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 療養に訪れ日も浅い内、庭の赤色は見頃になっていた。細く長い茎の先に赤い花を複数つけて、庭を敷き詰めている。

 その日、頼子は近隣の家へ出ていた。そこの家の人が山菜を分けてくれるという。近くに山はあるので採りに入ることは出来たが、如何せん頼子は食用に適するものか野草なのか見分けがつかないため、素人判断で採取するのはよしていたのである。お裾分けの厚意をありがたく受け取ることにした頼子は、距離のある近隣へと足を運んだ。

 行った先でボウルと袋に詰め分けて貰ったのは、数種のきのことアケビ、むかごだった。朝方採った新鮮なものなので、きのこは煮物にするより油で揚げた方が美味しいだろう。アケビは実をそのまま食べて、皮の方を掻き揚げに、むかごは塩茹でか、炊き込みにしようと頼子は帰りながら夕飯の献立を考える。

 義之は喜んでくれるだろうか、と足取り軽く家の玄関先まで戻って来ると、話し声が聞こえてきた。

 頼子は首を傾げ玄関を引き返し、裏手の方へ壁沿いに歩く。女性の声が近くなる。頼子は家の角に着いた。が、視界に飛び込んできた光景に思わず足を止めて彼女は身を隠す。

 声がした。その声は義之に向けられていた。

 ……一緒に帰りましょう、と。

 

 山菜を貰いに行くと言った頼子が出掛けてしばらくすると、思わぬ客人が義之を訪ねていた。その姿を玄関先で見た途端、彼は目を丸くして駆けよった。

和恵(かずえ)、か?」

 玄関に佇む女性はニコリとした。

「ええ、そう。お久しぶりです、兄さん」

 義之の、幼少の頃別れた六つ下の妹。両親の知り合いである、子のいない夫婦に望まれ、和恵は養子としてその家に引き取られていった。あまり会えないまま互いに成長し、手紙でやり取りをする程度の交流しかなかった妹。今では見合いの末、いい所へ嫁いだと聞いていた。暮らしぶりもさることながら夫である男性とも仲良くやり、まさに良縁であったと人づてに聞いている。確か最後に会ったのが五年は前になる、と義之は頭の中を巡らせた。

「一体、急にどうしたんだ」

 再会の挨拶も大してせずに、和恵を客間へ上げた義之はお茶を出して興奮気味に口を開いた。

「久しぶりに会ったというのに、つれないわ」

 意地悪げな笑みを浮かべて、お茶を啜った和恵は一息つくと世間話も程ほどに、本題に入った。

「手短に言うわ、兄さん。今日訪ねた用件はね、一緒に暮らさないか、と思って……」

 和恵の言葉に義之は少しばかり目を見開いた。

「兄さん。私たち夫婦のところへ来る気はない?」

 そう言って立ち上がった和恵は、庭を見せて、と座り込む義之に案内を頼んだ。二人は客間から出て、渡り廊下を歩くとそこから庭へと降り立った。

「悪くない話よ、都会と言っても空気は澄んでいるほうだし、お医者様だって充実している。それに遠慮はいらないの。主人も、どうぞおいでくださいって、兄さんの療養に大賛成していたから。でも……」

 ちら、と和恵は義之を窺い見た。彼女は確認するような口調で慎重に言葉を紡いでいく。

「頼子さん、こちらに一緒にいらしているわね?」

 急な話題転換に義之は眉をひそめた。あまり芳しくない話の方向のような気がしつつも、肯定する。

「ああ」

「頼子さんには学業を優先して欲しいの。今からでも遅くない。本人が希望するなら全寮制の女学校に手続きを、と思っているのよ。後見もこちらでする。だから悪いけれど……」

 和恵はそこで言い淀んだ。

 義之は瞳を閉じた。妹の言わんとしていることは分かる。ただ、納得できなかった。

「頼子も一緒に連れて行きたいな」

 至極真面目な顔で、義之は妹の顔を見た。和恵は何も言わず、その視線に曖昧な表情で応えるだけだった。

 和恵自身、兄がこうして希望を言うのを、しかも、こと女性については浮いた話もなかった今までを鑑みれば、先程の義之の言葉は微笑ましく思う。手紙のやり取りでも何度その名を目にしたことか。いつだって話題の中心は「頼子」という女性だった。しかし当の頼子のことを考えると、和恵は中々首を縦に振れなかった。頼子はまだ若い。来年成人を迎える頼子を、三十路手前の兄が振り回していいものだろうか。若いなら尚更、兄についていくのは彼女自身が後々悔やむことになるのではないかと和恵は思っていた。頼子に、立派な教育を受けて素晴らしい女性になれる道を断たせたくはないのである。

 学業の面を差し引いても、和恵が悩む要素は他にもあった。頼子ひとり増えようと、和恵の嫁ぎ先に経済的な苦はない。しかし彼女が夫でもない男についていくというのは、問題がある。周囲がどのような目をするかは一目瞭然だ。いっそ結婚していればよかったのかもしれないが、それを薦める言葉を和恵は義之に到底言えなかった。

 病弱な体では妻に迎えたとて、そう何年も共に過ごせるわけではない。義之はそれを承知で頼子を傍に置くに留めているのだ。若くして彼女が未亡人とならないように。しかし頼子の今後の未来のためにはさっさと縁を切って、別の男性を見つけたほうが賢明である。

 その点においては、義之も悩んでいた。彼には、それを想像するだけで耐え難いものがあったからだ。他の男に現を抜かす頼子、他の男に微笑む頼子、他の男の手をとる頼子。自分からいつか離れるであろう彼女を想像すると、どんな形でもいいから傍に置いて少しでも自分のもとに縛っておきたかった。

 死に関しては既に自身の人生を割り切っている姿だったが、頼子に関わることだけは、義之は執着を見せていた。

 そんな頼子の話をする義之は、和恵にとって兄というより、一人のただの男にしか見えない。

 しっかりしてほしいと苦笑ついでに嘆息した和恵に、言い含めるように義之は言葉を吐いた。

「頼子も共に、が私の願いだ」

「兄さん……」

 はっきりとした拒絶の言葉は口にしなかったが、和恵もなかなか引き下がらない。

 義之は言う。

「強情だと思うだろう? しかしそれが私の願いだ」

「でも」

「こればかりは譲れないな、和恵」

「分かっているの?」

 心配そうな和恵は、にこやかに頷く兄の顔を眺めていた。

「何と言っても、頼子が今の私の希望なのだから」

 ――頼子さんの人生は長いのよ?

 喜ぶ顔を見せる兄に、どうしてもこの一言は言えなかった。つくづく強情な人だと、和恵は再び溜め息をこぼし、愚痴を言うような口調で詰め寄った。

「本当に、一緒に帰りましょう」

 

 頼子は愕然とした。女性が居る。

(何故?)

 義之以外の人の声が聞こえたことを不審に思い、玄関を引き返して家の裏手に回った頼子は思わぬ会話に出くわした。その会話の内容に戸惑い、耳を澄ました彼女に信じられない言葉が届く。

「本当に、一緒に帰りましょう。お部屋は既に用意してあるの」

(部屋?)

 そう喉元まで出かかった声を、頼子はグッとこらえて飲み込んだ。

(部屋……一緒に帰る?)

 その言葉だけで、頼子の身は嫉妬で燃えてしまいそうになる。

「参ったな、今日のところは勘弁してくれよ、頼むから」

 ふて腐れたように、けれど親密そうな雰囲気で言った義之を見て、頼子は物陰から下唇を噛んだ。彼が見たこともない顔をしていたからだ。自分が知らない顔を、惜しげもなくあの女性に見せていることが頼子には辛く悔しかった。

「いいお返事、期待していますよ」

 追い討ちをかけるような無邪気で弾んだ女性の声に、更に頼子は眉根を寄せて泣きそうになる。さきほどの言葉が突き刺さる。女性は帰りましょうと言っていた。てっきり頼子は、自分の傍だけが彼の居場所だと思っていた。しかし女の口振りでは、そうではないようだ。

 得も知れない悲しみが一気に頼子を襲う。

 この場にいることに耐えられなくなった頼子は、音もなく踵を返した。最初は歩いていたというのに、徐々に走るような体となり無我夢中で逃げ出す。これ以上聞けば、嫉妬の炎に身を焦がして今にも狂ってしまいそうだった。

 

 さきほどまで近くに頼子がいたことも露知らず、義之は庭先へ視線を向けた。目の前には赤い花がある。彼は思わず微笑んだ。

「和恵……これの花言葉を知っているか」

「え?」

 何を急に、と戸惑った和恵はしかし否定して兄の口が開くのを待った。義之は彼女の顔を一度見ると、深い笑みと共に言葉をこぼした。

「同じなのだ」

「え?」

「頼子を想う気持ちはこの花と同じ」

「義之兄さん?」

「私は彼女に、この花の花言葉と同じ名の感情を持っている」

 言っていることが理解しきれず、和恵は困惑した。その妹の様子に義之は愛しむような声で語りかけた。

「後にも先にも、私が愛するのは……」

 彼は、庭の一面の赤を柔らかな表情で見つめていた。

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