第一話 ネクロファージの生態
「ふおおおおお! 早くみんなに見せたいですー! このお洋服、ベア子さんがくれたって自慢しちゃいますー!」
他に乗り合わせている者がいなくなると、葵はエレベーターの中でくるくると回りながら叫んだ。フリルのついたスカートがふわりと持ち上がり、その動きが楽しくて何度も回り続けた。
嬉しくて仕方がない。こんなに綺麗で可愛らしい服を着るのは初めてだった。スラムではいくら金を積んでも手に入りそうにない。そして雪でも風でも何でも来いと言いたくなるほど温かくて、フカフカな上着。靴だけは邪魔くさいが、履いていた方が寒くはない。
「はしゃぎ過ぎだ。それに、あたしじゃなくて、真綾だぞ」
意外なことを言われて、葵は首を傾げてベアトを見る。
「あたしじゃ女の子らしい服なんて選べないから、あいつに任せた。金は払うって言ったのに、ギフト扱いで送ってきやがった。直接面倒を見ない代わりに、それくらいはするってことかな」
この服は真綾のプレゼント。葵に似合うものを選んでくれた。そう思うと、余計に嬉しくなってきて、眼を見開いて顔を輝かせた。ベアトだけでなく、真綾も自分に優しくしてくれる。
今まで人と関わりを持たなかったことを、葵は後悔した。想像していた以上に、人とは優しいものなのだろう。もっと貧しくても、同じ気持ちをスラムでも味わえたのかもしれない。
気を引き締めてから、室長の部屋へと真っすぐに向かった。もう決意は固まっていた。中に通されると、慎重に葵を観察している様子の室長に向かって、はっきりと意思を述べた。
「私をここで使ってください。何でもします。もう司祭様みたいな人を生み出したくありません。スラムのみんなが利用されるのも嫌です。私の能力で事件が解決出来るのなら、いくらでも頑張ります!」
室長は腕組みをしたまま、何も答えずにじっと値踏みするように葵を眺め続ける。大分長いことそうしていた後、ゆっくりと口を開いた。
「可能な限り身元調査はした。ほとんど何も出てはこなかったが、少なくとも万引き以上の悪事を働いた記録はない。家族でも見つかればと思ったのだが、残念ながら手掛かりはなかった」
家族を探してもらうという発想は、葵にはなかった。司祭の問い合わせでは不明でも、警察や政府機関の調査能力なら、見つかる可能性があるというのを失念していた。
「あ、ありがとうございます。あの、私……」
「礼は要らない。君が信用出来るかどうかの調査だ。あくまでもこちらの都合に過ぎない」
そうしてまた室長は押し黙る。調査の結果、自分はやはり信頼出来ないと判定されたのだろうかと、心配になってしまう。
「信用調査に関しては、これ以上過去を探り続けても意味はないだろう。あとは、実際に態度で見せてもらうしかない。当面は厳しい行動制限をつけるが、それでもやってみるかね?」
「はい! 頑張ります!」
満面の笑みを浮かべ、元気よく答える葵。しかし温和な表情で、室長は残酷なことを言う。
「ただし、試験に合格することが条件だ」
(し、試験……。これ、実質お断りってことですか!?)
今の葵の知識で合格出来るわけがない。ちょっとした計算なら得意だが、恐らく自分がしていることは、どこの子供でも当たり前にやれることのはず。
「え、えっと、その……し、試験は、そのうちってことに出来ませんかね……? 先にお勉強しないと、ちょっと、その……」
視線を泳がせ、しどろもどろになって慌てる葵に、室長はにこりともせずに事務的に返した。
「心配しなくても、学力テストではないよ。今やっても仕方あるまい」
ほっと胸を撫で下ろす葵。では何の試験なのだろう。その疑問に答えるように室長は続ける。
「作戦遂行能力を見るためのものだ。準備もあって今日は遅い出勤にしたが、予想よりも遅れている。先に予習として、ネクロファージについて兎澤君からもう少し深く学んでくるといい」
「おい、てめー、予想よりって、まさか!?」
ずっと後ろで黙って聞いていたベアトが飛び出し、室長に掴みかかって気色ばむ。
「け、喧嘩は駄目ですよ、ベア子さん!」
余りの剣幕に葵が腕を掴んで制止するも、ベアトは収まらない。
「お前、先に真綾のところへ行ってろ。あたしはこいつとちょっとばかり話をしたい」
「で、でも……」
話をする雰囲気にはとても見えない。葵は躊躇するも、ベアトに激しく睨み付けられてしまった。怒りを露にしているのはベアトの方だけ。室長は至って落ち着いた表情。仕方なく、穏便に済むことを祈りつつ、ぺこりと頭を下げてから部屋を出た。
(どっち行くんでしょ?)
廊下に出たはいいものの、真綾がどこにいるのかわからない。葵がきょろきょろと見回していると、近くにスピーカーがあるのだろうか、真綾の声がした。
「床に矢印が出るから、それに従ってこっちに来て」
確かに床の一部が緑色に光っていて、奥へ誘う形に点滅していた。それを追って白い壁の通路を進んでいく。途中で扉が自動的に開き、その先は大きな窓のついた部屋が並んでいた。
中には複雑な形の機械が置いてある場所が多く、白衣の人たちがそれを使って何かの仕事をしている。その様子を眺めながら、矢印の示す部屋へと入った。
「ようこそ。私は普段ここにいることが多いわ。まだ採用してもらえるかどうかわからないけど、一応覚えておいて」
「こんにちは、ウサ子さん!」
出迎えてくれたのは当然真綾。専用の部屋なのか、他には誰もいない。何に使うのかわからない機械が多数あり、葵の視線はついついそちらに吸い寄せられる。
「触らないでね。精密機械だらけだから。とりあえず今日は、昨日の続きを話しましょう」
触ってみたい好奇心を抑えつつ、真綾が示した椅子に葵は腰かける。壁面に嵌め込まれたディスプレイに、またネクロファージらしき映像が映し出された。
「昨日は詳しい説明をする機会がなかったけど、仕事をする上で大切なことだから、ネクロファージの生態について学びましょう。これを見て」
大きなネクロファージから、小さなネクロファージが次々と生み出されていく。それが身体中に散っていき、そこで働いている様子だった。本物の映像ではなく、模式図のようだ。
「この大きいのがマザーネクロファージ。これが本体みたいなもの。マザーは人間の心臓にいて、こうやって子供のネクロファージをたくさん産み出すの。それを全身に行き渡らせて、細胞を活性化させて治癒能力を高めたり、テロメアを含め遺伝子までもを常時修復する。宿主の身体を、寄生した時のまま完璧に保存し続けることで、不老不死になる」
真綾の瞳が葵の顔に向く。葵はすっと視線を逸らした。理解するとは期待していないだろうことが、探るような表情でわかる。画面が切り替わり、真綾は別の話を始めた。
「蜂や蟻は知ってるでしょ? 女王蜂や女王蟻が巣の中にいて、働き蜂や働き蟻を産み出す。それらが巣を拡張したり、壊れたら修理したりして、住処を維持していく。あなたの身体は、さしずめ蜂や蟻の巣のようなもの。常時メンテナンスをして、自分たちの家を守る」
その様子が画面に映っているようだが、残念ながら蜂や蟻自体は見たことがあっても、巣は見つけたことがないし、どう暮らしているのかも当然知らなかった。
「わかった。生態についてはいずれ知ってもらうとして、今日必要な最低限のこと、もうずばり答えからいくわ」
見捨てられた気がして、葵は俯いた。学校に入れてもらえても、何も学べず帰ってくることになりそうな気がして悲しい。
「これを見て。親分と子分ということにしましょう」
画面には銃を持ったマフィアらしき人間が何人も表示された。真ん中に一際大きな太った人物。葉巻を咥えてふんぞり返り、いかにも偉そうに周りに命令しているようだ。
「例えばマフィアを潰すなら、親分を倒さないとならない。子分はいくら倒しても次々と雇って補充されてしまう。ネクロファージも同じ。宿主を殺すには、マザーネクロファージを破壊しないとならない。手足などをいくら攻撃しても、再生されてしまう」
マザーネクロファージが親分。そう考えるとわかりやすい。棲んでいるという心臓を破壊すれば、殺せるというのはわかる。しかし身体のどこを失っても、心臓さえ無事ならそれでも平気なのだろうか。他にも致命的な急所はある気がする。葵はその疑問をぶつけてみた。
「頭とか攻撃しても、再生されちゃうんですか? 脳みそ無くなっちゃったら、死にますよね?」
「並の吸血鬼なら、頭部を破壊すれば流石に死ぬことが多いわ。死ななくても行動不能にはなるから、無力化は出来る。でも不死性が高い個体は、条件次第でそこからでも再生する」
まさに不死身のモンスター。血は吸わないとしても、自分も同じだと考えると、恐ろしいものがある。頭を大怪我しても生きていたのは、そのせいだったのかもしれない。
「それに関連して……これは伝えた方がいいのかどうか、判断しづらいんだけど……」
いかにも言いにくそうに真綾は切り出す。同じ連想をしたのではないかと葵は思った。
「あなたが保護された日、特定出来たわ。三年半ほど前で、教会が襲われ、吸血鬼騒ぎもあった暴動。調べてみたら、二一八〇年の七月十八日だった。十日いたというから、その辺りの映像を探したら、七月七日のものにあなたが映っていた。その……頭を撃ち抜かれたところが」
やはりそのことだった。真綾の語った内容は、聞いていた話の通り。きっと自分はその時に記憶を失ったのだ。そして、ネクロファージのお陰で死にはしなかった。
「何も覚えてないのは、そのせいですか?」
「そう思う。記憶というのは脳の色々な部分に分散されて保存される。あなたの場合、エピソード記憶という、いわゆる思い出が保存される部位が損傷したと考えられる。映像からはそう解析出来た。物理的に破損し、ネクロファージが細胞だけ修復したから、記憶は多分戻らない」
ネクロファージは、記憶までは修復してくれない。あくまでも身体だけ。だから自分は全てを忘れた。
「でもそう悲観することはないわ。こう言ってはなんだけど、失った記憶は恐らく少ない。あなたはまだ若いらしいということもわかったの。たぶん、十五歳から十七歳くらい。きっと、これからいくらでも埋め合わせられる。永遠の寿命を持つのだし」
年齢がわかる。家族は見つからなかったと、室長は言っていたのに。そこから葵が導き出せる答えは、一つだけだった。
「私の家族……その時、死んじゃってたんですか?」
「ああ、ごめんなさい、勘違いさせてしまったわね。あなたがいつ夢幻の心臓になったのかわかった、という意味だったの。家族のことは、調べられなかった」
「そう……ですか……」
葵は俯きながら言った。しかし、家族は死んだということがわかっても、意味などないとも思う。何も覚えていないのだから、知らないままの方がいいのかもしれない。
「あなたが頭を撃たれた直後、誰かが血を与えている様子が映っていたの。蜃気楼を着ていたみたいで、手しか映ってなかったから、誰なのかは特定不能だった。あなたが元々夢幻の心臓だったとすると、その行動の意味が説明出来ない。だから、三年前の七月七日に夢幻の心臓になったと考えていい」
教会で目覚めた時、十二歳か十三歳くらいではないかと言われた。それから見た目は歳を取っていない。だから、三年半を足せば、十五歳から十七歳くらい、という意味なのだろう。
「映像を見た時、普通なら即死の状況に思えたから、少し期待したのだけれど、残念ね……」
自分が頭を撃ち抜かれる光景を見て何かに期待するとは、意味がわからない。趣味が悪い気もする。そう思ったものの、ベアトの言葉を思い出した。今着ている服のことも。悪気はないのだろうと解釈して、不満は顔に出さないよう注意して葵は訊ねた。
「えっと、何が残念なんですか?」
「あなたが見た目よりずっと長生きかもしれないと思ってたの。マザーネクロファージを生み出すには、長期間共生を続けて、信頼関係を築く必要がある。ベアトは夢幻の心臓になってもう十七年経つというけれど、まだ出来ない。彼女より年上だったら、もしかして、と思って」
「……それが出来ると、何がいいんですか?」
上目遣いで見上げながら、恐る恐る問う。最悪の答えを言われないように、念押しもした。
「まさか、吸血鬼を作りたい……とか言わないですよね?」
「私、そんな悪人に見える? ……見えるのかもしれないわね」
小さく溜め息を吐き、残念そうに視線を逸らす真綾。自分の疑いの眼差しで傷つけてしまったと気付き、葵は慌てて手を振りつつ否定した。
「そ、そんなことないです! お洋服、ウサ子さんがプレゼントしてくれたって聞きました!」
「内緒にしてって言ったのに……」
この場にいないベアトに対するものだろうか。真綾は半眼になって毒づいてから、葵の方を向き直した。
「一応言っておくと、あなたをそんな風に利用するつもりはないし、する必要もない。室長は夢幻の心臓になって二十五年以上経つと聞くわ。見た目の歳と足すと、あれでもう六十前後ってことね。既に信頼関係を築けていて、マザーネクロファージを生み出すことも出来るの」
それなら、吸血鬼を作るのに自分は必要ない。では一体何に期待していたのか、またわからなくなってしまった。
「じゃあ、なんで残念って言ったんですか?」
「サンプルは多い方がいいでしょ? それだけ」
ネクロファージは色々いる。自分のものとベアトのもの、室長のものと全部違う。言っていることはわかる。
「ここの研究室ではね、不老不死の薬を投与された人間を救う方法を探してるの。詳しい仕組みはいずれ教えることにして、ネクロファージを除去出来るかもしれない理論が存在するのよ。今までは夢物語だったけれど、あなたのネクロファージは室長のとは違うと聞いたわ。あなたのも研究すれば、先へ進めるかもしれないと思ったの」
作りたいのは吸血鬼ではない。しかし、不老不死の薬の実験をするということは、人を使うのだ。人体実験。とてもそんなことに使われたくはない。
「出来ません! 私、マザーネクロファージっての、作れません!」
葵は激しく首を振りながらそう答えた。嘘だった。出来そうな気がする。やってみたことはない。しかし、心臓にいると自然に気付いていた。そこにいる何かが語り掛けてくるのを感じていた。それは、信頼関係が築けているということなのかもしれないと恐れた。
「そんなに怯えなくても……。無理強いしたって出来るようにはならない。何もしないわよ」
少し違う方向に解釈されたようだが、嘘を吐いたことは見抜かれていないようだった。葵はほっと胸を撫で下ろして、呼吸を整えた。
「でもね、マザーがなくても、実験には使える。結界の中でなら、数時間程度は正常活動を続けるの。ここにはその装置があるから、あなたのネクロファージを、検体として提供してもらえないかしら? もし入隊することになったら、定期的に採血させてくれれば、それでいい」
それを聞いて、何か騙されている気がしてきた。本当はマザーネクロファージなんてものは、必要ないのではないかと。司祭は葵の血だけで、吸血鬼になったのだ。必要なのは血だけ。
葵がどう答えようかと迷っていると、真綾は小さく首を傾げながら問う。
「痛いのは嫌? 昨日の、多分ほとんど何も感じなかったと思うんだけど?」
「えっと、その……考えさせてください。昨日のあれ、すごく気持ち悪かったんで」
「まあ、ショックよね、あんなのが身体の中にいたら。私も初めて見た時には、CGかと思ったもの。宇宙怪物みたいって。サンプルの件は、いつでもいいわ。その気になったら、教えて」
自分の考えすぎなのだろうかと葵は悩んだ。真綾は表情に乏しく、感情が読みづらい。だが、言っていることは優しく感じる。葵の気持ちを考えてくれているのがわかる。
ネクロファージの話は、ベアトに確認すればいい。真綾の言ったことがすべて本当なのなら、悪い人間ではないし、悪いことに使う気でもないのだ。不老不死の薬使用者を助けたいだけ。吸血鬼にせず元の身体に戻したいだけ。きっと優しい人間に違いない。