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75 ロゼッタの過去 

 剣に穿たれた胸元が、高熱を持っているようだった。

 エルフとして生を受け、そして、ダークエルフに生まれ変わってから、初めてと言っていいほどの大きな傷だった。あまりの痛みに、そのまま意識を失ってしまいそうなほどだった。

 死に瀕したロゼッタの脳裏には、急激に過去の記憶が流れ出した。思い出す過去は、いつも一つ。ロゼッタが人間に復讐しなくてはならない理由、その原点だ。





 四百年前、今はダークエルフと呼ばれている彼らは、エルフと呼ばれ人間領で暮らしていた。自然を好み森と共に暮らすエルフは、人間領の中でも開発の進んでいない西部の森に、ひっそりと暮らしていた。


 背の高い木々の中にポツンと存在する小さなログハウス。質素な造りのそれは、枝葉の間から漏れ出る陽光に照らされ、温かい空気に包まれていた。


「ママ! お帰りなさい!」

「ただいま、ロゼッタ。いい子にしてた?」


 白い肌に、透き通るような銀髪。美しい容姿のエルフの親子が、そこにいた。母親のエルフは、美しい十代の少女のような容姿をしていて、人間の基準ではとても一児の母親には見えない。

 娘の方は十歳程度といったところか。こちらは見た目通りの年齢だ。

 寿命が長く、あまり体の成長しないエルフは、皆一様に若々しい見た目をしている。娘──幼いロゼッタが、少し舌足らずな口調で言葉を紡ぐ。


「ママの言っていた爆破の魔法、できるようになったよ! 見て見て!」

「ロゼッタは本当に魔法が得意だねえ。でもちょっと待ってね。家の中で爆発は起こさないでね……」


 今にも魔法を発動しかねないワクワクとした様子の娘に、母親は僅かに冷や汗をかいた。我が家炎上の危機だった。


「じゃあ、ちょっと村はずれで見せてもらおうかな。行こっか」

「うん!」


 いつもと変わらない、穏やかなエルフたちの日常。幼いロゼッタは、この日までそれが突然壊れることなど、少しも想像していなかった。


「……何かしら?」


 母親のエルフの長い耳が、不自然な物音を捉えた。遠くから聞こえる、野性的な怒号。諍いのない穏やかなエルフの森には、あまりにも不釣り合いな気配だった。

 続いて、隣家に住むエルフの叫び声が聞こえてきた。


「大変だ! 人間たちが攻めてきたぞっ!」


 その怒号が引き金になったように、突如として森の中に火矢が飛んできた。木の幹に突き刺さったそれは、不自然なほどに燃え上がり、次第に周囲の木々へと延焼していった。


「ママ……」


 森が、故郷が、燃えている。日常的に眺めていた景色が、ごうごうと音を立てて崩壊していく。

 怯えるロゼッタは、母親の顔を見る。見た事もないほどに真剣な表情に、ロゼッタは事態の深刻さを思い知った。


「ロゼッタ、あなたはおじいちゃんの家の方に行って、ここであったことを伝えてちょうだい」

「ママは……?」

「私はみんなとここに残って、ここを守る」


 ロゼッタの母親は、魔法に長けたエルフの中でも優秀な魔法使いだ。娘であるロゼッタは、その凄さが良く分かっていた。

 けれど、不安は尽きない。


「ママも一緒に行こうよ! 逃げよう!」


 娘の必死な様子に、母親は目線を合わせるように屈むと、優しい表情で語り掛けた。


「ロゼッタ、ママたちもすぐに追いつくから、今は逃げてちょうだい」


 そっと頭を撫でられると、ロゼッタはそれ以上我儘を言うことができなくなってしまった。


「……絶対だよ」

「うん。……じゃあ、また会おうね」


 最後まで優しい口調で言うと、母親は立ち上がり、怒号の方へと向き直った。その背には、先ほどまでの優しい雰囲気など少しもない。ロゼッタの好きな、母の勇ましい姿だった。

 それを見て、ロゼッタは少し安心した。この様子なら、きっと母親が負けることはないだろう。


 隣家のエルフが、母親に話しかける。彼もまた、覚悟を決めた表情をしていた。


「行きましょう」

「ええ。子どもたちの元に、帰るわよ」


 その後、ロゼッタが生きた母親に会えることは二度となかった。





 どうやら、エルフの住処としている森はほとんどが襲われたらしい。祖父の家へと向かったロゼッタは、遠くから祖父の住む森に火の手が上がっていることを確認すると、今度は親戚の住む森へと走った。


 まだ十歳の彼女には過酷な道のりだったが、得意の魔法で風を生み出すと、追い風に背中を押されながら走った。


「ここもダメ……」


 ロゼッタの知る限り、最もたくさんのエルフが住んでいた森ですらも人間たちの手中にあるようだった。煌々と燃え上がる森は、既に人間たちに取り囲まれているようだった。


 走る。次の森へと走る。追い風の力を借りて走る彼女の顔には凄まじい風が吹きつけ、涙が風に乗って流れていった。


「あった……無事な森……!」


 いつの間にか、日は落ちかけていた。息を切らす彼女の目の前には、こじんまりとした森がポツンと存在している。

 中にいるエルフたちに大声で呼びかけながら、ロゼッタは歩いた。


「誰か、誰かいませんか!?」


 ロゼッタを迎えるのは、怯えた顔の子どもエルフばかりだった。その様子に、嫌な予感がする。まさか、戦える大人のエルフはもうみんな人間に敗れた後なのではないか。


「誰か! 母を助けてくれる方はいませんか!?」


 喉がヒリヒリと痛み始めたころ、ロゼッタはようやく叫ぶのを止めた。顔を出すのはまだ幼いエルフばかりだった。薄々気づいていたことだ。ここにいるのは、皆逃げてきた力ないエルフだけなのだ。


「ハァハァ……」

「クララ! クララ、いるか!?」


 突如として、ロゼッタの声だけが響いていた森に、成人男性らしい声が響く。ハッと顔を上げたロゼッタは、素早く顔を上げると声の主の元に向かう。背の高いエルフ。間違いない。戦える大人だ。


「あの! ……あ」


 近づくと、分かってしまった。そのエルフは、右腕を無くしていた。ひどい火傷跡が出血を抑えている。しかしその顔は、遠目でも分かるほどに真っ青だ。とても戦えそうになかった。


「パパ!」


 ロゼッタの背後から、背の小さなエルフが走ってきて、右腕のないエルフに抱き着いた。


「クララ、クララ! ああ、無事だったのか、良かった……!」


 残された左腕で娘をしっかりと抱きしめるその顔は、真っ青ながら本当に嬉しそうだった。


 親子の感動の再会。それが見ていられなかったロゼッタは、ぶしつけに声をかけた。


「あの……みんなは、どうなったのですか……?」


 感涙に潤んだ目をこちらに向けた男エルフは、少し気を取り直したようにこちらに向き直った。けれど左腕は娘を抱きしめたままだ。


「俺の知る限り、この森にいるみんなが最後の生き残りだ」


 ロゼッタは、目の前が真っ暗になったような感覚を覚えた。



 夜まで待っても、この小さな森に来た大人は右腕を失ったエルフだけだった。彼は逃げてきた子どものエルフたちを集めると、作戦会議を始めた。


「いいかい? おそらく夜が明けたら、人間たちはこの森にも襲撃をかけてくる。だから、早朝のうちに逃げるんだ。人間のいない魔族領へと」

「で、でも、魔族はみんな怖い人たちだから近づいちゃいけないって……」

「人間どもよりはマシだ!」


 それまで落ち着いた様子で言葉を紡いでいた男エルフが豹変した。憤るような、怯えるような大声に、子どもたちがびくりと肩を震わす。


「ああ、ごめんね。……話を続けよう。このまま人間どもに見つかれば、皆殺されるか、死ぬよりひどい目に会うだけだ。だから。日が昇るのと同時に、魔族領へと向かう。いいね?」


 先ほどただならぬ様子を見せた男エルフに、否を唱える子どもは誰もいなかった。

 けれど、ロゼッタにはどうしても聞いておきたいことがあった。


「……せめて、ママがどうなったのか確認させてもらえませんか?」

「……ダメだよ。戻れば殺されるだけだ」


 男エルフは複雑な感情を押し殺したような声で答えた。


「でも、ママがまだ生きてるかも……」

「無理だ! きっともう生きていない!」


 声を荒げた後に、男エルフは少し申し訳なさそうに声を潜めた。


「ごめんね。でも、君が戻ることを、きっと君の母親は望んでいないよ」


 ロゼッタは、他人に母の意志を勝手に語ってほしくなかった。けれど男エルフの目は真摯に自分の身を案じていることが分かったから、何も言えなかった。


「早朝になったら出発するから、それまで休んでいてね。じゃあ、お休み」


 男エルフは甘えるように縋りついた来た娘を左腕一本で抱き上げると、夜の森へと消えていった。

 それを少し眺めたロゼッタは、身勝手な羨望を必死に抑え込む。私だって、母の胸に飛び込みたかった。でもこれは身勝手な感情なのだ、と唇を噛んで、自分に用意された寝床へと向かった。



 この森の外から逃げてきた子どもエルフたちは、村の集会場らしき大きな家に集まって雑魚寝をしていた。いつもと違う天井に、ロゼッタは落ち着かない気分になり中々眠れなかった。


「ママ……」


 思わず呟いてしまった言葉は、幸い誰にも聞き咎められなかったらしい。ロゼッタは自分に言い聞かせる。弱音を吐いてはダメだ。親を亡くしたのはみんな一緒だ。辛いのは自分だけじゃない。

 そう自分に必死に言い聞かせるが、脳裏に浮かんでくるのは、母親との幸福な記憶ばかりだった。


 どうして自分がこんな目に会うのだろう。そう考えたロゼッタの頭に浮かんできたのは、ある夏の日の母との記憶だった。





 夏のきつい日差しが枝葉の間から差し込む故郷の森で、ロゼッタは母親に問いかけていた。


「ママ、どうして鳥さんを殺しちゃったの? かわいそうだよ!」


 母親のエルフの手には、矢を受け絶命した鳥が握られていた。力なく目を閉じるその様子があまりにも憐れで、今よりも小さなロゼッタは、少し声を荒げた。

 母親のエルフは利口な娘のらしくない姿に少し困ったように笑うと、しゃがみ、娘の目線の高さになってから、語り掛けた。


「いい? ロゼッタ。私たち生きとし生ける者はみんな、何かを犠牲にして生きているの。例えばこの鳥さんだって、きっと虫さんを食べて生きている。その虫さんは、きっともっと小さい虫さんを食べて生きている。私たちの食べるものは。いや、この世界は、そうやって何かの犠牲で成り立っているの」


 幼いロゼッタには難しい話はよく分からなかった。だから、思ったままを口にする。


「でも、やっぱり可哀そうだよ!」

「そうね。どれだけ言い繕っても、可哀そうだね。だからせめて、ロゼッタは犠牲になるものへの感謝を忘れないでほしいの。いつも食べる前に、いただきます、って挨拶するでしょ?」

「うん!」

「そうやって、犠牲があることを知って、感謝を忘れないでね。それが自然と共に生きる私たちエルフの昔から続く生き方よ」

「分かった!」



 十歳になり、母を失ったも同然のロゼッタは、今になってその意味が分かった。世界は、犠牲の上に成り立っている。

 数々の動物を、植物を犠牲にして生きてきたエルフが、今度は犠牲になる番が来てしまったのだ。だから、母は死んだのだ。


 ロゼッタは、ずっと頭から離れなかったモヤモヤがようやく溶けた気がした。どうして母が死ななければならなかったのか。その答えが、ようやく分かったからだろう。

 今なら、眠れる気がした。涙を堪え、目を閉じる。けれど、最後にある疑問がロゼッタの頭に浮かんだ。

 ──人間たちは、エルフの犠牲に感謝をするのだろうか。





 日も登り切らぬ早朝に、生き残りのエルフたちは森を出た。目指すは、北。険しいエーギ山脈に分かたれた、魔族領だ。

 幼く体力の少ない者も多いエルフの一団は、かなりゆっくりとしたペースで北上していた。所々で休憩を挟み、再び歩き出す。

 ノロノロとした動きに、先導する右腕を失ったエルフには僅かに苛立ちを覚えているようだった。

 死にかかった者と、安全地帯に逃がされた者。その意識の差は、やがて致命的な隙となった。



 早朝から歩き続け、太陽が真上まで上がった頃。エルフたちは、人間領最北端の国、パンジャナフ王国を抜け、エーギ山脈へと続くヤカテ平原を歩いていた。人間のいないところまで抜け出し、少し気が緩んだ頃だった。


「ッ! 走れ!」


 右腕を失ったエルフが叫び、一目散に駆け出した。その左腕には、愛娘をしっかりと抱きよせていた。エルフの一団の頭上には、火矢が迫っていた。


「キャアアアア!」


 ロゼッタの目の前にいた背の小さなエルフの肩に、矢が刺さる。すると、その体は瞬時に燃え上がった。


「ああああああ! あつい! あつい! あつい! あつい!」


 聞いたことのないような絶叫を上げて燃え上がる子どもエルフを、ロゼッタは助けようと試みた。


「ま、待ってて、今助ける! 『今は亡き水の神よ──』」

「次が来る! 走って!」


 後ろにいたエルフに手を取られて、ロゼッタは引きずられるように走り出した。次の瞬間、先ほどまでロゼッタが立っていた場所に矢が突き刺さった。


「あの子を助けないと!」


 手を引くエルフに叫ぶと、後ろを向いたままで切羽詰まった声が返ってきた。


「ダメ! そうやって仲間を気遣った人から死んでいくんだよ!」


 重たい実感の籠った声に、ロゼッタは口を噤んだ。後ろをチラと見ると、甲冑に身を包んだ人間たちの集団が俊敏に走ってきていた。


「撃て撃て撃て!」


 緩やかな弧を描く矢が次々と迫りくる。それらが足元に突き刺さるたび、ロゼッタの背筋は凍り付いた。それでも尚気丈に走り続けることができたのは、手を引いてくれるエルフがいたからだった。


 けれど、その追いかけっこの均衡は崩れることになる。飛んでくる火矢が、ついにロゼッタの前にいるエルフを捉えた。その体が瞬時に燃え上がる。


「うわああああ!」


 悲痛な金切り声がロゼッタの足を止める。

 その時だった。背後から、おかしくてたまらない、といった様子の嘲笑が聞こえた。それは例えるなら、酒の席で下品な冗談を笑い飛ばすような、そんな品のない笑いだった。


「え……?」


 命の取り合いの場にはあまりにも不釣り合いな声に、ロゼッタは耳を疑った。


「おい、見ろよあれ! 『うわああああ!』だってよ!」

「「ハッハハハハハ!」」


 楽しげな笑い声だった。ロゼッタには、何が起こっているのか分からなかった。


「おい、受け取れよ下等種」

「え……?」


 投げつけられた物が何なのか、最初は分からなかった。球体のそれは、一回二回と地面を跳ねると、コロコロと地面を転がり、ロゼッタの足にコツンと当たった。

 やがてそれが何だったのか分かると、ロゼッタは心臓が止まったような気がした。


「──ママ?」


 見慣れた母の顔。その生首だった。美しかった顔は、恐怖と苦痛に歪み切っていて、たった今地面を転がされたせいで泥だらけだった。でも、ロゼッタがそれを見間違えるはずもなかった。

 もはや自分がどこで何をしていたのかすら忘れて、ロゼッタはその場に立ち尽くした。そんな彼女の様子に、人間たちは面白い物を見つけたと言わんばかりに笑い出した。


「ハッハハハ! 『ママ』だってよ! もしかしてお前コイツの子どもだったのか!?」


 震える体を動かして、嘲笑う人間の顔を呆然と見つめる。


「そいつは一番厄介だった耳長だったからな! 俺たちも念入りに殺したんだ! 体を燃やして、四肢を切断して、体をバラバラに切り刻んでやった! その時の悲鳴といったらまあ、聞くに堪えないものでな! お前にも聞かせてやりたかったぜ!」


 男はまるで今日の料理の作り方でも語るように、母親のエルフの殺し方を喜々として語った。

 あまりのことに、現実感すら喪失していた。呆然とそれを聞いていたロゼッタは、半ば無意識に言葉を紡いでいた。


「感謝、は……?」

「は?」


 震える唇は上手く言葉を紡げなかった。それでも、ロゼッタには確認しなくてはならないことがあった。


「ママは、犠牲には感謝をしなきゃって! だから、ママが犠牲になったのなら、その感謝を人間のみんなは……」

「アッハハハハハ!」


 人間たちの口から、今日一番大きな笑い声が出た。ちょうど、滑稽な喜劇が目の前で繰り広げられたような、そんな笑い方だった。


「感謝! 俺たちが、お前ら耳長にか!? そうだなぁ、面白い死に方をしてくれたことに対してなら、感謝していいぞ? ──なあ!」


 ビュン、という風切り音。顔面への衝撃と、同時に、視界の半分を失う。少しして、ロゼッタは、自分の右目に矢が突き刺さっていることに気づいた。遅れてやってきたその激痛に、ロゼッタはようやく現実への回帰を果たした。


「あああああ! ママ! ママ! ママ! どうして!? なんで優しかったママが死ななきゃいけなかったの!? どうしてあの怖い人たちの方が生きているの!? どうして! どうして! どうして!」


 首だけとなった母から答えなど返ってくるはずもなく、代わりに醜く顔を歪めた人間から、嘲笑に塗れた答えが返ってきた。


「そりゃ、ママの言ってたことが間違ってたんだろうぜ! だって、お前ら耳長は、人間に搾取される運命にあるんだからな!」


 身勝手な理屈を叫んだ男は、恐怖を煽るようにゆっくりと少女へと近づいていった。少女は、左目から透明な涙を、矢の突き刺さった右目からは赤色の涙を流していた。

 まだ娘ほどの年に見えるエルフの娘が、泣いている。しかしその光景を見た男に、罪悪感など少しもなかった。

 相手は耳長。人間を見下し、あまつさえ人間の国を乗っ取ろうと密かに画策していた大罪人の一族だ。男は教会からそう聞かされていて、それを少しも疑おうとしなかった。


 長剣を構え、振り下ろす。その切っ先は、少女の細い足へと向かった。少女はうなだれて、抵抗する意思を失ってしまったようだった。

 手始めに四肢の一つでも切って、その端正な顔を絶望に歪ませたい。男の心は、自らの醜い欲望を満たすことしか考えていなかった。──それゆえ、反撃されることなど少しも想定していなかった。


 虐殺の場になるはずだったそこに、地獄の底から響いているような、低く、憎悪の籠った詠唱が響いた。


「『──炎よ、我が敵を穿て』」

「ハッ!? うわああああああ! あついあついあついあつい!」


 少女の目の前にいた甲冑姿の男は、突如として内部から凄まじい勢いで燃えだした。ニヤニヤと男の蹂躙を眺めようとしていた人間たちの顔色が変わる。幼くて無力だと思っていたロゼッタからの反撃。エルフを見下しきっていた人間たちからすれば、到底許せることではなかった。


「──てめえ、耳長がああああああああ!」


 男たちが剣を取り、少女へと殺到する。 その身に纏う甲冑は魔法への耐性の高い特別性だ。一人程度ならともかく、十人がかりで襲い掛かった人間たちに、敗北する道理はない、はずだった。


 ロゼッタの詠唱が響く。その声にはもはや震えはなく、ただ純粋な憎悪に漲っていた。


「『今は亡き炎の神よ、我が憎悪を贄とし、お願い奉る! 願うは我が怒りの如き炎! 我が身全てを食らいつくし、この世の全てを蹂躙せよ!』」


 その詠唱は、ロゼッタの知識にあるものではなかった。ただ、どうすれば目の前の憎い人間たちを殺すことができるのか、脳が擦り切れるほどに考えていた時、突如として頭の中に浮かんできたものだった。

 それは天啓、というものだったのかもしれない。


 ロゼッタから放たれた真っ赤な炎は、蛇のように地面を這い、やがて人間たちの元へと殺到した。

 しかし、人間たちに恐れはなかった。広範囲に拡散する魔法は、概して威力が低くなりがちだ。この特別性の甲冑なら身を守ってくれる。そう思っての突撃だった。

 しかし、その慢心は灼熱の炎に身を炙られることで償わされることになる。


「うわあああああ!」


 男たちの身が規格外の威力を持った炎によって焼かれる。炎の勢いは凄まじく、まるでロゼッタの身を焦がす憎悪のようだった。

 その凄惨な死にざまを見たロゼッタのうちに湧き上がってきたのは、抑えがたい喜悦だった。


「アッハハハハハハハハハハ! なんて醜い! なんて無様! ああ、人間よ、どうしてそんなにも愚かなんだ! ハッ、アッハハハハ!」


 笑う。笑う。笑う。まるで醜い人間のように。醜さを見せつけるように。

 母のいた優しい世界にいたロゼッタは、もうここにはいない。少女の身に滾る憎悪は、もはや少女の善性の一切が消え失せるほどだった。


「……なんだ、もう死んだのか」


 気づけば、ロゼッタの最大の仇だった人間たちは燃え尽きていた。手前にいた男の死体を踏みつけて、少女ではいられなくなったエルフは考える。どうすれば、自分の中に燃え続ける憎悪の炎は消えるのか。答えは分からない。


 ただ、命の危機に瀕して魔法の才が覚醒したとはいえ、今の自分では人間を根絶やしにするには到底及ばない。

 ひとまず、あの山の先へ行こう。エルフは北へと向くと、魔族領への道を歩み始めた。


 ロゼッタが六代目魔王の下で喜々として人間領への侵攻に加担し始めたのは、それからそう遠くない未来だった。


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