7話『少年よ、嵐に向かえ』
────根本的に、多くの人々は風というものの脅威を誤解している。日本人は強風と聞くとまず真っ先に台風を思い浮かべるだろう。
日本において、大きな台風では瞬間最大風速は40mほどが記録される。風速40mといえば、バラエティ番組などでお笑い芸人を吹き飛ばすために使われる巨大扇風機などが馴染み深いかもしれない。
いくら強風に家の窓を叩かれる夜があろうと、僕達は「明日学校休みにならねえかな」ぐらいにしか考えなかった。事実、僕もそうだった。
だから感覚が麻痺していたのかもしれない。
僕の体をさらった風は瞬間最大風速213m。
大型トラックすらも容易く巻き上げてしまう超天災の烈風は、僕の体を重力の軛から解放させるには十分すぎるものだった。
「う、」
地上42mの高さから問答無用で落下する。
「ァ、ァあああああああああああああああああああああああああああああああッッッ!!!!」
空中で身動きなど取れようはずもない。
絶叫マシーンなどとはまるで違う気味の悪い浮遊感が体をくすぐる。なにしろ体一つで、命綱無しでのバンジージャンプだ。何も体を支えるものがないという状況を理解してしまったことが、恐怖を増長させた。
ただ、叫ぶ。
迫り来る地面に向かって、死への恐怖を肺から吐き出すように叫んだ。
それも虚しいものだった。
直後、顔面をなにかに打たれ、首から奇妙な音を聞いた。飛び散る血がスローモーションのように見える。ちょうど街路樹の上に落下したらしい。勢いそのまま枝木がザクザクと慣れ親しんだ僕の体を切り裂いていく。
苦悶の声を上げる暇すらなく、目の粗いアスファルトに右肩から落下し、次いで背中が地面に接触した。
ここまで来ると、声なんかまともに出なかった。ただ、肺から空気が絞り出される感覚だけがあった。
「──────────ッ!!!!」
僕の体はそのままワンバウンドすると、再度地面に顔面から着地し、5mほど転がってからようやく止まることができた。
そして、痛みが遅れてやってくる。
僕の全身の皮膚は制服のブレザーの上からアスファルトにやすられ、ズタズタに引き裂かれている。
体の内部も酷いもので、少なくとも右肩甲骨は砕けているだろう。喉の奥から何か熱いものが溢れてきて、口の中に鉄の味が広がった。内臓にもダメージがあることは明らかだろう。おまけに、塞がりかけていたあの時の傷が衝撃で開き、痛みとともにあの時の恐怖がぶり返した。
街路樹の枝は僕の体を切り裂くだけに留まらず、箒の持ち手ほどの太い枝が右太腿を貫いていた。更に、鉛筆大の細い枝のいくつかは脚を中心に全身にくまなく突き刺さっており、体に空いた孔からは、棄てられた果実の汁のようにどくどくと赤いジュースが溢れ出ていく。
ああ、しかし街路樹のお陰で幾らか減速したようで、そのまま頭蓋を叩きつけて即死という最悪の事態は免れたらしい。
いや、もしかすると死ねなかったことこそが最悪だったのかもしれないが。
「……風の、異能…………?」
あちらこちらが痛すぎて、最早何処に傷を負ったのかすら分からない。
喉につっかかる粘着質な血液をごぼりと吐き出すと、ようやく周りの状況が見えてきた。
まず、10m先にはエデ。
幸い、巻いあげられる前と同じ大通りに落下したようで、彼女は慌ててぼろ雑巾のように地面に転がる僕に駆け寄ってきた。
赤毛の敵は焦る様子もなくゆったりと大通りをゆっくりと歩く。
もはやエデとは目と鼻の先だった。
────まず、い。このままじゃ……
死ぬ。
まただ。
やはりあの時の繰り返しで終わってしまう。
僕の手当をしようとするエデの手を掴み、全身から血が吹き出るのも気にせず無理やり立ち上がった。
なんらかの脳内麻薬が作用しているのか、もはや痛みはなかった。ただ、力が入らないという感覚だけが体に残留する。
「きゃっ……!?っ、だめだよユタカ!!動かないで、本当に死んじゃ……」
急に手を引かれたエデは僕に大声で言うが、聞いてはいられなかった。
「……エ、デ……異能を……このまま、使ってくれ……」
吐き出すようにエデに言う。
エデの口振りからすると全快させるには時間がかかるらしいが、なりふり構っていられない。
エデに支えてもらいながら、しかし背中を黒い人影に向け、そのまま振り返るようにして敵を見つめる。
これはエデを奴の攻撃から庇う行動のように見えるかもしれないが、実は目的は別のところにあった。
……五陵会はエデを生け捕りにしたいのだ。僕は先程の攻撃をもう一度受けてしまえば終わりだが、この状態であの暴風を使えば、仮に風がある程度相手を狙い撃ちにできるものだったとしても、間違いなくエデをも巻き込んでしまうだろう。
万に一つもエデを殺したくない五陵会の刺客としては、それだけは避けねばならない。
だから、あの烈風の対策になると考えたのだ。
エデを盾に使うような作戦だったが、最早そんなことは言っていられない。
エデは僕の腕の中で、服が血に汚れるのも気にせず僕の体に手を当てていた。ぷつり、ぷつりと自然に体に刺さった枝が不自然に抜けていき、穴のあいた血袋は、なんとか人間としての形を取り戻していった。
赤毛の男とは20mほど離れており、男は歩いて距離を詰めてくるが、僕達もそのまま後退して敵との距離をキープする。
────これでいい。
このまま少しずつ回復しながら奴から離れて、全快した途端にエデを腕を引いて走り出せば、少なくともさっきのような決定的な攻撃を受けることはないだろう。
そのあとの事はそれから考えるしかない。とりあえず、この逃げ場のない直線の大通りから離れるのだ。
僕の体の傷ももう少しで完治するだろう。明らかな致命傷さえも100秒足らずで治してしまう異能。
なるほど、奴らが欲しがるわけだと、彼女のもたらす恩恵をこの身でもって体感する。
────頼む、もう少しで治るんだ。だからもう少しだけ……。
心の中でそう唱えながら、エデの腕を掴む手にすこし力を込める。
しかし、その祈りは神には届かなかったらしい。
「フン。結構頑張るな、テメェ」
ドスの聞いた青年の低い声が、僕の耳元で囁いた。
直後。まるで駅のホームのように、不自然な風が吹き荒れた。
「ッ!!ユタカ!!」
エデが半ば叫ぶように僕の名を呼んだ。
直後に、僕の脇腹に金槌をぶつけられたかのような鈍痛が走る。
「がッ……!!ァ……!!??」
僕の体は横薙ぎに弾き飛ばされ、エデの手を掴んでいた腕は容易くすっぽ抜けた。
ありえない。20mもの間合いを一瞬で詰め、そのまま僕に膝蹴りを入れたのだ。
(どういう、ことだ……ッ!風をどう使えば、こんな……!!)
「なかなか根性あった方だが、まあここまでだな。抵抗は無駄だ、諦めろ後輩」
赤毛の男は冷たい目つきで歩道の脇に転がる僕に一瞥くれると、そのままエデの腕を掴んだ。
エデは必死に抵抗するが、男の筋力には適わない。
……駄目だ。それだけは駄目だ。
僕が殺されて、エデが攫われるのが当然の帰結だとしても。
僕が生きたままエデが攫われるのはそれ以上の最悪のバッドエンドだ。
「く……ッそが……!!」
体に無理やり力をいれて立ち上がる。武器なんてもの、あろうはずもない。空手のまま、僕は赤毛の男を睨みつける。
たとえ風でまた舞い上げられようと、絶対にエデだけは解放する。
これは文字通り決死の覚悟だ。
『死』んでも守ると『決』めたのだ。
当の睨みつけられた本人は、
「く、」
静かに笑っていた。
「くハハッ……!なんだお前、見かけによらず好いメンチ切ンじゃねえか……!」
この時、僕はようやくこの男が僕を『敵』として認識したのだと察知した。
風に赤毛をなびかせながら、男はエデの細い腕を離し、真正面から僕と向き合った。
「いいぜ、名乗ってやんよ……」
奴は軽く跳躍して体の調子を確かめると、拳を構えて言った。
「大嵐連合族長の嵐条颯斗だ」
嵐条と名乗った男は、獰猛に歯をむき出しにして笑う。
飢えた虎が獲物ではなく、同じ虎を見つけたのだ。
「さあ、喧嘩しようぜ」
嵐条が宣言するだけで流れる風は荒れ狂い、異常気象レベルの暴風が街を覆った。