19 悟り
贖罪の答え合わせです
こんなタイミングで過去を思い返すということは、きっとそのことに何か意味があるのだろう。
勇者が過去に戻る前には、女神のいる神域に意識だけが飛ばされる。俺の視界すべてが眩い光に包まれている。現実感を喪失する光景だった。神域では、神々しい光の他には何も見えない。地面も、地平も、空も存在しない。自分が立っているのか座っているのかも分からない、気持ちの悪い感覚。
しばらく目を凝らすと、光の奥にぼんやりとした人型の輪郭が見える。あれが女神の姿らしい。見るだけで畏怖を感じるほどの巨大な質量。自分の十倍はありそうな巨大な体躯だが、遠近感を喪失したこの空間では実際どの程度大きいのか分からない。
予期せぬタイミングで過去遡行させられそうになっている俺は激昂していた。
「何故だ!?まだ俺は死んでいなかったのに、どうして巻き戻した?」
「あのままでは貴様の精神が死んでいた。肉体は蘇るが精神は一度壊れれば元には戻らぬ」
感情の伴わない女神の声が聞こえる。巻き戻しは女神の一方的な決定で行われている。しかし今回に限ってはその決定に異を唱えずにはいられなかった。
「まだ、まだ逆襲の目はあった!!」
「それが間違いであることはお前も把握している。単に感情的になっているに過ぎない」
「そうかもしれない……。そうかもしれないが……」
俺だけが逃げるなんて納得できない。完敗だった。総力戦の末に、勇者パーティーは全員が魔王軍に捕らえられた。蛆虫の這いずる地下牢の中、仲間は一人ずつ殺されていった。腕が斬り飛ばされて、火炙りにされて、一人ずつ嬲り殺される。
何よりも大切だったカレンの悲痛な断末魔を聞いて、誰よりも愛しく思っていたオリヴィアの苦痛に喘ぐ声を聞いた。
次が俺の番だったのだ。牢から引きずり出されて、足枷の鎖を地面に擦りながら汚い廊下を歩かされる。散々仲間の悲鳴を聞かされた後だった。わめき声、すすり泣き、叫喚、罵声、断末魔。全てが耳にこびりついて離れない。
もはや俺が感じるのは痛みへの恐怖ではなく、仲間の後を追えることの喜びだった。ようやく自分の罪を償える。そもそも俺たちが負けたのも俺のせいなのだ。勇者である俺が何とかできなかったからだ。それなのに、仲間が苦しめられている現状はとても苦しかった。いっそ殺してくれと何度も思った。
暗い地下で俺の頭に浮かんだのは、勇者の使命などではなく、魔物への復讐心だった。どちらにせよ俺は簡単には死なないのだ。拷問でもなんでも受けて油断させて仇を取ってやる。
しかし、現実逃避にも似た破れかぶれの決意は叶わなかった。気づけば女神の手によって俺はあの世界からいなくなっていたのだ。仲間は殺されて、俺だけが死を、苦しみを、罰を免れた。
「であれば……」
思い返すと思考が熱に犯されたようにぼんやりとする。薄暗い牢獄の中での願望が今、口をついてでてきた。
「……であれば、お前が俺を罰してはくれないか?」
「……それはどういう意味だ?」
「お前は元々人を裁く神なんだろ!?であれば目の前の俺を消すくらい造作もないだろ?」
「私は罪人しか裁かない。そしてその役目は今は負っていない」
「目の前にこれ以上ない罪人がいるだろうが!何人殺したのかお前だって見てきただろう!?人も魔物も殺しまくってここにいるんだよ!そしてやり直せばそれを誰も覚えてない!誰も俺の失敗を糾弾してはくれない!…………もう、終わりにしたい」
ずっと前から考えないようにしていたことが口をついて出てきた。裁かれたい。この罪深い生に終わりを告げて欲しい。死が終わりではない俺の中で、その願望は半ば無意識に形成されていた。しかし、どれだけこちらの言葉に熱が籠ろうとも、女神の言葉は無機質だった。
「第一に、先ほども言ったように大神なき今、私が直接人を裁くことはない。第二に、私の、女神の意志の代行者であるお前の行動は全て善なるものだ。是非などない。神の力を授かるとはそういうことだ。……混乱しているようだな。仕方がない。今回の記憶は封印を施しておこう。さあ、もう一度、何度でもやり直そう。正しい人類の歴史のために。魔王という間違いを正すために」
理解できない言葉に呆然としていると自分の周囲の光が輝きを増している。過去への転送の合図だ。
「俺の罪を忘れろというのか!?ふざけるな!!そんなのは罪を重ねるようなものだ!頼む!せめて記憶だけは残してくれ!!」
「貴様の旅路に亡き大神の加護があることを祈っている」
神らしからぬ女神の最後の一言が、思い出した最後の記憶だった。十数年ぶりに蘇ったその記憶は、ずっと抱えてきた罪悪感を改めて詳らかにした。
そうだ、俺は裁かれたかった、罰されたかった。あらゆる人間から忘却されてなかったことにされてしまった罪を清算したかった。そうして終わらせたかった。俺が終わらせてしまった数多の命と同じように、生に終止符を打ちたかった。
底なしの泥に飲み込まれていくようなものだ。自らの意識から湧く絶望の泥。四肢には縄が絡みつき、俺を泥の奥深くへと誘う。縄の正体は罪の意識だ。失敗したこと、失望されたこと、果たせなかったこと。それらを自覚するたびに息苦しい泥の中に引きずり込まれていく。
生きることは罪を重ねることだ。思考しているだけで、俺は泥の中に引きずり込まれていく。自縄自縛、という言葉はまさしく俺の今を示している。絶望に、泥に沈み、何も見えず、何も聞こえなくなる。だからこそ俺は救いを求める。厳罰を!自縄自縛を断ち切る、容赦なき罰を。贖罪を!数多の縄を解く、代償行為を。その方法は、罰による贖罪はすぐそこにあった。
意識を取り戻して最初に見えたのは猛烈な勢いで迫ってくる斧先だった。本能が体を横に転がす。重鈍な斧先は俺の脇のあたりを抉った。
「グァッ……」
自分の肉が潰れる、激しい痛み。そして先ほど思い出した記憶の中で自分が感じた感情。裁きとは何か。赦しとは何か。それらが結びついたその瞬間に俺の頭はまるで錆び切った思考回路に油をさされたように高速で思考を始め、結論にたどり着いた。
「――ああ、そうだ、痛みだ!痛みが俺に罰を与えてくれる!俺の神はここにあったのか!嗚呼、耐えがたい苦痛よ、どうか俺の罪悪をその罰を以て赦したまえ!」
罰は、神は、赦しは、痛みにこそあった!祈りを口にすると血を吐き出す。最高の気分だ。誰も俺を罰さない。誰も俺の罪を赦さない。そんなものは存在しないことになった。だからこの身に這いずる罪悪感を赦してくれるのは、この身の内から生じて、俺を苛む痛みだけなのだ。長年取り組み続けていた難問が突然解けたような感覚。ここまでの解放感はいつぶりだろうか。
己の罪悪感全てが腹部から伝わる痛みによって洗い流されるような感覚。このまま俺の命が終わればどれだけ幸福だろうか。あまりに甘美な想像に胸が掻き立てられる。俺のあらゆる罰は俺の死によって償われる。そんな気さえしてくる。
百年を生きた俺が求めていたのは魔王討伐などではなく赦しだったのかもしれない。初めて何の罪もない村人の少女を殺した時から。初めて何よりも大切だった幼馴染を殺した時から。自分のせいで仲間を殺した時から。
罪の意識は絶えず俺を責め立て、肉体的痛覚以上の痛みを俺に与え続けていた。それら全ての罪、罪悪感、失敗を、失望を、この耐え難い痛みこそが赦してくれる気がした。このまま、幸せなうちに死んでしまおうか。それはあまりに魅力的な想像だった。
熱を帯びた思考の間にも、デニスは地面に無様に転がる俺に、執拗にギロチンのような一撃を加えようとし続けている。体は意思に反して致命の一撃を必死に避ける。
僅かに掠るだけでも血が噴き出し、鋭い痛みが走る。舞い散る砂粒が目に入るだけでも痛みが走る。なんと脆弱な肉体だろうか。俺がこの体に生まれ変わったのは、このためだったのかもしれない。
俺の体が帯び始めた熱は、きっと外傷によるものではなく、歓喜によるものだ。心臓が早鐘を打ち、幸福感が全身を犯す。
体中から血が流れ続けている。この身を貫く痛みは鋭さを増し続け、それに比例して歓喜がどんどん湧き上がってくる。
俺の高揚した脳内とは裏腹に、体は目の前の敵に殺されないために足掻き続けている。反撃の機会を伺うためにふらふらと立ち上がるが、もはや足は動かなかった。迫りくる死の音が聞こえるようになってくる。一撃、二撃となんとか躱しきる。しかし、血を流し俺の動きが鈍ったところをデニスは逃さなかった。
「――やっと捉えた。死にかけのくせにしぶとすぎじゃない?」
体が真っ二つになったかと思うほどの衝撃。切っ先がついに俺の体の中心を捉え、貫いた。背中から地面に叩きつけられる。体はピクリとも動かない。視界が真っ赤に染まる。
先ほどまでとは違う、明確に死を実感する痛み。そして終焉への期待。ついに、終わるのか。この長すぎた生が。ようやく清算できるのか。この罪に塗れた生の間違いを。恐れよりも安堵を感じながら、意識を手放す。
根源的な恐怖を覚える深い闇の中、誰かが俺を呼んでいる。その名前で呼ばれたのがあまりに久しぶりで、違和感を覚えてしまう。いつの間にか俺は、百年間使った勇者としての名前よりも、少女としての名前を受け入れていたらしい。それは、あるいは逃避だったのかもしれない。
思い出せ、とその声が囁いている。聞く者に威圧感すら与えるほど凛然とした、されど背筋を震わせるような甘さを仄かに孕んだその声には聞き覚えがある気がした。
思い出す。遥かなる記憶を。目を逸らし続けていた記憶を。
初めて罪なき人を、村娘のメメを殺されてしまった時の記憶だ。俺の不注意で娘を殺されたメメの両親は、俺を罵ることにも疲れたようで、娘の亡骸に縋りついて泣いていた。泣き声と沈黙。戦勝後の凱旋とはとても思えないほどの、重苦しい雰囲気が村を支配していた。
メメの祖父もまた、孫娘を失った悲しみを堪えていた。年を重ねた者特有の思慮深さを湛えたその双眸には、隠し切れない涙の跡があった。そんな中で、俺に言葉を伝えてくれた。
「死を忘れることなかれ。この言葉を覚えておいてください」
当然だ、と俺は思った。今でも、俺は自分が関わったあらゆる死を覚えている。孫娘の死を忘れるな。戒めるために、そういうことを言いたいのだと思った。でも、それは違った。メメの祖父は一呼吸置くと、厳かな声で、残酷な言葉を続けた。
「貴方にとっても死は他人事ではないでしょう。ひょっとしたら明日にも死は大口を開け、貴方を飲み込むかもしれない。……だけれども、故にこそ、今を懸命に生きてくれ。死がすぐそばにあることを忘れずに。泥臭くても、醜くてもいい。必死に生にしがみついてくれ。孫娘を殺された私から貴方に言えるのはそれだけだ」
――その言葉は死にゆく今の俺に再び力を与えるものだった。ずっと忘れていた。自分の罪、その始まりの時。俺は生きることを望まれていた。どれだけおぞましい罪を犯そうとも。どれだけ醜く穢れようとも。
そうだ。俺が勝手に諦めて死ぬことなんて誰も望んでいなかった。望んでくれなかった。守れなかったものがあった。殺してしまったものがあった。そのたびに俺は責められ、罵倒された。でも最後には皆俺に言ったじゃないか。生きて、魔王を倒してくれと。
泥臭く、醜く、俺は生き続けて俺が摘み取ったあらゆる命に報いなければならない。
かつて、女神によって繰り返しを強制されている俺にとって死は遠いものであり、現実離れしたものになっていた。でも今は違う。もう女神の祝福はない。砂時計から砂粒が落ちるように、俺の体からは血潮が流れ続けて、視界が黒に染まりつつある。
何がこのまま終われればだ。まだ成し遂げていない。死はまさに今、俺の目の前にある。大口を開けて、俺がそれに飲み込まれるのを今か今かと待ち受けている。故にこそ、俺はこの生を一生懸命に生きなくてはならない。
「オオオオオォ!!」
先ほどまで微動だにしなかった体が動く。自分の胸を貫く斧を力任せに引き抜く。ダムが決壊したように血が噴き出し、耐えがたい痛みが体を貫く。絶え間なく襲う痛みは俺が生きていることを実感させてくれた。罪だとか罰だとか、今はそんなものはどうでもいい。それよりもやるべきことがある。自分自身を騙すように、俺は不敵な笑みを作った。
「さあ、もう一度だ」
体は不思議と軽くなっていた。生きようとする心に体が応える。もう後がない今ならば、なんでもできるような気がした。