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スラム街の見えない天使  作者: 月夜野桜
第一章 スラム街の見えない天使
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第四話 『欲しいもの』と『必要なもの』

 スーツを着た小綺麗な格好の男女が、地下通路を行き交っている。葵がいたのは法務省の建物。省庁間を繋ぐ地下通路を経由して、ベアトの住むマンションの近くまでいけるという。


「なあ、葵。室長のこと、どう思った?」


 人が少なくなったタイミングで、ベアトがそう話しかけてきた。葵は、部屋を暖かくしてくれたことや、自分の心配をしてくれていたことを思い出しながら答える。


「ちょっと厳しいとこもありますけど、優しい人みたいですね」


「お前はやはりそう捉えるか……。とりあえず、室長はお前を全く信用していないのは確かだ。真綾が端末を寄越さなかったのは、恐らく室長からの指示。お前が密偵だと疑っていて、外部への連絡手段を断とうとしているのだろう」


 密偵。聞いたことのない単語だが、なんとなく想像がついた。葵はスラムの出身。マフィア街はスラムの一角。仲間だと思われているのかもしれないと。


「真綾があそこまで言葉を濁した以上、あたしの端末に触っただけでアウトかもしれない。行動には気を付けろ。そのIDで買い物も出来るが、一切使うな」


「どうせわかんないですし、ベア子さんの言うとおりにします」


 厳しい処置だとは思うが、仕方のないこととも思う。事態を正確に把握出来ているわけではないが、相手は大悪人で、恐らく頭もとても良いというのはわかる。一切尻尾を掴ませないのだから。葵を送り込んで、捜査の邪魔をさせようとしている。そう考えるのも理解出来る。


「室長は見た目温厚だし、常に落ち着いていて論理的。だがなかなか陰湿な人間だ。葵に知識がなく理解出来ないと踏んで、普通なら相当傷付くことも言っていた。帰ったらまず風呂入れ」


「お風呂?」


「身体を洗えってこと」


 葵は天井を見上げた。地下からではわからない。しかし、電脳通信とやらで、ベアトは知っているのかもしれない。


「お外、雨降ってきたんですか?」


「お前……いや、それしかないのか。雨降らす機械があるから、それでいつでも洗える」


 微妙な表情を浮かべつつ、ベアトがそう教えてくれた。家に雨を降らす機械がある。流石上級国民だと思った。


「おお、すごいです! いつでも降らせられるなら、缶たくさん用意しておく必要ないですね」


 どんな機械なのか想像もつかない。雨を降らせるということは、余程広い家なのだろうか。葵は目を輝かせつつ、色々と妄想を楽しんだ。


「それとな、真綾のことは誤解しないでやってくれ」


 誤解。何の誤解だろうと、葵は首を傾げてベアトを見上げる。


「口は悪いが、お前のことを結構気遣っていた。何より、室長を説得したのはあいつだ。最近は、捜査よりも不老不死の薬エリクシルやらネクロファージやらの研究の方に没頭していた。だから心配していたんだが、事件の解決に懸ける熱意は本物のようだ。捜査に行き詰まっていたから、手法を変えようとしていただけみたいだ」


 確かに、怖がらせずにネクロファージについて教えてくれようとしていた。とはいえ、室長が言っていたことも、もっともと思える。解決への熱意があるのなら、単なる気遣いというよりも、引き込むための方法と考えられなくもない。


「ベア子さんが一番優しいです!」


 それだけは確か。葵は満面の笑顔で、元気よく言った。


「よせやい。そんなんじゃない。解決の役に立つと思ったから、連れてきただけだ」


 頭を掻きつつ視線を逸らすベアト。照れるというやつだと葵は思った。言っていることも、きっと本音ではない。最初はそうだったのかもしれない。しかしベアトは、協力しなくてもその後のことを約束してくれた。自分を利用しようと思っているだけではないのは明らか。


 その後他の庁舎を経由して外へと出ると、葵の目の前にはとんでもない光景が広がっていた。


「ふおおおおお! 摩天楼ー!」


 スラム街のある東京湾海上都市アクアポリス。その再開発済み地域などとは比較にならない規模で、光り輝く巨大なビルが所狭しと立ち並んでいた。葵にとっては憧れだった場所。スラムの皆が、いつか住んでみたいと言っていた場所。そこに今、自分はいるのだ。


 歓喜と感動で舞い上がり、くるくると回りながら叫んだ。見るものすべてが珍しくて、先に進みたがらない葵を、呆れ顔のベアトが無理やり引っ張っていく。


 最終的に連れていかれたのは、やはり光り輝く大きな建物。エレベーターに乗って辿り着いた先、ベアトの部屋の中を見て、再び葵は叫ぶ。


「ふおおおおお! なんですか、これー!」


 借りたサンダルを足蹴にして脱ぎ捨てると、葵は窓際に駆け寄った。壁一面がガラス張り。その先に広がるのは、先程は下から見上げるだけだった摩天楼。天地が逆転したかのように、地上が星空の如く光り輝いている。


(天の川ってやつ、本当は地面の下にもあるんですか?)


 司祭にもらった端末からは、空の彼方にあると教わった。しかし、今眼下に同じようなものが広がっている。こんな美しい景色がいつでも見られるなんて、葵は言わざるを得ない。


「やっぱりベア子さん、上級国民ってやつですかー!?」


「部隊の性質上、緊急出動があるから、拠点に近い場所に家を与えられているだけだよ。自分で金を出しているわけじゃない」


(なら逆に上級国民。こんなすごいとこに、ただで住めるなんて)


 スラムの外の人間は皆そうなのか、それともベアトが特別なのか、葵には判断出来ない。どちらにしろ、逃げ出すわけにもいかない。スラムの人たちには悪いが、しばらくは堪能させてもらおうと葵は考えた。


「ほら、風呂はこっちだ。使い方はわかるか?」


 案内されたのは、タイル張りの部屋。水を貯めるのだろう大きな容器と、水道の蛇口などがいくつか。雨はどう降らすのかわからない。


 葵が首を傾げつつ見上げると、ベアトは柔らかそうな白い服を手渡しながら言った。


「音声入力にしとくよ。出して、止めて、で動く。着替えはないから、とりあえずこれを着ろ」


 受け取ってみると、随分とフカフカした手触りだった。タオルに似ている。それを外に置くと、葵はワンピースを脱ぎ捨て、風呂とやらに飛び込んだ。そして一分後。


「あったかい雨なんですねー!」


 そう言いながら出てきた葵を見て、ベアトの頬が引き攣る。びしょ濡れのまま、だぶだぶのバスローブを引きずるようにして部屋に入っていくと、ベアトが大爆発した。


「烏の行水か! ちゃんとボディーソープで身体洗って、髪もシャンプー使って――」


 葵の頭が傾いでいくのに気付いたのか、ベアトの言葉が途切れて、大きく溜め息を吐く。


「本当に仕方ない奴だなあ……ほら、一緒に入ってやるよ」


 腕を引かれて再び風呂に連れていかれる葵。たっぷり三十分はしてから、やっと解放された。


「お洗濯されてしまいました……」


 外が見える広い部屋の床にへたれこみ、手をついて項垂れる葵。泡だらけにされて、隅から隅までゴシゴシと磨かれてしまった。しまいには、お湯に浸けられ茹でられた。おかげで身体は温まったが、何とも言えぬ敗北感がある。


 遅れて出てきたベアトが、葵の髪を幾筋か持ち上げて眺めながら呟く。


「洗って綺麗にしてみると、白と言うより透明に近いな」


 その髪も、温風を当てられ無理やり乾かされた。スラムでの生活は何だったのかと考えさせられる。葵が毎日工夫して時間をかけてやっていたことを、機械があっという間にどうにかしてくれる。しかも、天気に関係なくいつでもやってくれるというのだ。


「瞳の色といい、アルビノかと思っていたんだが、少し違うのかな?」


「これやっぱり珍しいんですか? 目立つようなので、困ってたんですよ。あの見えなくなる服を手に入れるまでは、ホント苦労しました」


「お前さ、あれどこで手に入れた? もしかして、初めから持っていたのか?」


「あれは、その……マフィア街で……」


 罪が増えそうで、葵は言葉を濁した。恐らくチョコバーより高い。


「盗んだのか?」


「か、勝手に借りました。人がいるのに見えないから、触ってみたらやっぱりいるんですよ。それで引っ張ってみたら、取れちゃって。あ、これ便利! って」


 自分で言っていて、強盗行為にしか思えない。その後しつこく追いかけられた記憶が蘇る。しかしベアトはそのことは咎めず、別のことの方に興味を持ったようだった。


「見えなくても人がいるのは認識可能なくらいに、魔力や氣を感じ取れるということだな。というか、あれ着たままずっと過ごしてたってことは、地形すら把握出来るってことか?」


 これ幸いとばかりに、葵も新しい話題の方に乗っかる。


「そうそう、なんかボヤっと見えるんですよ。目を閉じても見えます。走るのもやたら速いし、壁もペタペタ吸い付いて登れるし、私、仙人ってやつなんじゃないかと思います。仙人は霞を食べて生きるって聞いたので、試しに霞を食べてみたら、お腹の減りが遅くなりました」


 笑われるかと思ったが、ベアトは至って真面目な顔で返した。


「ある意味間違っちゃいない。お前は、天然の気功術師なのかもしれないな」


 葵は地面を這っていって、ベアトの足元まで行って見上げながら訊ねた。


「私、ホントに仙人なんですか?」


「将来そう呼ばれるようになるかもしれないな。仙人ってやつは、気功術の達人のことをそう呼んでいたんだと、あたしは思う。気功術ってのは、生命エネルギーである氣を使って身体を強化し、重い物を持ち上げたり、速く走ったり、色々なことをする。霞を食べるってのは、空気中に漂う氣を使うってことじゃないかな」


「ほうほう。じゃあ、私、御飯食べなくても良かったんですかね?」


「んなわけないだろ。霊体は維持出来るかもしれないが、物理的な身体は普通に死ぬよ。夢幻の心臓イモータルだって、一応人間ではあるんだ」


 言われてみれば、食べなくていいのなら、腹は減らないはずだった。普通の人よりは少なくて済むくらいなのかもしれない。


 ベアトはひんやりとした空気が流れ出てくる箱の扉を開けながら、葵に訊ねてきた。


「あたしは飯にするけど、お前はどうする?」


「さっき食べたから要りません。あんな御馳走なら、きっと一か月は食べなくて済みます。豚さんの生命が、私を生かしてくれるのです」


 誇張ではなく、実際それくらい葵は満たされていた。身体に活力がみなぎって仕方がない。


「遠慮せず一日三回食っていいぞ。……とはいえ、確かにさっき食べたばかりか。一人で食う」


 そう言ってベアトはなにやら食事の用意を始めた様子なので、葵は再びペタペタと床を這って、部屋の中を探索に行く。そして長方形の低いテーブルを目の前にして、首を傾げた。


(これは一体なんでしょう……? なんでフカフカのお布団が……?)


 テーブルの下の空間は、完全に布団に覆われている。テーブル兼ベッド。なわけはない。下に厚手の布地が敷かれてはいるが、ベッドであれば下も布団にするはずである。


 その布団を摘んで持ち上げると、中はオレンジ色に光っていた。恐る恐る手を入れてみると、温かい。もしや、と思い頭から潜り込んでみた。そして確信する。


(こ……これは、個人用暖房器具! お布団で熱を逃がさない、天才的な発明!!)


 反対側から頭を出し、全身すっぽりと収まる。丁度いい大きさ。お湯に浸かっているかのような温かさが全身に染みわたる。心の中まで温めてくれるようで、ほんわかとして頬が緩む。


「ふぁぁあああぁぁ……あったかい……」


 思わず口から気の抜けた言葉が漏れる。ベアトの笑い声が聞こえてきた。


「やると思ったが、やっぱりやったか。お前色々とそっくりだよな。あたしのことベア子と呼んだり、そうやってコタツムリしたり」


「コタツムリってなんですかー?」


「これ、コタツっていう日本の伝統的な暖房器具なんだよ。そうやって頭だけ出して全身すっぽり入る奴のこと、コタツムリって呼ぶんだ」


 コタツムリ。カタツムリに似ているからだろうか。特に寒い日は、頭まですっぽり。


「スラムにこれがあれば、みんな凍えなくて済むんですけどねー」


 ずらりとスラム街に並んでいる様子を葵は思い浮かべた。これさえあれば、家すら要らない気がする。むしろコタツが家でいい。雨の日は頭まで中に入る。それで完璧。


「お前、冬はどうしてたの? 蜃気楼ミラージュ着てたら、焚き火の側とかにいても余り温かくはなかったはず。あれは赤外線も迂回させるからなあ」


「その蜃気楼ミラージュっての、あの見えない服のことですか?」


「そう。光や電磁波が迂回していくから見えなくなる。って言ってもよくわからないか?」


 わからない。が、認めるのは少しだけ悔しくて、そこには深く触れずに話を続けた。


「まあ、仕組みはどうでもいいです。あれのお陰でいろいろと助かりました。冬は工事現場とかの建物にこっそり入れましたし。夜誰もいなくなってからだけですけど。昼間は高い建物の屋上に行って、お陽様浴びたり。その時は脱いでました。着てるとあったかくならないので」


「本物の野生児なんだなあ……」


 感心しているのか、それとも嘆いているのか。細長い食べ物をフォークで口に運びながら、ベアトはそう呟いた。赤く色付いていて、とても美味そうな匂いがする。葵は思わず身体を起こして、凝視してしまっていた。


 ベアトの翠の瞳が、葵の半開きになった口から垂れる涎に向く。フォークをひっくり返し、取っ手を葵に差し出してきた。


「ほれ、お前にやるよ。そうなると思って、もう一つ解凍中だ」


 葵は受け取らず、ふるふると首を振って拒否する。


「そんな贅沢したら、みんなに悪いです。さっきも食べ――」


 その言葉を遮るようにして、ベアトが葵の口の中に赤くて細長い食べ物を突っ込んだ。


 舌に触れたまろやかな酸味と強烈な旨味に、思わずちゅるんと吸い込む。もちもちとした食感が歯に心地良い。匂いには覚えがある。恐らくパスタという食べ物だ。


「ふおおおおお! なにこれなにこれ!? 美味しいー!」


「お前がそれ食わなくたって、スラムの奴らにやれるわけじゃないんだから、食っとけ」


 その通りだった。今から持っていくわけにもいかない。それ以前に、恐らく外出禁止だろう。


 フォークは受け取ったものの、次の一口を食べる前に葵は訊ねた。


「これは、チョコバーいくつ分ですか?」


「お前、何でもチョコバーに例えるんだな……」


 別にスナックでもいいのだが、物によって価値が違いそうで、いつも同じものを選んでいたチョコバーが一番わかりやすい。苦笑するベアトを見ながら、葵はそう考えた。


「それは安いやつだから、チョコバーと大して値段変わらないぞ」


 こちらの方が随分と量が多く見える。味もいい。チョコバーはチョコバーで甘くて美味しいから、あちらも食べたいが、食事としてはこの方が良さそうに感じる。それが同じ値段。


「協力すれば、一年のお給料で、毎日チョコバー三つ食べても、二十年分もらえるって言ってましたよね? それなら、一か月に千八百二十五本。毎月千八百二十五人に、チョコバーかこれ配れるってことですよね?」


 とても素晴らしいことだと葵は思った。みんなで毎月これを食べる。その光景が頭に思い浮かんだ。自然と笑顔になる。しかしベアトは、そんな葵に厳しい視線を向けていた。


「やめとけ。スラムに何人住んでいるか知ってるのか? IDない奴多いから実態はわかっていないが、持ってる奴だけで二万人以上だそうだ」


「に、二万人!? なら一年に一回しか配れないです……」


「持ってない奴含めると、五十万人はいると言われている。お前がいた海上都市アクアポリスだけでだぞ?」


「へ? そ、それだと二百七十四か月に一回……。二十三年にチョコバー一つだけ……?」


 絶望的な数字。それでは配らないのと一緒だ。渡す前に死んでしまいそうだと思った。


「色々な思惑で戦災難民を受け入れたはいいが、思った以上に数が増えすぎて、政府にもどうしようもないのさ。お前の金で買える分だけを配ったらどうなるか、想像つくだろう?」


 暴動が起こると言いたいのだろう。水も食料も政府は充分に用意してくれないと、よく皆が愚痴っているのを耳にしていた。人々が集まって、大声で抗議しているのを何度も目にしていた。そこからまた暴動に発展したのも見たことがある。


「でも、司祭様のとこでは、みんなちゃんとお行儀よく並んでました」


「普段はそうだっただろう。しかし、その後どうなった?」


 葵は何も答えられなかった。毎日並んで、司祭に感謝の言葉を述べていた人まで、教会に押し入って物を盗んでいったのを見てしまったから。自分も最初は感謝されても、いずれ襲われて、チョコバーを奪われるのだろうかと考えてしまう。


「やり方があるのさ。政府や慈善団体だって、何もしてないわけじゃない。うまくやっているところはうまくやっている。少しでも役に立ちたいのなら、寄付でもしたらどうだ?」


「寄付?」


 聞いたことのない言葉だった。司祭に貰った端末で色々な言葉を学んだが、すべてを知る前に動かなくなってしまった。葵には直し方がわからず、スラムの片隅に隠したまま。


「個人の力じゃどうにもならない。だが、みんなで少しずつ出し合えば、どうにかなるかもしれない。金持ちだって、自分の財布の中身だけ気にしてる奴ばかりじゃない。自分が率先して動くことで、多くの人の善意を集めている奴もいるのさ。そこにお前の金もちょいと混ぜてもらえばいいだろ?」


 皆で少しずつ出し合う。協力するということ。葵一人ではチョコバー二千本も買えない。しかし、十一人いれば二万本を超える。二百七十四人いれば、五十万人全員に配れる。


「もしかしてベア子さんが、それやってるんですか?」


「あたしはそんな柄じゃないし、そんな金もない。だが知り合いにスラムで学校をやってる奴がいるから、そのうち紹介してやるよ。そいつに預ければ、うまく使ってくれる」


「寄付……みんなと一緒に、みんなを助ける……」


 自分にもやれそうな気がしてきた。一人では全員を助けられなくても、皆で協力して助ければいい。自分はその中の一人として、出来る範囲でやればいい。


「それにな、お前を含め、スラムの奴らに必要なのは、食べ物でも金でもない。『欲しいもの』と『必要なもの』は、しっかり区別しなきゃならない」


 『欲しいもの』と『必要なもの』。葵には違いがわからない。必要だから欲しいのではないだろうか? 必要ないものは欲しくならないとも思う。


「どう違うんですか?」


「お前は毎日何をして暮らしていた?」


 ベアトは葵の疑問には答えず、逆に質問で返してきた。意図はわからないが、葵は今までの生活を思い出しながら、素直に答える。


「雨の日は缶並べてお水を貯めて、身体も洗って、それから毎週一回、その……食べ物を……」


「それ以外はどうしていた?」


「お腹空かないように、じっとしてました。時々わんちゃんが遊びにきてくれて、お話するくらい」


「食べて飲んで寝る。それ以外のこと、していなかっただろ? 食べ物を盗まなくて良かったとしたら? 水もいつでも手に入ったら? お前、何もせずにずっとじっとしていたよな?」


 否定出来なかった。厳密には、水はいつでも手に入った。政府が設置したという、無料で使える水道があった。数が少なくいつも大行列だったので、透明なまま並ぶことは出来ず、仕方なく雨水を貯めていただけ。もしどこにでもあるのなら、何も苦労はしない。


 人との関わりを断っていたから、普段はじっとしているしかなかったというのはある。しかしそうでなかったとしても、他人と会話して時間を潰していただけではないかと思える。


「全員じゃないだろうが、スラムの奴らの大半がそうだ。外の奴らだって同じだ。水や食糧、あるいはそれを買える金を与えてしまったら、ただ享受するだけで、何もしなくなる。だからそれは『欲しいもの』なだけで、『必要なもの』ではない」


「でも食べないと死んじゃいます。必要です」


 ネクロファージが守ってくれるという自分ですら、食べなければ死ぬとベアトは言った。なら必要としか思えない。葵は口を尖らせてそう主張したが、ベアトは首を横に振る。


「金があれば食べ物を買える。働けば金を稼げる。だから、働くための能力を身につけることこそが、『必要なもの』だ。もちろん真っ当な仕事の話だぞ? スラムに必要なのは、そのための教育と、やる気を育てるシステムだ」


「教育……やる気……司祭様も言ってたかも」


 勉強も教えたいが、今は炊き出しの準備だけで精一杯という司祭の言葉を思い出した。葵が見様見真似で野菜を切ったりして手伝ったら、すごく喜んでくれた記憶がある。端末で言葉を学んでいたら、それも褒めてくれた。皆が葵のようになってくれれば幸せだと言っていた。


 ベアトが言っているのは、そういうことではないのだろうか? やりたいのは、同じことではないのだろうか?


 そのことに気付いて、ベアトの翠の瞳を見つめる葵。その葵の紫の瞳を真っすぐに見つめ返しながら、ベアトは続ける。


「それによってスラムが変わっていくには、ただ食わせていくだけの何倍もの予算と人手だけでなく、数十年単位の時間が必要だ。人はそう簡単には変わらないからな。個人で出来ることじゃない。だから、あたしの仕事じゃあないし、お前の仕事でもない」


(私の仕事じゃない……)


 少し残念な気がする。しかし言っていることはわかる。葵にはそんな能力も、金もない。なら自分は何をすればいいのだろうか。寄付をして、少しばかり手伝えばそれでいいのだろうか。そう考えて俯く葵の頭に、ベアトの手が載せられる。ゆっくりと撫でながら、ベアトは言った。


「あたしに出来るのは、奴らを守ることだけだ。不老不死の薬エリクシルの売買には、スラムの奴らがよく利用されている。売り子は皆、捨て駒だ。はした金、されどスラムの人間にとっては大金を握らせて、捕まる前提で売らせている。捕まったら不老不死の薬エリクシル切れで吸血鬼ヴァンパイア化して死ぬ前提で使われている。人体実験だってやっているかもしれない。やめさせなきゃならないだろう?」


 ベアトは自分の能力と、それで可能なやるべきことを知っている。自分には何が出来るのだろうと葵は考えた。葵の能力は透明化。誰にも見つからなくするもの。それならば――


「私は……」


「答えを決めるのは明日でいい。それ食ったら、今日はもう寝ろ」


 話しながらもさっさと食べてしまっていたベアトは、葵の頭をポンと叩くと、食器を持って立ち上がった。


「あっちの部屋、空きベッドがあるから、そこ使え」


 そう教えてくれてから、ベアトは自分の部屋と思しき扉の向こうに消えていった。


 残された葵は、パスタを食べながら考え続けた。自分がすべきことについて。


 ベアトが言う『必要なもの』。働くための能力、金を稼ぐための能力を与えることは、自分には出来ない。自分の方にこそ必要だ。自分は何も知らない。働くどころか、人間らしく生きていくのに必要な知識も、欠けているように思える。風呂の入り方すら知らないのだ。


 食べ終わると、コタツムリしながら更に考えた。自分にも出来ることが、必ずあるはずだと。


 スラムの人々には、もう一つ必要なものがある。それは生命を守ること。マフィアや暴漢に殺された人々を何人も見てきた。自分の力は、そんな人々を守るために使えるのではないか? 実際、襲われている人をこっそり助けたことは、数えきれないほどあるのだ。


 まずは不老不死の薬エリクシル事件を解決する。それで犠牲になっている人々を救う。そしていずれは、マフィア街そのものをなくして安全な街にする。毎日豪華な食事をするのは無理でも、腹を空かせたままだとしても、少なくとも怯えずに暮らせるようには出来るのではないか。


 考えているうちに、いつの間にか眠ってしまっていた。かつてない温かさに包まれて。恐らくは、物理的なものだけではない、凍えていた心を温める優しさに身を委ねて。


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