2話『ファーストインプレッション』
ふと、闇の奥にオレンジ色の光を見た。
つられてゆっくりと目を開くと、真っ先に眼に映ったのは、不健康な色をしたLED照明の、乾燥した明かりだった。
頭が痛い。
せっかく眩しいのを我慢して瞼を開いたというのに、疼痛のあまりもう一度ぎゅっと目を瞑ってしまった。
……意識が途切れる前の記憶が酷く曖昧だ。確か、カラオケの帰りに夜の街を闊歩していたところまでは覚えているのだが、そこから先のことを思い出そうとすると、脳にアイスピックか何かを突き立てられているような、耐え難い鋭痛と忌避感に襲われる。
「づっ……」
引き攣ったような声が喉の奥から漏れる。
そもそも、ここはどこだろう。我が家のスプリングが駄目駄目になってしまったベッドとは感触が違う。マットレスというよりは革製品……そう、ちょうどソファのような感触だ。
「なん、だ……?」
心の声か、現実世界に出力された声かすら曖昧なまま、とりあえず当たりを見渡す。摺りガラスに覆われた世界が、ようやく鮮明さと正確さを取り戻す。
と。
突如として僕の視界に飛び込んできたのは、7歳くらいの見知らぬ少女の顔だった。
「あ、おきたっ、おはようございます!」
「…………オハヨウゴザイマス」
ハローワールド何しやがった昨日の僕。言い訳は聞いてやるから表に出ろ。
駄目だ、昨晩の一番新しい記憶からこの意味不明な状態が、どう頑張っても繋がらない。
よし、まず現在の状況を整理しよう。
僕はまず、黒い革のソファに仰向けで眠っていた。そして、現在はこの日本人形のような、さらさらロングヘアの美幼女に顔を覗き込まれている。どうやら枕元側から顔を出しているようで、少女の顔は僕から見たら真っ逆さまにひっくり返ってるように見える。
僕から見て少女の頭の後方……つまり、天井部分は白く、先述の照明が部屋全体を明るく照らしている。視界の淵には資料棚のようなものも映りこんだので、僕はどうやらこの空間は何かの事務所のようだと結論づけた。
いやだとしてもマジで意味がわからない。7歳くらいの女の子を事務所に連れ込んで一晩明かした?昨日の僕は現在の僕の知らない間にヤクザめいたそういう組織にコネを作っていたのか?
いやいやまさか、そんなはずは……
「おじさーん!おきたよー!!」
起き抜け早々脳をフル稼働させる僕を後目に、少女が高い声でそう叫んだ。
もちろん、僕はピチピチの男子高校生だ。おじさんなんて呼ばれる歳ではない。身なりはきちんと清潔に見えるよう、それなりに気を使っているし、なんなら学生服だって身につけている。
少女が声をかけた方に視線を投げると、この事務室には、あと二人いるということに気がついた。
お人形少女が『おじさん』と呼んだのは、四十代前後の中年男性だった。事務所の最奥、その中心に設置されたデスクに、両肘を着いてどっしりと構えている男だ。
背の高い痩身に、顎に蓄えた無精髭と、くしで整えようと頑張ったのだろうが、努力虚しくと言った感じの跳ねた黒髪が印象的だった。
穏やかで聡明そうな目付きをしており、白衣でも着せればいっそ大学教授や名医にでも見えたのだろうが、だらしなく胸元まで開けたワイシャツのボタンと、着崩したスーツがこの男の印象を「デキる男」から「不潔な男」に引き摺り下ろしてしまっていた。
「おお、ようやく起きたね。いやあ参った。いつのまにか朝日が登っていたよ」
男は、目元をくしゃりと綻ばせて朗らかに言った。
彼のデスクの、さらに奥には、ガラス張りの窓から柔らかな朝日が差し込んでおり、自分が眠っていた時間がどれぐらい長かったのかを、改めて認識させられた。
と、自分の家以外で一晩明かしてしまったことに対する妙な気恥しさを感じたのもつかの間、僕の視線は、自然ともう一人の人物の方に吸い寄せられてしまった。
それは、テーブルを挟んで反対側のソファで眠る、雪のように白い髪をした少女だった。歳の頃は僕と同じぐらいだろうか。白を基調にした清廉なワンピースには、黒い斑点が不規則に付着していた。
あれは、あの血痕は……
「ああ、その娘か。驚いたかね。もう少ししたら、君と同じように起き出すだろうさ」
男の声に思考が中断される。
彼は、「よっこいせ」と気だるそうに立ち上がり、先程まで猫のように丸まった背筋をしゃんと伸ばすと、左手を胸元にやって恭しく辞儀をした。
「ようこそ鳥鞠探偵事務所へ。私は所長の鳥鞠看取だ」
真意の読めない表情で、彼は続けざまにこう言った。
「君を客人として歓迎しよう、唯峰豊架くん」
……唯峰豊架、高校二年生の初夏。
この日が、僕の平凡で平和な日常の命日となった。