三
「義之さんは他に帰る所があったのね……」
頼子はそっと声を漏らした。それはあの人のもとなのだろうと思えば思うほど、胸を締め付ける痛みが彼女を襲う。
そうしてますます悔しくなっていく。しかしどんな醜い気持ちに苛まれようと、こんな時でも思い出すのはこちらに来てからの幸せな数日。否が応でも次々に、頼子がそばで見てきた義之の姿が脳裏にちらつき、彼と交わした会話が頭に浮かんでは消えていく。
捨子なぞ、これは可愛いものだよ。他に……。
義之の声が頼子の頭の中を駆け巡った。彼岸花の話だった。あれは開花時期に、葉はならない。花と葉は互いに時を同じくすることはない。ずっと別れたまま。
「別れる……」
頼子はポツリとこぼして、かぶりを振った。勝手に頭の中であの花になぞらえてしまう。まるで自分たちのことではないか、と彼女は自身の心に浮かんだ不吉な暗示に身震いした。
(いやだ、いやだ……)
彼がどこかに行ってしまうのを考えただけで、涙ぐみ始める頼子はこのまま気が触れてしまいそうだった。辺りの空気と風や虫のさざめきに気付く頃には、目の前には自身の長い影が出来ていた。虫の鳴き声が夕暮れに響く中、畦道をとぼとぼと頼子は歩いた。道を引き返して、裏の勝手口から家へと戻る。何となく玄関から入るのが躊躇われたからだ。
頼子は夕飯の支度を始めた。彼女は、こんな時でも黙々と手を動かせる自分をおかしく思った。辺りが夕日に包まれて、台所も赤く染め上げられる。頼子は、米を研いで少し置く合間に食材の下ごしらえをし、炊飯ジャーのスイッチを押した。次いで貰い物の山菜をボウルに入れて蛇口を捻ると、シンクに下ろしたザルの中でそれらをゆすぐ。水を入れたゆきひら鍋に火をかけ、もう一つのコンロに油を注いだ鍋を置いた。
頼子は無心で調理を順序良く進めた。途中で、窓から差し込む橙とも赤ともつかない光に落ち着かなくなり、部屋の電気を点ける。昨日まで気にも留めなかった夕焼けの色がやけに煩わしくなった。
いつもより遅くなった夕飯に義之は文句も言わず、おかずを口に運ぶ。
「おいしいよ」
そう言って微笑む彼の笑顔を見るのが、頼子はたまらなく辛かった。耐えきれなかった。
昼の情景が目に焼きついて離れない。思わず箸を置いた頼子は俯いて唇を振るわせた。
「……あの方と、お約束していたのですね」
その言葉に、義之は食事を止めた。彼女の言いたいことを理解しようとする。
「頼子? 何を言っている?」
「将来を約束しているのでしょう?」
意を決して、頼子は義之を見つめた。
「お願いです、抱いてください」
「急にどうしたのだ」
義之はたじろいだ。言葉の意味自体もそうだったが、あまりに脈絡の無い話のせいで、頼子の言っていることがさっぱり理解できなかった。
「一度きりで構いません。そうしたらもう何も望みませんから」
「よ、りこ?」
「お願いです、義之さん!」
頼子は泣きじゃくりながら義之の胸元に飛び込む。しかし義之はその柔らかく熱い体を自身から引き剥がした。困惑しきりの頼子の表情を心痛な面持ちで見つめた義之はやがて口を開いた。
「出来ないよ」
「なぜ……」
「すまない……頼子。それより、一体どうしたというのだ」
義之は心底、彼女を愛していた。その頼子が望んでいるのなら、それは願っても無いことであったが、義之は話を変えようとする。生理的な欲求に支配されぬよう理性で感情を押しつぶし、グッとこらえた。ただ一時の感情で抱くなど容易いことだ。しかし頼子と望むのは快楽の先にある結末ではない。本当に通じ合って夜を共にしたいという、純粋な気持ちであったのだ。義之にそう思わせるほど、彼は頼子を愛していた。けれど当の本人は知る由もない。ただただ拒絶されたという絶望だけが彼女を襲い、取り囲む。
女性が誘い、それを拒まれるなど、羞恥もいいところであったが、頼子には肩を引き剥がされたほうが恐ろしくこたえた。再び抱きつく勇気もそがれた。彼女の動揺は勝手に口から飛び出ていく。
「あのご婦人ですか?」
「頼子?」
言いながら義之は、彼女が妹の姿を見て、何か誤解をしていることに気づく。
「私が、嫌いですか」
震える唇でかろうじて紡いだその言葉に、義之はすぐさま否定した。
「それは違う、頼子」
「なら何故!」
頼子は叫んだ。
何から説明をすればいいのか義之は考えながらも、告げようとする。
「頼子、私は君を……」
咄嗟にかぶりを振った頼子は、彼に続きを言わせまいと、無我夢中で言葉を発した。
「聞きたくありません、嘘なんて。貴方の口から、私を落ち着けさせるために言うだけの言葉なんて、それがどんなに願っていたものでも嬉しくなんてありません。どうぞ嫌いなら嫌いと、私は邪魔だと、そうはっきりおっしゃってくれたらよいのです!」
呆然とする義之を残し、頼子は部屋を飛び出していった。
(どうしたらいい、これからどうすればいいのだろう……)
義之の前から出て行った頼子の頭は混乱していた。家の前で一人うつむく。
彼女は義之と、ずっと一緒にいられると思っていた。本人には言えるはずもなかったが、義之の身体的な面においても、厄介払いされるのなら、頼子にとっては内心喜ぶものであった。独り占め出来るのだから。しかし、どうやらそれは頼子の独りよがりであったようだ。
(どうしたら、傍にいられるのだろうか)
義之さんを引きとめようか、と彼女は考える。だが拒否されれば終わりだ。しかも、昼の女性はまた来るつもりだろう。そういう素振りを見せていたではないか、と思い至る。
頼子は焦った。言葉で彼を繋いでおくことはできない。簡単に自分から離れてしまうかもしれない。なら、どうすれば離れていかないのだろうか。
ふと彼女が見上げた先には、彼と話題に上らせた花が一面に広がっていた。
見たくない、と内心こぼした頼子は目を逸らす。だがその色が脳裏に焼きついて離れない。頼子は短くうめく。それから幾度も首を振った。目をつぶり、何かを追い払うように強く首を振る。けれど、まぶたの裏で鮮やかな赤い色が揺れた。
それが心に宿ったとき……彼女は一つの結論に思い至った。
頼子は踵を返す。もはや頼子の惑乱はとどまりを知らず、彼女の内側を翻弄するために幾度も波となって押し寄せるだけだった。