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「頼子、少し話そう」

 聞こえた声に頼子は振り返らず、うなずいた。後ろから気配が消えて義之が去ったのが分かると、部屋に戻れず台所に立っていた頼子は泣き崩れた。頭の中には、庭先の光景が鮮明に浮かぶ。ここに来てからというもの、幾度も義之と共に見ていた眺めであった。

 頼子の中に、赤色が灯る。潤む目を(しばた)かせ、彼女は立ち上がった。

 

 台所から戻った彼女を義之は開け放った縁側に腰掛けて待っていた。頼子は義之から距離を保ち、立っている。義之は彼女を見上げ、涙を瞳に溜めている姿を目にとめた。

 彼は拳に力を入れると、頼子から遠ざかるように庭へと降りた。その後を、心許ない所作で追い縋る頼子は、振り返る素振りすら見せない義之の背中を見つめて、目元を拭う。

 何を言われるのだろうかと、押し黙ったままの義之に頼子は不安になった。きっと聞きたくないことを言われるだろうと、彼女は想像する。

 帰る、会えない、出て行け――どれをとっても頼子には絶望だった。それはすべて義之との別れに直結する「さよなら」の言葉だ。

 聞きたくない。それだけが頼子を支配する。

(聞きたくない、聞きたくない、聞きたくないわ)

 心の中で何度もそう呟いた頼子は、彼が口を開く前に、足を一歩踏み出した。

 どんどん埋まる距離、近付く鼓動、あっという間に詰め寄った矢先、義之は彼女に振り返った。瞬間、頼子は義之に抱きつく。

 ……ドンッと胸の中に沈んだ。それは頼子が願っていた、彼の胸に身を寄せる自分だった。痩せ細った胸板でも、頼子には十分なくらいときめく、愛する男性のそれだ。頼子は義之の背中に腕を回し、そのまま押し倒した。柔らかな土の上に二人は倒れこんでいく。

 途端、義之が苦しげな声を出してうめいた。低く、切れ切れな、か弱い叫び声。

「より、こ」

 ぜいぜいと息を乱す頼子は、彼に名前を呼ばれても力を抜かず更に体重を義之へとあずけた。

 ――食い込んでいく。

(どうして。悲鳴は出ないのに、何故こんなにも千切れそうなほど痛いのだろう……)

 頼子は重力に身を任せながらそんなことを考えていた。彼女が後ろ手に隠し持っていた刺身包丁は、義之の背中から貫通し、頼子の胸下へと突き刺さっている。

「義之さん、ごめんなさい」

 頼子が呟いた瞬間、風がそよいだ。

 

 本来、不吉や忌むべきものとしての印象が強い花。しかし頼子は気味が悪いとは微塵も思わなかった。それは義之も同様であったらしく、二人で庭を愛でていたのがその証拠だった。

 頼子は自分でも何故この群生が美しいと思ったのかわからない。ただ本当に、赤色で埋め尽くされる世界が俗物とは程遠い、この世とあの世の境界に佇む門番のように思えたのだ。

 頼子は、ああ、と内心ひとりごちる。……魅入られたのだ、と。此岸(しがん)の住人であるのに、心はこの花に囚われ、狂おしいほど惹きつけられていた。

 不可解な興奮状態から意識を戻した頼子は、自身で覆いかぶり真下になった義之を見つめた。呼吸の浅い義之に、刺してから幾ばくも経っていないことを思い出す。しかし、今にも彼は息絶えそうな状態に見えた。

 脈打つ体、震える体、熱に喘ぐ体。刃は血を舐め上げ吸い込んでいく。熱いのに、流れるものは、こぼれ出るものは生暖かい。その体に流れている血は、体温と同じ……人肌だった。

 これが狂気の沙汰の温度なのだと、頼子は涙した。

 外気に触れて少しずつ冷めていくと思っていたのに、頼子には、回した手や抱き合う姿をとる義之の体がちっとも冷えないことが不思議だった。余計にそれが生々しさを感じさせる。体温だ。互いの体温が行きつ戻りつしているかのような錯覚が、投げ出してしまいたい頼子の意識を抱きとめている。肌を寄せ合う中では温度はそうそう下がらない。

 頼子と義之は抱き合っていた。まるで隙間を作ることすら厭うほどの抱擁を交わしている。頼子は彼の胸の中で頬ずりして震えた。

 ……思えばこんなに近くで抱き合ったのは初めてだった。

 温かくてたまらない。頼子は息を深く吐いて、そぼ濡れる生暖かい赤色に身を(うず)めた。

「お一人では寂しいでしょう?」

 どうせ彼は死ぬのだと頼子は思い、その通りに行動してしまった。死ぬのに変わりはない、早いか遅いかだけ。ただでさえ義之さんは……と、自身の行為を納得させるためにあってはならない考えにとり憑かれていた。

 頼子は涙を流す。もう自身ではどうしようもないくらい溢れ出てくる。目元を必死に力ませても、止まらない勢いがまぶたを揺さぶっていた。悲しいだけでは足りず、寂しいだけでも足りない熱い塊が芯を溶かしていく。心臓を握り潰すような、何ものにも言い切れない感情が押し寄せて、頼子の視界を滲ませた。

「ご一緒します……義之さん」

 どこまでも、いつまでも、何があろうと。

 頼子は愛の言葉を、頬へと引き上げた口の端にのせた。

「私だけを、あなたの帰る所にしてほしかった……」

 ほんの少しだけ我慢してくださいね、と呟いた頼子は全身を駆けずる熱い痛みに侵されながらも、上体を義之の胸元から少しだけ持ち上げ、彼の顔の付近へと自身の(おもて)を這わせた。途端に体内に突き刺さっている刃が身体の中で角度の変化を与える。頼子のわずかな動きに合わせてその切っ先も動きが交じ入り、義之にもその痛みは加わった。

 頼子は、息も絶え絶えの彼の唇に自身のそれを落とした。それは初めて頼子が愛する人にした口づけだった。

「痛いのは、ほんの一時(いっとき)です」

 頼子には、義之のかけそい息だけが聞こえていた。それが伝えている。もうすぐだということを。

「すぐに痛みは引きますよ」

 彼の吐息、ただそれだけが、今の頼子には世界の全てのように思えた。

 頼子は、更に奥深く刃ごと彼を引き寄せた。彼の背に回された土と血で汚れた両手を出来る限り持ち上げて、柄が彼の背に食い込むくらいに力を入れる。彼女の体にも抉るようにぐいぐいと肉へ刺さった感触が伝わり、体の中で蠢く切っ先は突き進んでいった。頼子の傷では失血するには傷が浅すぎる。この先端を引き抜かない限り、頼子は自分だけは短時間で死ねないことはわかっていた。しかし彼女には本望だった。愛する男をこの手に抱いて、少しの間だけでも、恋人のようにくっついていられるのだから。

 頼子にとって、それは何ものにも代え難い至上にして至福の……さいごに与えられた一時のよろこびであった。

「私が全部、連れて行きます」

 密着する身体の中心が熱かったのに、不思議と今度は冷えてきた。頼子は義之の顔をまっすぐ捉えた。

 その途端、彼女は驚いた。予想だにしていなかったのだ。義之は今にも霞みそうな表情で力なく笑っていた。こんなことまでされて憎憎しげな顔を自分に向けていない彼に、頼子は、どうしてと素直に心から思った。その笑顔は見慣れたものだったからだ。覚えがないわけは、ない。何度も見ていた、いつも今まで頼子に向けられていた表情。頼子に見せる、彼女の好きな普段の義之の笑った顔。そこには頼子に対する憤怒も憎悪も見当たらない、彼女だけが知る義之の笑顔があった。

 頼子は言い切れない愛おしさを感じた。

「全部、一緒に……」

 そう言った頼子の声に応えるように、義之は彼女の腕の中で事切れた。

「痛みも、あなたも」

 朦朧としてきた意識の中、ふと頼子は気になり義之から顔を上げ……わずかに微笑んだ。

 頼子の視線の先には、一時殺しが艶めかしく風に揺らいでいた。

 

 

 一時殺し……想うはあなた一人。

 

                       完

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