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サンソンくん sunflower/typoon No7 編  作者: ハクノチチ
3/12

typoon No7ー夏の虫の羽音みたいな音量のスマホー


 遠くの深い海から何日もかけてフラフラと、もうそこまでやってきた反時計回りの雲の渦は、もちろんサンソンくんを追いかけてきたわけではありません……


 翻れば「東」を目指しているような、遥かな「西」を目指す旅路の今日も一日、地上に見つけた黄色い「笑顔」を存分にからかいました。丘の上にある療養所の裏庭、「釣り禁止」の看板前が一番釣り糸の垂れるひょうたん池の縁、古い水車の脇などに小さな彼は空の彼方から突然現れ、どこでだって迷いなく誰の物でもない誰かの夏を背負う彼らへ礼儀正しく語り掛けたのです。寡黙な振りをしても決して無口なんかではいられない相手がやっぱり会話を楽しみ始めると、毎度まいど衰えない笑いを必死に堪え、ついには散々やってやるのでした。木陰で血走るセミにさえ引けを取らないボリュームでギャァ、ギャァ喚かれる日々はなんて満足のいく旅路なのでしょう! 


 ……ただ、あいつさえこなければ、とサンソンくんはしかめっ面で溜息をつきました。


 大きく動き始めていた空は、気が付くと数時間前までとはまるで違い、避けようのない圧倒的な気配に満ち満ちています。夕暮れる前のことです。サンソンくんがいま飛んでいる町の空は、見るからに重そうな雲であっという間に平たくなっていて、生暖かい強烈な風の先端がアン・ビブラートで時折吠えるのでした。ここからは見えない地上の端から向こうの端まで、等間隔に建つ電柱の電線が強く揺れます。瞬発的に吹く強い風は二つ三つに切断され、潤いを欠かさない、しなやかな高音の残響となり命あるものを威嚇するように響きました。揺れる電線の上から耳にする小さな彼の身体も、風が一吠えするともう自分ではコントロールすることが出来なくなり、移動したくもない勝手な方向へ持っていかれるのでした。小さな彼は何度も宙で踏ん張りますが敵うわけなどありません。

 大粒の雨が短い時間だけ地面を叩いて、すぐに止みました。乾いていた地上の雑多な埃がぐっしょり濡れると誰もが鼻孔に焼きつけている、夏場の町中に降る雨の匂いになりました。

 一旦止んではまた降るということを繰り返えす、考えてみればデジャブのような強い風と大粒の雨。徐々に間隔は短くなり、吹いている時間も降る量もずっと増えました。今朝は快晴の空から昇っていた陽は、反時計回りの雨雲に埋まった視界の果てでとっとと沈んでしまいました……

 何もなく、時間しかない平原や、読者のいない物語が展開するだけの荒野を飛んでいたわけではないサンソン君は、渦を巻く平らな雲の上に避難するよりも地上にはいくらでもある頑丈な物陰へ隠れることにしました。そこはちょうど今日から夏休みが始まった小学校の校舎裏です……



 息子が夏休みに入るまでにはバイトでも何でも取りあえず働きはじめないとな、と7月に入ってからは口癖のように言っていた39歳の父親の重たい腰はついに上がらなかった。小学校二年生の一人息子の夏休みは今日から始まってしまったのだった。

 終業式の日が大変なことになるから、学校の荷物は少しずつ持ち帰ってきなさい、と三日前から毎朝言い聞かせた母親(37歳)だったが、信じられないほどの荷物を持って、いくつかは完全に引きずる息子が、髪まで濡れるくらいの大汗をかいて帰宅したのはお昼前のことだ。

 この一月半ばかり、下校して家に帰ったとき(これまで二度失くしたことがある)自分専用の家の鍵で、玄関の鍵を開けたことのない息子は、今日も家のベルを鳴らさずに家の中に入った。

「お父さん、鍵くらい掛けときなよ」ここしばらく同じ注意を父親にする息子は、学校から持ち帰ってきた荷物で座布団二枚よりも狭い玄関を瞬時に溢れさせた。ランドセルと体操着以外はどれも燃えるゴミでしかないものの下で、つま先がきつくなってきているらしいスニーカーを脱いだ。

「お前の為に開けといてやってんだよ」父親は、奥の部屋にある窓型クーラーを過剰に効かせながら、もう一部屋挟んで、一番手前の台所のテーブルに乗せたノートパソコンの手を休めない。

 マウスの付近に缶ビールこそなかったが、画面から目を離さない「真剣な横顔」で、いま父親はネットで仕事を探しているわけではないのだろう、とすぐにわかった。

「何見てるの?」息子は少しがっかりするのだった。

「今夜、台風がくるってよ」父親はアパートの階段をまさにズルズル上がってくる人の気配を察知していたので、それまで閲覧していたページを切り替え今日のニューストピックを見ている振りをしたのだ。

「仕事見つかった? 今日からぼく夏休みだよ」息子は冷蔵庫を開けて2ℓペットボトルの緑茶を口飲する。

「らしいな」父親は他人事のような返事をした。折り合いのつかない自分との葛藤を隠して……

「通知表は?」

「見てもしょうがないよきっと」

「でも出しとけよ」父親はようやく息子の顔を見た。黒い出目金をプリントした水色のTシャツの胸のあたりまで汗に濡れ、生地の色が濃くなっていた。

「お昼はなに?」息子はランドセルの中身をばら撒きながら言った。

「チャーハンって感じだな。風邪ひくから、シャツ脱げよ」

「お父さんのチャーハン嫌いじゃないけど飽きたっす」息子はその場で裸になった。そして薄い透明なファイルに挟んだ通知表を父親には渡さず、カーテンを閉めて陽を遮る一番奥の部屋の裸の炬燵テーブルに置いた。

「何か着とけよ」

「この部屋逆にちょっと寒いよ。暗いし」裸の息子の汗は、部屋に溜まった冷気と父親の横顔とで急激に冷えるのだった。


 休みに入っても行ってくれるだろう、と思っていた学童保育へ息子は行かないことになっていた。先日、口ごもったが、台所の母親に向かって幼く澄んだ目に強い力を込め「夏休み中の学童保育には行かない」と宣言したのだった。

 台所仕事をしていた母親の手は止まり、父親は隣の部屋で足の爪を切り続けた。

「どうして?」と母親は聞いた。

「夏休みだから」と息子は言った。

「春休みは行ってたし、去年は夏休みも行ってたわよ?」

「……」

「プールは行くよ。でも学童には行かない」

「……」

「お父さんの仕事が決まったらあなたずっと独りよ。ずっとお家にいる気なの?」

「決まらないからたぶん二人だよ。ねぇお父さん」

「お前、俺とずっと二人きりってけっこう辛いぞ」

「……」

 妻は、学童に行きたくないと言い出した息子の言葉よりも深い諦念を滲ませた。

「何かあったの?」

「別に何もないよ」息子は笑った。

 何かあったに違いないが、それをここで口にできるような子供ではない。いつか言うかもしれないし、言わないまま自力で解決してしまいすっかり忘れてしまうことだってある。

なんせ息子は、あの厄介な「子供だらけの世界」で今を生きているのだから……


 そんなわけで、子供の目が悪くなるから、頼まれても長い時間スマホを渡すな、と妻に言われていた夫だったが、行き場のないこんなにも狭い我が家で息子と二人、妻が帰ってくるまで一体何をして過ごせばいいのか分からず、漫画などもう読み飽きたらしい息子からスマホかパソコンを貸してくれと、頼まれるより先に渡してしまっていた。


 実際に上にあがって見たことなどないが、間違いなく色の褪せているだろうトタンの屋根を打つ雨の音はすごいことになってきた。天井が低くなったのかと思えるほどだ。

 クーラーで冷えていたせいもあり、タオルケットを掛けてうたた寝をしていた父親は尿意を催し目覚めた。電気の消えた隣の部屋では、裸のまま毛布を掛けて横になっている息子の笑い声と、夏の虫の羽音みたいな音量を出すスマホの小さな明かりが灯っていた。

「お前、本当に目が悪くなるぞ。何か着ろって言ったよな」父親はトイレに起き上がると言った。

 息子の返事はなかった。

 玄関脇の風呂場にあるトイレから出ると、奥の暗い部屋から息子が言った。

「いまお母さんから電話があったけど、切れたよ」

「何時だ今?」

「六時半」息子は裸のまま毛布を身体に巻きつけて立っていた。

 何か着ろ、と言ったのにいうことを聞かない態度の息子だったわけだが、父親はつい笑ってしまった。




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