一
彼岸花の花言葉
情熱、恐怖、悲しき思い出、想うはあなた一人
夕日に浮かび、庭に咲き濡れるのは赤い花。夕焼けより赤く、炎より鮮やかに、血よりも美しいその色は、紬糸で織り成すものより燃えるような発色を描いている。
その光景を目にした頼子は、気付けば彼の名を口にしていた。
「……義之さん」
彼女は再び、ささやきを落とす。
「ねえ、見てください。義之さん」
縁側の向こうに咲き誇る花を若い娘らしくうっとりと見つめたまま、頼子は自身の膝近くに寝転がる義之の肩を軽くたたいた。
開け放たれた襖の先には縁側とした渡り廊下を挟んで窓があり、その向こうに庭がある。視界を覆うは、そぼ濡れる赤色のみ。たった一色だけを纏って存在している様は神秘的で、そこだけ日常から切り出されたようであった。
頼子の呼びかけに肘をついて上体を緩やかに起こした義之は、ぼんやりとした顔で彼女の示すほうへと目をやる。
「彼岸花……」
「ええ、義之さん」
膝を少し折り曲げて畳に投げ出していた義之は、庭先に目を向けつつも体勢を変え、正座する頼子の太腿に頭を預ける。すると軽やかな笑い声が義之の耳に届いた。彼が見上げれば、視線のすぐ先には頼子の、眉を垂れて目尻に皺を寄せた困惑気味の顔がある。
「先に足を崩させてくださいな」
「重たいか」
苦笑した義之は、緩慢な仕種でまた彼女の膝のすぐ先に片腕を敷き、そこに頭を置いた。
真後ろから身じろぎの音がする。それを耳にした義之に、細い声が彼の名を紡ぎ、続いて「どうぞ」と呼びかけてくる。義之が頭を上げて後ろを見ようとすると、彼女が顔を覗き込むのが早かった。
「足を崩しましたから、心置きなく」
そう言って微笑む頼子に、いやいいよ、と義之は答えて再び庭先を見やる。
「朝方着いて随分と眠りこけていたのだな」
「道理で気付かなかったわけですね」
彼岸花の存在に、お互い先程まで気付かずいたことを、二人は苦笑した。
「ねぼすけの我々には丁度よい保養だ。ゆっくりするのも悪くない」
起き上がった義之は、頼子の隣で胡坐をかいた。
「いっそ家中の時計をことごとく外してしまいましょうか」
さらりと言った頼子に、それはいい案だ、と義之は愉快そうに膝を叩いた。頼子は彼の姿を満足そうに眺めて頬を緩ませている。
義之は生まれつき体が弱く、昔から伏せがちであった。年の頃は青年といえど未だよく体調を崩す彼の為に、彼の親戚は田舎の古い屋敷を療養用にこの地を提供した。しかし緑に囲まれる人里離れた土地は、近隣の民家も遠くにちらほらと見えるだけで、さながら隔離のような雰囲気を持っていた。
義之は何も口にはしないが、頼子はそう思うところがあった。義之の親戚からすれば彼の病弱さや、体力が落ちて介添えの必要となった状態を考えると、体よくここへ厄介払いしたようにも思えたからである。
しかしながら、頼子には周囲の目論見などどうでもよかった。彼女にとって重要なのは、義之と共にいることだけだからだ。頼子は義之を一方ならぬ思いで見ていた。それは年頃の少女が胸をときめかせ、恋に恋するような甘く初々しいものではないと、自覚している。寄せる想いに義之が気付いているかは頼子も自信はないが、激しい熱情と穏やかな感情を交互に繰り返しながら義之を見る彼女の目は、立派な女のそれであった。
そのような頼子にとって、今度の同行は大喜びの出来事であり、彼と日がな一日共に過ごせることに今でも心踊っているのである。
ここでの生活は特に何かをするわけでもなく、淡々と必要最低限の日常生活を営むだけだ。しかしそれが二人にとって退屈や窮屈であると思うこともなかった。ほとんどの時間、二人きりで、週に一度、近隣の町から医師が検診に、五日に一度の割合でお手伝いさんが世話をしにくる約束となっている。頼子と義之が暮らしていく上での食料や日用品もその人物が持って来る手筈となっていた。そのため頼子のすべきことは、毎食の準備や家事だ。それを終えれば、残りの時間は義之と過ごすことに充てられた。
頼子は彼の体調管理から身辺の世話まで一手に引き受けた。義之への上げ膳据え膳はもちろんのこと、頼子はよく気の利く女であった。糊の利いた清潔な敷布団や張りのある心地よい布団と枕は常と言え、風呂も義之の入りたい頃合いに準備され、寝苦しい時もすぐに水やタオル、着替えを用意している。待ち構えているかと思うほどの姿であった。義之にしても、その働きぶりを不快に思うことはない。ただ頼子の、あまりにも義之を中心に据えた考え方と甲斐甲斐しい世話に、彼は申し訳なさそうに苦笑するだけだ。
夕暮れ時には並んで庭を眺める。ここに来てからというもの、習慣になりつつある行いだった。縁側に湯呑みを用意して時おり話をする様は、長年連れ添った夫婦のようであり、流れる時間は穏やかなものだ。
緩やかな秋の匂いが二人を包み込み、夕日に照りつけられた赤色は風に揺れている。
「脳裏に焼きつくような赤だ」
「ええ本当に」
二人で庭を見つめそれきり無言だったが、ややあって、庭を目にしたまま義之は口を開いた。
「知っているかい、頼子」
頼子は彼の声を聞く。問いかける声にも表情にも、義之は魅力的な雰囲気をもっている。それは頼子にとって、彼の好きなところの一つであった。
「あの花は薬草とも呼ばれていてね」
「薬になるから?」
その通り、と義之は目を細めて彼女を見た。
「石蒜という生薬名だったかな。あれは多くの呼称を持っているのだよ」
首を傾げた頼子は少し微笑んで言う。
「やはり有名どころは彼岸花、曼珠沙華かしら」
ええ、そうと頷く義之は、彼女の知りそうにない名前をいくつか出した。
「お盆花、死人花、気触れ花、花の形で天蓋花といった愛らしいものもある。あとは葬式花や、開花時期には葉が無いことから葉々を母とかけて、母と別れる捨子花、……耳にするだけなら、かように恐ろしく思うものもあるな」
「まあ……」
口元に手を当て目を一際大きくした彼女に、義之は首を振った。
「ああ、まだあったな。捨子なぞ、これは可愛いものだよ。他に……一時殺しという呼び名もある」
「いっときごろし……ですか?」
「そう。『いちじ、いっとき』の字に『殺す』で『イットキゴロシ』だ」
うなずいた義之は縁側に目をやり、ポツリと呟いた。
「……どういう意味で名づけたのだろうなぁ」
遠い目をする彼の横顔を、頼子はじっと眺めていた。




