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60 バッドエンドの記憶 月下の決闘

 満月の夜には気を付けろ。狼男が襲ってくるぞ。そんな話を父親に聞いたのは、いったいいつのことだっただろうか。おそらくそれは、幼い子どもを怯えさせ、夜間に勝手にどこかに行ってしまわないように戒めるための作り話だったのだろう。

 でも俺は、その教訓を忘れるべきではなかったのだ。


 そんな後悔をしたのは、ちょうど初めてオリヴィアを死なせてしまった次のやり直しだっただろうか。


 狼たちによる人間領への攻撃は、ここ数日ずっと続いていた。

 相次ぐ狼たちの襲撃で、騎士たちの間にも次々と犠牲者が出ていた。襲撃が四日、五日と続くたびに、陣営には陰鬱な空気が漂うようになり、毅然としていた騎士たちの表情も暗くなっていった。


 戦いの日々の中の、束の間の休息の時。月の下を、オリヴィアと二人で歩く。二人の間には体一つ分程度の空間が空いていて、二人の距離を示していた。


「騎士の皆様は疲労の色が濃いですね。オスカーさんは大丈夫ですの?」


 オリヴィアの心配そうな、だけど他人行儀な言葉を聞く。オスカーさん、なんて彼女は呼ばなかったのに。……いや、親しかった、恋人だった彼女はもう死んだんだ。

 自分の体感では、あれからまだ半年も経っていない。目を閉じれば、今でもあの光景を思い出せる。胸に大きな槍が突き刺さった彼女。血の気の引いた唇から最期に告げられた言葉。


「……オスカーさん?」


 気遣わしげな彼女の声に、意識を今に戻される。ああ、違う。俺が見るべきは、今ここにいる彼女だ。


「大丈夫だよ、ありがとうオリヴィア」


 笑ってみせるが、彼女の顔は心配そうなままだ。


「……時々、オスカーさんは不思議な顔をしますね。懐かしむような、もの悲しいような、そして何かを焦るような、不思議な表情をしています。……私でよろしければ、話を聞きますわよ?」


 ああ、また優しい彼女に心配をかけてしまった。こんなはずじゃなかったのに。


「オリヴィアに心配してもらうようなことじゃないよ。ありがとう」

「……そう、ですか」


 残念そうで、だけど微笑んでくれる彼女の顔を見ると、罪悪感で胸が痛む。せめて何かもう少し言おうと思考を巡らす。今の彼女にかけるべき言葉。心配をかけないためにはどうすればいいのか。

 悩んだ俺は、煌々と輝く満月を眺める。しかし、過去に囚われた俺には、何も考えつかない。


 ──その時の俺は、確かに油断していたのだろう。連戦の疲労と、回想と、彼女と話したことによる感慨。それら全部が、俺の常に持っていた緊張感を奪っていた。


 突如オリヴィアに肩を押され、よろめく。同時に、ごう、と寒気がするような風が鳴った。それに慌てて向き直った時には、全てが終わっていた。

 前触れもなく現われた二足歩行の影が体を掠めて高速で過ぎ去る。──オリヴィアの首が、宙を舞っていた。


「は──」


 思考は追いつかなかったが、目の前に魔物の姿を確認した俺は、半ば無意識に動いていた。聖剣を魔物の影に振り下ろす。硬質な音が響き、聖剣が弾かれた。


 思考が追いつく。脳の奥が一気に冷えていく感覚。

 オリヴィアが死んだ。また、俺の目の前で。また、俺を庇って。


 地面に倒れたオリヴィアの姿を見る。首から上が存在せず、体だけが横たわっている。どう見ても即死だった。

 夜目の効く魔物を利用した奇襲。おそらく勇者の殺害を試みたのだろう。そして、代わりにオリヴィアが犠牲になった。

 頭がようやく追いついてくる。そして俺の胸に湧き上がってくるのは、御しがたい己への憤怒だった。


「──ッ!クソオオオ!」


 自分への憤りをそのままぶつけるように、魔物へと聖剣を叩きつける。しかし返ってきたのは、肉を絶つ感覚ではなく、硬い手ごたえだった。


「──つまらないな。腕力頼りの単調な攻撃など、俺には通用せんぞ」

「ッ!」


 殺意を籠めて睨みつけるが、夜闇に浮かぶ魔物の顔は涼し気なままだった。そこまで来てようやく、相手がどんな魔物なのかが見えてきた。

 狼の顔面と人間の顔面を足して二で割ったような狂暴な顔が、こちらを見ている。ワーウルフ。あるいは、狼男。幼い頃聞いた御伽噺の中の怪物が、俺の目の前に立っていた。


「黙れ黙れ黙れ!奇襲なんてしやがって腰抜けが!」

「女1人守れない勇者などに言われたくないな」


 激しい感情を孕んだ刃と爪がぶつかり合い、激しい衝撃が剣柄から伝わって来た。女1人守れなかった。今の俺の状況を端的に表した言葉に、再び激情が迸る。


「ふざけるな!ふざけるな!ふざけるな!貴様が殺したくせに!奇襲なんかに頼って女1人殺す程度しかできないくせに!」

「仲間を守れなかった負け犬の遠吠えにしか聞こえんぞ無能な勇者!」


 そうして、激情をぶつけ合う殺し合いが始まった。つかみ合いでもするように体を密着させて、得物をぶつけ合う。吐く息すらも克明に聞こえてくるような近距離の打ち合い。互いに一歩も引かず、両者にかすり傷が少しずつ増えていく。


 殺し合いに一層熱が籠ってきた頃のことだ。剣と爪の鍔迫り合いの状態のまま、ワーウルフはこちらに話しかけてきた。


「勇者の名を授かった愚か者よ!俺の名はクヴァルという!中身はどうあれ強者と戦えること、幸運に思うぞ!」


 興奮気味な言葉は、何かに酔っているようだった。


「奇襲を仕掛けておいて尋常な立ち合いを所望するなどと抜かすつもりか!?貴様に名乗る名前などない!」

「仕方があるまい、魔王直々の命令だったのだ。俺だって奇襲などしたくはなかった」

「御託はいい!お前はオリヴィアを殺した!それだけで十分だ!」


 怒りに任せて振り下ろした聖剣の勢いはかつてないほどだったが、ワーウルフのクヴァルはそれに対して真っ正面から右腕を突き出してきた。いなすだけだった今までの打ち合いとは違う動きに違和感を覚える。


 体毛に覆われた二の腕部分に、黄金色の刃が激突する。しかし、斬れない。手ごたえはなかった。

 おそらく、激突の瞬間に腕を引き、うまく衝撃を逃がされた。人間の武術にも通ずるような、緻密な戦闘技術。優れた腕力に任せて攻撃を仕掛けてくる普通の魔物とは、明らかに異質だった。

 クヴァルがニヤリと笑う。鋭い犬歯が覗いた。


「どうだ?我ら人狼種が代々研究し続けた人狼戦闘術は。貴様と同じように自分の身体能力にのみ頼る野蛮な魔族共に打ち勝つために、我らは日々研鑽を重ねている」


 どうだっていい。そう言葉にするのも億劫で、ただ剣を振るう。またもや、衝撃を受け流される。暖簾にでも剣を叩きつけているような感覚に、俺の苛立ちは増す一方だった。


「ハハッ!どちらがケダモノなのか分かったものではない!貴様の知能は狼にも劣るな!」

「うるさい!ッ!クソッ!」


 オリヴィアの仇が目の前にいるのに、倒せない。殺せない。しなやかに動くクヴァルの肢体を捉えられない。聖剣が空を切るたびに、胸中の焦りが増大していく。


 焦燥に駆られ、心は一層不安定になっていく。やがて、激情のままに聖剣を振り回していた俺に、決定的な隙が生まれる時が訪れた。剣を振るために踏み込んだ足が滑り、態勢を崩す。

 それを見逃すクヴァルではなかった。


「──フンッ!」

「カハッ!」


 勢いよく突き出された左腕が俺の腹部を直撃し、突き立てられた爪が皮膚を食い破った。強烈な痛みが体を走り、口から血が飛び出る。

 しかし、勇者の体はこの程度では死なない、死ねない。クヴァルもそれを分かっているのだろう。勝ち誇ったような笑みを見せた獣は、俺の腹に爪を突き刺した状態で、体を持ち上げだした。


「グッ……コハッ!」


 気持ちの悪い浮遊感と共に、爪が一層体内に侵入してくる。腹部に異物が入ってくる気持ち悪さに、俺はまた血を吐いた。空中に上がった俺の体を見上げるクヴァルが、自慢げな顔で語り始めた。


「貴様のように死ににくい化け物を倒すために考案された技だ。とくと味わえ」


 俺を持ち上げる左腕はそのままに、右腕の爪を俺の顔面に突き立てた。


「──アアアアアア!」


 そうして、宙ぶらりんで無防備な俺の体は蹂躙された。爪が俺の右目を潰す。激痛が走る。爪が俺の鼻を潰す。激痛が走る。爪が俺の左目を潰す。激痛が走る。爪が俺の俺の額に刺さる。激痛が走る。爪が──。


 どれだけの時間を、空中に突き上げられたまま過ごしたのか分からなかった。やがて、支えを失った俺の体が地面に激突する。叩きつけられた体のそこら中が痛みを訴え続けていた。


 思考が混濁する。痛みに支配された脳は正常に動かない。今自分が何をしていて、何をするべきだったのか。それすらも思い出せなかった。

 誰かの静かな声が聞こえる。


「──最期に、残す言葉はあるか?」

「……オリヴィア……どこだ?」


 目玉は蹂躙され、視界は全て失われていた。真っ暗闇の中で、彼女の名を呼ぶ。どんな状況でも、愛しい彼女さえいれば生きていける気がした。

 そうだ、さっきまで彼女と一緒にいたんだ。激痛に思考が鈍るが、それだけは思い出せた。ズルズルと、痛む体を引きずる。自分の血の匂いの中に、彼女の匂いが一瞬混ざった気がした。


「……ここか?オリヴィア……」


 這って進むと、何かに手が当たった。それになんとか擦り寄ると、なんだか温みを感じるようだった。息を吐くことすら億劫になるような激痛の中で、彼女に自分の想いを伝える。そうすれば全て救われるような気がした。


「オリヴィア……ずっと、一緒に居てくれ……」

「──では、さらばだな」


 クヴァルの声がして、俺の意識は途絶した。



 木の幹に縋りついた血塗れの死体を前に、月下の狼は静かに呟いた。


「滑稽、だな」



 ◇



 朝日を浴びて、目を覚ます。心臓の動きは嫌に早い。それは何か嫌な夢を見ていた時の俺の体の特徴だ。でも、思い出せない。俺は一体何を夢に見ていたのだろう。


「……まあ、いいか」


 悪い夢ならば、無理に思い出す必要もないのだろう。俺はゆっくりと起き上がると、朝日に向けて大きく伸びをした。


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