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スラム街の見えない天使  作者: 月夜野桜
第六章 天使からのクリスマスプレゼント
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第二話 死にゆく者に必要なもの

 都心にほど近い、とある病院の一室。黒髪の少年が一人、ベッドに横たわっている。ブランケットの上に置かれた左手は、人工皮膚で覆っていない機械剥き出しの状態の義手だった。その表情が歪み、苦し気な呻きが漏れる。


 しばらく脂汗を流していた後、やっと落ち着いたようで、瞼を上げて窓の外を見た。柔らかな朝の陽射しが室内を照らしており、窓際に置かれた白いウサギのぬいぐるみが影を作る。


 ふと、病室の入り口の扉がスライドした。誰かが来たわけではないようで、廊下には人の姿はない。ロボットが来たというわけでもなく、時間と共に自然と閉じた。


 不審げな眼差しを入り口に向けていた少年が視線を戻すと、空中に突然、少女の頭部だけが現れた。焦げ茶色の瞳に、肩にかかるくらいで切り揃えた栗毛の姿は、真綾のものだった。その桜色の唇が開く。


すばる、ごめんなさい。作戦は失敗したわ。葵を捕らえることは出来なかった」


 蜃気楼ミラージュを着ていたのだろう。見えない何かを脱ぐ動作をすると、次第に全身が露になる。昴と呼ばれた少年は、哀しそうな瞳を向けながら、弱々しい声で答えた。


「それで良かったんだよ、真綾」


 無機質なプラスティックで出来た左手を取りながら、真綾は悲痛に顔を歪めた。そっと唇を寄せて、昴の頬に口づけをする。今にも涙が溢れてきそうに瞳を揺らしながら、昴を見つめた。


「まだ諦めないで。顔を変える前に、最後の挨拶にきただけ。別人になって活動し直すわ。どうにかして葵をもう一度捕らえる。今度は失敗しない」


 昴は首を小さく横に振って拒否の意思を示した。それだけでも痛みが走るのか、苦しそうに顔を歪めながらも、何度も繰り返す。


「僕は、他人の生命を犠牲にしてまで生きたくない」


「なら、同じネクロファージを持った人物を探し当てる。葵に与えた夢幻の心臓イモータルが、どこかにいるはずなの。その人を探して頼み込むわ。本来の方法で、マザーネクロファージを植え付けてもらえるはずよ。そうすれば、あなたは助かる。誰も犠牲にせずに」


 ブランケットが持ち上がり、昴の右手が現れた。再び苦痛に耐えるように顔を歪め、震える腕を必死に動かして、そちらは生身と思われる指先を真綾に向かって伸ばす。


「そうじゃないんだ、真綾。僕はそんなことよりも、君と一緒に過ごしたいんだ。いつ死ぬかもしれない僕の気持ちわかる? 最期の瞬間、君に手を握っていて欲しいのに」


 瞬きと共に、真綾の眼から雫が零れ落ちた。昴の右手をしっかりと握り、指を絡ませながら頬を寄せる。震える声がその喉から漏れた。


「昴、それでも私は、あなたに生きていて欲しい……」


 大分長いことそうしていた後、鼻を啜ると立ち上がった。涙を袖で拭い、決意の眼差しを昴に向ける。


「私、行くわ。安心して。この病院は常に見張ってる。最期の瞬間は、必ず側にいるわ」


 その真綾の周囲を、小さな十字架のようなものが多数周回した。驚きに眼を見張る彼女の身体を、瞬時にして縛り付ける。


「こ、これは……葵? どうしてここに?」


 真綾の背後の空中に、白い髪の頭が現れた。明るい紫の瞳には、既に溢れんばかりの涙が浮いていた。零れ落ちないように、瞬きを堪えて葵は答える。泣いてしまったら、この名無しネームレスは、勝手に解除されてしまう気がしたから。


「ここに来るってわかりました。ウサ子さんが助けたい大切な人に会いに来ないわけないって」


「そうじゃない。そのことはすぐに発覚するって思ってた。記録に残っているはずだもの。あの後すぐ病院全体をハッキングして、監視し続けたのに。安全だと確認してから入ってきたのに。あなた、どうやって重量センサーを誤魔化したの?」


 小さく首を傾げつつ、葵は問う。自分の選択は正しかったと確信しながら。


「それって、外の壁にもついてるんですか?」


 真綾はしばし絶句した。その可能性は考えていなかったのだろう。やっとの様子で口を開く。


「まさか、外壁を上って? ここ二十七階なのに? 掴むところなんて、ほとんどない造りなのに?」


「いつもスラムの建物に上って、一人になってましたから。掴むとこなんてなくても、気功術で速く走るやつの応用で、張り付いて上れるんですよ、ゆっくりとなら」


「この高さ、落ちたらどうする気だったの?」


「たぶん痛いだけで済みます。ウサ子さんの本心を聞くためなら、それくらいどうってことないです」


 どうしても訊きたかった。だからこの病室まで入り込み、二十四時間近く張り込んだ。外で交替で見張り、現れたら即座に捕らえようと提案するベアトに反抗して、この作戦を押し通した。真綾が昴と何を話すのか、その時の彼女の心は何色なのか、どうしても確認したかった。


「でも、訊かなくてもわかっちゃいました。先にここに忍び込んで、すぐに気付きました。この昴さんを助けたかったんですね。私のネクロファージに適合しますから、この人は」


「そうよ。昴は核融合炉から漏れた放射性物質を吸って、重度の被爆で全身のDNAが傷付いた。私を助けるためにそうなったの。身体はどうにでもなる。特にひどい部分から切除して擬似生体に取り替え、僅かに残った正常な細胞を元に培養した臓器で置き換えていってる」


 プラスティック剥き出しの昴の左手と、そして生身に見える右手を真綾は交互に見た。その右手も本来の物ではなく、再生したものなのだろう。


 葵の心の眼では、昴の身体にはサイボーグのように、あちらこちらに機械が埋め込まれているのが見える。そうでない部分の果たしてどれだけが彼本来のものなのか、葵には判断出来ない。どの部分が健康に働いているのかも。


 しかし、一カ所だけ、そこだけは再生されていないと確信出来た。そして健康でもないと。それを裏付ける言葉が真綾の口から漏れる。かつて教えてもらったのと同じ内容。


「でも脳は治せないの。放射線治療や外科手術などで、悪性腫瘍に都度対応するくらいしかない。今の医療でも、傷付いた脳細胞全部を取り除くことは出来ない。助けられるのはネクロファージだけ。認知障害も酷くなってる。余命は少ない。だから私はあなたを……」


 予想していた通りだった。やはり真綾は、特定の一人を助けたかったのだ。この昴を救うために、真綾は身を粉にして働いていた。きっと不老不死の薬エリクシル事件の捜査に加わったのも、ネクロファージについて知るためだったのだろう。彼を治療出来る唯一の可能性を、引き当てたかったのだろう。


 ぽつり、ぽつりと床に染みが出来ていく。もう堪えきれなかった。俯いた葵の眼からは、涙の雫が止め処もなく落ちていった。心臓が痛む気がする。マザーネクロファージも泣いているのだろうか。この哀しいすれ違いに。


「もっと早く教えてくれればよかったのに。そうしたら、ウサ子さんはあんなことしないで済みました」


 葵の言葉を聞いて、真綾は強く首を振った。その勢いで、彼女の瞳からも涙が左右に飛び散る。そして叫ぶようにして告げた。葵が思いもよらなかった、彼女の目的を。


「教えたってどうしようもない! あなたの心臓をくれなんて、言えるわけないじゃない!」


「心……臓?」


 何を言っているのかわからなかった。呆然とした表情で、葵はゆっくりと顔を上げる。泣いてしまったからか、名無しネームレスはいつの間にか消えていて、自由になった真綾は葵の方を向いていた。


「あなたを捕らえて、マザーネクロファージごと心臓を奪い、移植する予定だったのよ!」


 からかっているようには見えなかった。真剣な眼差しで葵を見下ろしながら、その想いの丈が強い言霊となって、彼女の口から飛び出ていた。


 肩で呼吸し、興奮を少し静めてから、葵の視線を避けるように横を向いて続ける。


「研究室に記録があったの。不老不死の薬エリクシルを使った実験だけど、移植後定着したのちに心臓の一部を切り取ることで、移植された側の細胞で心臓は再生される。それを少しずつ繰り返していけば、心臓は完全に置き換わる。適合者同士でも、きっと同じことが出来る」


 どさり、と音がして、気付けば葵はその場にへたり込んでしまっていた。真綾の過ちは、自分の過ちであったと悟ったのだ。


(私が嘘を吐いたから……マザーネクロファージなんて生み出せないって……)


 すべてはすれ違い。互いのほんの僅かな疑いから生まれた、小さな嘘や隠し事がきっかけ。


「ごめんなさい……私、嘘を吐いてました。マザーネクロファージ、多分生み出せるんです。だから、教えてくれてれば、昴さんをもっと早く助けてあげられてました」


 もう遠慮なく涙を大量に溢れさせながら、真綾を見上げて葵は言った。遅すぎる告白だった。


 目を見開きつつ、真綾が膝をついて葵の両肩に手を置く。唇からは震える声が漏れた。


「そんな……たった三年半で? どうやってそんな短期間で信頼関係を?」


「わかりません。私、死にそうだったからじゃないでしょうか。週に一度、少しお菓子食べるだけ。普通じゃないってベア子さん言ってました。夢幻の心臓イモータルだって死んでもおかしくない生活だったって。きっとマザーネクロファージが守ってくれたんだと思います。私に協力してくれてたんだと思います」


「わかる気がする。あなたの優しさに、マザーネクロファージは共感したのね。チョコバーを殺したって泣くような優しさに」


 再び涙を流しながら、真綾は葵の頭を胸に抱きしめた。白い髪に頬ずりをして、真綾は言う。


「私はどうなってもいい。だからお願い。昴を助けて」


 真綾の熱が伝わってきた。きっと昴への想いの温度なのだろうと葵は思った。霊子ナノマシンとネクロファージを経由して、心の中に流れ込んでくるのだろうか。燃え盛るほどに熱い愛情が、葵にもはっきりと感じられる。


「あなたを殺そうとしておいて、虫がよすぎるかもしれない。でも、彼の罪じゃない。私は報復で殺されてもいい。法で裁かれろというのなら逮捕される。だから昴を助けて。お願い」


 まだ昴のことだけを考えている。もし真綾が夢幻の心臓イモータルだったら、自分の心臓を愛しい人に捧げていたのだろう。誰かを助けるというのは、そういうことなのだろうかと葵は思った。


 人は他の生物の生命を貰って生きている。生きるということは、殺すということ。ならば、生かすということは、死ぬということなのかもしれない。


 しかし、もうそんな必要はなかった。いや、最初からなかったのだ。ただ知らなかっただけ。


「そうしましょう。元々そのつもりでいました」


 この部屋に忍び込んで、昴が自身のネクロファージに適合すると感じた時、既に決めていたことを、今更ながらに口にした。昴の病状は、ベアトから聞いている。実際、助けるには他に方法はないとも。


「ありがとう、葵……」


 喜びの涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら絞り出した真綾の言葉を、別の声が否定する。


「悪いけど、その必要はないよ」


 真綾の表情が凍り付く。葵も何故そんなことを言うのか理解出来ず、声の主の方を見た。


 起き上がっていた。今必要ないと言った昴は、可動ベッドに身を預けつつも、上半身を起こして、こちらを見下ろしていた。その口が再び否定の言葉を紡ぎ出す。


「真綾の気持ちはありがたい。葵さんの気持ちもありがたい。けど、僕は不老不死になってまで、生き永らえたくない」


 弾かれるようにして立ち上がった真綾が、昴に縋り付いて声を振り絞る。


「それでも私は、あなたに生きて欲しい。愛しているの。世界を教えてくれたあなたを。外に連れ出してくれたあなたを」


 わかっていないとばかりに、残念そうな表情を浮かべつつ、ゆっくりと首を横に振る昴。


「それは僕も一緒だ。君を愛しているから、君を愛したまま死にたい」


「私を……愛したまま……?」


 不審げに眉をひそめ、僅かに首を傾げながら問う真綾の頬を、昴は生身の右手で優しく撫でた。その瞳は悲愴に染まり、強い意志を秘めて見つめていた。


「永遠の生命なんて得たら、僕はいずれ君のことを忘れてしまうだろう。君は先に死んでしまう。それは嫌だ。だから先に死にたい。君を失う哀しみに耐えられる自信は、僕にはない」


 恐らく以前からずっと考えていたのだろう。真綾がネクロファージの話をしだしてから。葵の心臓を奪う話を聞いてから。その後自分がどうなるのか、どう思うのか、想像していたに違いない。それくらいしかやることの出来ない身体なのだから。


「ずるいというのはわかっている。でも君には僕より長生きしてほしい。自然に逆らってまで無理やり生きて、その先で君を失いたくなどない。君のいない永遠の地獄など味わいたくない。二人でずっと一緒に暮らせるなら考えるけど、そうでないのなら、僕は天命に従う」


「でも、でも私は!」


 真綾が納得いくはずもなく、今にも掴みかかって揺さぶりそうな勢いで叫ぶ。昴はそんな姿を、悲し気な眼差しで見つめ続けた。


「我が侭だとはわかっている。君にばかり辛い思いをさせようとしているのもわかっている。でも、それが僕の意思だ」


 その視線が、葵の方に向く。決意が籠められていた。哀しく儚い、それでいて強い意志が。


「後は君に任せる。僕をどうするかは、君次第だ。どんな答えでも、受け入れる」


 判断は葵に委ねられた。自分で言った通り、昴はずるいと葵は思う。しかし、葵が決めることでもある。提供するかどうかは葵の意思。提供を受けるかどうかは昴の意思。


「私は……」


 どちらの気持ちも葵にはわかる。いや、わからされた。自分がこの先どんな想いを抱いていくことになるのか、昴に思い知らされた。


 必死に考えた。これまで学んできたことすべてを動員して。どうするのが正解なのか。全員が幸せになる方法がないとしたら、どうすればいいのか。


 葵の出した結論は――


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