32 吸血鬼との遭遇
夜の帳が下りた。これからは魔の時間、吸血鬼も活動し始める危険な時間だ。幸いにも、今日はずっと晴れたままで、夜空には雲一つ見えない。宵の空には、星が美しく輝いている。黒い影が現れても、見逃すことはないだろう。
装備を整えた俺たちは、砦の一番高いところ、見張り塔の一角に陣取って、周囲の警戒に当たっていた。灯りを消して、五人で固まって座った。
季節柄、夜間に外で待機し続けるのはさほど苦痛ではない。しかし生ぬるい夜風が頬を撫でる感覚は、あまり気持ちの良いものではなかった。
夜空にはしばらく何の変化もなく、待機は非常に退屈だった。変化がないまま上空を見張り続けて、もう三時間ほど経っただろうか。
「あ、見て見てオスカー!あの明るい奴、村で見てたのと同じやつじゃない?」
「ああ、そうかもね。カレンはすっかり星に夢中だね……」
もう集中力がすっかり限界らしい。少し前までは真面目に上空を監視していた二人は、既に星空の下で楽し気に雑談を始めていた。まあ無理もないか。
先ほどまで目を細めて監視をしていた公爵令嬢様、オリヴィアの様子を確認すると、いつものキリッとした表情が崩れている。目がトロンと細められていて、覇気がない。時折ハッとすると、いつものキリッとした顔に戻るが、すぐにまた眠たげに目を細める。まじめに見張る気はあるが体がついてこないらしい。
一方、ジェーンのほうは最初と全く変わらない姿勢で上空をじっと見つめていた。永くを生きた女神の眷属にとって、退屈はさして苦痛ではないらしい。一番忠実に哨戒をこなしている。最初からずっと微動だにしないその姿は、木製の彫刻に戻ったかのようだ。
勇者パーティーの面々を全体的に見て、とても魔物を警戒しているようには見えなかった。少し前まで普通の少年少女だった彼らに哨戒任務はきつかったか。見立ての甘さを思い知る。
「無理をさせてしまったな、悪い。今日はもう戻ろう」
俺の声に驚いたように、オリヴィアがびくりと体を震わせた。どうやら半分ほど眠りについていたらしい。
「あ、ごめんね。全然集中してなくて」
「仕方ないさ。こんなの誰だって飽きる」
どのみち今日すぐに吸血鬼に遭遇するとはあまり期待していなかった。もう何日か張り込むつもりだったのだ。弛緩した空気が漂う。各々が立ち上がり、持ち込んでいた食料などを掴み、撤収準備をしていた。
座り込んだままで俯いたオリヴィアの頭が、少しずつ下へ下へと沈んでいく。……せめてベッドまで耐えて欲しい。
しかし、緊張が解けて、各々が眠るために戻ろうとしたその時、ジェーンの鋭い警句が場を切り裂き、一気に空気を変えた。
「――来ました!吸血鬼です!」
緩んだ空気が一気に引き締まる。全員が一斉に顔を上げた。視界の先には、夜空に浮かぶ黒い影があった。
「『光よ、我らの視界を照らし給え』」
眠気を感じさせない、オリヴィアの詠唱が響く。一条の光が夜闇を切り裂き、黒い影の全容が明らかになった。
まず目立つのは、黒々とした蝙蝠のような羽。硬質で、艶艶とした美しいとまで言えるような大きな双翼は、しかし人型の背中から生えているという事実一点を以て、この世のものとは思えないほどの異物感を生み出している。スポットライトの如く照らされた吸血鬼の顔がこちらを向く。
その美しい顔は、人間の男であるようだった。無駄な贅肉のそぎ落とされた白く細い顔は、非現実的なまでの美麗さだ。白昼の街中を歩いていたら、それだけで注目を集めただろう。しかし、その仮定が現実になることはありえない。あの化け物は吸血鬼。夜に生き、人の血を啜る化け物だ。
「気張れよ!折角見つけたんだからきっちり倒すぞ!」
吸血鬼は人の血を啜って眷属を増やすという性質上、生きているだけで人間にとっての脅威だ。生かして帰す理由もない。
それに、こいつを倒せば吸血鬼の侵攻が始まっていることが王国にも伝えられる。騎士や聖職者の派遣を要請するなど、警戒を促すのも容易になる。
「『炎よ、炸裂し、我が敵を打ち倒せ』」
嚆矢の如く打ち出された、オリヴィアの魔術による火球が吸血鬼に直撃し、爆発した。稲妻が光ったように、一帯の闇が一瞬パッと照らされる。
黒煙の中から姿を現した吸血鬼は、予想通り全く傷を負っていないように見えた。美しい顔を血への渇望に醜く歪めて、こちらを見ている。
「来るぞオスカー!受け止めるぞ!」
「うん!」
彼が言い終えるか否かといったその瞬間、俺の体の前に出した大剣を衝撃が襲った。手、どころか腕全体が痺れるような質量。軽すぎる体重をかけて、何とか堪える。
「メメから離れろ!」
オスカーが大剣を鋭く振り下ろすと、俺に襲い掛かっていた吸血鬼は素早く上空へと戻っていった。高度を上げていくそれに対して、カレンの神聖魔法が襲い掛かる。
「『女神よ、彼の者に天罰を与えたまえ!』」
生み出された神々しい光を纏う弾丸は、対象をかすめて上空へと消えていった。
仕切り直し。美しい顔を醜く歪めた吸血鬼は、まだやる気のようだ。質量すら感じるほどの殺意を籠めて、こちらを鋭く睨みつけている。
「カレン!神聖魔法は味方に当てるつもりで撃っていい!どうせ害はない!」
「分かった!」
「オスカー!次はカレンが狙われるぞ!さっきみたいに素早く動けよ!」
「任せて!」
吸血鬼の禍々しい気配が高まる。それは殺気であり、そしておそらく、人間の食欲に似た吸血欲求の解放だ。蝙蝠のような羽が高速で動き、風が鳴り、人間大の体が冗談みたいな勢いで突っ込んでくる。狙いはカレン。吸血鬼にとって致命的な、神聖魔法を扱う少女。
「オスカー!」
「――クッ」
この世で最も強い武器である聖剣と、吸血鬼の爪がぶつかり合う。オスカーの体が凄まじい力を受けて、じりじりと後ろに下がる。吸血鬼のかぎ爪は、聖剣とぶつかり合っても折れる気配はない。決して弱い個体ではなさそうだ。
「『女神よ、彼の者に天罰を与えたまえ!』――当たらない!どうして!?」
再び、カレンの溌剌とした詠唱が夜闇に響く。しかし放たれた光弾は、予想していたように体を捩って躱される。俺は苦し気な顔で耐えているオスカーの援護に向かう。
全力で振り下ろした大剣は、硬質な爪で受け止められる。激突の瞬間に剣先に火花が散った。
「――ッ!オスカー!力で押し負けるなよ!カレンが死ぬぞ!」
「分かった!クソッ、押し返せない……」
常人を遥かに凌駕する怪力の人間二人に攻め込まれて、吸血鬼は一歩も引かなかった。片腕一つで俺たちの剣を抑えながら、その体はビクともしない。
自分の思うように力の出ない細腕が恨めしい。やはり、今の俺に純粋な力比べは向いていない。
苛立ちを籠めて吸血鬼の顔を睨みつける。よく見れば、その吸血鬼の顔には見覚えがあった。この美しくも獰猛な顔は、大戦の終盤まで残って猛威を振るっていた、剛腕の吸血鬼、ナハルではないか。どうやら俺たちは、いきなり強い個体と遭遇してしまったらしい。
オリヴィアの炎が再びナハルの体を燃やすが、あまりダメージを受けているようには見えなかった。カレンの神聖魔法が再び飛ぶが、またもや体を捩って避けられる。
神聖魔法という明確な弱点がある吸血鬼が厄介な魔物として知られているのは、この俊敏な動きが討伐を困難にしているからだ。
「あ、当たらない!どうして!?」
「落ち着けカレン!俺が絶対に隙を作る!」
しびれを切らしたナハルが翼をはためかせ上空へと戻る。その尋常ならざる気配から、血の渇望が最初よりも高まっているようだ。
きっと今度の突撃は、先ほどまでよりもずっと野性的な、予想のつかない攻撃となるだろう。剣を握る手に力が籠る。激突の瞬間に備えて神経を研ぎ澄ませて、気付く。
自分の後ろ、先ほどまで息を潜めていたジェーンの魔力が高まっている。
「『雷よ、罪科に相応しき罰を与えたまえ』」
古臭い詠唱に応じて、雲一つない晴天の夜空から雷が落ちた。それは狙い澄ましたように、一直線に吸血鬼を撃ち抜く。耳をつんざく轟音が響いた。
雷。大神暦の記述によればそれは、大神の下す天罰そのものであった。天から落ちる稲妻に撃ち抜かれた蝙蝠の羽を持つ異形は、その場に力なく倒れ伏して二度と起き上がることはなかった。
「――すごい」
呆然としたオスカーの声。絶大な破壊力を持った稲妻は、寸分たがわず対象である吸血鬼を撃ち抜き、その歪んだ命を奪った。
「すごいですジェーンさん!吸血鬼みたいな強い魔物を一撃なんて!」
「ありがとうございます。ですが私の詠唱は非常に長いので、この戦果は時間を稼いでくださった皆様のものですよ」
「さっきの神聖魔法も古代魔法というものですの?」
「その通りです。現在広く使用されるものとは異なるものですね。隙が多い分効果は折り紙つきです」
話しながらも、雷に打たれて黒焦げになった吸血鬼の遺骸に近づく。間違いなくあの一撃で絶命しているようだった。ピクリとも動かない。生命力も魔力も高い吸血鬼を一撃で屠ったことを鑑みるに、あの荒々しい稲妻は確かに神聖魔法だったらしい。
「ひとまず騎士たちに吸血鬼を撃退したことを知らせよう。他にも吸血鬼がいるかもしれない。今のうちに砦に聖職者を集めるように進言しておこう」
「そうだね」
そこまで言ってから、少し思案する。今回のようなケースには覚えがあった。随分と強い個体が一体だけ現れて、トリギス砦で戦闘になる。
予測は付く。先手を打っておくべきだろうか。迷いが生まれて、ちらとオスカーの様子を見る。彼はまだ何かあるのかと俺の方を見ている。瞳に映るのは、温かく、確かな信頼。……むず痒いことこの上なかった。そんな顔をされては、頼るしかないではないか。
「オスカー、一つ頼みがある」