37 執着と憎悪
最古の吸血鬼、ウラウスはいつものように堂々とした足取りで、城内を歩いていた。人間領への単独での侵略。その準備はほとんど揃っている。後は機を待つだけだった。
吸血鬼の力が最も強くなるのは、星も月もない、最も闇の深い夜だ。満月の夜に力の強まる人狼種とは正反対と言えよう。
だから彼らは雲を待っていた。空の灯りを全て遮り、漆黒を齎す恵みの雲を。
思案するウラウスの元に駆け寄る吸血鬼の姿が一つあった。それはウラウスの前に跪くと、恭しい態度で報告しはじめた。
「ウラウス様、ミーミラからまた血液の要望が届いております。いかがいたしましょうか」
「構わぬ。すぐに持っていけ」
「……しかし、恐れながら申し上げますが、ミーミラからの要望はもう今月だけで三度目です。あれはもう必要、というよりもただの贅沢と言えるのではないでしょうか」
「いいや。あれは少々体の調子を崩しているようだった。玉座の間に集った時にも少し様子がおかしかった。血を飲めばいずれ回復するだろう。持っていけ」
「ハッ!」
ウラウスの同胞を見る目に間違いはなかった。尊大な態度を取り、気に食わないことがあれば他の魔物と戦うことすら厭わないウラウスであるが、こと同じ吸血鬼が相手であれば、良い君主であろうとし続けていた。
前回の大戦で採取した人間の血のストックはまだ残っていた。百年前の大戦の折、吸血鬼は初めて人間の血液の備蓄を試みていた。ウラウスの提唱した未来を見据えたその策は実を結び、前大戦から生き残った吸血鬼の数は、かつてないほどだった。
仲間に血を分け与えるウラウスの姿は、他種族に対する冷酷で残忍な態度とは全く異なり、ひどく寛大だ。
ウラウスは、吸血鬼という種族は他のあらゆる生き物よりも上位の存在であると信じていた。吸血鬼こそが他のあらゆる生き物を統治し、支配するべき優れた種族であることを少しも疑わなかった。優れた知性と肉体を鑑みれば、それは当然の結論だったのだ。ウラウスには、他の生物すべてが愚昧で脆弱に見えていた。
だから魔王などにはもう従わない。吸血鬼こそが、その主たるウラウスこそが、王としてこの大陸を制覇し、あらゆる生物を支配下に置き、優れた知性に基づいて統治を行うべきなのだ。その優越感に浸った歪んだ思想は、三百年の時を経て揺るぎない確信に変わっていた。
思考するウラウスの美貌を、月明かりが煌々と照らしていた。雲の少ない今宵は、満月が夜の主役であると言わんばかりに堂々と輝いていた。忌々しげにそれを一瞥すると、ウラウスは再び思考を巡らす。
同胞ナハルの命と引き換えに得た偵察の情報を鑑みても、吸血鬼の戦力が不足しているとは思えない。目標の砦の常在戦力では、吸血鬼の鋭利な牙の進撃を止めることは叶わないだろう。
そして砦を突破すれば、待ちに待った血の略奪だ。街に侵入し、人家を蹂躙し、弱者を弄び。そして人間を眷属とする。同胞を爆発的に増やした吸血鬼は、もはや誰にも止められない世界最強の軍勢となるだろう。
そのまま広大な人間領の征服を成し遂げれば、全ての生物が認めるだろう。魔を統べ、人間を支配するに相応しいのは、誇り高い最古の吸血鬼、ウラウスであると。
そのために真っ先に打ち砕くべきは、勇者だろう。ウラウスは自分の執念めいた想いの起源を思い返す。あらゆる魔物を斬り伏せるあの聖剣の輝きを、ウラウスは二百年経っても覚えていた。
二百年前、ウラウスは当時の八代目の魔王に付き従って人間領への侵攻に参加していた。当時から、ウラウスは強力な魔物だった。その剛腕は鋼をも砕き、ひとたび魔法を放てば百の雑兵を薙ぎ払った。夜しか戦えなかったにも関わらず、戦果は魔王軍随一だった。奢っていたのだろう。魔王以外に自分に勝てる存在はいないのだと。自信は誇りとなり、プライドとなった。
そして、そんなウラウスの心を打ち砕いたのが、八代目の勇者だった。
満月の夜だった。月光によって、ウラウスの力は多少弱まっていた。しかし、それでも尚その爪は骨すら断ち切り、魔法で数多の人の命を弄んでいた。
その時のウラウスにとって戦争とは、殺し合いとは、遊びだった。自分の強さを、弱者を殺すことで証明する、自尊心を満たす遊び。それはいつも一方的で、命の危機など感じたことがなかった。
月光に照らされた戦場の一角、弱者を甚振り悦に浸るウラウスの前に、それは現れた。彼女は、勇者は、一見他の人間と大して変わりなく見えた。ウラウスは何の感慨もなく、他の人間と同じようにその人間も磨り潰すつもりだった。
しかし、彼女が黄金色の聖剣を抜き放ち頭上に掲げるとその印象は覆されることになった。全身から発せられる、相対しているだけでも身が震えるような存在感。ウラウスの体は本能的な危険を感じて小刻みに震え出した。
その満月のような黄金色の剣の光に、ウラウスは初めて本能的な恐怖を抱いた。
実際、勇者の力は圧倒的だった。ひとたび聖剣を振るえば大地すら震わし、魔法を放てば千の魔物を跡形もなく消し去った。
あまりの迫力に近づくことすらできなかった。戦うまでもなく完敗であることが分かってしまった。ウラウスはそこで、人生で初めての敗北を経験した。
勇者の手の中で煌々と輝く、満月よりもずっと眩しい聖剣の光。そしてそれを使いこなす先々代の勇者。その輝きに恐れをなしたウラウスは、情けなくもその場から逃げ去ったのだ。
思い出すだけでも屈辱に震える思いだった。ウラウスは歯嚙みする。あの時のウラウスは、無傷で住処まで帰ってこれた。しかし、彼の心はこれ以上ないほど打ちのめされていた。その時のウラウスは自分の生まれ持った強さに絶対の自信と誇りを持っていた。
誰よりも人間を殺して、あらゆる魔物に自分を認めてもらうのだと意気込んで、人間領への侵略に参加したのだ。しかし結果は無様な敗走。彼は勇者に立ち向かうこともせず、ただ惨めに逃げてきたのだった。その屈辱は、二百年の間プライドの高いウラウスの心を蝕んでいた。
その屈辱は、執着とでも言うべき歪んだ思考をウラウスに刻み込んだ。この手で勇者を殺す。そして、自分の屈辱を清算するのだ。
会う前から、ウラウスは決めていた。今代の勇者こそ、この手で殺すのだ。自分が勇者に、聖剣に、負けない存在になったことを証明する。ウラウスのそれは、自身の過去への歪んだ執着であり、そしてその衝動は、今の勇者を完膚なきまでに叩き潰すことで完遂されるだろう。
俺のトリギス砦であてがわれた私室には、ベッドの横に小さな窓がついていた。今夜は騎士たちが交代で見張りをしている。本来なら俺は、吸血鬼の襲撃に備えて休みを取るべきだった。しかし眠れなかった俺は、ぼんやりと夜空を見上げていた。
不眠なのは、最近見ていた悪夢に関係しているのだろう。ぼんやりと、カレンを斬った時のことと、ウラウスと対峙した時のことを思い出した。
夜の風が小さな窓を通り、俺の頬を差した。無益な回想を打ち切り、空を眺める。部屋の小窓からは月や星は見えなかった。今夜は満月だったはずだが、俺の視界に映るのは夜闇だけだった。
飲み込まれそうな空の黒を眺めていると、再び思い出す。吸血鬼との、ウラウスとの戦いを。強靭な肉体と優れた魔法は未熟な俺を何度も殺した。あれとの戦いに勝てるようになったのは、俺が人生を三十年ほど過ごした後だっただろうか。
あまりにも勝てなかったので恥知らずにも戦いを避けたことすらあった。そしてその時には大勢の人が死んだ。
そして今の俺はきっと、ウラウスに勝てなかった頃の俺と変わりない弱さなのだろう。小さな小さな手をギュッと握りしめた。
それでも、あいつだけは俺の手で殺さなくては。蘇ってくる記憶の渦が復讐心を訴えかけてくる。爪に貫かれた記憶。牙にかみ砕かれた記憶。焼き尽くされた記憶。血に溺れさせられた記憶。人の肉に窒息させられた記憶。
そしてそれら全てに付随する、アイツに人を殺させられた記憶。あいつを殺すのは俺の贖罪なんかじゃない。俺は人の生を弄んだあいつを殺して、全ての命に捧げなければ。それが俺の、見殺しという罪を犯した俺の責務だ。
無意味な回顧に、意味もなく感情が昂る。憎悪の渦巻く脳内は沸騰して、どうにかなりそうだった。意味もなく、夜闇を打ち砕くように拳を宙に強く突き出す。星も月も、それを見てはいなかった。