桜染め
「なんだよ……これ」
頭上に見える月。それがいつもと違うことは一目見ただけで分かった。見慣れた白っぽい色とは異なる薄いピンク色。その見たこともない色合いで、月全体を染めている。
ピンク……? こんな月初めて見るぞ? ていうか、こんなことありえるのか?
見たこともないそんな月の色、だけどそれが自分の目の前に確かに存在している。その事実を飲み込むまで、少し時間が必要だった。
「宮……ん?」
「宮原くん? いったいどうした……えっ?」
横の方から確かに聞こえた桃野さんの声。自分の横に桃野さんの存在を感じたおれは、この光景を見つめながら、ゆっくりと月に向かって指を刺すと、
「桃野さん……薄いピンク色だよね?」
自分の見間違いじゃないかと、桃野さんに問い掛けていた。
「は、はい……。ピンク色です……。間違いなく」
その言葉を聞いて指をゆっくり下ろすと、自分が変になったわけじゃないって安心した。けどそれと同時に、目の前の光景が現実に起こっていることなんだって改めて思い知らされる。
でもどういうことなんだ……? たまたま何かの現象が起こった?
「あっ……あぁぁ」
桃野さんの横から聞こえる、男の子のうめくような声。一瞬誰かと思ったけど、それが佐一の声だって気付くのにはそんなに時間はかからなかった。ただ、
「あぁぁ……、あぁぁ……」
何度も繰り返し聞こえるそのうめき声を発してる佐一の様子が少し気になった。
なんだ? さっきからうめき声上げて……?
そう思って声のする方、おれの右側に立っていた桃野さんの横を覗き込んでみると、佐一は何かに驚いているような表情で月の方を見ながら、口は開きっぱなしだった。そんな様子を、おれと同じく変だと思ったのか、桃野さんも佐一の方に顔を向けている。
ん? なんか明らかに様子が変だな……? もしかして何か知ってるのか?
何かに驚いているような表情に開きっぱなしの口。それだけで明らかに様子がおかしいことはわかる。そして、その目線の先にはピンク色の月。もしかしたら佐一はこの月、この光景について何か知ってるんじゃないかって思った。
「佐一? なんか知ってるのか?」
おれの問い掛けに、佐一の様子は変わらなかった。
「佐一?」
おれはもう1度佐一に問い掛けてみたけど、やっぱり口が開きっぱなしで月の方をじっと見ている。
ダメか……。
そんなことを思った時だった。佐一のうめき声が止まったと思うと、、
「きっ……」
震えるような声が、薄っすらと聞こえる。
「き?」
「きっ、聞いたんだ……爺ちゃんに」
相変わらず震えるような声。けど、佐一が何かを伝えようとしているのはすぐにわかった。
「爺ちゃん?」
「うっ、うん。爺ちゃんに聞いたんだ。儀式が……咲送りの儀式が始まる時、必ず月が桜色になる。最初は薄くて……でも儀式が始まるにつれて、その色は濃くハッキリしてくるって……」
「儀式が始まる時……?」
「そうだよ……。それで月が桜色になると、その月の光に村全体が包まれて……まるで桜が咲いているように、村周辺が桜色に染まる。それが桜染めって言うんだって」
「それ……本当か?」
「本当だよっ! 僕、爺ちゃんに聞いたんだ。兄ちゃん達はそんなの嘘だって笑ってたけど、僕爺ちゃんのこと大好きだったから……」
「そうなのか……」
爺ちゃんに聞いたか。まぁ佐一の様子を見る限り嘘をついてるようにも見えないしな……。あれ? 今儀式が始まる時って……言ったよな?
「あっ、どうしよう。僕帰らなきゃ!」
さっきまで震えるように呟いていた、佐一の声が大きくなる。
うわっ。
その声の大きさに、一瞬体が浮いたような感じがしたけど、
「かっ、帰る?」
その意味が分からなくて、少し上ずった声が出る。
「うん! だって、儀式の時は家に居なくちゃいけないんだよ! それを守れなかったら、儀式が失敗しちゃうって……、嫌だよぉ、母さん達に怒られちゃうよぉ」
あっ……、確か真千さんが言ってたな。儀式のときは三家以外の人は家の中で、儀式の成功を祈るって。儀式……ん? ちょっと待てよ? 佐一の爺ちゃんの話だと、儀式が始まる時に月の色が桜色? に変わるんだよな? それで今はまさしくその色が変わった状態、てことは……あと少しで儀式が始まるってことじゃんか!
「おい! 佐一、月の色が変わってからどのくらいで儀式が始まるとか聞いてないか?」
「そっ、そんなことまでは聞いてないよぉ」
「ちょっ、ちょっと宮原くん。どうしたの?」
それが分かった瞬間、おれは勢い良く佐一に問い掛けていた、不安とおれの話し方に驚いたのか、佐一の顔がますます泣きそうになものになっていく。そして、その様子を見て、心配そうに桃野さんがおれの方を向いていた。
「桃野さん、佐一の爺ちゃんの話だと儀式が始まる前に月の色が変わるんだよ。そして今、月の色は変わってる……ってことはあと少しで儀式が始まるってことだよ!」
「……あっ!」
「だから儀式が始まる前に御神殿まで行って、あの赤い着物の女を止めないと」
「儀式が失敗する!」
このやり取りで、桃野さんも事の重大さに気付いたんだと思う。早く行かなきゃまずい……それが分かった瞬間、顔を見合わせていたおれ達は、
「早く行かないと!」
「うん」
桃野さんがうなずいた瞬間、同時に佐一の方を向くと、その視線に佐一は驚いたみたいで少しのけぞる。
「佐一!、おれ達は急いで御神殿まで行かなきゃいけない。おまえもちゃんと家まで送り届ける。だから、家まで案内しろ!」
「えっ、えぇ!? 案内しろって……」
いきなりのことに戸惑っている様子の佐一。だけど、今のおれ達にとってはそんなことはどうでも良かった。
「儀式の前までに家に居なきゃダメなんだろ? 今なら間に合う」
「でっ、でも……」
「おまえのせいで儀式が失敗してもいいのか?」
戸惑うように目線も合わせないで、モジモジしていた佐一の様子が、その一言で一気に変わった。悲しいような、泣きそうなそんな顔をしていたけど、顔は真っ直ぐこっちを見ている。そしておれに向かって、大きく首を横に振った。
よし。なんとか動いてくれそうかな?
「よし、じゃあ急ごう。おまえの家まで付いていくから、先頭走ってドンドン進んでくれ」
「うっ、うん……。じゃあ付いてきて」
そう言うと、佐一が後ろを振り向いて、さっき自分が倒れていたほうに向かって走り出す。その様子を見たおれ達はお互いに顔を見合わせると、同時にうなずいて、佐一の後を付いていった。しばらく進むと、今度は右に曲がって、路地の中へ入っていく。
あぁ、なんで送るなんて言っちゃったかな……。急いでるなら、置いてっておれ達だけで御神殿に向かうのが早いに決まってるのに。でもあんな顔されたら、置いていけないよな……。それは桃野さんも同じだと思うし。まぁ、倒れてたのを助けた瞬間からこうなる運命だったのかも知んないなぁ。
ぼんやりとそんなことを考えながら、必死に走る佐一の背中を追って、1軒、2軒と建物の間を通り過ぎた時だった、
ドーン
ドーン
どこからか、太鼓の音が聞こえてくる。
また太鼓の音?
ドーン
ドーン
ドーン
ドーン
なんだ? やけに続けて鳴ってるぞ? さっきの合図は1回だけだったのに。
続けざまに聞こえる太鼓の音。その音が少し気になり始めて、そんなことを思っていると、目の前を走っていた佐一が急に遅くなって、ついにはその場で立ち止まってしまった。
うおっ!
そんないきなりの行動に少し驚いて、急いで足に力を入れたけど、佐一に合わせて走っていたからか、意外とすぐに止まれた。けど、そんなおれの驚く声や、土と靴の裏がこすれる音。そんなのに見向きもしないで佐一は立ち止まったままだった。
あぶねぇ……。一体どうしたんだ?
「佐一、どうしたんだ?」
斜め上あたりを見つめたまま、動かない佐一に話し掛けてみたけど、何も答えは返って来ない。聞こえるのは同じ間隔で鳴り止まない太鼓の音だけだった。
「おい、さい……」
「はじ……」
ピクリともしない佐一にもう1度話し掛けようとした瞬間、一瞬佐一が何かを呟いた。何かを言ったのは何となくわかったけど、その何かが丁度太鼓の音で聞こえなかった。
なんか……言った?
「なんだって?」
「始まっちゃった……」
始まったって……? まさか……。
ハッキリと聞き取れたその言葉の意味を、理解するのにそんなに時間は必要なかった。なんとなくわかる、けどそれを自分の口から出すのがたまらなく嫌だった。
「はっ、始まったって何が……?」
「儀式が……咲送りの儀式が始まっちゃった……」
そう呟いて、ずっと同じ方向を見続ける佐一。そして、どこからか聞こえて来る太鼓の音だけが、村に響き渡っていた。




