93 聖剣の輝きを、もう一度
思い返せば、俺が仲間を、人間を頼らなくなったのは、信じられないからではなく、傷つけたくなかったからではなかっただろうか。
俺は、今になって回顧する。カレンの死に顔を、もう見たくなかったから。オリヴィアの死に顔を、もう見たくなかったから。俺を信じる仲間の死に顔を、もう見たくなかったから。
そして俺は、仲間たちを頼ることを決めた今の俺は。そのことから、目を逸らしていたのかもしれない。
「どうした! 覇気がないぞ!」
「くっ……ッ!」
魔王の剣の勢いは、明らかに最初よりも増していた。避けたはずの剣先が、俺の皮膚を掠る。剣で攻撃を防ぐと、両手に凄まじい衝撃が走り、思わず剣を取り落としてしまいそうになる。
それだけの勢いが、今の魔王の剣にはあった。まるで、俺の醜態を見て勢いづいたようだった。
「『炎よ……』」
たまらず、俺は魔術を発動しようとする。剣術での不利をどうにか覆そうとした結果だった。けれど、魔王はそれも読んでいるようだった。
「フッ!」
魔術の形成に集中している俺の胸元に、鋭い突きが迫っていた。慌てて魔術を中断し、身を捩る。しかし、剣先は高速で曲がって来た。
「くあ……」
胸元、心臓に近いところへの一撃。今までのかすり傷とは明らかに違う、手痛い一撃だった。
よろよろと後ろに下がる。手足に力が入らない。胸からは絶えず血が流れ出している。目線だけはなんとか魔王の姿を捉えたままだったが、今すぐにでも倒れ込みたい気分だった。
「諦める気になったか?」
魔王は、悠然と問いかけて来た。余裕のない俺は精一杯の悪態をつく。
「はっ……らしくもないな。余裕綽々で問答か?」
「貴様に私らしさを説かれる筋合いはないが……しかし、そうだな。確かに私は、お前をこの場で殺せることに高揚している」
美しい顔を朱に染めて、魔王は語る。最高の美酒に酔っているような、恍惚とした表情だった。
「私の過去を見抜かれたのはお前が初めてだ。だから、お前が憎くて仕方ない。私の生涯において唯一恥じるべき点、人間だった過去を暴いたお前は、何度殺しても殺したりないくらいだ」
「奇遇だな。俺もお前が憎い」
二十年も生きていないお前なんかよりもずっと、俺はお前が憎い。強い意志を籠めて、睨み付ける。この程度の憎悪の感情をぶつけられたところで、怯みはしない。例え殺されることになっても、心だけは屈しないつもりだった。
けれど、魔王はそんな俺の決意を嘲笑うような言葉を吐いた。
「本当に、殺しても殺したりないくらいだ。──だから、私はお前よりも先に、まず仲間の方から殺すことにするよ」
「貴様──」
その言葉に、体が急激に冷える感覚を覚えた。それは、当然存在すると思っていたものが急に失われるような、そんな寒気のする恐怖だった。
「では手始めに、最も脅威となる勇者から排除するとするか」
魔王は悠然と歩いていく。オスカーの元へ。オスカーを治癒するカレンの元へ。
「まっ……ゴホッゴホッ……」
立ち上がり、その背中を追おうとして、気づく。足が思うように動かない。視界がかすむ。胸元から流れ出る血と一緒に、俺の活力までもが流れ出ていっているようだった。
ああ、また俺は失敗するのか。絶望に胸がいっぱいになりそうになる。
遠くで、カレンが必死にオスカーを起こそうとしている声が聞こえてくる。
早く。立ち上がれ。立ち上がれ、俺の脚。せめて、魔術で足止めを……。
けれど俺の口は激しく咳き込むばかりで、全く詠唱を紡ぐことができない。
やがて、ゆっくりと、俺を苦しめるように歩を進めていた魔王の足が止まる。その真下には、オスカーとカレンの姿があった。
魔剣が振り上げられる。その先にはオスカーの姿。勇者と言えど、魔剣の一撃を食らえばただでは済まないだろう。
「──!」
声にならない叫びが喉から漏れでた。
そして、魔剣がギロチンの如く振り下ろされ──
「ダメええええ!」
カレンの絶叫がその場に響き、同時に眩いほどの光があたりを包んだ。
「くっ……鬱陶しい!」
魔王は、謎の光を警戒したのだろう。大きく下がる。間一髪、オスカーの命は救われた。俺は胸をなでおろす。
「オスカーは、アタシが守る!」
「カ……レン……」
己の震える足をしかりつけるように、彼女は勇ましく言い放った。
出立の前に渡した魔道具、閃光玉は正しく作用したようだ。しかし、あの魔道具は単に光を放つだけだ。時間稼ぎが関の山だろう。急がなければ。
全身の力を総動員して立ち上がる。震える足を、一歩二歩と踏み出す。カレンが見せた勇気に励まされたように、俺の体は再び動き出した。
「オ……オオオオオオ!」
そして、疾走。魔術の力も借りて、俺の体はもう一度加速を始めていた。
「チッ……死にぞこないが……」
魔王が俺の方に向き直る。その顔には、先ほどまでよりもずっと濃厚な憎悪が乗っているようだった。よっぽどカレンの勇ましい姿が癪に障ったか。立ち姿には、一片の隙も見当たらない。
「くっ……」
オスカーとカレンを救うため、がむしゃらに飛び出してきたが、正直突破口が見つからなかった。迷いのままに、剣を突き出す。しかし、助けは思いもよらぬところからやってきた。
「メメっ!」
気絶していたはずのオスカーが、立ち上がり再び聖剣を構えていた。俺は一旦安堵の声を飲み込み、彼に呼びかける。
「合わせろ!」
「了解!」
二人で魔王を挟み込む。構図としては最初、オスカーが手痛い一撃をもらった時と同じだが、しかしオスカーの気迫が違った。その黒い瞳には見る者を圧倒するような強い意志が籠っていて、全身に力が漲っているのが少し見ただけでも分かる。
カレンに助けられたことで目が覚めた、ということだろうか。今の彼なら、魔王相手でも遅れを取ることはなさそうだ。
「ふっ!」
最初に剣を合わせたのはオスカーだった。聖剣と魔剣がぶつかり合い、金属音を立てる。魔王のがら空きの背中に、俺は剣を走らす。
「ちっ」
舌打ちした魔王は聖剣を弾き返すと、今度は俺の方へと斬撃を放ってきた。予想していた俺は、余裕をもって回避する。すると、すぐにオスカーが攻撃を加える。
流石に手が足りないのか、魔王は大きく下がっていった。迂闊に詰めることはせず、ひとまず仲間の状況を観察する。
オスカーは一度ダウンしたとはいえまだ戦えそうだ。むしろ、カレンに介護されたことで力が漲っている。
オスカーの手当を終えたカレンの顔は、少し疲れ気味か。けれど、すぐに倒れるようなことはないだろう。
気になるのかオリヴィアだが……いつの間にか、彼女は立ち上がっていた。けれどその額からは、血が垂れてきている。血に濡れた顔は、普段の優雅な様子からはかけ離れて、好戦的に見えた。
「ふん……勢揃い、か」
呆れたように、魔王は呟く。その美しい顔を、醜く歪めて。この世界で最も醜いものを見た、とでも言いたげに。
「なぜ貴様らはそんなにも信頼し合っている?」
「なんだ、羨ましくなったのか?」
「馬鹿を言え」
否定の言葉には、極寒の嫌悪感が混じっていた。
「信頼なんて、そんなに難しいものじゃないだろ。長い間一緒にいれば、自然と芽生えてくるものだ。……逃げたお前には、分からないかもしれないがな」
「何度でも言うが、私は逃げたのではなく失望しただけだ。人間の愚かさに。粗暴さに。だから私は、愚か者どもを暴力で根絶やしにする」
凝り固まった思想には、つけ入る隙すら見えなかった。きっと、こいつの思想はたとえ百年かけたとしても治すことはできないのだろう。
だから、ここで決着をつける。この美しい、人間社会からの落伍者に、神様みたいな超越者を気取っているこいつに、否を突き付けてやらなければ。
「なあ、エマ」
「その名で呼ぶな」
魔王が猛犬のように顔を歪めるが、俺は構わず話を続ける。
「人生は、そんなに醜くて、救われないものだったか?」
「当たり前だ。人生は、人としての生は、醜くて、救いなんてどこにもないものだった」
吐き捨てるように、孤児だった魔王は言った。
「……俺も、少し前までそう思っていた」
魔物を倒せず、魔王を倒せず、人にすら裏切られた俺は、こんな人生いらないと思っていた。百年間失敗し続ける人生なんて、醜くて、救いのないものだと思っていた。
「けれど、全部受け入れてくれて、肯定してくれる人がいた。付いてきてくれる仲間がいた。協力してくれるみんながいた」
「……だからなんだ」
「だから、お前に他人の人生を終わりになんてさせない。もう、奪わせない」
「……ハッ! それだけか⁉ やはり愚かな人間の言葉など聞いて損したな! 『我らが神より出でし闇よ、この世界を破滅に導く力よ。神の代行者たる我に従え。願うは暴虐の力。我が身に宿り、その力を与え給え』」
今まで見た中でも一番大きな魔力が、魔王の周囲に浮かび上がった。それは、先ほどの黒い泥のような形状をしていた。渦巻くそれは、やがて魔王の体と一体になっていく。そして、現れたその姿は、鎧のようだった。暴食の鎧。伝承にだけ伝えられるそれは、魔王の切り札と呼ばれるものだ。──そしてこれは、魔王に余裕がなくなった証拠だ。
「メメ! 終わらせよう! 戦争も、君の百年も!」
「ああ!」
静かに言い、俺は大剣を構える。同時に、背中に吊るしたもう一振りの剣に意識をやる。それも一瞬で、俺はオリヴィアの魔法が魔王に向かって放たれたのを見ると、すぐに駆け出した。
走る。走る。走る。もはや雑念はなかった。ただ、あの首を目指して前へ前へと進む。極限の集中の中では、もはや豪雨の音すら聞こえず、ただ魔王の姿だけがくっきりと捉えられていた。
隣を走るオスカーが先行し、聖剣を振るう。今回のは本気だ。オスカーは詠唱すると、聖剣の権限を解放した。聖剣が眩い白光を放つ。
それを見た魔王も何事か詠唱すると、途端に魔剣が黒い光を放った。魔剣の権限解放。その権限は、破壊。あの黒い光には、勇者でもなければ対抗できないだろう。
魔王は本気を出したオスカーに夢中になっている。
つまり、今が最大の好機。俺は大剣を捨てると、背中から聖剣のレプリカを抜き放った。ずっしりと重くて、懐かしい感触。
「『聖なる剣よ、悪を裁き給え』」
レプリカが白い光を放つ。本物の聖剣には及ばない。光は時折点滅していて、刀身には早くも罅が入ってきている。
でも、この一撃を決められればそれでいい。
「なぜ貴様がそれを⁉」
魔王の目が驚愕に見開かれる。その戦略眼で人類を翻弄し続けた魔王ですらも、予知できなかった、二本目の聖剣。
二振りの聖剣に囲まれた魔王には、もはや逃げ出す道がなかった。起死回生を狙い、俺に向かって魔剣を振り下ろしてくるが、身を捩って避ける。
がら空きになった魔王の体。
様々な感情を籠めて、俺は剣を振り下ろした。首を断ち切る、確かな感覚。
「──」
河原に、重たいものが落ちる音がした。
それを見た俺は、万感の想いを籠めて空を見上げた。雨は、いつの間にかやんでいた。
次話のエピローグが最終回です




