90 前夜、月下にて
嫌な夢を見た日というのは、いつも憂鬱な気分になる。今日は特にひどかった。夜になってもずっと夢の景色が忘れられず、胃の中に重たい石でも入っているようだった。
夜の王都は静かだ。いつものうるさいほどの喧騒は鳴りを潜め、虫の鳴き声すら耳に入ってくるようになる。
俺は、王都の路地でひっそりとアストルと会っていた。
「──それでは、結果は三日後だな。騎士団の方でも準備を進めている。配下にも、この一戦で魔王軍を滅ぼすつもりで準備するように言っている。陽動には十分過ぎるくらいだろう」
「ああ、助かる。それから、当日は悪天候の可能性が高い。そのつもりで準備した方がいい。火薬を使う武器なんかは使い物にならないぞ」
「雨季でもないのにか?」
「……勇者様の神託だよ」
「……便利なものだな、神託は」
アストルは少し怪訝な顔を見せたが、最終的には俺を信用することにしたようだ。これまでに積み上げた信頼が役に立っただろうか。
そう、当日は雨が降る。季節外れの豪雨は、魔王の五感を制限してくれるだろう。奇襲にはうってつけだ。
「それで、俺は本当に魔王討伐に参加しなくても良かったのか? 自分で言うのもなんだが、俺は強いぞ」
「知っている」
敵として剣を交えた時に、それは嫌と言うほど実感した。
「でも、お前がいるかいないかで騎士団の連携の練度は変わるだろう」
「それは……まあ、認める」
コイツは一人でも優秀だが、何よりも指揮官として優秀だ。未だに倒していない強力な魔物も多い。魔王軍との全面激突にこいつがいないのはまずいだろう。
それに、俺はともかく勇者パーティーのみんなはこいつと面識が薄い。連携も難しいだろう。
話すべきことも終わったので、俺は帰る姿勢を見せる。
「夜も遅い、気をつけて帰れよ」
「ハッ、誰に言ってんだ」
俺は思わずおかしくて笑ってしまった。そんな普通の少女にかけるような言葉、他人に言われるのは初めてな気がしたからだ。
けれど、アストルはあくまで真面目な顔のままだった。
「人類の悲願達成を目の前にして怪我でもされたらたまらんからな。じゃあな、武運を」
「ああ」
ごつんと拳をぶつけ合うと、じん、という痛みが手の甲に走る。相変わらず力が強い。俺とアストルは背中を向け合うと、お互いに帰る場所へと帰っていった。
「夜に気を付けろって……本当に誰に言ってんだろうな」
ぶつぶつと呟きながら、夜道を歩く。首元を撫でる夜風が嫌に冷たい気がした。
「悲願達成目の前、か」
口にすると、その言葉はいっそう首元を寒くするような気がした。何度も目指し、叶えられなかったもの。それが目の前に横たわっていて、掴み取らなければならないと考えると、寒気がする。
先の見えない夜闇に目をつぶって飛び込むようなその感情は、おそらく不安と呼ばれるものだったのだろう。
暗い夜道を歩いていると、視界に光が映った。目指していた俺たちの宿の明かりだ。けれど、俺の心は晴れないままだった。胸の奥に、何か重たいものが沈殿している気がする。
重い足取りのまま、入口へと向かう。けれど、そんな俺を呼び止める影があった。
「メメ、おかえり」
オスカーは、静かな声で俺に話しかけてきた。その手には、むき出しの聖剣。素振りでもしていたのだろうか、息が少しばかり上がっている。
「……明日のために寝た方がいいんじゃないか、勇者様」
「君こそ、ひどい表情だ。君に不安を打ち明ける前の僕みたいだよ」
……それは、ひどいな。
「やっぱり、百年以上追い求めたものが目の前にあると、緊張する?」
オスカーのこちらを窺い、いたわるような表情は、今は不思議と不快ではなかった。
「緊張、か。……不安、ではあるな。もう俺にはやり直す資格もない。だから、失敗できない。今までだって失敗できないと思ってやってきたけど、やっぱり後がないっていうのは不安だな」
素直な言葉が、するすると出てくる。ちょっと前までなら、こんなことできなかっただろう。
「そっか」
オスカーは少し考えるような様子を見せたと思うと、真剣な表情を作った。耳元に吹く夜風にも負けないように、彼は力強く言葉を紡いだ。
「メメ、君が不安になるのは無理もないことだ。だって君は、僕には想像できないほど失敗してきたんだろう。その苦しみを、不安を、僕は完全に分かってあげることはできない。それでも、僕は今だからこそ、言えることができる。──僕もいる。僕を、信じて」
いつか俺がオスカーを励ましたように、彼は言葉を投げかけてきた。信じる。オスカーを、信頼する。
いつから彼にはそんな余裕ができたのだろうか。カレンと結ばれたことが、彼に余裕を与えたのだろうか。
そんな彼の態度に、なんだかこちらの調子も崩れる。俺はガシガシと頭を掻く。まいったな。導くつもりが、いつの間にか導かれるようになっているなんて。
「……なあ、オスカー」
「なに?」
静かで真剣な口調に、俺は全部さらけ出すことを決意した。
「俺は怖いんだ。今まで何回も失敗した俺なんかがいて、この信じられないほどうまくいっている時間が、台無しになってしまうんじゃないかって」
口に出してみると、改めて自分の中にどんな感情があるのか明らかになってきた。我が事ながら驚愕する。俺は、どうやら根拠のない妄想に怯えてくるようだった。
「意味のない妄想だって分かってるんだ。でも、俺はもう、悲願を達成できない星の下に生まれたんじゃないか。気づけばそんなことを考えているんだ。何度も思って、どうしようもない不安に襲われる」
馬鹿げた妄想だ。けれど、それでも。焦燥が胸いっぱいに広がり、気持ちの悪い吐き気にえずきそうになる。ああ、なんて俺は愚かなんだろう。
「……君がそういうことを思うようになったこと、僕は決して否定なんてしないよ。だって君は、僕の想像のつかないほどに辛い思いををして、苦しんで、それを覚え続けているんだろうからね。──でも、君は一人じゃない」
一人じゃない。オスカーは、その実感の籠った言葉を大事そうに紡いだ。
「僕がいる。情けなくて、経験不足の勇者だけど、それでも君のおかげで敵の前に堂々と立つことができるようになった。カレンがいる。敵と戦うには優しすぎる彼女だけど、最前線で駆け回れるまでになった。きっと、君の背中を見ていたおかげだろうね。オリヴィアがいる。いつも落ち着いている彼女は頼もしかったけど、立ち振る舞いが僕やカレンとは違いすぎて近寄りがたかった。でも、メメが仲を取り持ってくれたおかげで、今ではかけがえのない仲間だ……ジェーンさんだっていた。見たこともない魔法を駆使する彼はとっつきづらかったけど、何よりもメメを信じていた。だから僕たちは、彼を信じることができた」
そこまで言ったオスカーは、俺の瞳を真っ直ぐに見つめてきた。俺によく似た黒々とした瞳に貫かれる。
「みんながいるのは、君のおかげだ」
彼の言葉は、確信に満ちていた。
「僕だって、カレンだって、オリヴィアだって、君がいたからここまで来れた。ジェーンがついてきてくれていたのは君のおかげだ。今の勇者パーティーがあるのは、間違いなく君のおかげだ。他ならぬ僕が断言しよう。ここまで来れたのは、君がいたからだ。だから、君が君を否定することなんてない」
断言する彼を、俺は見上げる。眩しすぎて目を逸らしてしまいそうな彼を、俺は必死に見上げる。
彼の言葉に、俺の心にはたくさんの感情が渦巻いていた。
ああ、他ならぬお前が俺を肯定してくれるのならば、俺はこの胸中に巣食う不安にも、立ち向かえる気がする。
「ありがとう」
様々な感情が渦巻く胸中。けれど俺の口から出たのは、そんな単純な言葉だけだった。けれど、その五文字には俺の感情が全部籠っていた。
「うん」
オスカーは、全部分かっている、と言いたげに静かに頷いた。それだけで、似た者同士の俺たちは通じ合えた。
「じゃあ、僕は戻るから」
オスカーは、宿の入り口へと向かう。俺はその背中を追うことはせず、ただ静かにその場に佇んでいた。なんだか、無性に月が見たくなったからだ。
「温かくなってきたとはいえ、夜は冷えるよ。月見もほどほどにね」
オスカーの気遣いの言葉に、俺は何も言わずにただ夜空を眺め続けていた。




