第一話 裏切り
今度は死んだふりは通用しない。種は明かしてしまったし、蜃気楼のフードを被っておらず、頭が見えている。しかし、今度は一人ではない。頼れる相棒がすぐ隣にいる。
〔ベア子さん! 結界で毒ガスって防げないんですか?〕
名無しをなんとか伸ばすと、ベアトにそう接触通信を行った。返事より前に魔法陣が現れ、葵たち二人を取り囲む。空中にもう一つ展開され、二つを組み合わせてなるべく小さな領域を作ったようだった。更に魔法陣が追加されようとするが、途中で形が崩れて消えてしまった。
〔駄目だ、集中出来ねえ。身体に合わせてもっと最小領域で覆えれば、すぐに中のガス濃度が下がると思うんだが……。これじゃ、先に結界を維持出来なくなる〕
霊子モニターでその様子が見えたのだろう。真綾の声がスピーカーから響いた。
「考えたわね。でもガスはたくさんある。動けるようになる前に、格納庫ごと閉鎖して、ガスを充満させるわ。呼吸を止めたままで、警備アンドロイドを突破して外まで逃げられるかしら?」
〔くそっ、そこまでやるかよ! 中のガスに耐えきったとしても、手遅れになっちまう〕
逆に言えば、まだそこまではやっていない。今ならば、外にさえ出られれば助かる。そして真綾も、葵を殺したがってはいない。生きたまま欲しがっている。ならば葵がやることは一つ。
〔私が吸います! 全部!〕
宣言と共に葵は大きく呼吸を始めた。一吸いごとにぐらりと視界が歪み、殴られたかのような衝撃が思考に襲い掛かる。
〔やめろ! いくらお前がしぶといとはいえ、致死量を超えて死んでしまう!〕
〔これは私にしか出来ません! ベア子さんがやったら結界が消えちゃいます。代わりに、強力な魔法を使えるようになったら、後はどうにかしてください! ウサ子さんは私たちを殺すつもりはありません。その気ならもっと濃いガスを使って殺せてました。だから、絶対大丈夫!〕
〔くそっ……悔しいが、お前の言っていることは正しい。なら、結界の外に吐き出せ。対物結界は一方通行。毒ガスは戻ってこない!〕
ベアトのアドバイスに従い、思い切り吹く様にして吐いて、空気ごと毒ガスを結界の外に出していった。もう視界は完全に真っ暗となっており、呼吸が出来ていることすら奇跡に思えた。
(私の中のマザーネクロファージ。お願い、死にたくなければ、あなたも頑張って! 私はまだ死にたくありません。みんなを助けるまで、死ねません!)
その想いが通じたのだろうか。葵の身体は止まることなく強い呼吸を繰り返し、結界内から毒ガスを追い出していった。ベアトの方は毒の分解能力が勝ってきたのだろう。気付けば更に小さな結界が多数張られて、葵とベアトの間は繋ぎながらも、最小限の空間を生み出していた。
〔もういい、葵。脱出するぞ!〕
空中に力強い魔力を感じる魔法陣が生まれた。とても複雑な形状のものが、周囲に漂う霊子をかき集め、凝縮していくのを感じる。それが一気に発射された。二人の思惑通り、ベアトの一撃は後部ハッチに大穴を空けてくれた。
葵の意識はそこで途切れた。その後、穴から毒ガスが漏れると共に、ベアトが結界を解いて、葵を抱きかかえて脱出してくれたのだろう。気を失っていたのは僅かな時間のようで、地面を揺るがす振動と轟音がして、葵は目を覚ました。
「なんですか、これ!?」
周囲が燃え盛っていた。足元や頭上には多数の魔法陣が描かれ、眩いばかりの緑色の光の壁が葵たちを守っていた。
「もう一発来る! そのまま伏せてろ!」
叫びながらもベアトは魔法陣を追加して結界を補強していく。直後、また地面が激しく揺れると共に、魔法陣が何枚も吹き飛んだ。
〔こんなところでミサイル使うとか正気か、真綾!〕
何かが格納庫の外にいた。恐らくはステルス戦闘機。ハッキングでもしてどこかから持ってきたのだろう。それに守られるようにして、ヘリコプターらしきものが急速上昇していくのを感じる。
慌てて後ろを確認した葵の心の眼に、室長の姿が映っていた。死んではいない。連れ去られてもいない。真綾の姿はなく、今のヘリで逃げ出したようだった。
「葵、動けるか? 追うぞ!」
戦闘機はヘリと共に上昇したようで、ベアトは結界を解き屋上に続く階段へと走り出した。消火用のスプリンクラーが作動していて、豪雨のように水が降り注いでいる。
おぼつかない足取りながら、葵もその後を追った。まだ思考は混乱していたが、もう動くことは出来るようになっている。
(ありがとう、マザーネクロファージ。またあなたに助けられました!)
左胸に手を当てて、そこにいる葵の守護神に感謝の念を伝えた。返事があったような気がする。お互い様だと。
「伏せろ、葵!」
ベアトの言葉に反射的に地面に身を投げ出すと、頭上を爆風が通り過ぎていく。途中で結界が発動し、葵を守ってくれた。熱で髪が焦げたのか、嫌な臭いがする。
「お前はそこで伏せてろ。上空には手が出せまい。あたしが撃ち落とす!」
塔屋の入り口に対物結界を張り、中から外の様子を窺いつつベアトが屋上に魔法陣を多数展開する。それらが周囲の霊子をかき集め、強力な魔法の弾丸と化して上空へと飛ばしていくが、ほとんど意味がないように思えた。
光学迷彩で見えないため、心の眼だけで位置を掴まないとならない。しかし無人機のようで、ただの物でしかない戦闘機は、居場所がとても特定しづらかった。相手の速度は速く、そのような状態で命中させられるものでもない。
「これ、どうにかならないんですか? 誰も助けてくれないんですか?」
ここは東京の都心。官公庁の集まる一角。このような暴挙が見逃されているわけがない。
「空軍にスクランブルを要請したが、市ヶ谷がハッキングされて混乱中らしい。あれもそこから飛んで来たようだ。他の基地からじゃ、どう考えても間に合わない。このビルも麻痺している」
葵は上空の気配を探り直した。かなり遠いが、真綾らしき心の色がまだ見える。諦めていないのだ。あの戦闘機を使って葵を捕らえられる可能性に賭けて、まだ逃げの一手には出ていない。
「ベア子さん、空中にも対物結界は作れますよね? それに衝突したら、戦闘機は張り付いちゃいますよね?」
「そうだが、あの速度で飛んでいるものを捕まえるのは難しい。かなりの強度がないと、突き破られてしまう。止められる魔法陣を張るのには、時間がかかる」
逆に言えば、時間の問題さえ解決出来れば止められる。そういう意味だと葵は解釈した。ニヤリと笑うと、蜃気楼を脱ぎながら続ける。
「それって、当然オンオフ出来るんですよね? 前やってましたし。私が囮になります。多分追っかけてきます。まだ逃げてないってことは、私を捕まえたいってこと。あちこちに張ってください!」
返事も待たずに屋上に飛び出すと、戦闘機から葵に向かって機銃が掃射された。ミサイルではない。やはりまだ葵のことを諦めていない。殺さずに負傷だけさせて行動不能にし、捕らえるつもりだ。
〔葵、ナイスだ! 銃撃なら位置が掴みやすい。相手の機動パターンも限定される!〕
そこまで深く考えたわけではなかったが、結果として正解だったようだ。戦闘機は進行方向にしか撃てないのか、一度掃射したら旋回して、機首をこちらに向け直してからまた攻撃をするという動きに変わった。
広い屋上を自慢の脚で縦横無尽に走り回りながら、葵は機銃の攻撃を躱し続ける。殺すための攻撃ではないからか、狙いが甘く当てられてしまう気はしなかった。
〔葵、そこから直進して塔屋の上に飛び乗れ!〕
ベアトの言葉に従い、進行方向を急転換すると塔屋の上に飛び乗った。魔法陣はないように見えるが、恐らく仕掛けてある。
戦闘機が旋回し、葵に向かって銃撃すべくこちらを向いた。空中の何もないところが光り、銃弾が飛んでくるのが見えたが、葵は避けなかった。それが到達する瞬間、葵の周囲に緑色の光の壁が立ち上がる。バチバチと魔力の火花が弾け飛んだ。
銃弾が受け止められる頃には、戦闘機もまた空中に固定されていた。この動きを読んでいたベアトが、空中に魔法陣を用意していたのだ。戦闘機が通過する瞬間、結界を発動させた。
「ベア子さん、さすが!」
戦闘機を何重にも覆うように、魔法陣が多数張られて結界が重ねられていく。そのうちのいくつかは、戦闘機自体を分断するように結界面が発生し、ノズルからの噴射が止まった。
「ふぅ……エンジンへの燃料供給はカットした。これならもう結界を抜けられる可能性はないが、まだミサイルが残っている。機銃もな。使われる前に、とにかく張りまくって補強しないとならない」
「ウサ子さんは!?」
慌てて上空を探るも、もう真綾らしき心の光は見えなかった。流石に諦めて逃げたのだろう。
「上空に逃げちまったよ。空軍に追跡を頼んだが、流石に真綾。抜かりはないようだ。索敵ドローンの制御コンピューターは、お釈迦にしていったそうだ」
「ウサ子さん……」
その場にへたれ込んで、手をついて項垂れた。一体何がしたかったのだろう。自分を捕らえて何に使うつもりだったのだろう。都心で戦闘機を使うなどということをしてまで。
「あたしはしばらくここを動けない。あれは市ヶ谷に置いてあった空軍の機体を、ハッキングして動かしたものらしい」
ベアトの言葉を聞いて、葵の中で疑問が強くなっていく。一機だけしか配備されていなかったわけがない。何機もあったのに一機だけを使った。それは逃げるための時間稼ぎではなく、あくまでも葵を捕らえるための道具としか考えていなかったという証拠。
真綾としても、そんなに事を荒立てるつもりはなかったのだ。自分は判断を間違えたのかもしれないと、葵は後悔した。大人しく捕まっていれば良かったのかもしれない。
「とりあえずは、固定し続けることを依頼された。破壊してしまうと、破片が飛び散る。やるとしても、周辺の避難が完了してから。最終的にどうするかは、空軍に任せるしかない」
屋上の惨状を見遣りながら、葵は自身の想いを強くした。ミサイルによって大きく穴が穿たれ、下の階からの煙が漏れている。恐らく階下のヘリポートはもっと酷いに違いない。少なくとも二発はミサイルを撃ち込まれていた。
(どうして……ウサ子さん!?)
すべてが綺麗に終わったはずだったのに、こんな形で濁されてしまった。
信じていたのに。彼女の熱意に心を打たれていたのに。助けたい気持ちは同じだと思っていたのに。なのに、裏切られた。
葵の慟哭が、闇夜に木霊する。大都会の喧騒は魂の叫びをも飲み込んで、搔き消していった。




