第三話 不老不死の薬(エリクシル)の真実
即死はしていない。すぐに息を止めたが、きっと時間の問題なのだろうと葵は思った。脳を洗濯機にでも入れられて回されているようで、上手くものを考えられない。
今際の際に葵が残り少ない思考力を使ったのは、これが誰の仕業であるか考えることだった。理由も知らずに死にたくはなかった。可能ならば、仲間に手掛かりを残したかった。
一番怪しいのは、もちろん室長。葵による単独潜入を指示したのは彼。しかし、動機がわからない。スパイだったのなら、葵だけ殺しても意味がない。この後ベアトが強行突入するだろう。捜査妨害なら、ベアトと真綾も同時に処分しないと意味がない。
ならばベアトか? 真綾か? どちらにも自分を殺す動機など無いように思える。もしかしたら、記憶のない昔のことなのだろうか。それとも司祭のことなのだろうか。知らぬ間に恨みを買っていたのかもしれない。あれが自分の仕業だと知られたから、ここで殺される。
司祭の本当の名は知らない。本当に司祭であったかどうかも怪しい。元々教会として使われていた場所に勝手に住み着いて慈善活動を始めたから、周りが彼女を司祭と呼ぶようになっただけだと聞いた。もしかしたら、三人のうち誰かの身内だったのかもしれない。
(私は、司祭様の最期をあんな形にしてしまった罪で死ぬんですね……)
かつて教わったお祈りの方法。既に忘れてしまったと思っていた。しかし身体が勝手に動いていた。死者を弔うためでなく、自分を弔うために十字を切った。
「おい、動いているぞ!? まずい、ガスの濃度を上げろ!」
スピーカーからだろうか。部屋の中に男の声が響いた。一緒に入ってきた運搬係のものではない。彼らはもう死んでいる。氣も魔力も感じず、ただの物と化している。夢幻の心臓である葵とは、不死性が違うのだろう。
息を止めていたからだろうか。次第に頭が回るようになっていることに葵は気付いた。呼吸を止めている間に毒が分解されたのだろう。しかし、それももう限界と思えた。酸欠を堪えきれず、少しだけ息を吸うと、再び毒ガスが回って思考が鈍ってくる。濃度が低いうちにどうにかすべきだった。
「上げ過ぎですよ。それでは死んでしまいます。実験の結果、先程ので充分なのですから」
「今、動いていたではないか! 霊子モニターには、はっきりと映っていたぞ?」
いつのまにか闇との同化も切れてしまっているようだった。葵はすぐには発動し直さず、そのまま見えるようにしておいた。今聞こえた言葉が気になる。死んでしまっては問題があるかのように言っていた。
「様子を見ながらです。確実に行動不能にしてから蜃気楼を剥いで、拘束しましょう。あの指輪くらいしか、武器はないそうですから」
拘束。誰が、何のために? 自分を捕らえて何かに使う。これは殺すための罠ではない。どうされるのかはわからない。しかし、もう自分では抜け出せない。ガスの濃度が上げられたのか、最低限の呼吸でも指一本動かせなくなっていた。本当に死んでしまいそうだった。
葵の瞳に涙が浮かぶ。ベアトは来てくれないのか。真綾は来てくれないのか。
「助けて! 誰か、助けて!」
自然と叫んでいた。もう終わる。長かったのか短かったのかもわからぬ自分の人生が。何度も死んでしまおうとしたのに、実際に危機に陥ると生を欲していた。心も、身体も。
スラムで何度となく見た人の死を思い出した。氣と魔力がゆっくりと拡散し、空に消えていくような感じ。自分もああなるのだと知った。
「おい、濃度を上げ過ぎたんじゃないか? 霊子モニターを見ろ! 氣も魔力も拡散していっているぞ!」
「だから言ったじゃないですか……。仕方ありません。オプションプランは失敗ということで報告し、一応指示を仰ぎましょう」
葵の拘束はオプションプラン。可能ならばというだけのようだった。解決にはなっていない。何か行動すると思っていた。葵が死なないように、慌てて突入してくることを期待していた。
「ええ。向日葵は確かに死亡しました。……いえ、闇との同化で消えたわけではありません。以前いただいたデータのように突然消えたのではなく、確かに人間の死亡時と同じ様に、ゆっくりと周囲に拡散していきました」
誰かに葵の死亡を報告しているようだった。相手は、この罠を仕掛けた犯人だろう。そして恐らく、新麻調内にいるスパイの誰か。
「人力で確認ですか? 確かにハッキングの心配はありますが、まだ中に入るのはちょっと……ガラス越しでも氣を確認出来るというので、まずはシャッターを開けてそこから」
擦れるような機械音が響き、壁の一部がスライドしていった。覆われていたガラス窓が現れる。その瞬間、通信箱が弾けて強い魔力が飛んだ。ガラスを突き破って、大きく穴を穿つ。
「ぐっ……ひゅっ……こ、これは……」
「換気だ、急いで換気しろ! 何か持ち込んでやがった。他の二人が聞いていたんだ!」
轟々と音が響き出し、急速に毒ガスが吸い出され、代わりに新鮮な空気が送り込まれてくる。割れたガラス窓から漏れたことで、危機を感じたのだろう。常人は簡単に死ぬようだから。
「誰か中に入って、念のためそいつの死体を吹き飛ばせ! 黒き隼の位置も探せ!」
扉が開き、防護服を着た警備員が雪崩込んできた。しかし、突然身を硬直させて倒れ込む。
「なんだ? 何が起きている? ……奴の死体はどこだ? まさか!?」
(ベア子さん、ありがとう!)
銃を手にしていた警備員のみを痺れさせて無力化すると、葵は奥へと走った。スパイが誰だとしても、製造装置を持ち帰るのが最重要。それを信頼出来る者に託すのだ。
少なくともベアトは葵の味方。今の攻撃は、ベアトの魔力だった。あの通信箱には確かにお守りが入っていた。いざという時に葵を助けるためのものが。
「奥に入り込んでいるぞ! ソナーが反応している!」
(私を想定した守り。やっぱりスパイがいたんですね!)
名無しから伸びたダガーが、まるで個別に意思を持っているかのように宙を舞った。広範囲に展開され、高速に動き回る葵の正確な位置を掴ませないまま、襲い掛かる警備員を次々と痺れさせ、無力化していく。それらを片付けて進んだ先にあったのは、またもルナタイト製の扉。
かなり丈夫そうに思えた。この向こうに製造装置があるに違いない。その葵色の瞳に決意を漲らせて、葵は最後の障害の前に立った。
(もう誰にも使わせません。もう被害は出させません。これは、私が没収します!!)
再び葵が全力で想いを籠めると、名無しに嵌められた宝石から紅と蒼の光が放たれた。絡み合うようにして糸を伝っていくと、ダガーの先から黄金色の刃を発生させる。その輝きは触れた部分を消滅させるかのようにして、ルナタイト製の扉を易々と斬り裂いた。
(これは……不老不死の薬?)
扉の向こうには、今生まれたばかりと思える強い光を放つ不老不死の薬の感覚があった。蜃気楼のフードを上げた葵の目に入ったのは、拠点の研究室と似た光景だった。
多数の機械が置かれた部屋の奥に、心臓だけが幾つもあった。ガラスの容器に入れられ、パイプが繋がって、単体で生かされているように見える。その心臓からは、強い魔力を感じた。
(これが……不老不死の薬製造装置……?)
機械ではなかった。明らかに人の心臓。魔法の産物ということはわかっていたが、実際に人が作っていたのだ。それも心臓だけで。同じものが複製され、生体機械のように使われて。
予想もせぬ光景に呆然とした葵だったが本来の目的を思い出すと、、慌てて端末を取り出した。録画しつつ向きを変えて、部屋全体を映す。光学カメラと霊子モニター両方で撮影していった。
これを持って帰るのは不可能に思える。取り外したら心臓は死んでしまうだろう。それでも、細胞レベルでなら調べることが出来るのだろうか?
判断に迷っていると、施設内のスピーカーから真綾の声が響いた。
「良かった、葵。生きてたのね。ハッキングに成功したわ。施設は制御下に置いた。エレベーターを動かすから、すぐにそこから脱出して。核爆弾が用意されている。もし制御を取り戻されたら、あなたでも生きていられない。急いで」
端末ではなく施設内のスピーカーから声がしたことに違和感を覚えた葵は、ベアトへと霊子通信を行った。ハッキングに成功したのなら繋がるはず。
〔ベア子さん、どうなってるんですか、これ? 今のホントにウサ子さんですか?〕
〔本物だ、早く脱出しろ! その製造装置の映像は、こちらでも押さえた。今、真綾がそれの仕組みなどのデータを確保中。後は任せて早く出てこい〕
所詮通信。偽造可能と思えるが、これが本物の真綾とベアトかどうかにかかわらず、逃げるべきだと思った。それが元々の作戦。そして本当に核爆弾があった場合、助かるわけがない。
葵はエレベーターまで一気に駆け抜けた。再び全身に力が漲り、ソニックブームを纏いつつ。颶風と化した葵の進路では、真綾がやったのか、扉はすべて開きっ放しになっていた。
ハッキングは本当のことなのだろう。無事な人員たちが狼狽えつつ何かを叫んでいる。警備員たちは葵の迎撃ではなく、施設の破壊のためにその武器を使っていた。
〔ウサ子さん、開けてください! もうエレベーター前です!〕
即座にエレベーターの扉が開き、同時に後ろのセキュリティーゲートが閉まった。他に誰もいないのを確認すると、葵はエレベーターに乗り込んだ。すぐに勝手に上へと動き始める。
念のためと思い、葵は息を止めた。この空間でまた毒ガスを使われたら敵わない。ルナタイトで覆われた空間を抜けたのか、上にベアトの姿が見えた。心の眼に映るその色は、まだほんの三十分も経っていないのに、とても懐かしく感じた。
「ぶはっ……。ベア子さん、ベア子さーん!」
外に飛び出ると、葵は安心して荒い息を吐きながら、ベアトに抱き付いた。涙が溢れて止まらない。助けてもらえなければ、きっと死ぬか、捕らえられて何かに利用されていた。
「息を止めてたのかよ。学習速いな。だが、泣き虫は直らないな」
「だってあんな狭いとこじゃ、またすぐにやられちゃいますしー!」
わんわんと泣きながら縋り付く葵の頭を、ベアトが慈愛に満ちた表情で撫でる。
〔私、まだ疑われてるのかしら? 心外だわ〕
どこかで音声を拾われ、聞かれていたようで、実際真綾はかなり不機嫌な様子の声音に感じた。葵は慌てて手を振りつつ弁解を始める。
〔あ、べ、別にウサ子さんを疑ったわけじゃ……施設の方にそういう仕掛けがないかなって〕
〔そういうのは後にしてくれ。入り口は結界で厳重に塞いだ。制御を取り戻されたとしても、これでしばらくは時間を稼げる。黒幕の元へ急ぐぞ〕
ベアトに手を引かれて研修寮を出ながら、葵は首を傾げつつ問い返す。
〔黒幕?〕
〔通信先でわかった。あたしら二人はどうするつもりだったのか知らないが、お前のことは出来れば捕らえたかったようだな〕
それは死んだふりをした後の会話の流れでわかっていた。だが、どうやって黒幕の位置を突き止めたのだろうか。通信先といっても、ハッキングしなければ知ることは無理と思える。終わったのは、葵の死亡報告より大分後。黒幕への通信記録を残すような下手をしたのだろうか。
黒き隼は地上まで下りてきていて、後部ハッチからベアトと共に乗り込んだ。すぐに離陸を始める中、コックピットへ行くと、説明より前にベアトが言う。
「真綾に礼を言っておけ。毒ガスで死ななかったのは、こいつがデータを改竄していたからだ」
データを改竄。意味がわからない。疑問と感謝が綯い交ぜとなった葵の眼差しを避けるようにして、真綾はそっぽを向きながら小さな声で呟いた。
「べ、別にあなたを助けるためじゃないし。ネクロファージの毒ガス耐性研究についてはもうデータがあったのに、葵のネクロファージでまでやっているのを不審に思っただけ。万が一に備えて、あなたの分は数字を改竄しておいた」
「助けるためにしか聞こえないよなあ?」
ニヤニヤしながらベアトが突っ込むと、真綾は語気を強めて言い返した。
「違うし。拠点内にいるスパイが葵を殺すか捕らえたがっている。そう感じたから、葵の行動範囲で、毒ガスを使えそうな場所も常に監視していただけ。そこに毒ガスを仕込む人間がいたら、それがスパイだから」
真綾は素直じゃない。ベアトがかつてそう言っていたのを思い出した。ずっと葵を守ってくれていたのだ。彼女には建前が必要なのかもしれない。人と接するのが苦手だから。
「でも、ありがとうございます! おかげで助かりました!」
とっておきの笑顔を向けて、葵は元気に宣った。名前の通り、向日葵のような明るさで。
「そ、それよりも、さっきのベアトは面白かったわよ。これ見て」
画面に映し出されたのは、葵が毒ガスという言葉を残して通信が途切れた後の、コックピットの中の様子のようだった。ベアトが貨物室へ続く扉を叩きつつ騒いでいる。
『ここ開けろ! 葵が死んじまう! 早くヘリの高度を落とせ! さもなきゃ飛び降りる!』
かなり狼狽している。ベアトがそこまで心配してくれたことに、葵は幸せを感じた。
『いや、それじゃ間に合わない。箱開封しちまおう。すぐにでもハッキングしてくれ!』
一方の真綾は至極冷静。滑稽なまでに騒ぎ立てるベアトを横目で見ながら、静かに言った。
『毒ガスのデータなら改竄済み。そう簡単には死なないわ。ハッキングだって出来る保証がないんだから、まだ箱は開けちゃ駄目。それで気付かれたら、逆に葵が危険になるかもしれない』
映像はそこまで。真綾は知っていたから落ち着いていたのだろう。殺す気であっても、息を止めれば分解が間に合うくらいの濃度で使うはずだと。
「おい、なんでそこで止めるんだよ? その後、てめー酷いこと言ってたろ?」
ベアトが不満を露にした表情で文句を言うと、真綾は素っ気なく答えた。
「嫌われてるのは知ってるから、別にいいけど?」
その言葉と共に、続きが再生された。
『仮に致死量の何倍もの濃度で使われていたらもう遅いし、殺す気なら効き目が悪ければ濃度を上げてしまう。私たちの目的を果たさないと、葵に恨まれるわ。彼女の死は無駄にしない』
葵は目の前のディスプレイにガツンと頭を突いて項垂れた。本当のところは、見捨てられていた。しかし、それで良かったとも思う。作戦を中断して自分を助けようとしていたら、あの黒幕らしき人物との通信はなかっただろう。結果的に自分は助かったのだし、不問にすべきだ。
「さて、作戦会議。黒き隼はまだ工場の上空にいることになってるから、普通に喋っても大丈夫。工場の中は、毒ガスを利用させてもらって、行動不能にしておいた。製造装置を破壊されたら敵わないし。着くまでの間に、調べたことを手短に話すわ」
姿勢を正すと、真綾は改めて話を始めた。画面に先程葵が見た不老不死の薬製造装置の模式図らしきものが映し出される。
「不老不死の薬製造装置は、記録によると幻術師の心臓らしいわ。防衛反応により、心臓がマザーネクロファージに幻術を掛けている。霊子ナノマシンはネクロファージと似ているから、中を通すと同じ幻術が掛けられる。それで出来たのが不老不死の薬。今まで研究していた仕組みと一致するから、本物の製造装置で間違いない」
「あ、私、ちゃんと映像撮ってきましたよ。これと一緒ですよね?」
自分の端末を取り出して、葵はそれを二人に見せた。今画面に映っていたものと一致する。
「確かに合っているな。真綾が見た記録は、ダミーではなく本物だ」
ほっと息を吐きつつ、ベアトが安心したように言う。本当のところは、真綾がダミーに騙されていないかどうかよりも、自分が真綾に騙されていないかの方が心配だったのかもしれない。
「でも黒幕の情報はダミーだったわ。工場内にいる人物がそうだとして記録が残っているけど、本物の黒幕は外にいるのだから。恐らく提供者についてもそうでしょう」
葵にも話が読めてきた。黒幕は今、工場の外にいる。あのマフィア街で捕らえた提供者は偽者。そうすると、答えは一つしかない。
「なら、あとは黒幕兼提供者を捕まえるだけってことですね?」
「向こうはまだ工場の事態に気付いていない。あたしらも、まだ外で待機中と認識しているはず。あたしの部下に遠巻きに監視させてあるから、簡単に逃げられることもない」
「ベアト、あなたやっぱり……」
ベアトの説明に、真綾が呆れたような表情で問う。葵も『あたしの部下』というところがとても気になった。どこの部下なのだろう。独自の情報源とやらは、いったい何だったのだろう。葵と真綾二人に半眼で睨み付けられながらも、ベアトは真剣な顔で話を続けた。
「奴らに捕縛させようとしたら、すぐ察知される。工場は他にもあるかもしれない。別の流通網もあるかもしれない。データを消去される前に、こっそりと近づき取り押さえる必要がある」
「それはそうね。じゃあ最後は結局?」
「ああ。それが出来るのは、お前だけだ、葵」
二人の視線が葵に集まる。それぞれに自信ありげな笑みを返した後、葵は言い切った。
「隠れるのは得意ですよ!」
向こうは葵が死んだと思っているはず。ならば、葵を検出するための装置を用意していたとしても、油断して気付かないかもしれない。真綾だってそれくらい想定済みだろう。何かしらの細工は準備しているはず。それらを生かしてこっそりと近付き、何もさせずに捕縛する。
(今度こそ最後。私に出来ることは、これ。スラムのみんなを救うための、最初の一歩)
葵の決意と、そしてベアトと真綾の想いも乗せて、黒き隼は闇夜を切り裂き飛んでいった。




