41 夜の終わり
僕の視界の端で高速で飛び回る赤い影。メメは休むことなく縦横無尽に動き続けてウラウスを翻弄し続けていた。大剣と爪が交錯して金属質な音を奏でる。両足で大地を踏みしめるメメに対して、ウラウスは重力など存在しないように中空にいられるようだった。常に高い位置からこちらを見下ろすその姿は、高貴さと傲慢さを想起させた。
「貴様などに用はない!忌々しい勇者と偽神の信徒を殺させろ!」
「勇ましいな臆病者!もう聖剣から逃げ回るのは止めたのか?」
「なっ──貴様!」
メメの挑発にウラウスの迫力が増す。メメの体を爪先が掠め、僅かな血潮が夜の空を舞った。しかしその動きは衰えていない。
彼女の体は、重力など存在しないように縦横無尽に飛び回り、それに合わせるように赤いポニーテールが跳ねていた。闇夜に舞う二つの影。目で追うのも困難なその光は、素早く動き目で追うのも困難だ。
「『彼の者に必滅の罰を!絶対の裁きを下したまえ!』」
周囲の吸血鬼の隙を縫って、いつもよりも長い詠唱。闇を切り裂くカレンの朗々とした声が響く。飛び出した光弾はカレンの体よりも遥かに大きい。ウラウスに向かっていった光弾はひらりと躱されてしまう。カレンが歯噛みする。きっと彼女は切り結んでいるメメの身を案じている。
彼女の剣は見ている者を不安にさせる。自分の身を顧みる様子が全く見られないのだ。その傾向は以前よりも強まっているように見えた。爪が頬を掠めるのを気にも留めない。鋭い蹴りが腹に突き刺さるのを全く避けもせず、突き出された脚に剣を突き立てようとする。細い体も、端正な顔も、既に傷だらけだ。
泥臭い、なんて言葉では足りない気がした。傷を増やすために戦っている、と言ってもいいかもしれない。
僕も加勢したいけど迂闊に動けない。周囲にいる敵はウラウスだけじゃない。号令によって集った吸血鬼は増える一方で、倒しても倒してもキリがなかった。夜闇にまぎれて亡霊たちは、天敵であるカレンの命を狙っているようだった。
「カレン、三時の方向!近い!」
「『女神よ、彼の者を罰したまえ!』」
ウラウスの方はメメに任せざるを得ない。闇の中からは、光に群がる羽虫のように、数多の吸血鬼たちが近づいてくる。夜闇に響く足音は未だ多数。神聖魔法を繰り返すカレンの体力も心配になるほどの物量だ。
「──ッ、カレンに近づくな!」
「『女神よ、彼の者を罰したまえ!』オスカー、メメちゃんが!」
「分かってる……!」
メメが地面に墜落していくのが見えた。助けにいきたいが、ウラウスの意識が常にこちらを窺っているのが分かる。致命傷になる神聖魔法を扱うカレンを殺す機会を虎視眈々と窺っていた。そうなることが分かっていたから、メメも僕に迂闊に動かないように言ったのだろう。
ウラウスの他には、あれほど強い個体はいないようだった。聖剣とまともに切り結ぶような硬質な爪の持ち主は存在しなかった。カレンの神聖魔法も極めて効率的に敵を浄化していた。こちらの状況だけ見れば、順調といって良かった。問題なのはその数。あまりにも時間がかかりすぎだった。
聖剣で吸血鬼を貫く。神々しい光が飛ぶたびに黒い影が倒れ伏す。もう少しだ。迫ってくる吸血鬼は徐々にその数を減らしている。もう少しでメメの助けに入れる。彼女は目を離すたびに傷を増やしているようだった。最初よりも明らかに動きが鈍っている。可憐な顔は今では血に覆われて見る影もない。
そこにいたのは、小柄な少女ではなく、悪鬼のようだった。全身から発せられている、刺すような憎悪と嫌悪。どす黒い血に塗れた顔の中で、目だけが爛々と輝いて鋭く相手を見据えている。
最後の吸血鬼の一団にカレンの神聖魔法が直撃する。三体がまとめて浄化されたのが見えた。もう周囲に敵の気配はない。
「メメ、下がって!」
今にも死んでしまいそうな彼女に声をかける。見ているほうが肝を冷やすほどギリギリで致命傷を避けている。しかし僕の言葉への返答は、予想外の方法で帰ってきた。
メメの体の動きが不自然に鈍る。ウラウスの爪が、ついにその中心を捉えた。重々しい、肉を貫いた音。致命傷に見えた。
「メメ!?」
「ガアアアア!ハッ!ハハハハハ!」
しかし、メメの動きはそれで止まらなかった。死にかけの体で、腹を貫かれたままでウラウスの腕を掴む。メメの穴の開いた腹部と両腕が、ウラウスの腕を拘束した。死にかけの体からは嘘みたいな迫力が発せられていて、彼女は死ぬまでその腕を離さないのだろうと思った。
「は、離せ!野良犬!見苦しいぞ!」
「カレンッ!」
「ッ!『女神よ、彼の者に天罰を与えたまえ!』」
「有り得ない!貴様のような何者でもない、勇者でもない人間に殺されるなどあり得ない!」
あまりにも捨て身の攻撃に面食らったウラウスは、死に物狂いの拘束から抜け出せないようだった。そのまま、カレンの発した光の弾が直撃する。ウラウスの全身から力が抜ける。
あまりにもあっけない幕切れ。メメの体に腕を突っ込んだままで、ウラウスは地面に倒れ伏した。その瞼はもう、二度と開くことはなかった。最古の吸血鬼は、今ここに300年の生を終えた。その表情は屈辱にまみれていて、その最期がひどく不本意であったことが窺えた。
折よく、空が白みはじめていた。
◇
ウラウスはもう二度と動かない。神聖魔法をまともに受ければ、どれだけ強力な吸血鬼であろうとも絶命は免れない。それは三百年を生きたウラウスとて例外ではない。俺の内臓の破壊と引き換えに、奴はその仮初の命を落とすことになった。
朝が来るまでに砦を落とせなかった以上、吸血鬼たちの敗北だ。朝日の元では彼らは満足に活動できない。あとはもう、騎士団だけでも十分だろう。
「メメちゃん大丈夫!?」
カレンが駆け寄って来たのが分かったが、返事をする気力はなかった。ウラウスの死体と共に地面に落ちた姿勢のまま、俺は瞼を閉じた。
俺が目を覚ましたころには、太陽はすっかり真上まで登っていた。砦の一室らしきところで寝かされていた俺は、ゆっくりと上体を起こす。そして頭痛に顔を顰める。全身が倦怠感を訴えかけてきていた。しかし自分の体を見下ろしても外傷はもうなかった。治癒は済んでいるらしい。体の状態を確認した俺は、自分が見知らぬ服を着ていることに気付いた。
白い、これといった特徴のない服だ。そして、今の俺の小さな体にはサイズが合っていない。少し体を伏せると、ぶかぶかのシャツが垂れ下がり、下着に包まれた貧相な胸部がチラチラ見えた。
……誰が着替えさせてくれたのだろうか。赤子のように服を取り換えられる自分の姿はあまり想像したくなかった。
ズボンの裾を何回も折って、足をなんとか出す。ようやく歩けるようになった時に、カレンが部屋に入ってきた。
「あ、メメちゃん起きたんだ!良かったぁ」
「カレン……。どうしてここに?」
「メメちゃんのお世話はアタシが請け負ったからね。あ、その服ぶかぶかでごめんね。予備の服、男の人のサイズのやつしかなくってさ」
俺はカレンに着替えさせられたのか……。その絵面を想像して羞恥心を感じながらも、現状を聞く。
「あの後何事もなかったか?」
「うん、あの一番強いやつを倒した後は、騎士の人たちがあっさり吸血鬼たちを撃退しちゃった。今も警戒してるらしいけど、もう大丈夫だろうってさ」
「……被害はどうだった?」
「騎士の人たちと聖職者の人たちが何人か殉職しちゃったって。でも敵の規模のわりに大した被害にならなかったって言ってた」
大した被害じゃない、ってなんだろうね、とカレンは独り言のように呟いた。
「メメちゃん、お腹は空いてる?水ならここにあるよ」
「ああ、頂くよ」
持って来てもらった食事を始めてからも、カレンは部屋を離れようとはしなかった。何故かニコニコしながら俺がパンを咀嚼する様子を眺めている。
「……俺の食事なんて眺めてて楽しいか?」
「うん!その豪快な食べ方を見てると、なんていうか生きてる、って感じがする!」
なんだそれは。満面の笑顔で返答されてしまう。視線に若干のやりづらさを感じながらも、やや硬いパンをもしゃもしゃと食べ進める。
しばらくの沈黙の後、その笑顔の質を少し変えたカレンが、ポツリと呟いた。
「でも、メメちゃんが元気で良かった。正直、このまま起きないんじゃないかな、なんて思っちゃったよ。ハハ」
冗談めかして笑うが、彼女の目は真剣だった。
「──本当に、良かった。あそこで倒れたメメちゃんを見て、もう起きないんじゃないかと思ったから」
「……そうだな」
しばらくの沈黙。カレンは何かを考えこむように少し俯いていた。
「ねえ、メメちゃん」
「なんだ?」
「どうして君は、あんなに自分を大事にしないの?」
「……」
それは俺が、数多の失敗の、罪の上に立っているからだろう。答えはすぐに出たが、口にすることはできなかった。
「メメちゃんは見ていて不安になるよ。目を離したらどっかに行っちゃうんじゃないかって思う」
「どこにも行かないよ」
「うん、そうかもしれない。ただの根拠のない不安なのかもしれない」
根拠のない俺の言葉に、でもね、とカレンは透き通った声で続けた。
「君が何を思っているのか、どうして戦うのか、話してもらえないかな、って思う」
「──それは、できないよ」
できるはずがない。蘇りが禁忌だからではない。俺が俺の罪を全てさらけ出すなど、怖くてとてもできない。醜い俺に対して、カレンの言葉はどこまでも暖かい。
「でも!アタシはメメちゃんの言葉に救われた!君に手を差し伸べられたアタシは、君にも何かしてあげたい!困っているなら、苦しんでいるなら、手を差し伸べたい!…………そんなお節介、図々しかったかな」
そんなことないよ、と否定したかったが、言葉は出なかった。何も言えずしばらく無言でいると、俯いていたカレンは急に立ち上がった。
「ごめん、変な事言った!メメちゃんはしばらく安静にしててね。じゃあ!」
こちらも見ないで言うと、カレンは部屋を出ていった。何も言えなかった。
手元のパンを口に入れる作業を再開する。硬いパンは嚙んでも嚙んでも、中々喉を通らなかった。最後に彼女が吐露した想いが、頭の中を反響していた。
第二章、これにて完結です