21 バッドエンドの記憶 歪んだ平穏の末路
要らない話かもしれないけど僕はこういうのあった方が好きです
穏やかなバッドエンドの話です
それは俺の過去の記憶。人生の繰り返し、その一幕。そして存在しないことにされた記憶。それでも魂に刻み込まれて、時折思い出してはすぐに忘れる記憶。
何か嫌な光景を見ていた気がする。何度も何度も、それに絶望していたみたいだ。でも、それら全てを思い出せない。
目を開けると最初に目に入ったのは醜悪なオークの顔だった。眼前に迫ったオークの口の中で凶悪に尖った歯の間で、唾液がぬらぬらと蠢いているところまで見える。
知識に照らし合わせると、それは自分が食べられる直前の光景だった。普通の人間であれば泣いて赦しを乞うただろうか。それとも絶望して放心しただろうか。では、俺はどうだったかというと。
「どうぞ食べてください。あんまり美味しくないかもしれないですけど」
「いや抵抗しなさいよ!?」
オークの口元に腕を差し出すと、なぜか軽快に突っ込まれた。
「記憶喪失?」
「はい。自分の名前も思い出せなくて」
自分が何者だったのか思い出せない。普通はそれに恐怖を覚え、不安になるのだろう。けれども俺が感じていたのは安堵だった。自分が何者だったのか忘れ、今までやってきたことを全部放り出すことができたこと。それがたまらなく嬉しいらしかった。
一体俺は今までどんな人生を歩んでいたのだろう。見覚えのない肉体の状態から察するに、年の頃はだいたい10代の半ばといったところか。まだ人生に絶望するような年齢でもなかろうに。他人事のように俺は考えた。
「名前がないのは不便ね……。じゃあオニクにしましょう!貴方の名前は今日からオニク!」
「分かりました。よろしくお願いします」
「流石に抵抗ある名前だと思ったんだけど……」
ジョークのような名前だったが、特に否定する理由もないので頷く。実際彼らにとって俺は食料に過ぎない。オーク的には面白い名前だったらしい。デニスの仲間たちにもウケて、すっかりその名前は定着した。
彼らは食糧――人間のことだ――を求めて彷徨っている流浪の民らしい。何でも人の肉しか食べないために、オークの里には異端扱いされて、追放されてしまったらしい。不遇な境遇、と聞くだけで何故か同族のような気がしてきた。
この集団の中で俺は雑用のような役目を与えられた。主な仕事は清掃だ。彼らは最近オークなのに美意識のようなものに目覚めたらしく、身の回りを清潔に保つことにハマっているらしい。それはまるで人間だった。
俺のやることはもっぱら食べ残しの処理だ。人間の爪、髪の毛、眼球など、食糧にされた人間の残骸をまとめて、住処の遠くまで捨てに行く。常人であれば吐き気を催すような作業だっただろう。しかし、俺にとっては特に苦ではなかった。死体は見慣れているような気がしたし、血の匂いを嗅いでも何も感じなかった。
俺の記憶が違和感を訴えている気がしたが無視していた。今は、誰かの役に立てている。俺が役目をこなすとオークたちが口々に礼を言う。ありがとう。助かった。
それらを聞いていたら、これ以上良い生活は無いと思った。そう思い込むことにしていたのかもしれない。
時折、片づけている死体の眼球と目が合うような気がした。生気のないその瞳は、お前はそれでいいのかと問いかけられているようだった。
オークたちは外の気候などあまり気にせずに眠れるらしい。今日の寝床は草原のど真ん中だった。遮るもののない平野には時折穏やかな風が吹き抜けていた。
オークたちがうるさく寝息を立てながら寝静まった夜中のこと。うまく眠れなかった俺は、デニスが一人で星を眺めているのを見つけた。広大な草原に一人座っているその様子はどこか寂し気だ。ちょうど話がしたい気分だった俺は、デニスの横に座り込み、彼と同じ景色を眺めた。
月のない夜に草原から見上げる星々は煌々と輝いていた。
「オニク、どうしたの?」
星々から目を逸らさずに、俺の冗談みたいな名前を呼ぶ。常日頃人間をサディスティックに虐めている時とは打って変わって、ひどく穏やかな声だった。俺はこの機会にずっと疑問に思っていたことを聞いた。
「……デニスはどうして俺を食べないんだ?」
「なに?食べて欲しいの?」
「いや、まあどっちでも良いんだけど。純粋に疑問だったんだ。あんなに人間を食べるのに、どうしてずっと一緒にいる俺は食べないのかと」
連れてこられて食べられる人間を見るたびにこの生活への違和感が増している。これでいいはずがない。お前の背負ったものはそう簡単に投げ出せるものではなかったはずだ。内側から声がする。
星を眺めていても、熟睡するオークたちの低い唸り声がこの日常が歪んでいることを伝えてくる。
「相変わらず意味わからない死生観してるわね……。いい?私は人間の肉なら何でも良いわけじゃないの。食われるという恐怖に怯えて、歪んだ顔をした人間を食べたいの。分かる?恐怖の顔は美味しく食べるためのスパイスみたいなもの。私たちがその人間を征服したっていう証なの。その点あんたは失格。食べられることを全く恐れていない。歪んだ人間を征服しても何も楽しくない。私が恨んでいるのは、妬んでいるのは、知能と種族が合致して、何不自由なく暮らしている人間なの。不幸せそうな顔なんて飯がまずくなるだけじゃない」
そこでデニスは言葉を一度きった。そうして星空のほうを眺めていた、大きくて丸い目をこちらに向けた。
「……だからね、オニク、あんたは生きる意味を見つけなさい。幸せに生きる、その意味を。そうしたら、私が絶望するあんたの顔を眺めながら、美味しく食べてあげる」
デニスは醜悪な顔を歪めて笑顔らしきものを作った。相変わらず醜い顔と左耳に付いた可愛らしいリボンが不釣り合いだと思った。
俺が生きる意味を見つける日。そんな日が来るとは思えなかった。この夜空に光る星を掴むような、荒唐無稽な無理難題だと思った。
ひときわ明るい一等星に手を伸ばす。どれだけ届けと思っても、届くとは思えなかった。けれども、この居心地の良い生活が続くならそれでも良いと思った。
そんな歪んだ一時の平穏が終わるのは一瞬だった。なんの前触れもなく、俺は女神のいる神域に戻されていた。
「あれ……デニス……?」
「ふむ、百年を超えてから記憶の不備が多いな。今回は記憶喪失と来たか。魂の劣化が進みつつあるな。仕方がない。今回の記憶は消去。お前には前回までの記憶を植え付けてやり直しとしようか」
語りかけるというよりは一方的な宣言のようなその言葉。無機質な声が言うのと同時に膨大な記憶が頭に流れてきた。
勇者の使命、魔王の存在、仲間のこと、デニスへの憤怒、果たせなかったこと、救えなかった命、失敗した記憶、失敗した記憶、失敗した記憶、失敗した記憶、失敗した記憶。思い出したくもなかった記憶の濁流の中に、あの夜のデニスの醜い笑顔が流れていき、消えていった。
幕間③ 大神の定めた三禁
人間の本能にまで刻まれた絶対の法、三禁。全知全能の大神は、定命の者の手に余る事象としてそれを禁じたと伝えられている。破った人間はあらゆる人間からの侮蔑と憎悪を免れない。
その一つ、「大神以外のあらゆる存在が命を創ることを禁ずる」という項目は、今日の魔物と人間の対立関係を理解する上で重要な意味を持つ。
人間は大神が自ら創った存在だ。伝承によれば泥から最初の二人の男女は創られたらしい。そして人間は自ら子どもを作って子孫を増やしていった。出産による子作りは「命を創ること」には当たらない。なぜならそれは大神が人間を創った際に与えた機能であり、一から命を創りだす行為ではないからだ。だから普通に生活している人間は三禁など破っていない。
それに対して魔物、と呼ばれる生命体は誕生したその時から三禁に反している。魔物は大神に創られた命ではない。魔物の原点を辿れば、全て叛逆神から生まれているのだ。大神亡き後も世界に残り続けた数少ない神。人間が名付けたその忌み名はサタン。大神に真っ向から叛逆した、堕ちた神。この神は大神の作った法に真っ向から叛逆した。
叛逆神は人間に似た形で、されど人間とは決定的に異なる部分を持つ異形の存在、魔物を創り始めた。この事実こそが人間と魔物との対立を決定的なものにしている。人間は三禁に背いた存在である魔物に対する嫌悪感を本能にまで刻まれている。
例えば、魔物と人間のハーフの子どもなど生まれたなら、人間はその子どもを八つ裂きにした上で火炙りにするだろう。領土の争いなどなくとも、人間と魔物は殺し合う運命にあるのだ。
大神亡き後の女神暦はそろそろ千年を数える。叛逆神はだいたい百年周期で魔王と呼ばれる強力な魔物を生み出している。魔王は人間の領土に攻め込んできて、そして歴史上例外なく、勇者と呼ばれる、女神に選ばれた人間によって滅ぼされている。魔王と勇者の殺し合いは、叛逆神と女神の代理戦争と言ってもいいかもしれない。
今日もう一話投稿して一章は完結です