29 バッドエンドの記憶 人だったものを殺す
予想通り、その日は夢を見た。今日滞在するナルティアの街が蹂躙される夢。そして俺が、カレンを殺す夢。
吸血鬼という魔物は、一体一体が強力で、厄介な相手として知られている。強靭な肉体に、発達した知性、そして個体によっては魔法すら使いこなしてしまう。
そして何より、その最大の特徴は仲間を増やすことにある。吸血鬼の食事は人間の血だ。そして血を吸った際に、人間を吸血鬼の劣化種、眷属にすることができる。
眷属とは、長く生きれば吸血鬼になる、赤子のようなものだ。
人間が吸血鬼に成る前の姿、眷属とは一言で言えば歩く死体だ。死んだ体に知性はなく、ただ血を吸いたいという本能のままに彷徨う。しかしその肉体は生前よりもずっと強く、何の訓練も受けていない成人男性くらいなら簡単に押し倒す。
厄介なのはその繫殖力だ。眷属に血を吸われた人間もまた、眷属となる。放っておけば、大きな街の一つくらい壊滅してしまう。
そして大抵の人間は、同じ人間を殺すことには躊躇うものだ。
夜の空を、月の光が煌々と照らしていた。晴天の夜は普段よりも少し明るかった。
だから、色々なものが見えた。
吸血鬼が襲来したという報告を受けて駆け付けたナルティアの街は、既に地獄のような様相だった。死体がそこら中に転がっているのではない。そんな見飽きた、ありきたりの地獄ではなかった。
吸血鬼に血を吸われた人間の死体は動き出して、かつての隣人であった人間に襲い掛かかっている。吸血鬼の眷属を作る能力の影響だ。
吸血鬼に襲われた住民は次々と眷属という名の、歩く死体と成っていた。そして、眷属は眷属を生み出す。街では吸血鬼の眷属がネズミ算式にどんどん増えている。
他の魔物との戦いとは決定的に異なる、内側からの侵略。街の近くの砦から駆け付けた騎士団も苦戦していた。
「待ってくれジュリア!正気に戻れ!俺だ、――ガアアアア!やめろ!やめろジュリア!」
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!もう盗みはしないから!ちゃんと言うこと聞くから!ああああああああああ!」
切羽詰まった悲鳴がそこら中から聞こえてくる。大の男も、小さな子どもも、貧乏人も金持ちも、吸血鬼の優れた身体能力の前では等しく無力だった。
それは極めて不平等な鬼ごっこだった。逃げる者が捕まるたびに鬼の数が増えていく。そして鬼の方が圧倒的に足が速い。建物の中に隠れようとも、血に飢えた吸血鬼の鼻は誤魔化せない。捕まれば死よりも醜い、動く死体の仲間入りだ。
その惨憺たる状況から、街から逃げおおせた者がいるとは思えなかった。
街の一角では、座り込み、泣きわめく幼女が抵抗する暇すら与えられず、かつて住民だったものに首筋を嚙まれた。泣き声は悲壮な断末魔になった。それも、しばらくすれば聞こえなくなる。
やがて幼女だったものがゆらりと立ち上がる。新たな眷属、人間の天敵がまた一つ増えた。
その光景が目に入ってしまったカレンが息を吞む。蹂躙される街では、どこに目を向けても何かしらの悲劇が起こっているようだった。
「いやだあああ!誰か!誰か助けてえええええ!」
呆然としている僕らの目線の先で男の子が襲われていた。その背には住居の壁。しかし少し距離が遠い。
「急いで助けないと!」
「待ってカレン!先走らないで!」
状況を鑑みれば不注意だったと言えよう。しかしそれは男の子を助けるためには最善の行動だった。俺にはその優しさを咎めることができなかった。カレンはあまりにも凄惨な光景に平静さを失っている。
駆け出した彼女を追うように俺も聖剣を抜き、地獄への道を駆けだした。
かつて人間だったものを両断する。生々しい肉を断ち切る感覚。苦し気な表情を作ったそれは、ばたりと地面に倒れ伏した。
「ごめん!」
自分でも何に謝っているのか分からないままに言葉を発する。倒すべき敵を倒しているのではなく、守るべき存在だった人を殺している感覚。
特別強い個体がいるわけではない。ただ、斬るたびに心に何か重々しいものがのしかかってきた。
「『――罰したまえ!』……ウゥッ……」
カレンが瞳に涙を浮かべながらも人を浄化していく。神聖魔法を連発している彼女の体は疲労に小刻みに震えていた。どう見ても、彼女は無理をしていた。
「カレン!もういい!あとは俺に任せて!」
「そ、そんなことできない!こんなに苦しんでいる人がいるのに!アタシがちゃんとした終わりを迎えさせてあげないと!」
彼女の心意気はまさしく正しい聖職者のそれだった。しかし、彼女を襲う現実はそれよりもずっと残酷だった。
――俺はその時の不注意を、どれだけ悔いても悔やみきれなかった。
数々の吸血鬼とその眷属を切り捨てた俺は疲弊していた。肉体的な疲労もあったが、それ以上精神的な負荷が大きかった。
明確な敵である魔物ではなく、つい先ほどまで人間だったものを殺すことへの忌避。それに起因する疲弊。それらが俺の注意力を奪って、愚かな罪を犯させた。
俺が気付いた時にはもう手遅れだった。
神聖魔法の使い過ぎで消耗したカレンの背後から、動く死体と成り果てた女が襲い掛かる。動きの鈍った彼女はそれに気づかず首筋を深々と牙で貫かれた。
「カレン!?」
彼女の首にかみついた吸血鬼の眷属を斬り捨てる。力なく崩れ落ちた彼女は、俺の言葉に全く反応を示さなかった。牙に深々と貫かれた頸動脈はどう見ても致命傷で、返事がないのは至極当然だった。
そして、認めたくなかった現実が俺に牙をむく。カレンはゆらりと立ち上がると、光のない瞳を俺に向けて、ゆっくりとこちらに歩み寄ってきた。
「ァ……アア……」
「カレン!カレン!しっかりして!誰よりも女神様を信じていた君が魔に墜ちるなんて絶対にない!頼むよ、正気に戻って!」
それはあまりにも滑稽な戯言だった。目の前にあるのはどう見てもカレンではなく動く死体で、意識なんて残っているはずがなかった。
貫かれた首筋はどう見ても致命傷で、新鮮な血液が流れ続けている。それでもなおこちらに歩み寄ってくる様は、どう見ても人間ではなかった。
認めがたい、あまりにも悲惨な現実。なかば現実逃避に意識を飛ばしていたのだろう。気付けばカレンだったものの鋭い牙が、俺の首筋に迫っていた。
「――『聖剣よ!魔を断て!』」
脊髄反射と言ってもよい、もはや無意識の詠唱だった。眩い光を帯びた聖剣は、違わずカレンだったものの心臓を貫いた。糸の切れた操り人形のようにその場に倒れこむ彼女の遺骸。
駆け寄ると、宙を向く深緑の瞳は何も映していない。それを見て俺はようやく現実を観測することができた。
「アアアア!カレン!カレン!」
自分で殺したくせに、一番大切だった人に呼びかける。返事なんてあるはずもない。ただ二度と意識の宿らない瞳がこちらを見返すだけだった。
まただ。また俺が情けないばかりにカレンを殺した。自分の内から際限なく湧いてくる罪悪感に襲われる。
繰り返しているくせに、俺は何度他人を殺すのか。何度失敗するのか。
ぐるりぐるりと、まるで嵐の中の渦潮のように、後悔が脳内で回り続ける。
俺があの時に駆け出していったカレンを止めることができていれば。
俺が迫りくる吸血鬼を瞬時に倒すことができていれば。
俺がカレンに近寄る吸血鬼の眷属にもっと早く気付くことができていれば。
俺が彼女を斬り殺さなければ。
違う、俺が殺したんじゃない。いや、殺したようなものじゃないか。
俺が勇者だったから彼女はこの地獄に足を踏み入れた。
そうだ。俺が勇者になんてならなければ。
俺が、俺が、俺が、俺が俺が俺が俺が俺が。
後悔の螺旋に嵌まった俺は、背後から迫りくる牙を抵抗せずに受け入れた。
朝起きると、心臓がうるさいほどに鼓動していた。見たくもない最悪の結末が目の前に立ちはだかった時の、焦燥と絶望が織り交ざった最悪の気分。未だにカレンを斬った時の感触が、右手にべったりと残っているような気持ち悪さ。
彼女の心臓を貫いた感覚が気持ち悪くて、俺は自分でも目的が分からないままに部屋を飛び出した。
桶を取る。井戸から水を汲んで、手にかける。
かける。かける。かける。かける。消えない。
かける。かける。かける。かける。消えない。
かける。かえる。かける。かける。かける。かける。かける。
「消えない!」
水を汲んでいた桶を叩きつけた。木製の桶が石畳に撥ね、カコッ、という間の抜けた甲高い音がした。
叫んだ自分の声を聞いて、ようやく自分が支離滅裂な行動をしていることに気づいた。
どうすればこの苦しさは消えるのか。どうしてこんなに苦しいのか。
何度も繰り返した思考がグルグルと回り出す。気分が悪くなってきて、夢の中の記憶が鮮明に蘇ってくる。
しかし突如、全知全能たる大神からの天啓を受けたかのように答えを思い出す。
「――ああ、そうだ。俺はこの人生で苦しみぬいて死ぬんだ。そうやってあらゆる死を償わなければ」
どうしてこんなにも簡単なことを思い出せなかったのか!そう、痛み!痛覚こそが俺を開放する。人生とは苦しみを味わうことなのだ。
今、ただの人間としての生を受けた俺にはそれを味わう権利がある。義務がある。責務がある。そして痛みの先にある死こそが救いだ。そうであるはずだ。そうでなければならない。幸福など――
「あれ、メメちゃん!早いね!」
先ほどまで聞いていたような気がする声。カレンがこちらに歩み寄ってきていた。自らのこれからの幸福を全く疑うことのないような満開の笑顔。起床した直後からずっと離れなかった、手のひらの肉を断ち切る気持ちの悪い感覚が増した。
「……どうしたんだ?こんなに朝早く」
自分はいつも通りにふるまえていただろうか。カレンは何でもないような調子で話を続けていた。
「いやあ、なんか目が覚めちゃってさ。そうだメメちゃん、今日服買いに行くんだけど、一緒に来てくれない?また服選んであげるよ!」
楽し気に、無邪気に提案してくる。ああ、なんと幸せそうなのだろう。妬ましさを覚えるのも馬鹿馬鹿しくなるほどだ。
「ああ、一緒に行こう」
「あれ?また渋るかなと思ってたんだけど。素直だねー」
幸福らしいものに浸ること。それは俺にとって苦しみだ。何度もカレンを殺した。そんな俺に彼女は信頼を向けてくる。胸が苦しい。罪悪感でどうにかなりそうだ。
だから俺は、カレンと一緒にいることにした。ただそこにいるだけで自分の罪を償うことができるのだ。こんなにも幸せなことはあるまい。