むじんの灯台守り
はじめまして。
今日も今日とて、私は日誌を埋めていく。
波の模様に波止場の様子、町の時間や形や天気。霧が濃いこと以外は全て、あの小さなお天道さまのご機嫌次第。霧だけずっと濃いままなのが、あの子の心を物語る。
私の仕事は山より高い灯台の部屋で、座って日誌を埋めること。仕事の間は海を向いてる窓際に座り、そうでないときは町側の窓まで椅子と机を押して、眠たくなるまで町を見つめる。日によってまるで違う町並みを、私の目に焼き付けたいからだ。ある日は工場街、ある日は遊園地、またある日は大きな大きな旅館。どれもこれもが面白いから、私は覚えていたいのだ。
「むじん」と、町入り口の海沿い道路の看板にあったので、とりあえず皆「むじん」と呼んでいるこの町は、いつだって皆浮わついて、人間ではない変なの達が、寄って集ってあの子を賑やかす。そのためにあるのがこの町だ。あの子に関わらない奴は、私ぐらいのものだろう。
名前と存在意義以外の事は、みんなわかってるようでわかっていない。とりあえず人間はいなくって、海沿いで山に囲まれた、たったの三、四平方キロの、霧に包まれた寂しいパノラマということぐらい。
それでも皆、気にしない。気にする理由が無いからだ。私だって気にしていない。ひょっとして、一番気にしてないのは私かも、とすら思う。なにせ、二丁目にすら行ったことがない。ここよりずっと大きいけれども、根っこはおんなじだと聞いて、それならいいやと断ると、皆はびっくりしてたっけ。
ただただ町を見下ろしてるだけなんて、言われてみれば変かもしれない。自分の歳のことなんて考えたこともないけれど、この白いヴェールの下には、おばあさんの顔があるのかな。声は綺麗だって言われるけども。
本日のむじんはニュートラル。オリジナルに近い仕上がりで、灰色の空に灰色の町並み、何にもない田舎の港町。もし現実にあったとしたら、四桁程度の人口だろう。おそらくは。
日誌を書き終えて窓際に置き、机と椅子を動かして、町側の窓までずらし、横目に眺める感じに座って、あの子の姿をよく探す。
居た。町の大通りの坂で、何やら罵詈雑言を吐きながら、全速力で走っている。どうやら、嫌なことがあったらしい。
目を凝らせば双眼鏡のように、その子の事が間近に見える。……豚みたいな太った人間に跨がって、顔に拳を浴びせている。
しかし、殴っても殴っても、そいつは傷付いたりしない。痣も残らず血も出ない。それでも、あの子は気づかずに、泣きながらそいつを殴り続ける。殴っても殴っても気は晴れず、虚しく涙を溢して、でもやりきれなくてまた殴る。
悲しい一人二役だ。この町の縮図そのものだ。
「こんにちは」
ドアを見てみると、彼がいた。私とおんなじくらいの古参のディーだ。
彼もまた人間のような何かで、顔が不思議な、液晶が二つ付いた折り畳みの機械にすげ替えられている。こう見えて話せる紳士さんで、海の波の音と機械の電子音を足して割ったような、聞き心地のよい声を持つ。
要するに、よく分からない。私とも、この町ともおんなじだ。彼は手に持ったバスケットを掲げて、ゆさゆさと揺らして見せてきた。
「たまには挨拶でもと思いまして、プラムをいっぱい持ってきました」
「あら、よく言うねえ、12年目で3回目で『たまには』なーんて」
「僕もまあまあ、町での出番が多いもんですから。もうぼちぼち風化させてもらいたい」
「無理でしょ。多分あっちでも、切っても切れない仲なんでしょうし」
「もう随分と型落ちなのになあ」
「あの子にとっちゃ、ずっとあんたの面影が離れないんでしょ」
「ははは、夜中、弟のゲロに埋もれて壊れたってのに」
「あら、そうなのね」
ディーは顔の機械を貝みたいに閉じ開きして、ハハハと笑う。
「んじぁあ、食べましょう食べましょう。……あ、僕は食えないかなこれ」
「噛みついたら?」
「この黒いのは口じゃなく液晶です。というか機械は水分厳禁です、生活防水ですらないのに」
「あら、じゃ座って座って。私が責任とって食べるから安心なさい」
「ひどいなあ」
ふっと現れていた席に、彼は座った。
「んで、あの子はなにやってんですか」
「豚を殴っているのよ。あんなの、自分を殴るようなもんなのに」
「あの子に似て辛辣ですね」
「あんたもそうでしょ」
「そうでした」
二人して、ハハハと笑う。
窓からあの子を見てみると、座り込んで泣いていた。豚人間はどこかに消えていた。
「泣いてますね。何が悲しいんだろ」
「さあ。あら?」
「……おや、降ってきた」
しとしととした雨が降りだした。降りだしたというか。今日は最初から降っていましたよ、みたいな風に、不意に天気が変わっていた。
「おっかないですねえ」
「あの子はこの町の脳みそだもの。気分次第でこうなるわ」
「となるとあなたはなんでしょう」
「うーん、自律神経かな」
「となると僕は何なんでしょう」
「ストレスを食う白血球」
また二人して、ハハハと笑う。
また窓からあの子を見てみると、緑の服のちいさな妖精が、肩に乗って何やら話しかけていた。たぶん慰めているんだけれど、耳を貸してもらえないらしい。
「あいつもまあよく構うわねえ」
「そういえばあいつ、あっちにも行ってるそうですよ」
「え、そうなの」
「イマジナリー何とかでしたっけ。見返りなんてありゃしないのに、よくまあそこまで助けるもんだ」
「あの子に似て冷たいねえ、ディー」
「あんたは話すらしないでしょ」
「そうだった」
ハハハ、とまたしても二人で笑う。
それにしてもこのプラム、旨い。
「にしても、どうしてプラムなの。おいしいけれど」
「むじんの真ん中の商店に置いてありました。ガチャガチャが」
「開けたらプラムが出てくるガチャガチャ?」
「ええ、買い占めてやりました」
「あたしらといい町といい、あの子の妄想はヤバイわねえ」
「ひどくシニカルな言い方ですねえ」
「あの子に似たの」
はーっはっはっは。
「あ」
二人して眠気に襲われる。二人してふらついて、机に突っ伏しそうになる。
時間だ。
「じゃー僕は帰らなきゃ。ふわあ……お達者で」
ディーはドアを開けて、階段に踏み出し、足を踏み外して転げ落ちていった。
まあいいか、ディーも町も豚人間も、どうせ次には戻ってるのだ。
椅子の背もたれに体を預け、目を瞑る。
からだがじんわり暖かくなって、だんだん空気に溶けてくる。まぶたの裏の闇すらも、色なき色へ変わりゆく。
「おやすみなさい」
あの子へと手向けるように、私はそう――
今日も今日とて、私は日誌を埋めていく。
山々の色や空模様、季節に月の満ち欠けも、眼を覚ます度に変わりゆく。私はそれを日誌に記す。
それでも、変わらないものは――
「あら?」
気のせいだろうか。いや、違う。
本当にほんの僅かだけ、町の霧が濃くなっている。
「あらあら」
この町は出鱈目を練り上げて、無理やり形にしたものだ。
それがとうとう、ぼやけ始めたということは……。
「ふふ」
私は笑って、ページの隅に、小さく文を書き足した。
「おーい、灯台守りさーん」
ドアを誰かがノックした。
「どうかしたの?」
「皆が色めき立ってんだ、落ち着かせるにはどうしよう」
「あらそうなの。うーん……」
私はやっぱり笑ったまま、腕を組んで考える。
やっぱり、変わらぬものなんて、きっとこの世には無いのだろう。
触れるものも、触れぬものも。
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名前の由来は、したためることを仕事にしたいという想いからです。