3話『プレイバック』
────鳥鞠私立探偵事務所。
首都の北端に位置する野火木町の、大通りに居を構える探偵社だ。首都といってもこのご時世、探偵なんてものを雇う奇特な人間は少なく、どうやって生計を立てているのかは不明である。
僕が通う高校への通学路からは外れているし、当然ながら訪れたこともない。近くを通ってもせいぜい「不気味だなぁ」と一瞥くれるだけで、そのあとすぐに通り過ぎてしまっていた。
今思えば、それが日常と非日常の境界線だったのかもしれない。
「さあて、どこから話したものかな……」
痩せ気味の中年男性は顎に手をやると、指の腹で伸ばした無精髭をじょりじょりと撫ぜるようにいじりながら考え込むような仕草を見せる。
この男がこの探偵事務所の主、鳥鞠看取だ。
「まず君は昨晩、その少女を庇って砂の鉤爪に腹を穿たれた。そこまではいいかい?」
「……………………!!」
ぶわり、と全身の毛穴から脂汗が浮き出たのがわかった。
そうだ。思い出した。僕は向かいのソファに眠る白髪の女の子を、喪服の女が操る砂の触手から守るために。
あの時、一度生涯を終えた筈だった。
「ぁっ、づぅ…………ッ!!」
思い出した。
思い出したのと、僕の右脇腹の裂傷が自己を主張するのは全くの同時だった。
「がほっ!……ぐ、げほっ……!!」
痛みが記憶とともに反芻し、噎せ返るように僕は空気を吐き出した。
腹には包帯が巻かれていた。この男が手当したのだろうか?
鳥鞠の姪かなにかだろうか、少女と呼ぶにも幼過ぎる女の子が、小さなピンク色のハンカチを持って、顔面蒼白の僕を心配そうに見遣った。
「ああ、安心するといい。見た目より傷は浅いよ。私達が回収した時にはもうその傷は塞がりかけていたからね」
「塞がりかけて……?……ええと、鳥鞠さん?僕は……いや、僕達は、あの後一体どうなったんですか……?」
オロオロとしている少女を右手で制して大丈夫だと示しながら、鳥鞠に問うた。
鳥鞠はこめかみをポリポリと指の先で掻くと、やがて口を開いて言い放った。
「……誰かの異能が発動したのか、現場が原因不明の地盤沈下を起こし、五陵会の刺客は撤退して行ったよ」
「…………」
今いくつか聞き慣れない言葉があった気がする。
異能?
五陵会?
バトル漫画の話をしているのかと思えるような単語が列挙されていた。
「あー、こんがらがってるって顔だ。頭にハテナマークが浮かんでるのが透けて見えるよ。やっぱり順序立てて説明した方が良かったかな」
「?」
僕はやはり首を傾げる。
女の子は、みんな難しい話ばかりしててつまらないとばかりにぱたぱたと走ってエーデルワイスのもとまで来て、今度は彼女の顔を覗き込んだ。彼女の容姿は僕と違って見目麗しい。僕に同じことをするよりは、幾分か楽しいだろう。
「まあ、まずは異能について説明するとしようかね。とはいっても、我々もうまく説明できるものでもないのだが」
鳥鞠は、椅子に深く背中を預けると、気だるげに語り出した。
「まあ読んで字の如くさ。限られた人間にのみ宿る、科学では説明のつかない現象を引き起こす能力。それがなぜ発現してるのかも、それを宿す人間の法則も全くわからない。が、その威力は君も実感した通りのものだ」
本当に漫画みたいな設定だと、他人事のように思ってしまう。……しかし、脇腹をえぐったあの感覚はまだ色褪せていない。あの忌まわしい記憶は、この突飛な話に理不尽なまでのリアリティを与えるには十分だった。
「となると、五陵会というのは何ですか?まさか、異能を利用して世界の支配を目論む悪の秘密結社とか?」
「ああ、うーん。50点だね」
半分は合ってるのか……。
困惑する僕をよそに鳥鞠は付け足す。
「ただし、悪の秘密結社というのは正しくないね。彼らは確かに悪人の集団だが、この国においてはもっと適切な言い方があるはずだ」
「……?どういう……」
彼はそういうが僕には全く思い当たらない。
僕が黙り込むと、鳥鞠はそのまま核心に触れた。
「極道さ。指定暴力団って奴だ」
意外な単語が出てきて、思わずまた首を傾げてしまった。
奴らは、僕のイメージするヤクザという集団とはあまりにもかけ離れていた。
「五陵会……御陵和仁を会長として関東を中心に勢力を伸ばす日本最大の国家指定暴力団だよ。傘下や準構成員も合わせると、その構成人数は七万をゆうに超えるだろう」
「七万、って……」
余りに強烈すぎる数に思わず声を漏らしてしまった。
この安心安全平和を謳う日本に、あんな奴らが七万人も潜んでいたのだ。同時に、その七万人を敵に回したのだと思うと、背筋が凍ってしまうほど恐ろしい。
……しかし、恐怖と同時に、単純な疑問が湧き上がってきた。
「……なんであの子は、そんな連中に追われていたんだ……?」
誰に問う訳でもなかったのだが、キイキイと椅子を傾ける鳥鞠は笑顔で返答した。
「ま、それは今から本人に聞くといい」
どういう意味だ、と聞き返そうとした声は、僕が起き抜けに聞いた声と全く同じ声に相殺された。
「あっ!起きた!!」
探偵事務所の幼女が小さな体でぴょんぴょんと跳ねる。
同時に、向かいのソファで眠っていた白い髪の少女が、むくりと体を起こした。
「……ここは?」
寝起きで状況を把握できずに不思議そうに辺りを見渡すエーデルワイスを見て、僕はなぜだか涙がこぼれそうになった。
────ああ、生きてる。
命を懸けただけの価値が。
痛みに耐えただけの成果が。
ここにはあったのだと、改めて実感できた。