気付いてしまったので
婚約者とこのままの関係を続けるよりも婚約破棄してしまった方がましではないかと気付いてしまった娘の話。
「君はいつも愚図でノロマで見ているとイライラする。君みたいな婚約者を持ってしまった僕の気持ちをその何も考えていない頭で少しは考えてみろ」
婚約者のノーマンの言葉にウェンディはその場で言い返すことが出来なかった。
ノーマンにこんなことを言われるのは初めてではない。
いつものことじゃないか。
そう自分を納得させようとしてみても、ウェンディの心は納得出来なかった。
ノーマンがウェンディに冷たいのも心ない言葉を平気で言ってくるのもいつものことだ。
でも今日はどうしたことか、いつものように流すことが出来なかった。
どうしてその場で言い返すことが出来なかったんだろう。
何も考えていないのはお前だろ、と。
ノーマンは何も考えていないから平気で冷たい言葉を吐けるのだ。
その言葉によってどれだけウェンディが傷付くとか、悲しい気持ちになるとか考える頭もないから平気で酷い言葉を言えるんじゃないのか。
ウェンディは何も考えいない訳ではない。何も考えていないどころか常に何かを考え続けている。
考えすぎて何も出来なくなってしまうのだ。
動こうとしないからウェンディはいつも何も考えていないと勘違いされる。
ウェンディはノーマンが羨ましかった。大して何も考えていないからすぐに行動出来るところだけはノーマンが羨ましい。
思考が浅すぎるせいで何度も同じ間違いを起こすし、なかなか学ばないその頭の悪さですら行動力さえあれば何かはしていると人に思ってもらえるから。
ウェンディだったらまた同じ間違いをする自分を恥じて後悔で更に考えすぎてしまっていただろう。
ウェンディは考えすぎて何も出来ない。
浅はかなノーマンがその行動を取ればその問題に行き着くことなんて気付いていても。
ノーマンもそれくらい気付いているだろうとノーマンを高く評価してみれば、想定できたはずの問題にノーマンが驚くのを見て初めてノーマンがそこまで考えていなかったことを知るのだ。
以前から見ない振りをしていたけれど、ノーマンはウェンディが思っているよりもずっと頭が悪いのではないだろうか。
いつもノーマンが問題を起こす度に婚約者のウェンディも面倒を押し付けられてしまう。
どうしてノーマンの尻拭いをウェンディがしなければいけないのだろう?
ノーマンと結婚してしまったらこの面倒が更に増えてしまう。
ただでさえ考えすぎるウェンディの心は今ですら疲れきっているのに、これ以上問題を増やされて耐えられるだろうか。
無理だ。
ウェンディの心の奥からすぐに返事が返ってきた。
無理に決まっている。
それに、ノーマンはウェンディをバカにすることが趣味なところがある。
一生ノーマンの心ない言葉に傷付けられないといけないというのか。
それも自分の浅慮に気付かないようなバカの言葉に。
ウェンディはノーマンに苦しめられ続ける人生が続くくらいなら、婚約破棄でもしてしまった方がましなのではないか、と気付いてしまった。
このまま一生ノーマンの相手をするより、婚約破棄をして親やその他の面倒を相手にする方が、容易いのではないだろうか。
当たり前のようにウェンディをバカにしてくるノーマンの相手を一生していくよりも、そっちの方がきっとましだ。
だってこのままだったら、今だって苦しい人生が、更に苦しくなる想像しか出来ないのだ。
それなら、婚約破棄して新たな苦しみに耐える方が、まだましな気がする。
ノーマンとウェンディの婚約は生まれる前から決まっていた。
この国の第1王子であるノーマンの婚約者は国のバランスなどを考えた上だった。
つまり、ウェンディ個人の能力が買われたわけではないのだ。
ウェンディは子供の頃からずっと何も考えていないとバカにされてきた。
ノーマンの言葉を信じた他の者もウェンディに対して悪い印象を持っている。
ノーマンはウェンディよりも2歳年上なのもあってか、ウェンディよりも自分の方が知識があって偉いと思っているのだ。
ウェンディはこの状況から脱する為に、ノーマンから婚約破棄を申し出てもらうのがいいのではないかと思った。
大勢の前でいつものようにウェンディを罵って、そのまま婚約破棄を宣言してくれたらいい。
大勢の前で言うことで後戻り出来ないようにさせて、親や国王達にも婚約破棄を認めてもらおうという作戦だ。
ウェンディは素直にノーマンにこの作戦を提案した。
「何を言っているんだウェンディ。僕達の婚約は生まれる前から決まっていたんだぞ」
「殿下、国の状況によって決断が変わることはよくあることです。それに、私のような未熟者には将来殿下を支える役目は不相応だと思います。殿下もそのことは分かっていらっしゃるでしょう?」
ウェンディに王妃の素質がないことはノーマンが一番分かっているはずだ。
ウェンディがそう言えば始めは消極的だったノーマンも納得したようだった。
否定しないんかい!
とウェンディは心の中で思ったけれども、ノーマンの気持ちが変わっても困るのでただ微笑むだけで終わらせた。
この顔をしているとどうやらウェンディは何も考えていないと思い込むようなのだ。
「ウェンディ!君は王妃には相応しくない!君とは婚約破棄する!そして、僕は新しくヘレナ嬢と婚約する!」
大勢の人々が集まる中で、ノーマンがウェンディの計画通り婚約破棄を宣言した。
ウェンディは浮気相手の恋人を連れて来い、とまでは言っていなかったのだが、新たな婚約希望者を連れてきたのはノーマンの独断だ。ウェンディと婚約破棄ついでに恋人を新たな婚約者に押し上げたかったのだろう。
何も考えていないノーマンらしい判断だが、ウェンディにとってはありがたい話だった。
ノーマンには他に愛する恋人がいるからウェンディと婚約破棄する。
これだけ大勢の前で宣言してしまえば国王もウェンディの親も、ウェンディとノーマンの婚約を破棄せざるをえないだろう。
「ノーマン殿下との婚約は破棄になったよ」
そうウェンディに伝えてくれた父親の顔は疲れきっていた。
ウェンディは婚約破棄を伝えられた瞬間、心に喜びが溢れてくるのを感じた。
もう自分はノーマンの婚約者ではないのだ。
それがこんなに嬉しいことだとは。
喜びが溢れすぎて笑顔になるウェンディを、父親が心配そうに見ている。娘のことを何も考えていないと、呆れて見ているのだろう。
ウェンディとノーマンの婚約破棄はあっさりと認められた。
ノーマンが常にウェンディをバカにして何も考えていないダメな人間だと言い触らしていたので、実の親ですらウェンディは何も考えていない愚か者だと思っていた。
何も考えていないような者に次期王妃は荷が重い。
国王もそう判断したのだろう。
自分の望み通りになったのだが、どこか釈然としない気持ちが残った。
誰もがウェンディを何も考えていないと思っている。
こんなにも考え続けているのに、ウェンディは考えなしだと思われているのだ。
ウェンディの頭の中では常に思考が止まることがないのに?
何も考えていない時間が自分にあるのかすら分からないのに。
考えすぎて、常に頭が疲れているのに。
でも、仕方ない。
だって、人に分かるように行動してこなかったのはウェンディだ。
自分が考えなしではないと証明したかったのなら、目に見えない自分の考えを口にするなり行動するなりするべきだった。
それをしなかったのはウェンディの意思だ。
考え過ぎて動けなかった、ということもあるが、それよりも面倒臭がって何もしなかった。
ノーマンを言い訳にして「何もしない」という行動に出ていたのはウェンディの確かな意思だった。
だって、仕方ないじゃないか。
幼い頃から否定され続けて、卑屈になっていたのだ。
立ち上がる勇気など、持つことも出来なかった。
それでも、ウェンディはもうすぐ成人するのだから、今までのように自分が苦しんだ言い訳を他のものに持ってくるのは違う気がするのだ。
苦しみの理由を他のものの責任にしていても、きっとウェンディは今までのように幸せにはなれない。
成人するのだから自分の人生の責任は自分で持たなければ。
自分の責任を取らずに他のものの責任にする幼稚な人間はずっと側で見てきたじゃないか。
それがどんなに情けないことか、ウェンディはずっと見てきたから知っている。
情けない者達と同じように自分の苦しみの理由を他のものの責任にしようとしても、ウェンディの役には立たない。
他人の責任は立派に問うくせに、自分が責任を問われれば上手に他者に擦り付ける者と同じ事をしても仕方ない。
ウェンディはもう飽きたな、と思った。
考え過ぎて何も出来ない自分にはもう飽きた。
考え過ぎて同じことばかり頭の中でループして、結局答えが出ないのなんてもう何度も経験してきた。
誰の目にも見えない、ウェンディにしか分からない無駄な思考のループだ。
これでは何度も同じ間違いをしているノーマンと大差ないだろう。
ウェンディは考えが浅いが故に行動的なノーマンが羨ましかった。
行動さえしていれば『何か』はしていると人に表示出来る。
何もしないくせに「誰も自分のことを分かってくれない」なんて悲観にくれるだけの自分にはもう飽きた。
見えないところで自分は凄く考えているのだと主張しても、ノーマンが「自分はとても思慮深い人間だ」と主張するのと大差ない愚かさ加減ではないだろうか。
ノーマンとの婚約破棄が成立して、ウェンディの中で何かが弾けた。
次期王妃になるのだからともう人の顔色を伺う必要なんてないのだ。
どうせウェンディの評価は低いのだ。これからは考えなしに生きていくのもいいかもしれない。
それまで生き苦しいとばかり思っていた世界が突然輝いたものに見え、心は幸福で満たされた。
こんな風に心が満たされたのを感じたのは初めてだった。
多くの人がウェンディを憐れみの目で見ながらバカにしてきたけど、それでも気にならない。
もうウェンディは人の顔色を伺って生きなくてもいいのだから。
どうせ元からほとんどの人には好かれてなどいなかったのだ。
その人数が増えるだけ。
大した差などない。
ウェンディは気付いて良かったと思った。
ノーマンの側で耐え続ける人生よりも、よっぽど婚約破棄された可哀想な令嬢の方がいい。
だからウェンディはまずは見た目から自分を変えていくことにした。
長かった髪をバッサリと肩口くらいまで切ると、まるで今までの長い髪が自分の枷だったのではないかというように頭が驚くくらい軽くなった。
女性は長い髪であるべき、という人々の認識は強くとも、ウェンディは気にならなかった。
ウェンディの髪の長さを見て通りすがりの人が驚いて振り返っても、ウェンディは気にならない自分に成長を感じた。
もう誰に嫌われたって構いはしない。
「浮気男には正義の鉄槌を下すべきですわ!」
そう声を掛けられたウェンディは呆れて声が出なかった。
すぐに返事を出来なかったことで相手がウェンディが何も考えていないと呆れているのが分かる。
ウェンディはノーマンと婚約破棄を出来たことに満足していたので、仕返しをしてやりたいと思ったことはなかった。
そもそもノーマンはウェンディに対して悪意や悪気があったわけではない。
子供の頃に会って、2歳年下の女の子が自分よりも知識が浅いことをバカにしたまま、未だにウェンディを下に見ているのだ。
罪があるならノーマンの傲慢を注意することがなかった周りの大人達ではないのか。
ノーマンも注意さえちゃんとされていればもう少しまともな人間になったのではないか。
と一瞬思ったが、注意されようがされなかろうが、きっとノーマンはノーマンのまま成長したに違いない。
それでももうノーマンは成人しているのだから自分の責任は自分で取るべき年齢のはずだ。
成人を過ぎてからも自分の人生の責任を他人に委ねることは恥ではないかとウェンディは思った。
成人してまで他人を言い訳に使って目を反らしていたら、ウェンディの不遇の人生は何十年と変わらないだろう。
だからウェンディはそこから抜け出すことにしたのだ。
けれど、そんなことよりも、ウェンディはもうノーマンの為に時間を使いたくなかった。
ウェンディは今まで十分時間を無駄にしてきた。
それなのにまたノーマンの為に時間を無駄にしてどうする。
仕返しや復讐は、それだけ相手のことを考え続けるということだ。
ウェンディはこれ以上ノーマンのことを考えることが出来なかった。
ウェンディとノーマンの関係は終わった。それだけで十分だった。
それに、他人事だからと気軽に仕返しをしろと言ってくれるけれど、本人は気付いているのだろうか。正義の鉄槌を、と言うその顔が醜悪なことに。
ウェンディは負け犬だとか逃げ損だとか言われても構わなかった。
ウェンディにとっては相手のことを考えないことこそが復讐のようなものだ。
無関心こそがウェンディに出来る最大の仕返し。
これ以上頭のおかしな者に使ってやる時間はウェンディにはもうないのだから。
それに、心配しなくとも、ノーマンのような者は勝手に不幸になっていくのだから放っておけばいい。
「全部君と婚約破棄してから悪くなってしまったんだ!」
ノーマンの悲痛な叫び声が響いた。
ウェンディは自分に向けて責任を問うように大声を出すノーマンを情けない気持ちで見つめた。
どうしてそうなるのか。
ノーマンはウェンディと婚約破棄したお陰で恋人だったヘレナと婚約出来て望みを叶えたのに、何をウェンディのせいだと言うのか。
才女と有名なヘレナとの婚約は概ね歓迎されて、幸せなはずではないのか。
婚約破棄をした後のことなどもうウェンディには関係ないはずだ。
ノーマンが浮気者だと陰口言われているのもウェンディには関係ないし、ノーマンが失敗を犯してそれをウェンディの責任に擦り付けなくなったことなど更にウェンディには関係ない。
才女のヘレナがノーマンのダメさに気付いて気持ちが薄れていることなどウェンディには本当に関係ない。
「君のせいだ!ウェンディ!」
5歳の子供でももっとましに自分の感情をコントロールするのではないだろうか。
でも仕方ないのだ。ノーマンは国王となるからと、責任を負うという役目から逃れ続けてきた。
ウェンディという都合の良い「逃げ道」もあったから、自分のしたことの責任を取ったことがない。
都合が悪ければ逃げれば良いだけだったノーマンに、才女として有名で、プライドの高いヘレナが魅力を感じなくなるのも早かった。
ある意味ヘレナは見る目があると言えよう。
ウェンディは自分を罵るノーマンを他人事のように見つめた。
だって、もう本当にウェンディには関係のないことなのだ。
役立たずだとバカにしていたウェンディと婚約破棄したから物事が悪くなってしまった。なんて、おかしいと思わないのだろうか?役立たずがいなくなったのに?
他人事のように落ち着いて見えることに、ウェンディは感動した。
今までのウェンディだったらノーマンの罵りを真に受けて縮こまっていただろう。
自分にも悪いところはあった、と少しの責任を感じながら、全ての責任を負わなければならなかった。
今のウェンディにはもうノーマンの浅慮な言葉は受け取れない。
だって、本当に自分の悪かったところが思い付かないのだ。
もうウェンディとノーマンは関係がないのに、どうしてノーマンの罵りを受けなければならないのだろう。
それもわざわざ大勢の人が集まる場で、全く関係のないウェンディに責任を擦り付けてくる頭のおかしなこの男に。
どうして!?
と疑問に思おうとしても、予想は出来ていた。
何も考えていないわけではないウェンディにとって予想の範囲内だ。
都合の悪いことを新たな婚約者のヘレナに擦り付けようとして失敗して、ノーマンの無能さが明るみになってきてしまったのだろう。
それでもウェンディは何も言い返せなかった。
目の前で狂った発言をするノーマンを、まともに相手するのがバカらしいと感じたから。
どうせウェンディの人々の評価は低い。
今回のノーマンの失態に関わっていないウェンディは、自信をもって自分の責任ではないと言える。
だからまともに相手をするのが無駄だと思ったのだ。
それでも言い返さなければこの場にいる人達には全てがウェンディの責任だと誤解されてしまうのだろうか。
何も言わないのは肯定だと他人には捉えられかねない。
それでも言い返す気になれない。
ノーマンがウェンディに責任を擦り付けるのはいつものことだ。
既に評価が下がっているウェンディにはこの場の人達の誤解なんて気にするだけ無駄ではないだろうか。
それに、誤解するなら誤解するで、見る目のない人々が悪いのではないだろうか。
婚約破棄をした婚約者に責任を擦り付けるノーマンが正しいと見えるなら、結局はその者の見る目がないのだ。
そんなこと、少し考えたら分かることだ。
自国の王子が浅慮なバカだと気付かずに手遅れになってしまえばいい。
「君はいつだってそうだ!どうしていつも僕の邪魔ばかりするんだ?」
ノーマンの悲劇の男ぶった演劇が続いている。
いつだってウェンディの邪魔ばかりしてきたのはノーマンではないか。
流石にこの言葉にはウェンディもイラッとせずにはいられなかった。
「じゃあ君は、君の今の婚約者の無礼の責任を取ってくれるのかな?」
ウェンディがそろそろ言い返さなければならないだろうかと思ったその時、話に割り込んでくる者がいた。
「セドリック王子!?」
それは隣国の王子のセドリックだった。
セドリックのすぐ後ろにはセドリックの従者に手首を後ろに捕まれたヘレナがいた。
「君の今の婚約者が私に媚薬を飲ませようとしてきたんだが、君の婚約者はいったいどうなっているのかな?私に責任を取れと結婚を迫るつもりだったのだろうか。婚約者として君はどう思うんだ?」
セドリック王子は明らかに怒っていた。
隣国の王子を怒らせるなんて国際問題だ。
当のヘレナは自分の魅力が伝わらなかったことに腹を立てているようだ。
才女だと昔から有名で、プライドの高いヘレナはノーマンからセドリックに乗り換えようとして失敗したらしい。
「まさか、ヘレナがそんなことを!?」
ヘレナの失態を信じられないノーマンが現実を受け止められずに困惑している。
戸惑うだけで何も出来ないでいるノーマンを、なんて愚図なんだろうと思いながらウェンディは見ていた。真偽の程はともかく、こんな人前ではなくどこかの部屋にでも早く移動するべきではないのか。
「殿下!誤解です!わたくしはそんなことしておりませんわ!」
ヘレナが大きな声で否定している。
隣国の王子のセドリックが間違っていると言いたいのか。
こんな人前で?
自身の潔白の為に人前を利用するところがヘレナらしいなとウェンディは現実逃避をするように思った。
「君は随分往生際が悪い。言っておくけど、私は君みたいな長い髪の女性は苦手なんだ。私は彼女みたいな肩くらいの髪の女性が好きなんだ」
セドリックがウェンディにウインクしてきた。
新たな問題を部外者として聞いていたウェンディは見事に話に巻き込まれた。
ヘレナは自身の長髪を自慢としていた。長くサラサラな黒髪は、常に結ばず背中に流して、動く度に人々の視線を拐っていた。
長い髪が当たり前のこの国では、ヘレナは人々の憧れの的だった。
自身の自慢の長髪が通じないと分かったヘレナがウェンディを鬼のような形相で睨んできた。どうやらとてもプライドが傷付けられたらしい。
最近髪を切ったウェンディの髪の長さはおそらくこの場の女性の中で一番短いだろう。
「そうだ、ウェンディ嬢が私と婚約してくれるなら、この話は水に流してやろう」
セドリックの言葉に一瞬その場が静けさに包まれた。
少しの静けさの後、ノーマンとヘレナが反抗し始めた。
「ウェンディのような役立たずと婚約なんて止めておいた方がいい!ウェンディは何も考えていないのだぞ!」
「わたくしがその娘より劣ると仰るのですか!?」
ノーマンとヘレナはなかなか静まらず、騒ぎに気付いた国王の指示によってやっと人目のない個室に移動した。
数時間後、ウェンディがセドリックの婚約者となることで話をまとめるということになっていた。
「ウェンディ、すまない。君に犠牲になってもらうことになった」
すまなそうにウェンディに告げた父親はこの前よりも痩せていた。
ウェンディは知っていた。父親がそれなりにウェンディのことを大切に思ってくれていることを。思うだけで、何もしてくれないことを。
その思う気持ちがウェンディが望むよりもずっとずっと小さいことなど、とっくに知っていた。
ウェンディが髪を切ったのは、隣国の国では女性達の間で髪を短く切るのが流行っていると聞いていたからだ。
この国よりも変化に積極的だという隣国は、以前のウェンディにとっては恐怖の対象だった。ただでさえ縮こまっているだけのウェンディでは、隣国に行ったらどうなることか、考えることすら恐ろしかった。
ノーマンとの婚約破棄後のウェンディにとっては、隣国は興味の対象だった。
それまで怖がっていた気持ちはどこにいったのか、隣国の自由な思想をもっと知りたいと思うようになっていた。
犠牲とはなんだろう。犠牲とは。
ヘレナが起こした問題の尻拭いをウェンディがすることになったから犠牲なのか。
どうしてそうやって否定的な表現をするのだろうか。
だって、ウェンディにとってはチャンスだった。
ノーマンと距離的に離れることの出来るチャンスだ。
婚約破棄をしてもノーマンは変わらず問題の責めどころをウェンディにしてきた。
この国にいたらずっとこの意味の分からない責め苦に困らされるのではないか。
でも他国に行ってしまえば、その地味に煩わしいノーマンの責め苦から逃れられる。
ノーマンがウェンディの責任にするのを止めなくても、隣国にいたら直で聞かなくていいだけ煩わしくない。
それに、他の誰か分からない人のところに嫁ぐよりもいいように思えた。
ノーマンの婚約者だった時にセドリックとは何回か会っている。
ウェンディに隣国の流行りを教えてくれたのもセドリックだ。
正直、セドリックには好印象を抱いていた。ノーマンが平気でウェンディのことを何も考えていないと罵り、周りがそれに合わせて愛想笑いをしている中で、セドリックは不快そうに眉をしかめていたのを知っている。
だからウェンディにとって今回の話は犠牲などではないのだ。
だからだろうか。ウェンディに関わることを否定的にしか表現してくれない父親が煩わしくて仕方がない。
どうせなら前向きに言ってくれたらいいものを、父親はいつも否定的な言い方をするのだ。
ただでさえ卑屈なウェンディにとっては、否定的な表現は更に精神を疲弊させる。
国の為に嫁ぐ名誉ある結婚だ、とか国に恩を売ることが出来たとか、言い換えてくれても構わないのに。
この親とも離れられていいのかもしれない、とウェンディが思ったのも仕方なかっただろう。
だって、今のウェンディには自分を貶してくる人と一緒にいなければならない意味を見いだせないのだ。
これはきっと人間が持っている本能のようなもの。
自分を大切にしてくれない者を、自分が大切にしなければならない理由なんてないだろう。
「行くな、ウェンディ!君は僕のことが好きだろう?」
ウェンディが隣国に嫁ぐ日に、見送りにきたノーマンはウェンディを引き止めてきた。
どうしてここまで頭のおかしな発言が出来るのかは謎だけど、ウェンディはこの幼稚な男とももう会わなくていいのかと思うと、喜びの笑みを隠すことが出来なかった。
色々と、ノーマンの言葉に思うことはあるけれども、思考の浅いノーマンにはぐだぐだ言葉を重ねるよりも、シンプルに伝える方がいいだろう。
「さようなら、殿下。大っ嫌いだったわ!!」
思いの丈を一言で収めたウェンディは、言葉を失くす人々を無視して馬車に乗り込んだ。
ウェンディがこんなにもはっきりと気持ちを伝えたのは初めてだった。
ノーマンのあの顔!
自分が誰かに嫌われているなんて思ったこともないような顔で驚いているノーマンを見て、ウェンディの心は少し晴れた。
「ウェンディ!!」
すぐに正気に戻ったらしいノーマンの怒った声が馬車の外から聞こえたが、セドリックが止めてくれていた。
「私の婚約者を呼び捨てするな、不愉快だ。君は彼女を呼び捨てに出来る権利を永遠に失ったんだからいい加減に理解しろ。心配しなくとも、これからは私が彼女を守る。君よりずっと大事にね。私は誰かと違って婚約者をとても大切にする自信があるから。それと、これ以上私の婚約者を侮辱するなら国として正式に抗議することも出来るのだが?」
浅慮なノーマンにもどういう状況かは理解するだけの頭はあったらしい。
というのは気のせいで、今にもセドリックに掴みかかろうとしているノーマンを護衛が押し止めていた。
他の者にもノーマンの成長がとても残念な状態であると気付いただろうか?
まあもうウェンディには関係のないことだけれど。
そんなことよりもウェンディの心はセドリックのことで忙しい。
自分を守ってくれるはずだった親や婚約者に守ってもらえなかったウェンディにとって、セドリックの言葉はとても心に響いた。
セドリックはウェンディを守ってくれるのだ。
そう思うだけで胸がときめく。
単純すぎるだろうか?
仕方ない。だって、今までウェンディにこんなことを言ってくれる人はいなかったのだ。
ウェンディを見送りに来る予定ではなかったノーマンは王宮から迎えに来た者達に回収されていった。
「あの王子と婚約者はまだ婚約を続けるらしいね」
セドリックは馬車の中でウェンディの座り心地を良くする為にクッションの角度を変えながら喋ってきた。
「ヘレナ様にはあえて罰みたいなものかもしれませんね」
短期間で2人と婚約を解消するのは国としても認められなかったのだろう。
「誤解のないように言っておきたいんだけど、私は確かに長髪の女性は苦手だけど、君のことは髪の長さで選んだ訳じゃないから」
セドリックはウェンディにウインクしてきた。
ウェンディの心臓が大きく跳ねる。
「そうなのですか?」
「今まで婚約者のいなかった私がこのタイミングでこの国に来た理由は考えなくても分かるだろう?」
セドリックの言い方に、ウェンディは胸の高鳴りを抑えることが出来なかった。
真っ赤になって俯いたウェンディを、セドリックが愛おしそうに見つめていた。