第二話 幸せのカード
それからベアトと一緒に東京湾海上都市へと向かった。十五年前に終結した大戦の時までは、海上要塞として機能していた、メガフロート式の巨大な浮島である。
戦後、国内で戦災難民が多数発生し、社会問題となると、役目を終えたこの浮島が開放され、難民の受け皿となった。比較的被害の少なかった日本は、国内はもちろん、海外からも受け入れを行った。結果、用意した仮設住宅群はすぐに底を尽き、あっという間にスラム化が進んだ。
東京本土の復興を優先した政府だが、海上都市の再開発も徐々に進めていた。これが逆に反感を買った。ほんの一部を高級な近代都市に変える手間と金で、スラムにもっとましな住宅を多数用意出来る。スラムの住民たちはそう主張して、政府との間での衝突は絶えない。仮設住宅からの強制退去を行ってまで再開発を進めているから、なおさらである。
葵が住んでいたのも、そんな海上都市のスラムの一角。二人の乗った車は、海底トンネルを使って海を渡り、再開発地区とスラムを隔てる地上ゲートの前に停まった。
「中まで行かないんですか? ここ多分結構遠いですよ?」
センサーが反応しないことを利用して、冬はフェンスを越え再開発地区の工事現場に入り込んでいたので、葵にはある程度の土地鑑がある。マフィア街までは、かなり歩くはずだった。
「この車で中まで入ったら、襲われちまうよ」
元住人としては、そこまで物騒な場所だと思われているのは心外。葵は渋面を作って応じた。とはいえ、新麻調の公用車なので、それなりに立派な車両。反感は買うかもしれない。
その先は、ベアトの判断に従って、スラムの地上部分を歩いて奥地へと入っていった。いつもは蜃気楼を着て歩いていたので、目で見て回るのは新鮮だった。ここのところ綺麗な都会に住んでいたこともあって、スラムの乱雑さと不潔さがどうしても目についてしまう。
後ろから大げさな走行音がして振り向くと、武装トラックが追い抜いていった。それを目で追いながら、ベアトが教えてくれる。
「釈迦に説法かもしれないが、コンビニに納品するにも、あんな車使わなきゃならないんだよ」
あの走行音には聞き覚えがある。葵はてっきりマフィアの車だと思っていたが、そうではないのだ。普通に商品を運ぶだけの車。コンビニ自体の防犯設備もかなり厳重だったのを葵は思い出した。会計をせず外に出ると、必ず検出されてシャッターが下り、閉じ込められてしまう。
それくらいになっていないと襲われてしまうくらい、皆飢えているのだ。今も周囲には、痩せ細った人たちがたくさん座り込んでいる。自分だけ贅沢してしまっているのが申し訳なくなって、葵は俯きながら歩いた。
「お願いします……何か、何か食べ物を……。もう三日も食べてないんです……」
通りすがりに、そう言って中年女性が縋り付いてきた。こんなことされたのは、初めてだった。身なりで外からきた人間とわかるのだろう。
(近くにコンビニが……私のIDカードで……)
ベアトがくれた小遣いがまだ残っている。葵にとっては驚くべきことだが、一か月分としてチョコバーが二十本も買える金額をくれた。葵くらいの歳なら、それでもかなり少ないという。
「ごめんなさい、今なにも持ってないんです。お金もありません」
葵は視線を合わせないようにし、そう断って足早に先へ進んだ。縋り付いていた女性が、倒れ込むようにして地面に伏せったのを背中に感じる。その心の色は弱々しく、三日食べていないというのは本当に思えた。
大分先まで進んで、少し人がまばらになったところで、ベアトが葵の頭を撫でてきた。
「よく我慢したな。コンビニまで突っ走っていくかと思ったぞ」
「『欲しいもの』じゃなくて、『必要なもの』をあげなきゃなりません。私には、お金の稼ぎ方は教えてあげられないから」
特に身体が不自由には見えなかった。葵と同じなのだ、あの女性は。稼ぎ方を知らないだけ。食べ物を得る方法を知らないだけ。自立する気がないだけ。今日食い繋いでも、何も変わらない。あの場で与えたら、周りの者皆に与えなくてはならない。葵には、そこまでの金はない。
葵のやるべき仕事は違う。これから不老不死の薬の売買組織の人間を捕らえること。流通網の情報を得ること。そして、それを使って事件を解決すること。
その先も似たようなことが何度もあったが、葵は心を鬼にし、涙を堪え突き放した。視線を合わせると寄ってきやすいということがわかったので、なるべく合わせないよう進んでいった。
まずはベアトがローラを見つけた場所まで行った。マフィア街やその周辺には、新麻調で設置した監視センサー類がある。スラム街の大半にも、警察が似たようなものを設置している。それらで動きを見られている可能性があるので、真っすぐに向かっては怪しまれてしまう。
それから、犬を探して歩きまわる振りをしてうろつきながら、次第にマフィア街へと踏み込んでいった。中はスラムよりもずっと人が少ない。
「何もなくてよかった。女だから甘くみられるのか、トラブること結構多いんだよな」
マフィア街に入ると、ベアトは逆にほっとしたようにそう言った。
「この中の方がよほど安全だ。皮肉なことに、マフィアが治安維持の役に立っている。悪さをしたら簡単に殺されるから、スラムの人間は下手に入り込まない。人、少ないだろ?」
その話は葵も耳にしていた。盗むのはスラムより簡単だが、生きて帰ってこられないと。長生きしたければスラムの隣人から盗め。とりあえず食べたければコンビニで捕まれ。死にたければマフィア街で盗め。そんな風に言われていた。
「あれ、なんですか……?」
前方が騒がしい。白昼堂々、道の真ん中で、少年が暴漢二人に襲われているように見える。
「誰か助けて! 殺される!」
葵は瞼を閉じてぐっと堪えた。助けてあげたい。しかし、『欲しいもの』ではなく、『必要なもの』をあげなくてはならない。あの子に必要なのは、戦う力だ。そう自分に言い聞かせた。
その葵の心の眼に、ベアトが猛然と走り出して暴漢を殴り倒す姿が見える。
「ベア子さん……?」
慌てて走って追いつくと、ベアトは暴漢の一人の腕を捻って地面に組み伏せながら怒鳴った。
「葵、てめー、何ぼーっとしてやがんだ!」
何故怒られているのかわからなかった。何故ベアトが助けたのかわからなかった。
「なんで……なんで助けたんですか? 『必要なもの』しかあげないんじゃないんですか?」
「助けて当たり前だろ! 足元に転がっているものを見ろ!」
ベアトの言葉に地面を見ると、拳銃が落ちていた。
「放っておいたら、殺されてたかもしれないだろ! 今のこいつには、助けが必要だった!」
激しい剣幕で怒鳴るベアト。葵は判断を誤ったと知った。そこまで見ていなかった。スラムでの物乞いの件もあり、目の前の厄介ごとから目を逸らし、逃げることしか考えていなかった。
「何言ってやがる、助けが必要なのは、こっちの方だぞ!? 手ぇ放しやがれ!」
割り込んできたのは、組み伏せられている男。もう一人は気絶して伸びていて、少年は険しい表情で様子を窺っている。
「このガキが俺の腕時計を盗もうとしたから、取り返そうとしただけだ!」
そう主張すると、男は口から血の混じった唾を吐き出した。ベアトが殴ったからだろう。顔も少し腫れている。
「腕時計……?」
ベアトが不審そうに眉をひそめて手を放すと、少年が急に立ち上がって逃げ出そうとした。
「待って!」
葵が一瞬で追いつき、服の背中の部分を掴んで引き留めると、ベアトが子供のポケットをまさぐる。その手が腕時計を引きずり出した。革ベルトが切り裂かれている。男が示した左手首には、確かにベルトを切った時に出来たと思われる、血が流れ出る真新しい傷が付いていた。
「そういうことかよ……」
ベアトは小さく溜め息を吐くと、自分のポケットから何かカードのようなものを取り出した。
「十万円分チャージしてある。中で使えれば充分だろ? 修理代兼慰謝料にしてくれ。殴って悪かったな。……だが盗まれたからって、拳銃を持ち出すのは流石にやりすぎだ」
時計と共に男に渡したのは、マフィア街独自流通のプリペイドカードだろう。実物を見るのは初めてだが、マーヤに教えてもらった。睨み返しながらも、男は大人しく受け取る。
「ほれ、起きろ。行くぞ」
男は伸びていたもう一人を叩き起こした。事情を呑み込めておらず呆然としているのを無理やり引っ張って、二人は離れていった。
その背を見送ると、ベアトが少年を見下ろした。葵が服を掴んだままで逃げられないからか、観念して地面に座り込んでいる。
「お前、いつもこんなことをしているのか?」
「ここじゃ他に生きる方法はないんだよ! あんなチンピラに金恵むくらいなら俺にくれよ!」
盗人猛々しいとは、このことだろうと葵は思った。マーヤに最近教わった言葉。しかし、葵にはその気持ちがわかる。つい最近まで、自分も似たようなことをしていた。彼の立場だったら、同じように考えたかもしれない。
「助けられてなおその態度かよ。自業自得なら、放っておけばよかったな。葵が正しかったよ」
忌々し気にベアトが少年を睨み付ける。その視線を避けて、少年はそっぽを向いた。
ベアトはまたポケットに手を突っ込むと、先程とは色の違うカードを取り出し、少年の鼻先に差し出す。訝しげな表情で少年がそれを手にすると、ベアトは少し語気を緩めて言った。
「正しい金の稼ぎ方がわからないなら、学を身に付けろ。ここに行けば、国籍がない奴にもただで勉強を教えてくれる。頑張っている奴には、飯も出してくれる。後はお前次第だ。次は殺されかかっていても助けない。どう生きるべきか理解しないのなら、勝手に死ね」
最後だけは冷たく言い放った。そのまま肩を怒らせて歩いていってしまう。葵はその背と少年の顔を見比べ迷ってから、何も言わずにベアトの後を追った。
葵には、ベアトという人間がよくわからなくなった。温かいのか冷たいのか、助けたいのか助けたくないのか、判断がつかない。
「ベア子さん、私、『必要なもの』ってなんなのか、よくわからなくなっちゃいました」
「人によって違うし、その時によって違う。とりあえずアドバイスするなら、理不尽に殺されそうになっている奴を見たら、何が何でも救え。自殺だったら別に放っておいてもいい」
自殺は放っておいていいというのが、ベアトらしいと思った。死にたい人には好きにさせる。死にたくない人は助けてあげる。すべては相手の意思次第。そういうことだろう。
「真っ当に生きたい奴が生きられないのだけは、許しちゃ駄目だ。生き方を知らない奴には教えてやれ。自業自得でも一度はチャンスをやれ。それでも学ばない奴は放っておけ。根気よく何度も付き合ってやるだけの時間も金も、あたしらにはない。そういうのは別の奴らの仕事だ」
答えを聞いて、ベアトという人間が少しだけわかった気がした。優しいし温かいが、それを押し付けない。相手が求めているのなら、いくらでも優しくする。求めていないのならしない。わからない時は、とりあえず優しくしてみる。
葵にはずっと優しくしてくれるのは、きっと求めていたからなのだろう。必要だったからなのだろう。その自覚は葵にはなかったが、ベアトから見れば、そうだったのだ。実際、今感謝している。あの日の出逢いを。
「お前も持っておけ」
目の前に差し出されたのは、先程少年に渡していたのと同じカードのようだった。何枚か重ねてある。手に取って表面に触れると、海上都市の地図が表示された。何カ所か光っている。浮かび上がった名称からすると、ベアトが以前言っていた、知り合いの学校のようだ。光に触れると、何か国語ものアナウンスが流れた。そこでやっていることの内容。
「見込みのある奴を見つけたら、それを渡せ。大人でも子供でもいい。自分の力で生きていくために必要なものを本気で学びたい奴がいたら、そのカード一枚で幸せになれるかもしれない」
(もっと昔にこれをもらってたら、私はどうなってたんでしょう……)
葵はふと、そんな風に考えてみた。今なら行ってみるだろう。自由に外出してよくなったら、一度見にいってみたい。まともな収入を得られる予定の自分は、入る資格はないだろう。それでも何をやっているのか知りたい。皆がどう取り組んでいるのか知りたい。
しかし、一人で何もしていなかった頃なら、どうだっただろう。
(これは幸せのカード。でも、誰でも幸せに出来るカードじゃないんですね……)
渡すべき人に巡り合う日まで、大切に保管しておこうと葵は思った。かつての自分に渡しに行きたいとも。