79 奇跡の邂逅と、与えられた救い
10、11話の回想に登場した彼女の登場でした
19話の声の主でもあります
「──待ってくださいませ」
凛としていて、けれど背筋を震わせるような甘さを孕んだ声だった。それは俺の背後から、優しく呼びかけてきた。でも、己の腹に迫る剣を持つ手を止められるわけもなかった。
しかし、背中に温かいものが当たるのと同時に、俺の剣を握った手は、後ろから伸びてきた小さな手に包み込まれてしまった。それを振りほどくことができず、俺は呆然と動きを止めた。
その柔らかい手の感触に、ふと思い出す。ああ、この声の主はデニスと戦って死にかけた時、思い出せ、と語り掛けてきた人物だ。
あの時の声のおかげで、俺は今日まで生きながらえた。この声の主のおかげで、俺は諦めることなく戦えた。ちょうど、今この瞬間と同じように。
声の主がこの場に現れたのと同時に、骨はカタカタという音を立てるのをやめていた。憎悪に染まった顔で俺を見ていたオスカーの姿も、跡形もなく消え去っていた。
彼女が囁く。優しくて、凛としていて、そして、俺への深い深い感情の感じられる声だった。
「もう、十分でしょう」
その言葉があんまりにも優しくて、俺は思わず背後の影に身を任せてしまいたくなってしまった。
でも、そんなこと許されるはずがない。
「いいや、俺の償いはまだ終わってない」
「どうして、自分を赦すことができないんですの?」
声には、泣きたくなるほどの懐かしさがあった。
「君には分からないほどの罪を重ねてきたからだよ。誰だって、俺の全部を知ったら軽蔑して拒絶するに決まっている」
「いいえ。私はあなたの全てを見てきました」
「え?」
断ずる声には少しの震えもなくて、彼女が確信を持ってそう言っていることが窺いしれた。
思わず、振り返る。──そこには、優しそうな表情をしたオリヴィアが立っていた。
そして俺は、一目見て確信した。ああ、彼女は唯一俺が愛して、恋人になったオリヴィアだ。魔法学院で出会って、俺に初めて魔術を教えてくれた人だ。
彼女と別れて五十年以上経つが、不思議と確信できた。
「全部です。あなたの百年以上を、全部」
「そんな、はずは……」
「オスカーさん。あなたは、その魂に不純物が混ざっていると言われたでしょう」
彼女は俺のことを懐かしい名前で呼んだ。
ああそうか。彼女にとって俺は勇者オスカーなんだ。
「ああ……」
「それは私です。あなたの魂に入り込んだもの。不純物。それが私です」
「え……? でもさっきのオスカーは……」
「あれは、この夢を作ったロゼッタの悪意そのものです。あなたの恐れているものをそのまま映す鏡のようなもの」
「でも、ロゼッタは怨霊が憑いてると……」
「あなたの魂の中に存在した私の存在を怨霊と勘違いしたのでしょう。全く、失礼な話です」
冗談めかして言って、オリヴィアは少し笑った。そんな表情を見るのも久しぶりな気がして、俺は少し見惚れてしまった。
「でも、君がどうして俺の中に? なんで夢の中に?」
「一言で言えば、愛の力でしょうか」
恥ずかしいセリフを吐いたオリヴィアは、僅かに身じろぎした。
「あなたに戦場のど真ん中で看取られた時のことです。体が死ぬのと同時に、私の魂もまた、消滅するはずでした。──しかし、奇跡が起きたのです」
オリヴィアは、自分の胸にそっと手を当てて、穏やかな表情で話した。
「あなたを想い、添い遂げたいという気持ちを最後まで持ち続けていた私の魂は宙を漂い、直後に死んだあなたの魂を見つけ出しました。そのまま、天に昇っていくそれと共に逝こうとしました。けれど、あなたの魂はただ死んでいくのではなかった」
「……」
「気づけば、私は過去のあなたの体に、一緒に収まっていました。時間遡行を共にしたのです。女神様ですら気づかないほどに小さな魂の残滓だった私は、あなたと共にいろんなものを見ました。魔王軍の威容。人間たちの愚かさ。そして、勇者という責務の重さ。あなたと半ば同化した私は、私が死ぬ前を含めて全ての記憶を見ました。そして、思ったのです。──この人は、どれだけ多くを背負っているのだろうと」
「……それが、俺の責だからだ」
「確かに、責任感の強いあなたならそう言うでしょう。たとえその重みに潰されそうになろうとも、それこそ死ぬまでそれを持ち続けるでしょう。──でも、いいんですよ」
「え……」
「全部見た私が断言します。あなたは、自分を赦すべきです。だって、あなたはあんなにも懸命、だったじゃないですか」
オリヴィアの言葉には、今までにない熱が籠っていた。
「でも」
「私の言葉が信じられないんですの? あなたが愛した私の言葉を?」
「……大胆だな。オリヴィアらしくない」
「あなたが私をこんな女にしたのです」
そんな物言いも、懐かしくて愛おしかった。
「何度だって言います。たとえあなたがどう言おうと、全部見てきた他でもない私が、あなたを赦します。……これでもダメだというのなら、私はあなたを叱らなければなりませんね」
「……」
少し、考えてしまう。
「でも、俺は」
なおも言いよどむ俺に、オリヴィアは決定的な言葉を放った。
「あなたは自分を赦さなくても、私が赦しましょう。だから、前を向いて、今を生きてください。あなたの幸せが私の幸せですわ」
「……ああ。そうだな」
聖剣を持つ手は下がっていた。もう、自害をしようなんて気は起きなかった。
大切な君にそんなことを言われたら、赦すしかない。前を向くしかない。
──俺は、このオリヴィアを看取った時以来ずっと背負って来たものを下ろせた気がした。
俺がオリヴィアの言葉を受け入れた時だった。足元に敷き詰められていた人骨は、いつの間にかただの白い床に変わっていた。真っ白で何も映さないツルツルとした表面は、どこまでも広がっていて、まるで俺の未来を表しているようだった。
空すらも、透明な青色になっていた。
「……綺麗だな」
やがて、俺の体が手足の先から徐々に透明になっていく。消失した部分からは黄金色の光が立ち昇って、突き抜けるような青色の空へと消えていった。
それはこの夢から抜け出す前兆のようだった。そして同時に、別れを意味している気がした。
「もう、君とは会えないのか?」
不意に不安になって、俺は問いかけた。
今を生きるオリヴィアではない、俺の愛したオリヴィアは、寂しそうに微笑んだ。
「少しの間のお別れですわ。あなたの過酷な生に比べれば、ほんのわずかの。きっと、死後には大神様が私たちめぐり合わせてくださいます」
「……そう、かな」
手足は既にこの世界から消失していて、彼女を抱きしめることすらできなかった。
「でも、見守っています。私の勇者。どうか、負けないで」
「ああ。──ありがとう」
あの時と同じように、彼女は俺のことを私の勇者、と呼んでくれた。勇者という呼称はずっと嫌いだったが、彼女の唇から紡がれるなら悪くない気がした。
光になっていく俺の額に、彼女は静かに唇を落とした。
◇
赤髪に、女性らしい小柄な体躯になったオスカーさんは、光の粒となって私の目の前から消え去っていった。
きっともう、生きている彼に会うことはできないのだろう。
私は別れにため息を吐くと、空を見上げた。先ほどまで橙色で塗りつぶされていた空は、いつの間にか青空に変わっていた。
頬を伝った一滴もそのままに、私は空を見る。
胸にぽっかりと穴が開いてしまったように痛い。私と死別した時のオスカーさんも、こんな気持ちだったのだろうか。そうだったなら、申し訳ないことをした。
正直なところ、オスカーさんがあんな風になることに一端の責任は感じていたのだ。私が最期に残した遺言。魔王を倒して欲しいという願い。彼の励みになればと思って言ったその言葉は、そのまま彼を縛り付ける呪縛となってしまった。
私と死別してからの彼の焦燥ぶりは、正直見ていられないほどだった。沈痛な面持ちで、一層苛烈な戦いをするようになった彼。記憶にあったかつてのやり直しの彼よりも、ずっと辛そうだった。
だからせめて、彼が自分を赦す助けになればいいと思った。今はもう亡き身である私が彼に会えるのは、これが最後なのだから。
奇跡の再会は、きっと二度と訪れない。彼が再び自分の内面世界に魂を閉じ込められることなど、もうないだろう。だから、この世ではもうお別れだ。
「オスカーさん……」
もっと一緒にいたかった。もっと言葉を交わしていたかった。もっと愛を確かめたかった。──もっと、彼を救いたかった。
私の言葉は確かに彼の救いになったかもしれない。でも、彼が本当の意味で過去の呪縛から解き放たれるには、彼自身が彼を赦すしかないのだ。
だから、私は最後に呟いた。
「きっと、最後に貴方を救えるのは、貴方自身です」




