いきたい
だるさの残っている目をゆっくりと開けると、目の前がぼやけてる。何度か瞬きをすると、それが床だということに気付いた。徐々に床の木目もはっきりと見えてくる。
顔を上げるとそこは薄暗いトイレの中。どうやら目を閉じて知らないうちに眠っちゃったみたいだ。
寝ちゃってた……。
そう思いながら、もう1度顔を下げてトイレの床を眺める。頭の中にはニュースの映像がまだ残っていた。それを思い出すたびに胸が痛い。苦しい。みんないない……。それしか考えられなかった。
「いきたい」
頭の中に浮かんだ言葉がふと口からこぼれる。
いきたい……
いきたい……。
その言葉が何度も何度も頭の中で繰り返される。
わたしは自分がこれからどうしたいのか……。何をしたいのか……。
それは本当に簡単なことだった。なんでもっと早く気付かなかったんだろう。
そうだ……そうだよ……。これがわたしのしたいことなんだ。そうと決めたら。
わたしはゆっくりと立ち上がろうとしたけど、ずっと座っていたからか足の感覚が少し麻痺して力が入らない。両手ででふくらはぎの部分を少し揉んでいくと、徐々に痺れが取れてきて足の感覚が戻ってくる。
そのままゆっくりと立ち上がると、トイレのドアを開けて洗面台の方に向かう。鏡には真っ赤な目に、腫れた瞼。頬っぺたも赤くなってる自分の顔が映っていた。
めちゃくちゃ不細工だな……それに口もなんか酸っぱい……。
蛇口から水を出すと、それを両手で少し溜める。そのままそれを顔につけると、ひんやりとした水が火照っていた顔を包み込んで気持ち良かった。
次に口の中。相変わらず口の中を酸っぱいのがまとわりついていて、それを感じるだけで気持ち悪かった。早くなんとかしたくて、何度もかうがいをしていると、徐々に口の中がさっぱりしてくるのを感じる。
こんなもんかな?
そのまま顔を上げて、洗面台の脇に掛けてあったタオルを掴んで顔を拭くと、そのまま洗濯機の中に入れる。鏡の前に映る自分はさっきよりは大分マシになったような気がする。そのマシになった顔を確認すると、わたしはリビングの方へ戻っていった。
あっ、着替えなきゃ……。出掛けるなら顔だけじゃなくて、服も何とかしないと。
ドアを開けてリビングに入ったところで、ふいに思い出した。そしてそのまま真っすぐ向かうと、自分の部屋のドアを開ける。薄暗くて、少しひんやりしたわたしの部屋。あの時から何も変わらない部屋があった。
これと……これ……。
わたしはタンスの前に向かうと、中から半袖の白いブラウスと七分丈の青いのジーパンを取り出す。
このブラウスはママに、このジーパンはおばあちゃんに買ってもらったっけ。その2つを手に取ると床に置いて、そのあとに半袖のVネックの肌着も取り出して着替えを始める。
コツッ、コツッ
その音にわたしは一瞬手を止めると、その音のする方に目を向けた。そこには、丸い水晶玉が1つ床に転がっていた。
あっ……これ……
わたしはその水晶玉を手に取ると、掌の上に乗せるとそれを眺める。
壊れちゃったな……
この水晶玉は、わたしが小さい時から持っていたキーホルダーの一部だった。どこで買ったとかいつ頃から持ってたとか、詳しいことはパパもママも忘れちゃったみたいだけど、本当に小さい時からカバンとかに付けてたっけ。
もちろん、あの事故の時にもカバンに付けていた。そして……バラバラになっちゃった。残っていたのはこの水晶玉1つだけ……。
それを見つめながら、
「ありがとうね……」
わたしはそう呟くと、掌にある水晶玉をゆっくりとタンスの上に置いた。これ以上見ているのがつらくて、また事故のことを思い出して、さっきみたいにおかしくなってしまいそうで怖かった。
ふぅ……
わたしは天井を眺めながら、大きく深呼吸をすると視線をタンスへと戻す。
大丈夫……大丈夫……
そう自分に言い聞かせながら、置かれていたジーパンを手に取ると、再び着替えを始めた。
履いていたズボンを脱ぎ、取り出したジーパンを履こうとした時、わたしは自分の左足の火傷の跡が目に入った。外側足首に広がっている火傷の跡。それは、あの事故の時にわたしが負った唯一の傷だった。
あれから、この火傷さえ見ないように長ズボンばっかり履いていた。お風呂の時もなるべく見ないようにした。大丈夫だと思っていたけれど、見たら自分がどうなってしまうのかわからなくて、怖くて仕方なかった。
七分丈のジーパンだと火傷の部分は丸見えだったけど、今わたしは何の抵抗も感じなかった。それにもう隠す必要もない。自分でもよくわからないけど、なんか晴々としたそんな感覚だった。
そんな感覚のまま着替えを終えると、わたしはタンスの横にあるポールハンガーに掛けてある茶色のショルダーポーチを手に取る。
誕生日に真言にもらったポーチ……。
そのポーチを肩に掛けると、わたしは自分の部屋を後にした。
リビングへ戻ると、ソファに置いてた財布と家の鍵、ハイテーブルに置かれたスマートフォン。それらを全部ポーチの中に入れる。そしてすべて入れ終わったところで、ふうっと大きく息を吐いた。
そしてリビングとキッチンをゆっくり見回す。
みんなとの思い出がいっぱい詰まった場所……そして、何気ない毎日がとても懐かしい……。
「ありがとう……」
わたしはそう呟いた後、ゆっくりと玄関の方へと向かう。
リビングのドアを閉めて、玄関に座るとシューズラックから薄いピンクのパンプスを取り出した。
パパ……。
パパに買ってもらった薄いピンク色のパンプスを履いて、ゆっくりと立ち上がる。
そして、ドアノブに手をかけると前へ押しこんでいく。
もう後戻りはできないよ。
ドアが開いていき、目の前には廊下見えてくる。その見えてきた廊下へ、わたしは1歩足を踏み出した。




