ばいばい
コツ、コツ、コツ
照明に照らされた非常階段には、わたしの靴音だけが響いている。薄暗くなった空、街灯に照らされる巴公園。それらを眺めながら、ゆっくりと階段を降りていく。
この風景はなくなって欲しくないな……。
人や、その人を取り巻く環境なんて一瞬で変わって、なくなってしまう。だからこそ、わたしの好きなこの風景だけはなくならないで欲しかった。
しばらく降りていくと、次第に車の音や人の話し声が聞こえてくる。徐々に大きくなるその音が、いつもは煩わしく思うのに今はなんだか懐かしく感じる。
非常階段から歩道へと進むと、ゆっくりと辺りを見渡す。建物の明かりに色んな人の声に車の音。街の環境音が混ざり合い、1つの音となってわたしの耳へと入ってくる。
この雰囲気……今ここにいる人たちにとっては当たり前の日常なんだよね……。そして事故が起こる前のわたしにとっても……。
しばらく眺めた後、わたしは大きく深呼吸をした。そしてゆっくりと体の向きを変えると、朝にも来たコンビニへ向かって歩き始める。
「いらっしゃいませ」
自動ドアが開くと、女の店員さんの声が聞こえてくる。わたしはそのままコンビニの中へ入ると、真っ直ぐにATMへと向かう。さすがに手持ちだけじゃお金が足りないのは分かっていた。
ATMの前へ着くと、ポーチの中から財布を出して、キャッシュカードを手に取る。それをATMへ入れながら、
いくらかかるかな? とりあえず10万あれば足りるよね……。
そう思いながら、タッチパネルを操作する。
8、万っと。
確認を押すと、8枚の10000円札が出てくる。こんな一遍に1万円札を下したことも、持ったこともないから、手に取った瞬間思いがけない厚さに少しびっくりする。その厚みを大事に噛み締めながら、財布の中に入れると、そのままコンビニを後にした。
外に出ると、辺りは更に薄暗く、至る所の明かりがより一層目立つようになっていた。
そういえば今何時かな……
ポーチからスマートフォンを取って電源ボタンを押すと、待ち受け画面には18:10と表示されている。
時間のこと忘れてたけど、そんなに寝ちゃってたんだ……
そんなことを思いながら、道路沿いに向かうと、スマートフォンを握りながら道路の方を眺める。
タクシー捕まるかな……? とりあえず来たら手を上げればいいんだよね?
次々と通り過ぎていく車の中から、タクシーを探していると、意外にもすぐにそれらしき車を見つけた。黄色と黒のストライプが入った車体に、車の上には星のマークが光っている。その車が近づくにつれて、星のマークには【宵谷交通】と書かれているのが見えた。
あれだ!
わたしはすぐさま手を上げると、ガードレールに手を掛けて、タクシーに見えるように少し前のめりになる。するとこっちに気が付いたのか、タクシーのハザードランプが点灯して徐々に速度が遅くなってくる。そのまま路側帯の方へ入ってくると、わたしを少し通り越した辺りでゆっくりと停まった。
タクシーの後部座席のドアがいきなり開く。
うわっ、自動で開くの?
自分で開けるものだと思っていたわたしにとって、その仕組みは新鮮で驚きだった。
「どうぞ~」
運転手さんの声にハッとする。急いでガードレールとガードレールの間を通ってタクシーの方へ向かう。ドアの開いている後部座席の所にに着くと、少し前屈みになりながら、
「あの……乗ってもいいですか?」
顔をこちらに向けている、眼鏡をかけた運転手さんに尋ねる。
「いいですよ、どうぞ」
「ありがとうございます」
運転手さんに促されるように、わたしがゆっくりと後部座席に座り込むと、
「ではドアを閉めますね」
運転手さんの声とともに、開いていたドアが自動で閉まった。
「どちらまででしょう?」
続けざまに運転手さんはわたしに話しかける。
「あっ、奥豊湖までお願いします」
「奥豊湖ですか……わかりました」
運転手さんはそう言うと、顔を前の方へ向け、ゆっくりと車を発進させた。
タクシーがゆっくりと動き出す。左側のドアの窓に目を向けると、そこには見慣れた景色。それが、わたしを通り越していく。
わたしは後ろの方へ顔を向けると、ガラス越しに自分のマンションを見つめた。18年間の思い出が詰まった家。みんなで過ごした大切な場所。
でももう戻って来れない……
心臓が少しキュッとして、寂しさと悲しさが入り混じる。その感情に耐え切れず、わたしは思わず目を瞑っていた。
もう……決めたんだ……
自分で決めたんだ……
心の中で自分に言い聞かせると、目を開いて呟いた。
「ばいばい」




