第二話 生きるということは、殺すということ
連れてこられたのは、見えないヘリコプターの中だった。内側からはきちんと見える。何に使うのか葵にはわからない機材がいくつか積まれている他は、がらんとした広い部屋にいる。
もちろん、結界の中。飛び石のようにして張ったり消したりを繰り返しつつ、逃げられないように道を作って、この中へと誘導されてしまった。一応、同意の上ではある。
「こんな野良犬みたいのを、伝説の人物と勘違いしたわけ?」
扉が開いて出てきた女性は、焦げ茶色の瞳を不審げに葵に向けながらそう言った。まだ少女と呼んでも良いかもしれない。結界の中に座り込んで睨み返す葵の顔を、膝に手を当て、身を低くして覗き込んできた。肩にかかる程度の長さの栗毛が、目の前でゆらゆらと揺れている。
「とはいえ真綾、お前だって、本人の可能性九十五パーセント以上だって言ってたろ?」
真綾と呼ばれた少女は身体を起こし、背の高いベアトを見上げるようにしながら口を尖らす。
「それはそうだけど、霊子モニターに映らない人間なんて、そう何人もいるはずないし。あのマスカレイドだって、話に聞いてたのと特徴が一致してたわ」
「ああ、そうだ。葵、お前ちょっと名無し動かしてみろ」
名無し。また聞いたことがない単語。葵は首を傾げて何のことか考えた。
「名前は違うのか。お前のマスカレイドのことだ」
知らない言葉ばかり並びたてられてもわからない。葵の頭が更に傾いていく。
「それだよそれ、その左手の指輪。そこから小さいダガーみたいの出せるだろ?」
「もしかして、これですか?」
左手を持ち上げ、中指に嵌めた銀色の指輪を葵は示した。そこには蒼く輝く宝石が嵌め込まれている。かなり高価なものだと考えたが、自分の記憶にある最も古い持ち物である。とても大事な物のはずなので、これを手放して金に換えようとは思わなかった。
そしてこれは言われた通り、小さな十字架状のダガーが出てきて、自由自在に操れる。葵が生活していくにも、誰かを助けるにも、無くてはならないものだった。
「マスカレイドって、宝石ついてるものなの?」
指輪を凝視しながら、真綾が問う。ベアトの方も物珍し気に眺めながら答えた。
「初めて見るが、まあ、このマスカレイドの機能的には、ついていても問題ないはず。ちょっと発動して、動かしてみせてくれよ」
万引きのネタばらしをするのは気が引けたが、断ると死刑が待っているかもしれない。
仕方なく葵は指輪に想いを籠めた。宝石の色が紅に変わり、同時に十二本の小さなダガーがしゃらんと床に落ちた。葵が念じると、ふわりと宙に浮いて、踊るようにして動き出す。
「仕組みは一緒のようだ。真綾には見えないかもしれないが、髪の毛より細いルナタイトの糸で持ち上げて操っている」
そこまで見抜くベアトに、葵は舌を巻いた。ダガーにすら気付かない人間がほとんどなのに、指輪と繋ぐ糸まで見えているようだ。この指輪は魔法の産物で、知らずに使っていたのかもしれない。自分は電脳デバイスとやらを取り付けていないのに、念じるだけで動かせる。ということは、単なる機械のわけがないとは思っていたが、今、確信に変わった。
「今の映像も送って、室長に問い合わせてみたわ。確かに同じことがやれそうだけども、要らないって言ってる。身元確認も取れない人間なんて、信用出来ないって。私も同意する。見たところ、何も知らないお猿さんみたいだし、使いものになるかどうか……」
自分を要らないという真綾。葵はやはり自分は生きている価値のない人間と思い、俯いた。
「だからこそ信用出来る」
しかしベアトは強い口調でそれを否定した。葵の心の底で、何か温かいものが揺れ動く。
「この能力があれば、暗殺でもスパイでも、裏社会の仕事が何でも出来る。それで贅沢して暮らせたはずだ。なのにこいつはやらなかった。他人から盗むのも遠慮していた。週に一度、安物の菓子を食うだけ。チョコバーは一か月に一度の贅沢。そんな人間が、金や打算で動くか?」
「とはいえ、素性がわからないのは事実。その話だって、本当かどうか……」
真綾の言葉に、葵は再び俯いて床を見つめた。信じてもらえないのはわかっている。外の人々は、誰もスラムの住人を信用しない。口車に乗せられ働きに出た人間は、大抵酷い目に遭って戻ってきて、スラムの者に人権などないと言う。無事な身体で帰ってこられない者も多い。
「なあ、葵。お前、本当はID持ってたりしないか? さっきは警戒して隠したんだろ? フルネームも教えてくれ」
ベアトは葵の汚れた頭を撫でながらそう言った。自身も囲うようにして結界を張り直し、中に入ってきた。葵の指輪は、その気になれば人も殺せる。恐らくそれもわかっているのに。
「IDはたぶんありません。目が覚めた時には、この指輪しかなくて。問い合わせてくれたけど、少なくとも日本の国籍は持ってないって。だから、歳もわかりません。本当の名前も」
「名前も歳もわからないって、どういうことだ? 忘れてしまうほど長生きしてるのか?」
「たぶん、記憶喪失ってやつなんだと思います。三年半くらい前に、頭を大怪我したらしくて」
目覚めた時には、本当に頭が空っぽだった。言葉すら知らず、多少でも会話出来るようになるまで、数日かかった。思い出したのか、それとも新たに学んだのかは、自分でもわからない。
「知り合いとかが覚えていないのか?」
「お友達は、この子と、ローラっていうわんちゃんだけ」
葵は、元は白だったウサギのぬいぐるみをしっかりと抱きしめながら答えた。
「隠れててもわかるのか、時々遊びに来てくれるんです」
誰にも見えないのに、何故か居場所を突き止めてやってくる野良犬の顔を、葵は思い出した。自然と頬が緩み、ローラの代わりにぬいぐるみに顔を寄せる。
「犬は鼻が利くから。でもこの様子だと、人間でもわかるんじゃないかしら? 今は結界のせいで、封じ込められてるようだけど」
言外に臭うと言われているのに気付き、葵は自分のワンピースを摘み上げて嗅いでみた。自分ではわからない。しかし、かなり汚れているのは自覚している。
ベアトは特に臭がる素振りもなく、再び葵の頭を優しく撫でながら問う。
「人間の知り合いはいないのか?」
訊かれたくないから、言わなかった。葵の脳裏に、優しかった司祭の笑顔が思い浮かぶ。自分を拾って食べ物を与え、言葉も教えてくれた、名も無き女性。皆に慕われていた彼女は――
「もう、いません。ずっと誰にも迷惑をかけないように生きてきました。私のせいで人が死ぬのは、もう嫌だから……」
再び目に涙が浮いてきたのを自覚した。勿体ないと思いながらも、瞬きと同時に頬を伝っていったのを感じる。
「それ、どういう意味だ? 詳しく聞かせてくれ」
葵は心配そうな色を浮かべて見つめるベアトの瞳と、自分の涙が落ちた床とを見比べながら、話していいものか迷った。知られたら、今度こそ即座に死刑になるかもしれない。信用しようとしてくれているベアトにすら、見捨てられるかもしれない。
「その先は、取調室で聞きましょう。もう着いたわ」
真綾の発言で、葵はやはり警察に連れてこられたのだと理解した。事情聴取とやらをされるのだ。万引きの件か、それとも……。
「物騒な言葉を使うなよ。怯えてんだろ?」
身を縮こまらせ、震える葵の振動が伝わったのだろうか。ベアトがそう言って抗議してくれるが、真綾が突き付けたのは冷たい現実。その手には、銀色に輝く手錠と足錠があった。
「流石にそれはねえだろ!? 犯罪者として連行したんじゃねえ。協力者として来てもらったんだ!」
激高した様子で立ち上がりながら喚くベアト。その視線から逃れるようにして、真綾は横を向いた。手錠と足錠を結界の中に放り込みながら、小さな声で呟く。
「身動き出来ないように、拘束してから運べって命令なの。これならまだマシな方でしょ?」
しばらく真綾を睨み付けていたベアトは、諦めたように手錠と足錠を拾いながら毒づく。
「けっ、あのチキンが。手前だって不死身のくせしやがって」
それから優し気な表情に変わって、葵の顔を間近で見つめながら言う。
「悪いようにはしねえ。無事に外に出られるよう、あたしが保証する。信じてくれるか?」
葵は、頷くしかなかった。この状況では仕方がないし、少なくともこのベアトという女性は信頼出来る気がする。同じネクロファージとやらを宿した仲間だからか、それとも単に人柄か。
手錠と足錠をつけられると、確かにもうどうしようもないように思えた。単なる金属ではない特別な感覚。普通の鎖くらいなら引きちぎれる葵でも、びくともしなそうだった。
「抵抗の意志ありとみられると、不利になるわよ。これも着けて」
手錠の強度を確かめていた葵の行動を見咎めたのか、真綾がそう忠告してくる。その手には、目隠しらしき布があった。そんなものをつけられても、心の眼で見える。葵は大人しく目隠しをされた。そのあと、葵の左手を持ち上げつつ、ベアトが告げる。
「指輪も預かれって言っている。大事な物だとは思うが、外していいか?」
当然と思う。これが一番危険と判断するだろう。葵はまた小さく頷いて返した。
すっと指から外されるときに、ベアトの声が心の中に響いた気がする。安心しろ、あたしに任せておけ、と。
それから、どこかの大きなビルと思われる建物の中を、ベアトに抱きかかえられて進んでいった。最初は、乗ってきた他にも何機かヘリらしきものが停まっている広い空間。その先、二度扉を通過すると、心の眼でも中の様子がわからない不思議な壁を感じた。
再度二回扉を通ると、中に沢山の人の色が見えた。心の色と葵は捉えていたが、ベアトが言っていた霊体とやらなのかもしれない。そうすると、自分の色は透明なのだろう。
そんなことを考えていると、また中の様子がわからない不思議な壁を多数感じた。そのうちの一つの中に連れ込まれてから、椅子の上に降ろされる。
目隠しを外され目に入ったのは、白一色の部屋。全体が不思議な壁で出来ているのか、外の様子は心の眼でも見えない。入ってきたのはベアトだけで、手足の錠を外してくれながら言う。
「室長――あたしの上司なんだが、そいつと話をつけてくるから、ここで待っていてくれるか?」
「どのくらいですか?」
「室長が納得するまで。ま、時間がかかるようなら、一旦戻ってくるわ」
こんな場所で一人にされるのは不安だった。小さなテーブルが一つと、粗末な椅子が二つだけ。この質素過ぎる部屋は、葵には処刑室に見える。その不安を理解しているのだろうか。ベアトは何度も頭を撫でて落ち着かせてくれてから、手を振りつつ外に出ていった。
壁がどういう仕組みになっているのか、側に行って確かめたかったが、椅子に座ってじっとしていた。真綾の先程の言葉を思い出したのだ。抵抗の意志ありと判断されたら敵わない。
十分か十五分ほどだろうか。しばらくして扉がスライドして、ベアトの顔が見えると葵は顔を綻ばせた。取り上げられてしまっていたぬいぐるみも、その手にある。
「腹減ってたろうに待たせて済まないな。ほれ、これ食え」
右手に持っていた器を、ベアトがテーブルの上に置いた。白い器。スラムでは繰り返し使っているが、本来は使い捨ての物と聞いている。その蓋を開けると、涎が垂れるのを堪えるのは困難な、何とも言えぬ食欲をそそる匂いが撒き散らされた。
中に入っているのは、卵料理だろうか。ふわっとした黄色いものの中に、茶色い何かが閉じ込められている。似た匂いはスラム周辺でも嗅いだことがある。しかし食べたことはもちろん、見たことすらない。緑色の何かが散りばめられていて、アクセントになっていた。
「こ、これはなんですか?」
「カツ丼。こういう状況じゃ、定番だろ?」
定番。葵にはよくわからない。これが普通ということなのだろうか?
「こんな見たこともない御馳走、ホントに食べていいんですか?」
「駄目だったら出さねえよ」
(というか、駄目でも食べちゃいます)
食欲が刺激され過ぎて、頭がくらくらとしていた。葵はかつて教わった食事の前の儀式を思い出して、それだけはきちんとやった。
「いただきます」
手を合わせて言ってから、茶色い何か目掛けてかぶりついた。――と思ったら、ベアトの手で阻まれて、歯はもちろん舌も届かない。残酷なまでに美味そうな香りだけを嗅がされた。
(拷問!? これ、拷問ってやつですか!?)
思わず心の中でそう叫んだ。ベアトは葵の頭を押し上げながら、呆れ顔で言う。
「お前、犬じゃないんだから、それはないだろう。きちんと箸を使って食え」
よく見ると、手元に竹で出来ていると思われる箸らしきものがあった。かつて教わったことがあるが、手に取ってみるとその時の物と少し違う。二本あるように見えて、一本に繋がっている。それをどう持つのか葵が悪戦苦闘していると、ベアトが苦笑しながら奪った。
「仕方ないなあ。ほれ、食わせてやる」
ぱきっと音がして、ベアトは箸を二つに分けた。葵は半眼になってそれを見つめる。
(なんという策略……一本に見せかけるなんて。それ知ってたら私でも……)
上手く扱えたかどうか自信はない。何しろ三年半前に何度か使わされただけ。
ベアトは卵と一緒に茶色いものを箸で掴み上げると、吹いてよく冷ましてから葵の口に放り込んでくれた。
(なんですか……これは……)
自然と涙が溢れてくる。甘塩っぱい味と共に、得も言われぬ旨味が口の中一杯に広がった。噛んでみると、柔らかい食感の中に、歯ごたえのある何かが入っている。それを噛み締めると、更に美味しい、空腹と共に心をも満たす味が、舌の上に流れ込んできた。
(生きてて良かったです……)
その想いと共に、幸せの味を何度も咀嚼してから飲み込んだ。
「こんな美味しいもの食べたことありません!」
感動。かつて端末のAIに教わった、よくわからない感情を示す単語の意味を、理解出来た気がする。これが感動。その携帯端末をくれた人の顔を思い出し、葵は訂正の言葉を口にした。
「やっぱり二番目。司祭様の作ってくれたお料理のが美味しかったです。こんなに豪華じゃなかったですけど、生まれて初めて食べた御飯。みんなのために、一生懸命作ってたお料理」
葵の涙をハンカチで拭き取りながら、ベアトが問う。先程中断された続きを。
「話してくれるか? その司祭様って人のこと」
「私が目を覚ましたのは、スラムにあった教会って呼ばれるとこでした。その時は言葉もよくわからなくって。こうやって、食べさせてくれました。その御飯が、一番美味しかったです」
あの時の優しい司祭と同じ顔を、ベアトがしているように見えた。顔立ちは全く似ていない。いかにも女性らしい柔らかい物腰だった司祭と比べ、このベアトはもっと粗暴な感じがする。髪を短めに切っているからなだけではなく、言動も男っぽい。それでも似て見えた。
「どうしてその司祭様って人のところから出てきてしまったんだ?」
「司祭様は、みんなに御飯を振舞ってました。スラムには、お腹を空かせてる人が沢山いたから。でも、私が拾われて十日目くらいに、暴動が起きました。食べ物やお金になりそうなものを探して、あちこちのお店が襲われてました。教会にも来ました。食べ物一杯あるって知られてたから。きっとそれを買うためのお金も。それで、司祭様は……」
その続きは、とても口には出来なかった。当時の光景が頭の中を駆け巡って、涙が溢れて溢れて止まらない。先程の感動の証とは違う。明らかな哀しみが、雫となって零れ落ちる。
顔を歪めて、泣き叫ぶのを堪えている葵の頭を、ベアトがまた優しく撫でる。
「それがさっき言ってたことか? 別にお前のせいじゃないだろう」
そんなことはない。襲われたのは、確かに自分とは関係のない理由だったのかもしれない。しかし、その後起きた事態は、明らかに自分のせいなのだ。
「でも、でも、私が……私が司祭様を!」
「吸血鬼にしてしまったってか?」
決定的な言葉が、ベアトの口から漏れた。やはり、もう知っていたのだ。時期はヘリの中で伝えた。警察なら、とっくに調べていて当然だと思う。
この不思議な金属の部屋に閉じ込められた理由もわかった。ここは処刑室で間違いないのだ。なら、この豪華な食事は――
「これ、最後の晩餐ってやつですかー!?」
堪えていたものが、口から大声となって溢れ出す。眼からも止め処もなく滴り落ちた。あの時の罪で自分は裁かれる。店に大げさな仕掛けをしてまで捕らえたのは、あの事件の犯人だから。どこかで自分のことを聞いて、ずっと捜査していたのだ。
「別に最後じゃねえよ。気に入ったのなら、百回でも二百回でも食わせてやる」
何回食べたって、最後は最後だ。ずっと腹を空かせて生きてきた自分への、最後の慈悲に過ぎないのだろう。葵はそう考えて、わんわんと泣き続ける。
「その反応、三年半前に頭を怪我したって時に死にかけて、ネクロファージを与えられたばかりなんだな。お前は何も知らなすぎる。さっき見せただろう? あたしの身体に感じるだろう? お仲間なんだよ。その司祭ってのは違った。お前のネクロファージに適合しなかっただけだ」
適合。自分のネクロファージには合わない。葵はその言葉を聞いて、泣き声を上げるのを止めてベアトを見た。何かが微妙に異なる。
左胸に手を当てて、そこに棲むモノに問いかける。恐らくそのネクロファージという存在。違うと言っているように感じた。ベアトには合わない。ベアトのは違う。
自分と同じようにベアトは再生した。その様子はそっくりだった。だから同じ体質になっているのは間違いない。あの時にはわからなかったが、人によって違ったのだと葵は知った。ネクロファージは、きっと何種類もある。司祭には、異なるものが必要だったのだ。
「やっぱり、人によって違うんですね……」
その葵の言葉に、ベアトはゆっくりと頷く。
「合う人間と合わない人間がいる。適合しないと、吸血鬼になっちまう」
やはりそうだった。司祭を吸血鬼にしてしまったのは、自分で間違いない。暴徒に襲われ、そのままでは死んでしまうと思った時、葵は自分の血を振りかけた。
再生するのを知っていたから。料理の手伝いをして指を切っても、すぐに治癒した。だから司祭も治ると思った。実際、傷は塞がった。しかしそれでは済まなかった。司祭は突然狂い出し、血を求めて暴徒たちに襲い掛かった。肉をも喰らい、倒錯した快楽に身を震わせていた。
その葵の頭にまた大きな手が載せられ、恐怖の記憶を搔き消すかのように撫でまわす。温かな感情が流れ込んでくるようで、すっと心が軽くなっていった。
「苦労したんだな。誰にも迷惑をかけないように生きてきたってのは、そのことか?」
静かに頷きながら葵は答えた。教会が人々によって焼き払われる中、自分だけ逃げ出した。それからは、ずっと一人で生きてきた。何度か死のうとしたが、この身体は再生してしまった。心臓を貫いてさえ、死ねなかった。ただ痛い思いをしただけだった。
「誰かを吸血鬼にしちゃったら嫌だから。誰とも関わらず、近寄らずに過ごしてきました。怪我をしてる人を見るのが、特に辛かったです。私の血は合わないって、わかるから」
「お前は優しい奴なんだな。だからか? その能力を生かして、マフィア街で仕事を請け負ったりしなかったのは?」
「だって、人殺しとかそんなのに決まってます。殺してまで生きたくないです。みんな鳩さんとか捕まえて、焼いて食べてましたけど、私はやりませんでした。生きてるのに可哀想だから」
指輪を使えばいとも簡単なはずだった。そうしたら、盗まずに生きてこられたかもしれない。
「動物を食べるのは、可哀想か……」
俯いたままの葵に、しばし躊躇する素振りを見せたが、意を決したのかベアトは告げた。
「残酷かもしれないが、きちんと教えておく。お前が今食べているカツ丼は、豚だぞ」
豚。司祭がくれた端末で学んだ。動物の一種。人が食べるために飼っているものだが、確かに生きている。そのことを思い出すと、葵の喉から何度目かわからない叫びが漏れた。
「うわーん、知らずに殺して食べちゃいましたー!!」
「お前は優し過ぎる。それじゃあ生きていけない。食べ物なんてな、ほとんどが元は生きていたものだ。人も動物も、他の生命を食べて生きているんだ」
その言葉を聞いて、葵の頭に疑問がよぎる。ほとんどが元は生きていた。なら、これまで自分が食べてきたものは、どうだったのだろうと。
「チョコバーも? スナックも? 私、今までチョコバーさん殺して食べちゃってたの? やっぱり私、吸血鬼ー!!」
喰らったのが人かどうかしか変わらない。自分は他の生命を殺して生きていた。それを自分のエネルギーにしていた。人の血を吸う吸血鬼と何が違うのか。
その耐えがたい事実に、葵が幼子のように大声を上げて泣き叫び続けていると、扉が開いて真綾が入ってきた。ベアトの方を半眼で睨み付けながら言う。
「なに泣かせてるのよ」
「どうもエイバイオニストらしい。今までも知らずに食ってたようだ」
流石に手の付けようがないのか、弱った様子でベアトが答える。真綾は顔色も変えずに葵を覗き込みながら呟いた。
「完全不殺主義、か。最近結構聞くわね、そのエイバイオニストっていう、生物由来の食物を食べない主義の人。……銀座に専門店あるみたいだから、取り寄せてあげるわ」
真綾はカツ丼の蓋を閉めて取り上げながら、葵に告げる。
「化学合成した蛋白質や糖で出来ているから、それなら殺したことにはならない。安心して」
「……それは、チョコバーいくつ分ですか?」
とても高そうな気がして、葵は訊ねた。真綾は首を傾げながら、逆に質問するように答える。
「値段の話? チョコバー換算なら、十個分くらいかしら? 配送料が二つ分くらいみたい」
チョコバー十二個分。葵にとっては、一年分に相当する。
「そんなに贅沢なものなの?」
「贅沢なのかどうかは価値観次第。値段はまあ、かなり割高ではあるわね。個々の栄養素の合成自体は簡単だけど、ちゃんとした味と食感にするのは大変だし、数は売れないから」
真綾が下げようとしているカツ丼の容器を見て、葵は不安になった。それがこの先どうされてしまうのか。教わらなくても予想はつく。だから、葵には知り得ないことの方を訊いた。
「それはいくつ分?」
「これ? 下の食堂のみたいだから、三つ分くらいかしら」
その言葉を聞いて、真綾の手からひったくるようにして、カツ丼の容器を奪い返した。蓋を開け、テーブルの上に戻してあった箸を手に取る。
「要りません。これ食べます。これだって三か月分の贅沢なのに、選んでられません」
持ち方なんてどうでもいい。二本まとめて箸を握ると、不器用にもカツ丼の残りを口に運ぶ。
「もう殺しちゃったんだから、最後まで残さずちゃんと食べてあげるのが罪滅ぼしです」
ぽつぽつとカツ丼の上に雫が垂れる。自分の涙をも一緒に飲み込んで、葵はその生命の味を噛み締めた。感謝を込めて、大切に、大切に味わっていく。
(動物や植物の生命をもらって、私は生きていく。これからも、ずっと)
生きるということは、殺すということ。葵は、今初めてそれを学んだ。殺してきたのなら、生きなくてはならない。葵が今まで食べてきたものたちの代わりに。