第三話 不老不死の薬(エリクシル)
こんなに腹一杯になるまで食べたのは、人生で初めてかもしれない。豚と卵がくれたものなのだろうか。生命の感覚が全身の隅々まで行き渡り、葵はかつてない幸せに包まれていた。
「そろそろ邪魔してもいいかね?」
部屋の中に突然、聞き覚えのない声が響いた。落ち着いた感じの男性のもの。自分と同じ見えない誰かがいたのかと思って、葵は不安に包まれ周囲を見回した。
「誰ですか……? どこに隠れてるんですか?」
「外にいるんだよ。スピーカーからの声。あたしらの上司」
落ち着かせようとベアトがまた頭を撫でてくれる。スピーカー。音を出す機械。司祭がくれた端末で学んだ気がする。スラム街でも、誰もいないところから声がすることはあった。
「本当に入っても大丈夫だろうね? 噛みついたりはしないかね?」
再び声だけがして、不機嫌そうにベアトが答える。
「チョコバー殺したって泣いてた奴が、人を傷つけるわけないだろ?」
「とはいえ、僕は君のようには戦えない。いざという時にはどうにかしてくれるね?」
「簡単には死なない身体のくせに、何言ってんだか」
吐き捨てるようにベアトが言う。どうも仲が悪いらしいと葵は判断した。そして自分は狂犬のように思われているようだ。出来るだけ小さく身を縮こまらせて、大人しくした。
扉がスライドして、穏やかな表情を浮かべた知的な感じの中年男性が入ってきた。葵の想像と異なり、白衣を身に纏っている。ここは警察ではないのだろうか。
慎重に葵の様子を観察するようにしながら、男性が近寄ってくる。そしてベアトの言葉の意味が、葵にもはっきりとわかった。感じるのだ。この男性の身体にも、ネクロファージを。
「確かに夢幻の心臓のようだ。とても安定している。まだ吸血衝動を起こしていないだけの真祖とは思えない」
向こうにもわかるようだった。この男性もお仲間。ネクロファージに適合した、不老不死の夢幻の心臓という存在。
「あたしの血を見ても大丈夫だったから、夢幻の心臓で間違いないと伝えただろ?」
「確かに、真祖が夢幻の心臓の血を見た場合、吸血衝動が出て吸血鬼に堕ちるのが一般的だ。しかし、必ずというわけでもない。まずは、ネクロファージを見せてもらおうか」
男性がそう言うと、扉がスライドして白衣姿の女性が入ってきた。その手に持ったものを見て、葵は慌てて立ち上がり、部屋の隅まで逃げた。
「毒! 毒殺ですー!」
「大丈夫、空っぽよ? 血を少し抜かせてもらうだけ」
白衣姿の女性は優しげな笑顔を作りながら、注射器を葵に見せる。話に聞いていたものと同じ形状だが、確かに中身は入っていないように見えた。
「安心しろ。お前の中に入っているネクロファージを見てみるだけだ。聞き覚えのない言葉ばかり出ているだろう? それを知る必要がある。実際にその眼で見るのが一番わかりやすい」
そう諭すベアトは至極落ち着いた表情をしているのを見て、葵は椅子に戻って座り直した。
左腕を軽く持ち上げられ、何度か撫でられた後針が刺された。痛いのかと思ったが、ほとんど何も感じない。管の中に吸い出されるようにして、赤黒い液体が満たされていく。それが自分の血だとはっきり認識出来た。そこにネクロファージがいることも。
白衣の女性が退出していくと、男性の方が葵を見て口を開いた。
「さて、準備をしている間に自己紹介といこう。ここの室長のギルバート・夜来だ」
「葵です」
ぺこりと頭を下げてお辞儀で返した。真綾と呼ばれていた少女も、改めて名前を告げる。
「私は兎澤真綾。主に情報収集を担当してるオペレーター」
「ウサ子さんと、ギル男さん」
葵がそう名前を確認すると、二人とも露骨に嫌そうな顔をした。室長の方は、すぐに穏やかな表情に戻ると、諭すように葵に言う。
「目上の人間にそういう態度を取るものではない。普通に室長と呼んでくれれば、それでいい」
「ご、ごめんなさい……」
ほとんど人と関わったことがない葵は、忠告を素直に受け止め、そうすることにした。室長は室長。ならオペレーターの真綾は、オペレーターと呼ぶのだろうか、と考える。
本人に確認しようと口を開きかけたところで、葵の背後を指してその真綾が言う。
「映ったわ。見て、後ろのディスプレイ」
くるりと振り返った葵の眼に、とんでもないものが飛び込んできた。背筋にぞわぞわっと嫌悪感が走る。思わず立ち上がって、ベアトの背後に隠れた。
「な、なんですか、あれ……?」
とても地球上の生き物とは思えない姿だった。吸血鬼などまだ生易しいと思えるほどの、本物の怪物。四つ脚に二本の腕。あるいは二つ脚に四本の腕なのかもしれない。長い頭部には凶悪な牙が多数並ぶ口があり、滑らかな感じの肌は、まるで金属の鎧のよう。一番近いものは昆虫だと思ったが、もっと異質で凶悪な何かを感じる。
「これが君の中のネクロファージだ。物理的な存在ではなく、霊子だけで出来ている」
室長の口から衝撃的な言葉が飛び出た。これが自分の中にいる。吸血鬼であって当然だ。それ以上のモンスター。否定を求めてベアトに視線を向けたが、漏れたのは肯定の言葉。
「あたしのもほとんど同じ形だ。例えるなら、エイリアンの幽霊、といったところかな」
「こ、こんなのが自分の中にいて、気持ち悪くないんですか!?」
「といっても、小さすぎて実感ないしなあ。こんな複雑な形をしてはいるが、ウイルスくらいの大きさしかない」
ガタガタと震える葵に対して、至極落ち着いた様子のベアト。小さいと言われても、身体の中から食い破られそうで、葵は気が気ではない。
「そう表現しても、お猿さんには理解出来ないんじゃないかしら。今比較映像を用意するわ」
割って入ったのは真綾。画面の映像が切り替わり、ネクロファージが小さくなっていく。
「あなたのネクロファージがこれ。大体同じ大きさなのがアデノウイルス」
ごく単純な丸っこい形状で、アンテナのように突起があるものが隣に映し出された。
「この機械みたいな形のが、バクテリオファージ。これでも一応生物とも言える存在。こんなのが、地球上のどこにでもいるのよ」
映ったのは確かに機械のようなもの。六本脚の台座に柱が立っていて、その上にカプセルが載ったような形状。どこにでもいるということは、こんな形状でも危険なものではないのだ。
「これがバクテリアという細菌。こっちはカビ。あなたの赤血球、体細胞、髪の毛、小指の爪」
映像が縮小されつつ、次々とより大きいものと比較されていく。ネクロファージはとっくに見えない大きさになってしまった。最後に葵の全身が映ると、確かに形なんてどうでもいいと思えるくらい、決定的に大きさが違うことが理解出来た。
「安心した? 人間の身体には、少なくとも四十兆個の細菌が棲んでいる。形はあんなだけど、ネクロファージもそれらと大して変わらない。適合した人間との間で共生関係を築いてる。違いは物理的な存在じゃなく、霊的な存在だということだけ。恐れることはないわ」
出逢って以来、ずっと冷たい視線を向け続けていた真綾だったが、この時ばかりは、ほんのりと優しい微笑を浮かべているように葵には見えた。
「その……ウサ子さんの身体の中にも、その細菌ってのがいっぱい棲んでるんですか?」
呼び方に対してだろうか、僅かに表情を硬くしたものの、真綾はあくまでも冷静に答えた。
「ええ、いるわ。いまのところ、害を為すものが入ってないだけ。例えるなら、ネクロファージは病原菌みたいなもの。あなたはそれに対して耐性があって、ネクロファージがいても大丈夫。適合しない人間は、耐性がなくて病気になってしまうってところかしら」
自分には害のない病気。風邪と一緒ということ。スラムの噂で、馬鹿は風邪をひかないと聞いたことがある。確かにひいたことはない。なら自分は大丈夫と葵は思った。
葵がほっとして表情を緩め、ベアトの背中の裏から出ようとすると、室長は温和な表情のままで、恐ろしいことを言い出す。
「しかし、例えば風邪なら熱や咳程度で済むが、ネクロファージの場合には吸血衝動が起きる。しかも治す方法がない不治の病だ。他人を襲い、血を吸って仲間を増やす、恐ろしい病気」
ぎゅっと葵が胴にしがみ付くと、ベアトがものすごい剣幕で室長に食ってかかった。
「捜査の進展のために協力を願うのに、脅かしてどうすんだよ!?」
気色ばむベアトに対して、室長はあくまでも穏やかさを保ったまま返す。
「正しく危険性を理解してもらってこそ、真の意味での協力が得られると僕は思う」
「論理的です。でも自分には危険性がないと、正しく知るのも重要。頭空っぽのようだから、しっかり詰め込まないと、この子は絶望し、自殺してしまいかねません」
少々毒を感じなくもないが、真綾は室長に向かってそう主張する。それから葵の方を向いて続けた。
「適合する人間にとっては、乳酸菌などの善玉菌と一緒で、役に立つ存在よ。身体をメンテナンスして、怪我を直し、歳まで取らないようにして守ってくれる。あなたは適合してるから大丈夫。スラムではよほど酷い生活を送っていたようだけど、それでも生きてこられたのは、ネクロファージのおかげよ」
葵は自分の左胸に両手を当てた。そこにいる気がするから。自分を守ってくれたネクロファージは。瞼を閉じ、心の中で感謝の言葉を述べる。
(ありがとう、今まで。そして、これからもよろしく)
「それで思い出した。先程から気になっていたのだが、エアコンをもっと強めてくれないかね? 出来れば僕が風上になるように」
「シャワーの使用許可を出さなかったのは誰ですか?」
室長の要求に、真綾がやや不機嫌そうに返す。すぐに室長のいる方向から温かい風が吹いてきた。自分がこんな格好をしているから、気を遣ってくれたのかもしれないと思った。もう皆は厚着をしている季節なのだから。
春風のような温かさに、心が少し落ち着いてきた。よくわからないことだらけだが、このネクロファージとやらがいるからこそ、自分に出来る何かがあるのだろう。真綾には感じないが、ベアトにも室長にもそれぞれ感じる。夢幻の心臓だけの使命がきっとあるのだ。
「それで、私は何に協力すればいいんですか? もしかして、吸血鬼退治ですか?」
自信がないので、そうだと言われたらどうしようかと思いながら、葵は訊ねた。室長は少々考える素振りを見せた後、ゆっくりと言い聞かせる様に答える。
「任務上、必要になることもあるかもしれない。しかし、その辺りをそうそう、うろついているものでもない。そもそも、単なる吸血鬼の退治は、祓魔師の仕事だ」
化け物とはいえ、殺さないで済むと知り、葵はほっと胸を撫で下ろした。室長はまたディスプレイの方を指しながら続ける。
「これを見たまえ。今我々が調べているのは、この不老不死の薬という麻薬だ」
画面に映ったものは、ただの液体に見えた。ガラスか何かの筒に入った、透明な液体。
「これ自体は、普通の人間には何の作用ももたらさない。透明に見えるのは、これは霊的な麻薬だからだ。同じく霊的な存在であるネクロファージに魔法をかける。適合していない人間でも、適合していると錯覚させる」
その結果起こることは、葵にも想像出来る。ここは葵が思っていたような警察とは違うのだろう。室長が白衣を着ているのも、それが理由かもしれない。考えたことをそのまま口にした。
「もしかして、それを飲んでから私の血をあげれば、誰でも不老不死の夢幻の心臓になっちゃうんですか? 吸血鬼も治っちゃいます?」
「飲むのではなく注射だが、なかなか察しがいい。しかしまだ考えが足りない。それなら我々が捜査する必要はないし、麻薬などとは呼ばない」
言われてみればそうだった。麻薬ではなく、普通の有益な薬になってしまう。首を傾げて見上げる葵に、室長は再び画面を示して続ける。そこには簡単な図解が表示されていた。
「効果がとても短いんだ。一週間から、長くても十日。切れたら吸血鬼になる。注射しなおしても、もう戻らない。既に吸血鬼になっている者を治すことも出来ない。これがどういうことか、わかるかね?」
切れたら吸血鬼になる。吸血鬼に注射しても効かない。
「毎週お注射しないと、吸血鬼になっちゃってもう戻らない。ずっと使い続けないといけないってことですか?」
「そうだ。不老不死の薬などとは名ばかり。実際には、一生止められない死の麻薬」
室長の言葉に続いて、嫌悪感を露にした表情で、ベアトが吐き捨てるように言った。
「誰が考えたのかは知らないが、不老不死なんて夢物語。永遠に金を巻き上げ続けるための、歴史上最悪の麻薬さ」
「不老不死の人間に夢物語とか言われても、説得力ないけどね」
真綾はそう皮肉を言ったが、どこか哀しそうな感じに葵には聞こえた。
(もしかして、羨ましいんでしょうか?)
この場にいる四人で、ネクロファージがいないのは真綾だけ。彼女だけが不老不死ではない。どうにかしてあげたいと葵は思うが、彼女には自分のネクロファージは合わないのがわかる。少なくとも葵には、どうにも出来ない。
「えっと、じゃあ私は、その不老不死の薬ってのを探せばいいんですか?」
気持ちを切り替え、葵はやるべきことを訊ね直す。真綾がディスプレイを指しながら答えた。
「不老不死の薬自体は、比較的簡単に手に入るのよ。頻繁に売り場は変わるけど、どこになるのかという情報が、マフィア街の中の決まった場所に残されることを突き止めてある」
話の流れからすると、画面に映っているのは、マフィア街の地図。何カ所か光っている。そこに情報が残されるということだろう。
「だがな、あたしが出向いて売り子を捕らえても意味がないんだ。不老不死の薬がどこで作られているのか、どうやって作られているのか、そいつらは知らない。そして一番大事な、誰がネクロファージを与えているのかが、わからないんだ。奴らは監視の目が行き届かないマフィア街の中で、何度か受け渡しをしてから売りに来ているようで、売り子は何も知らない」
ベアトがそう言うと、また真綾がやったのだろうか、画面が切り替わって、説明を引き継ぐ。
「私たちは時間をかけて、こうやってマフィア街の中に自前の監視センサーを多数設置してる。まだ穴だらけだけど、その記録を元に、売り子がどこで不老不死の薬を受け取っているのか、そこには誰がどこから持ってきているのか、流通経路を探っているの。でも、ここが受け渡し場所と確信してからベアトに踏み込ませると、いつももぬけの殻なのよ」
「あたしじゃあ、蜃気楼で隠れても、霊子センサーで見つかってしまうからな。むしろ逆に、光学カメラには映らないことで怪しまれてしまう。どちらにしろ、踏み込む前に察知されて、逃げられてしまうってわけさ」
蜃気楼とは、恐らく葵が着ていた透明になれる服のこと。魔法使いであるベアトでも、あれを着ただけでは霊子センサーに見つかる。そのことが意味するのは――
「そこで私の出番ってことですか? でも今日見つかっちゃいましたし……」
葵の答えに、ベアトは満足そうな微笑みを浮かべつつ答えた。
「そういうこと。お前を見つけられたのは、同じ能力を持ち、その指輪と似た武器を使う奴と知り合いだからだ。しかも、見えない天使の噂を聞いて、そいつだと思って探しにいったから」
そういえば、最初知り合いであるかのように話しかけられたのを思い出した。
「あいつがいれば解決する事件と思ったが、お前だってやれる。完全に隠れれば、誰にも気付かれない。お前が踏み込めば、もっと情報を持っている奴を逮捕出来るかもしれない」
逮捕。今日逮捕された自分が、悪人を逮捕する。やれるかもしれないと葵は思った。こっそりと近付き、指輪の糸でがんじがらめにして、逃げられないようにしてやればいい。
「とはいえ、検出する方法はいくらでもある。アクティブでもパッシブでも、蜃気楼はソナーに反応する。重量センサーも誤魔化せない。物理的には存在するのだから。それと、今日初めて可能性に気付いたが、臭いでもわかってしまうようだ」
室長の指摘で、ローラにはバレバレだったのを葵は思い出した。そして確かに空は飛べない。ぬかるみなどでは足跡も残る。やはり自分には無理だと、大きく肩を落として俯いた。
「だーかーらー、そうやって葵のやる気を殺ぐようなこと、言わないでくれよ」
ベアトが抗議するも、室長は涼しい顔で反論した。
「危険性を正しく認識させる必要があると、先程言っただろう? この場合の危険性とは、捜査の失敗を意味するだけでなく、葵君の生命の危険をも差している。簡単な仕事だと誤認識させて、引き込むわけにはいかない」
「それには私も同意する。結局は本人次第。現状、都会の野生児に過ぎないわ。一般常識から教え込む必要がある。すぐには実戦投入出来そうもない。それに、試練も待っているわ。余程の覚悟がないと、脱落するだけでは済まない。一生消えないトラウマが残るかもしれない」
同調する形で、真綾がそう意見を主張した。二人とも自分のことを心配してくれているのがわかる。恐らくマフィアが相手となる。相当危険な仕事に違いない。
「ということで、とっくに定時も過ぎていることだし、今日は解散としよう。急ぎの仕事はないから、明日は今日の残業分、遅く出勤してくれたまえ」
室長はそう言って話を終えると、白衣を翻して出口へと向かった。その後ろ姿にベアトが毒づく。
「定時定時って、お役所じゃねえんだから」
くるりと振り返った室長は、穏やかな表情のまま言ってのけた。
「厳密には違うが一緒だ。公務員だという自覚を持ってくれないと困る。それに、休める時に休んでおくことは重要だ。場合によっては、何十時間もの連続勤務だってあるのだから」
「今この子には、考える時間が必要だと私は思う。今日はあなたの家に連れて帰って。私は御免。野良犬を飼う趣味はない。拾ってきた以上、当分あなたが責任もって世話しなさい」
拾われた野良犬である葵はもちろん、ベアトの方も二人に言い返せず、むすっとした顔で椅子に腰を下ろした。自分のせいで険悪になっているように見えて、葵は申し訳なくなって俯く。
「明日はきちんと清潔にして出庁するように」
その言葉を最後に、室長は扉の向こうへと消えていった。それを見送ってから、真綾が葵の方を見て問う。
「あなた、姓はなんていうの? IDを用意するのに必要なの。作っておかないと、正規の方法で外に出ることも出来ないし」
「ただの葵です。姓とかいうのはありません。必要なかったから」
「漢字はどう書くの?」
名付け親の司祭に文字を見せてもらったが、今この場で書けと言われても書けない。
「えっと、お花の葵って言えばわかりますか?」
「わかるわ。姓がないなら、自由につけていいと思うけど、どうする?」
そう言われると逆に困ってしまう。普通はどういう風につけるのか葵は知らない。
(ウサ子さんはウサギさん? ベア子さんはクマさん? じゃあ私は何?)
葵がずっと悩んでいると、真綾は諦めたのか、扉に向かいながら言った。
「なら、勝手に決めさせてもらうわ」
「お願いします」
扉がスライドして閉まり、葵とベアトの二人だけが部屋に残された。腕組みして何事か考えている様子のベアトを邪魔してはいけない気もしたが、今のうちに聞いておいた方が良いと思い、葵は遠慮がちに口を開いた。
「あの、ベア子さん。これ断ったら、私どうなるんですか?」
このままだと死刑とベアトは言っていた。今となっては、単なる脅しだったような気もしなくはないが、協力しないのなら容赦はしない、ということも考えられる。
「別にどうもならない。最悪でも前科がつくだけ。この話を受けなければ、窃盗罪をなかったことにはしてもらえないだろう。状況証拠レベルのものだが、確かに記録されている。だが情状酌量はあるはずだし、金額もたかが知れているから、罰金刑で済む。あたしが払ってやるよ」
怯えている葵の心を見透かしているのか、ベアトは優し気な笑みを浮かべつつ答えた。このベアトだけは信頼出来る気がして、葵も微笑みを返す。
「じゃあ、その後はどうなるんですか?」
「そうだなあ。それは、葵次第だな。学校に通って真面目に勉強し、きちんとした仕事に就きたいというのなら、世話してやる。スラムに帰りたいというのなら、送っていってやる。どう転んでも、悪いようにはしない」
本気で葵の世話をしてくれるつもりのようだった。不老不死の薬事件の解決とやらに協力しなくても、学校へ通わせてくれる。仕事が出来るようにしてくれる。
このような厚情を受けたのは、司祭と別れてから初めてのことだった。
(ベア子さんに恩返しをしたい……)
出来れば彼女の希望に沿いたい。力になりたい。しかし、内容が内容である。自分にやれる自信がない。真綾の言っていた通り、考える時間が必要だ。
「もう少し、考えさせてください」
「お前の人生にとっての一大事だ。何日でもかけて、ゆっくり考えろ」
髪をぐしゃぐしゃに掻き回されながら、頭を撫でられた。一緒に仕事をしてもしなくても、ベアトとはきっと仲良くやっていける。そう葵は思った。
「お待たせ。向日葵って名前でID登録してきたわ。――はい、これ」
入ってくるなり真綾に手渡されたカードには、向日葵と書いてある。葵がアオイだから、向日はムカイ。簡単な文字を選んでくれたのかもしれないと葵は思った。
「今日は情報提供者として入場したことになってる。明日もベアトと一緒に来る予定を入れておいた。それでいいわよね?」
最後はベアトの方を向いて真綾は告げる。しかしベアトは不満そうに口を尖らせた。
「IDカードだけ? 端末は?」
「説明が必要?」
短く質問で返した真綾に対し、ベアトは小さく溜め息を吐いて、それで矛を収めた。
「あの、ウサ子さん。なんで、向日って姓にしたんですか?」
「その三文字、繋げて読むとヒマワリって読めるから」
向日葵。確か司祭が育てていた気がする。あの時はまだ小さな蕾だったが、育つと大輪の黄色い花を咲かせると言っていた。秋には種が沢山取れて、食べることも出来ると。
「向日葵じゃなくて、ただの葵です。この瞳の色、葵色って言うんですって」
葵の主張に、少々弱ったような表情を見せた後、真綾はディスプレイを指して言った。
「調べてみたんだけど、日本で葵というと、この立葵を示すようね」
色は少し違うが、かつて見た花と同じものが画面に映っていた。真っすぐ上に伸びて、下から順番に沢山の花をつける立葵。葵にも真っすぐな子に育って欲しいと司祭は言っていた。
「これです、これです! ガールズ・ビー・アンビシャス!」
元気に宣う葵に対して、目をぱちくりさせながら真綾が問う。
「あなた、英語喋れるの?」
司祭が言っていたことを丸暗記しただけで、意味はわからない。問われても困るので、葵は視線を逸らした。隣でベアトが可笑しそうに笑いを堪えている。
「まあ、それはいいとして。作り直すのも考え直すのも時間かかるから、今日はこれで我慢してくれないかしら? 正式に入るならその時に変える。入らないなら、削除することになるし」
仲間にならないと、このIDは削除されてしまう。葵はそう思いながら、カードに印刷された文字を眺めた。
向日葵。繋げて読むと向日葵。初めて持ったそのIDカードは、自分が確かにここにいると証明してくれるようで、何故だか涙が溢れてきた。透明で誰にも見えなかった自分。どこにも記録などなかった自分。そんな葵の存在を証明してくれる、たった一つの物と思えた。
「なに泣かしてるんだよ、真綾」
「そ、そんなに嫌がるとは思わないでしょ、普通」
ベアトに咎められて、視線を泳がせる真綾。葵の前でおろおろとするばかり。
「これは哀しいんじゃありません。きっと幸せの涙。感動ってやつです。せっかく考えてくれたから、この名前、大事にします!」
葵はとっておきの笑顔を真綾に向ける。今貰った新しい名前の通り、大輪の向日葵のように明るく輝いていた。