42 勇者
勇者という名前は、女神暦千年の間ずっと人類の希望だった。魔王という人類の天敵を倒す、最強の人間の呼称。人の身でありながら、最も神に近い存在。
勇者の魔王討伐の戦いには人類全てが協力して、その戦いを後押しする。金を出し、騎士たちを動員する。勇者が負ければ人類は魔王に蹂躙されるのみとなってしまうからだ。魔王を倒せるのは勇者が扱える聖剣のみ。
人間の国々は必ずしも良好な関係を築いていたわけではなかったが、勇者の戦いを後押しすることにおいてのみ、比較的上手く協力してきた。
誰もが勇者という名前に希望を見出す。魔王という闇を払えるのは勇者だけだ。誰もが、その名前に幻想を抱く。きっと自分たち全てを完璧に救ってくれるに違いない。しかし、勇者もまた、他の人間と同じように、不完全な人間なのだ。
「オスカー!早く早く!もう始まっちゃうよ!」
「そんなに焦らなくても大丈夫だぞカレン。開演まではもう少しある」
「カレンさんは随分楽しそうですね。そんなに演劇が好きなんですの?」
「だって、ジャウェンの劇なんでしょ?子どもの頃から聞いてた御伽噺の世界が舞台で見れるなんて、楽しみに決まってるじゃん!」
いつも元気なカレンはいつも以上に機嫌がよく、その声は弾んでいた。俺たちの進む王都の劇場への道は、多くの人が同じ方向に向かって歩いていた。朝日に照らされる彼らは、全体的に身綺麗なものが多いだろうか。王都の中でも比較的裕福な層が集まっているようだ。演劇は、ものによっては貴族が楽しむような高尚な趣味だ。チケット代も、娯楽に費やすには少し高めに設定されている。
俺たち勇者パーティーの面々がその観劇に赴いているのは、劇場からの招待状が届いたからだ。手紙を送ってきた劇場の主曰く、勇者の士気高揚のために、歴代の勇者にも今回の演目を見てもらっているらしい。俺の時も勇者パーティーの元に招待が届いていた。
今回俺たちが見る演目、『ジャウェンの冒険』とは、初代勇者ジャウェンの活躍を描いた英雄譚だ。原初にして最も名高い勇者、ジャウェンの活躍を壮大に、勇敢に、完璧に演出していると王都でも評判らしい。
そのあらすじは有名だ。勇者として一人魔王討伐の旅に出たジャウェンが、初代魔王からの刺客を様々な方法で撃退していく。痛快な討伐劇は、子どもに聞かせる御伽噺から王都の演劇に吟遊詩人の詩まで幅広い方法で伝えられている。王国民ならその大筋を誰もが知っていると言っても過言ではないだろう。俺も幼い頃聞かされていた。
──そして今は、俺はこの物語が大嫌いだった。
劇場は中も外も丁寧に整備されていて、その小奇麗な様子は、建国から存在するような歴史ある建物に見えなかった。
「かなり良い席に招待されましたね。舞台前は貴族でも中々席を取れないものです」
「なるほど、座席が十個も前になると値段が跳ねあがるのですね。この程度の距離に価値を見出すとは、人間は相変わらずよく分からないものに価値を付けますね」
「お前のそのぶっ飛んだ価値観まだ治らないの?もう結構ここで暮らしてるよなお前」
ジェーンは相変わらず独特な価値観を有しているらしかった。無表情に奇妙な事を言うその様子は、かなり奇人だった。
開演前の劇場は、これから始まるエンターテインメントへの期待でいっぱいだった。客席では、抑えられた話し声が所々から聞こえてくる。声量は小さいが、隠し切れない興奮が感じ取れる。
やがて、数多の視線を集めて、深紅の緞帳がゆっくりと昇る。幕が上がりきり、観客の視線が舞台の中央に向かう。舞台の中心で一人魔道具のスポットライトを浴びているのは、整った、されど勇猛そうな顔をした演者だ。
彼は、初代勇者ジャウェンは、高らかに宣言する。
「おお、天におわせし女神様!我々人類の最後の神よ!貴女から授かったこの神聖なる剣を以て、私は必ずや、悪しき魔の王を打ち倒してご覧にいれましょう!」
彼は女神に誓いを立てるように、黄金色の剣を天に向けて掲げる。聖剣を模しているらしいそれは、本物の輝きには劣るが立派な造りだ。
ジャウェンは一人、魔王討伐の旅に出る。極めて神に近い体を持つ彼は、仲間を必要としなかった。聖剣を携えて単身魔族領へと向かうジャウェンには、多くの魔物が殺到した。劇の見せ場、殺陣のはじまりだ。
「悪しき者どもよ、聖剣の輝きに倒れろ!」
ジャウェンの持った模造剣が振りかざされ、羊の頭部の被り物をした演者を打ち倒す。殺陣の出来は、演劇にしては中々のものだ。黄金色の輝きが舞うたびに異形の化け物は派手に倒れ伏す。魔法の演出は派手で、舞台道具で再現された魔法が飛び交うたびに、観客から感嘆の声が漏れ聞こえた。
ジャウェンの戦う様は圧倒的で、苦戦する様子など少しもなかった。最初の宣言通りに、彼は魔王を倒すために次々と魔物を打ち倒していった。豪快な剣技と規格外の魔法は敵を寄せ付けず、その体には傷一つ付いていないらしかった。
物語も中盤になると、悪辣な魔王によって様々な試練が次々と与えられたが、彼はそのいずれも完璧に打ち倒して見せた。
村に襲い掛かる大量のゴブリンの群れを全て斬り捨て、人体の三倍はありそうな巨人を大規模な魔法で沈める。人間の女のふりをして近づいてきた魔物には膝を付いて手を差し伸べて見せて、正体を見せたそれには容赦なく対処した。
そこには一つも犠牲はなく、ただ勇者が勝利を収める姿だけが表現されていた。
──反吐が出る。
物語も佳境となり、真祖を名乗る一際強い吸血鬼を倒した後、初代勇者はついに魔王と対面することになる。ついに対面した、対決を宿命付けられた二人は芝居がかった会話劇を繰り広げる。
「おお、魔を統べる王よ!貴様は何故、無辜の民を襲うのか」
「それは私が破壊と混沌を何よりも好むからだ。人の悲鳴が聞きたい。血の匂いには興奮する。殺し合いは何よりの娯楽だ。分かったら忌々しい聖剣を持つ勇者よ、私に道を譲るのだ」
「なんと邪悪な事か!もはや貴様を生かしてはおけぬ!ここに、正義の女神、ユースティティアの名の元に、裁きを下す!」
魔王が混沌を好むわけがあるまい。豊かな人間の領地が欲しいだけだ。むしろ魔物を統率しようとするはずだ。
分かりやすい悪らしい台詞を吐いた魔王が勇者に襲い掛かる。今までにないほどの派手な演出と、迫力ある剣のぶつかり合い。
「何と禍々しい気配か!叛逆神の呪いを受けた悲しき者よ!この世界のために静かに眠り給え!」
「我らに降り注ぐ神の祝福を否定するな!それは貴様の瞳が偽神の与える光に眩んでいるに過ぎぬ!」
舌鋒もまた剣先と同じく鋭く、両者が和解することはないのだろうと観客は予感した。そして、激戦の末に、魔王は勇者の聖剣に切り捨てられた。醜い断末魔と共に、魔王は最期の言葉を残す。
「忘れるでないぞ忌々しき勇者よ!我らの神は死んではおらぬ。貴様の寿命が尽きる頃、必ず次の魔王が立ち上がることだろう!」
斯くて、魔王という悪は討滅され、人の世には平穏が戻った。勇者はその後、現在のパンヴァナフ王国を建国し、次の魔王軍との戦いに備えて国を発展させていった。
めでたし、めでたし。
現実とは比べることもおこがましいほどの、あまりにも都合の良い物語。けれども初代勇者は、それを成し遂げるだけの力があった、らしい。
当時は女神暦に移行してまだ数年だ。大神の影響が濃く残る世界では女神の加護は人類全てを包み、とりわけ勇者が女神から賜った力は、今の勇者の比ではなかったらしい。ジャウェンの力のすさまじさは、後世にも詳細に語り継がれている。歴史の叙述が正しければ、その力は後代の勇者の何倍もあったのだろう。
ジャウェンの冒険の後も、魔王と勇者の戦いは何度も行われている。
魔王を倒した後、聖剣は女神の加護の光を失い、ただの剣になってしまう。そして次の魔王が現れた時、人の世に新しい聖剣と新しい勇者が誕生する。これが十代も続いてきた勇者の歴史だ。
そして今代の勇者は今、ここに座っている。俺の隣に座るオスカーは、劇が終わった後でもどこか呆然としていた。
「オスカー!凄かったね!……オスカー?」
「あ、ああうん。カレンと一緒に聞いていた御伽噺の通りだったね」
その様子に、カレンが少し首をかしげる。言いながらオスカーはとても高揚しているようには見えない。不安を、不満を隠すように、無理して笑っている。
見覚えはなかったが、覚えはあった。俺にはその心理が誰よりも理解できた。演劇を通して、勇者という名前、その重さを改めて見せつけられた気分。自分もああならなくてはならないのかという焦燥、絶望。
当たり前のように人を救い、苦戦もせず魔物を倒し、ただ人のために尽くす、完璧な存在。初代勇者はまさしくそんな人類の希望の象徴だ。とても、俺や彼のような村人の少年になれるものではないのだ。そしてその偶像の姿は、人々の勇者という存在への期待を端的に表している。
「楽しんでいただけましたか、勇者様?」
オスカーの様子を眺めていると、近くから声がした。見ると、俺たちを劇場に招待した者、劇場の支配人がこちらに歩いてきていた。白髪の老人で、杖を突きながらも背筋がピンと伸びた紳士然とした上品な爺様だ。
「ええ、貴重な機会をいただきありがとうございました」
表情を改めたオスカーがすぐに立ち上がって礼を言う。応対する彼の畏まった態度も板に付いてきた。その礼儀正しい姿は村人にはとても見えず、上位の貴族でもない限り文句は言われないだろう。オリヴィアに叩き込まれた成果が出ているようだ。
「それは良かった。このジャウェン様の劇は伝統的に当時の勇者様に見てもらっているのですよ。かれこれ九百年ほど続く伝統です」
どこか遠くを見るように言う支配人に、オスカーの顔が少し陰った。九百年。その言葉の重みは今代の勇者だからこそズシリと重く感じる。勇者という名前にのしかかる歴史の重さ。
暗い表情のオスカーの代わりにさっさと会話を打ち切るように試みる。
「支配人様、本日は貴重な機会をいただき誠にありがとうございました。私どもはこれにて失礼いたします」
「おお、そうですかな。──それでは、勇者様がかのジャウェン様のように勇猛に活躍されることを祈っております」
……この爺、一番言われたくない台詞を最後に言いやがった。オスカーの顔が明らかに陰った。
薄暗い劇場の客席を出て、日の当たる表通りに出る。しかしオスカーの顔は陰ったままだ。
「オスカー、あんまり外野の言うことを気にするなよ。あんなの何の責任もない他人の戯言だぞ」
「……うん、ありがとう」
……まあ、そう言われても気にすることくらい分かっていたが。しかし外からこのうじうじした様子を見ていると腹が立ってくるな。思わぬ所で過去の自分を客観視して、俺まで少し憂鬱になる。
しかしあの言葉にこそ、人の無責任な期待が詰まっている。全部を助けて、全部を打ち倒す、無敵の存在。しかしいくら勇者といえどもあんな風になれないのだ。千年前とは訳が違うのだ。戦う過程で人は死ぬし、勝てないこともある。
まあ、今回は俺がいる。少なくともオスカーのせいで人が死ぬのはできるだけ避けてやることもできるだろう。きっと、そのはずだろう。
いつの間にか登り切っていた太陽は、真上から俺の楽観的な嘘を見ているようだった。
だいたい週一更新予定です