてあそこまでしたのだろうか。その疑問を、ベアトにぶつけてみる。
「ウサ子さん、どうしてあんな危険なことしたんですか? ベア子さんがいるっていっても、ぜったい大丈夫とは限らないのに」
「どうも、助けたい奴がいるようだな」
「吸血鬼のお友達?」
そんなわけがないと思いながらも、葵にはそれくらいしか考えつかない。首を傾げて見上げる葵の方は見ず、腕組みして真綾が消えた方向を眺めたままベアトは答えた。
「何かの病気じゃないかと思う。不老不死の薬使用者を元の人間に戻せれば、病気治療への応用が出来ると考えているようだ。室長も同じ研究をしている。本来真綾は情報収集担当のオペレーターなんだが、それを手伝って研究室にいることの方が多い」
言われてみれば、真綾がいた場所にあったのは、他の部屋と同じ何かの実験装置のように見えた。街を監視したり、記録を調べたりするのに使うものとは違う気がする。
「あいつは副業もやっていてな、専門の研究機関に出入りして、遺伝子異常を治療する研究をしているそうだ。未だに治せない病気はたくさんある。再生医療や擬似生体技術が進んだ今でも、置き換えられない臓器というのもある。あいつは、それをどうにかしたいみたいだな」
真綾が自分に期待していたことというのがはっきりとした。その病気の治療の研究のために、自分のネクロファージが欲しかったのだ。不老不死の薬使用者を助けるためだけではなく、それを使ってもっとたくさんの人たちを救うために。
「ねえ、ベア子さん。ネクロファージって、マザーがなくても吸血鬼を作れますか?」
「ん? どうだろうなあ。大量に血を与えれば、吸血衝動は起こすかもしれない。だが、マザーがいなければ、不老不死にはならないし、仲間も増やせない。ただのネクロファージは増殖能力を持たない上に、寿命も短い。いくらも経たずに、宿主ごと死んでしまうはずだ」
ならば、血だけであれば、そうそう悪事には使えない。司祭は完全な吸血鬼になったわけではなく、葵が血を与え過ぎたから、吸血衝動を起こしただけだったのだ。
その状態から助けることが出来たのか、出来なかったのかは、室長や真綾に聞けばはっきりするのかもしれない。とりあえず、協力はしてみようと思った。
「みんな誰かを助けるために必死なんですね……」
今までずっと何もしていなかった自分を、葵は恥じた。それを自覚すると、俄然やる気が出てきてしまう。両手を挙げて跳び上がりながら叫んだ。
「ふおおおおお! 私も頑張っちゃいますよー!」
まずは勉強。それと訓練。この名無しをもっと自在に操れるようにする必要がある。いざとなったら吸血鬼を倒せるように。痺れさせて無力化し、殺さずに逮捕も出来るように。葵にとっては、これからが本番。